巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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「恩寵と自由意志」という問題におけるトマス・アクィナスの立場について

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トマス・アクィナス(1225-1274)

 

山本芳久著『トマス・アクィナスーー理性と神秘』(岩波書店)より一部抜粋(強調はブログ管理人によります。)

 

目次

「宗教改革」という補助線

 

「恩寵と自由意志」という問題は、2000年に及ぶキリスト教思想史の全体を貫く根本問題の一つであり、この問題を軸にすることによって、キリスト教思想の様々な形態を区別し対比させて理解することも可能になる。

 

最も有名なところで言うと、現在に溯ること500年前に宗教改革の口火を切ったマルティン・ルター(1483-1546)のスローガンの一つは、「恩寵のみ(Sola gratia)」であった。ルターは、人間の自由意志が救済において果たす役割を否定するために、『奴隷意志論』という著作を著してすらいる。

 

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自由意志の問題を巡って意見を戦わせたルターとエラスムス

 

我が国においては、プロテスタントはしばしば「新教」と呼ばれ、カトリックは、「旧教」と呼ばれてきた。この呼称が不適切なのは、単にカトリックがあたかも歴史的な役割を終えてしまった頑迷固陋な古い教えだという誤解を与えかねないという点にあるのみではない。

 

そもそも、プロテスタントを「新教」と呼ぶことは、一見、その革新性を称揚するように見えて、実は、プロテスタンティズムの根本精神に反しているとも言える。というのも、プロテスタンティズムの運動とは、キリスト教についての新たな理解を打ち立てようとしたものというよりは、むしろ、キリスト教の原点に帰ろうとする原点回帰の運動であったからだ。

 

こうした原点回帰の精神を象徴するのは、「恩寵のみ」「信仰のみ」「聖書のみ」というルターによる3つのスローガンだ。中世のスコラ神学に対するルターの批判の焦点は、聖書には述べられていない余計な夾雑物をキリスト教神学のなかに持ち込んだという点に見い出される。

 

読者のなかには、宗教とは、信じるか信じないかの問題であって、論理の問題ではないと思っている人が多いかもしれない。このような考え方は、現代世界に広く行き渡っている。宗教についてのこのような捉え方の一つの原点は、宗教改革にある。宗教改革の立役者であったルターは、人間が救われるのは「恩寵のみ」「信仰のみ」「聖書のみ」によるのであって、「自由意志」とか「哲学」や「理性」などは無用の長物だと主張したのである。

 

現代の多くの人々の宗教についての捉え方を規定しているこうした宗教観・信仰観を踏まえたうえで、それと対比させると、トマスの知的営みの特徴を捉え、その現代的意義を浮き彫りにする手がかりを得ることもできる。

 

ペラギウスの立場

 

ルターとは反対に、自由意志の役割を過度に強調する立場も、古代以来存在した。最も有名なのが前掲のテクストにおいて問題となっているペラギウス(350頃ー420頃)だ。

 

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ペラギウスとアウグスティヌス

 

西欧キリスト教思想の基礎を形作ったアウグスティヌスの同時代人である彼は、原罪や人間の自然本性の堕落を強調して人間救済における神の恩寵の役割を強調するアウグスティヌスの見解ーーアウグスティヌスは自由意志の役割を否定することはないーーと対立した。

 

ペラギウスを代表するペラギウス派は、神に似せて創造された人間本性の力を強調した。自由意志に基づいて善を選択しキリストを模範として行為することが、可能であり義務でもあると力説したのである。過度に自由意志の役割を強調するペラギウス派は、「恩寵と自由意志」の問題に関する異端的な見解の代表的なものとされている。

 

「異端」という日本語に訳されている元の概念は、αἳρεσιςというギリシア語であり、その元来の意味は、「選択」である。教会の教えの全体のなかから、その一面のみを選択し強調していく態度が、「異端」とされる立場の基盤にある態度なのだ。それは神の教えに聴き従う態度ではなく、自らの意志に固執する態度だとトマスは指摘している。彼らは神から与えられた「信仰」という神学的徳を抱いているのではなく、「自らの固有の意志に基づいたある種の臆見を抱いている。」*1

 

トマスの立場ーー恩寵と自由意志との協働

 

「恩寵と自由意志」の問題は、ときに「恩寵と自然」または「超自然と自然」という対概念の形において定式化されることがあるが、基本的に同一の問題だと考えてかまわない。

 

「自然(natura)」とか「自然的(naturalis)」という語は、あるものが生まれながらに、その存在の初めから自己に固有なものとして有している基本的・本来的な性質を意味する。このnaturaという名詞は、「自然」以外にも「本性」とか「自然本性」というようにも訳される。

 

当然、naturalisという形容詞も、「自然的」以外にも「本性的」とか「自然本性的」と訳される。たとえば、「人間は理性的な本性を有している」とか「軽いものは上方に、重いものは下方に運動するような本性を有している」というような仕方でトマスはこの語を使用する。

 

他方、「超自然的」とは、それぞれの被造物に固有な自然的な能力を絶対的に超えている神の能力や働きを意味する。人間が生まれつき持っている、または育っていくなかで自ずと身につけることのできる自然的なレベルの能力では実現できないことが、神が折に触れて超自然的な恩寵を与えてくれることによって可能になる。

 

こうした仕方で、「恩寵と自由意志」または「超自然と自然」のどちらかのみを取ってどちらかを排除するのではなく、この両者が協働することによって、神と人間との深い関わりが構築されていくというのがトマスの基本的な考え方である

 

トマスの立場の微妙さーー恩寵論争

 

それでは、トマスは恩寵と自由意志の関係をどのように捉えようとしているのであろうか。実は、この点に関するトマスの立場をどう解釈するべきかということは、それほど簡単な問題ではない。トマスの没後700年以上にわたって、実に様々な解釈と論争を呼び起こしてきた。

 

そのなかでも最も有名な論争は、16世紀末から17世紀初頭に勃発した恩寵論争である。トマスに依拠するという意味では立場を同じくするはずのカトリックの神学者たちが、恩寵と自由意志との関係をめぐって熾烈な論争を繰り広げたのである。

 

その論争のきっかけになったのは、イエズス会の神学者であるルイス・デ・モリナ(1535-1600)が1588年に出版した『恩寵の賜物、神の予知、摂理、予定および劫罰と自由意志との調和』であった。

 

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ルイス・デ・モリナ

 

この著作においてモリナは、神の恩寵は人間の自由意志に基づいた行為に伴うが自由意志を決定するわけではないことを強調し、原罪によっても損なわれることのない人間の自由意志の積極的な力を強調した。

 

それに対して、ドミニコ会の神学者であるドミンゴ・バニェス(1528-1604)は、モリナの立場がペラギウス主義に近接する危険性を有するるものだと判断し、人間の自由意志の発動に完全に先立つ神の恩寵の絶対的で包括的な先行性を強調したのである。

 

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ドミンゴ・バニェス

 

興味深いのは、同じくトマスに依拠しているモリナとバニェスが、対極的とも言える立場に立ち至っている点だ。この論争は、教皇パウルス5世(在位1605-21)の裁定によって、はっきりとした結論が出ないままに終息したが、恩寵と自由意志の関係をめぐる問題がいかに複雑で厄介なものであるかを示唆する格好のエピソードと言えよう。

 

恩寵を通じて動かされた自由意志

 

「我々の行為は、神によって恩寵を通じて動かされた自由意志から出てくるものである限りにおいて功徳ある」とトマスは冒頭の一文において述べているが、この文においてまず着目したいのは、「神によって恩寵を通じて動かされた自由意志」という表現である。

 

ここにおいては、神の「恩寵」と人間の「自由意志」が相互排他的な在り方をするのではなく、共存し調和的に働く在り方が示唆されている。何かによって動かされるということと、自由に動くということは矛盾することではない。これは、動かす主体が「神」でない場合にも起こりうることだ。

 

たとえば、「ダンテの『神曲』の魅力に動かされてダンテの研究者になった」という事例について考えてみよう。このとき、この研究者は、『神曲』の魅力によって否応なしに動かされて、選択の余地なくダンテ研究者になってしまったわけではないだろう。そうではなく、いわば、「ダンテによって『神曲』を通じて動かされた自由意志」に基づいて、彼はダンテ研究者になったのだ。彼は、『神曲』の魅力に心を動かされつつも、ダンテの研究者にはならずに弁護士になることを選ぶことができたかもしれない。

 

「友人の説得によって動かされて自殺を思いとどまった」というような場合にも同様だ。彼は、べつに、友人によって強要されたわけではない。自分のことをよく知っている友人の説得によって心を動かされながら、でも同時に、自殺によって苦しみから逃避することの誘惑にも心を動かされながら、自由意志に基づいて生きることを選び取ったのだ。

 

とはいえもちろん、人間の自由意志が神以外のものに動かされるときと、絶対者である神に動かされるときとで、話を全く同じ仕方で考えることはできない。「友人の説得」の話の事例の場合には、友人の説得による動かしがなかったとしても、私は結局は自殺を思いとどまったかもしれない。だが、「功徳」の場合には、話は異なっている。以下に述べるように、神の恩寵による動かしがあってはじめて、「功徳」は「功徳」として成立するのだ。

 

神と人間との協働

 

トマスは、『神学大全』第2部の第1部第109問題第5項において、「人は恩寵なしに永遠の生命に値する者になることができるか」という問いを立て、次のように解答している。

 

「永遠の生命は、人間の自然本性とのつりあいを超えた目的である。それゆえ、人間は自らの自然本性的な能力によっては、永遠の生命につりあった功徳ある業(opera meritoria)を生み出すことはできず、そのためには恩寵の力(virtus gratiae)であるところのより高い力(altior virtus)を必要とする。このようなわけで、人は恩寵なしには永遠の生命に値する者になる(meriri)ことはできないのである。」

 

このテクストにおいては、極めて凝縮した仕方において、恩寵と功徳との関係が語り明かされている。このテクストにおいてトマスは、人間が自らの力のみで「功徳ある業」を為し遂げることができるという極端と、人間は自らの力では「功徳ある業」を為すことは全くできないという逆の極端両者から距離を取って、人間の自然本性的な能力ーーその中軸となるのが自由意志ーーと神の恩寵が協働することによる「功徳ある業」の成立可能性を語り明かしている。

 

我々は、自分の力で何かを成し遂げたからこそ、それは報いに値する、すなわち功徳があると考えがちである。神という他者の「恩寵の力」によって初めて何かを為し遂げることができるのであれば、それは報いに値するものではありえないのではないだろうか。

 

この疑問は極めてもっともなものだ。そして、実は、このテクストにおけるトマスの解決は、このような疑問を否定するというよりは、むしろ、それを認めたうえで克服したものになっている

 

トマスは、人間が永遠の生命に値する者になるのは「恩寵のみ」によってだ、とは述べていないことに注意する必要がある。むしろ、神の恩寵を受けることによって、人間は、「永遠の生命につりあった功徳ある業を生み出す」ことができるようになる。それは、前掲の「信仰という行為は功徳あるものであるか」のテクストにおいて、「我々の行為は、神によって恩寵を通じて動かされた自由意志から出てくるものである限りにおいて功徳あるものである」という絶妙な表現によって語られていたことでもある。

 

人間は、恩寵の助けによって初めて、「永遠の生命につりあった功徳ある業」を生み出すことができるようになる。こうした業を生み出すためには、たしかに恩寵の助けが必要だが、助けを受けたうえで業を実際に為し遂げているのは、自由意志に基づいて行為する行為者自身にほかならないのだ。

 

回心における恩寵と自由意志

 

トマスは、『神学大全』第2部の第1部第109問題第6項において、「人間は、恩寵の外的な助けなしに、自己自身によって自己を恩寵へと準備することができるか」という問いを立て、次のように述べている。

 

「神への人間の回心(conversio)はたしかに自由意志によって為される。そして、その意味で人間に対して神へと自らを向ける・回心する(se ad Deum convertat)ように命じられている。ところが、自由意志は神がそれを御自身へと向けるのでなければ、神へと向けられることは不可能である。それは『エレミヤ書』第31章〔第18節〕において、「私を帰らせ(回心させ)てください、そうすれば私は帰ります。あなたは私の神、主であるからです」と言われ、「哀歌」第5章〔第21節〕において、「主よ、我々をあなたのもとへ帰らせて(回心させて)ください。そうすれば私たちは帰ります(回心します)」と言われているとおりである。」」*2

 

ここで「回心」と訳したconversioという言葉は、キリスト教神学の根本概念の一つであるが、それは「改心」ではないということに気をつける必要がある。「改心」とは、悪しき心を改めることである。倫理的に反省し、自らの心の在り方を善き方へと改めることだ。

 

それに対して、「回心」とは、文字通り、心を回すことを意味する。被造界へと向かっていた心の向きが変えられ、その創造主である神へと全面的に向け直されることである。

 

旧約聖書の「エレミヤ書」と「哀歌」の美しい一節を引用しながらトマスが試みているのは、人間の自由意志は、神がそれを御自身へと向けるのでなければ、神へと向けられることはできない、すなわち、回心において神の恩寵が人間の自由意志に徹底的に先立っているという事実の指摘である。

 

だからといって、自由意志は自由意志であることをやめるのではない。神によって心を引き寄せられつつも、自由意志は強制されてではなく、自発的に神へと立ち返っていくのだ。人間と神との自由な相互関係に関するこのような洞察は、最終的に、人間と神との友愛という驚くべきヴィジョンへと我々を導いていく。

 

ー終わりー

*1:アクィナス『神学大全』II-II, q.5, a.3.

*2:I-II, q.109, a.6, ad1.