巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

いかにして聖書を読めばよいのだろうか。(by エイダン・キメル)

Fr. Aidan Kimel. 

 

Aidan Kimel, Reading the Bible Properly: John Behr, Stanley Hauerwas, and the Historical-Critical Method(抄訳) 

 

聖書の全体性は、十字架につけられたナザレ人について語っています。この御方はーーあなたにそれを見る眼があるならーーどの頁の中にも見い出すことができます。

 

荒野にいたモーセが杖で岩を打つと、水が湧き出てきましたが(民20:11)、使徒パウロはその岩とはキリストご自身であると言っています(1コリ10:4)。

 

使徒8章のエチオピア宦官の話を考えてみてください。ピリポは馬車に乗って、イザヤ53章の苦難のしもべの歌の箇所を読んでいた彼に話しかけました。すると宦官はピリポに問いかけたのですが、その際、宦官は、今日の私たちがするように「ここの聖句の意味は何ですか?」とは訊ねませんでした。

 

ーーそうです、あたかも ‟意味” というのがテキスト自体の中に置かれているかのように、また、今日の私たちのタスクというのが、その覆いを取り外し(uncover)、そのテキストが‟何を意味していたのか”を明らかにし、そしてある種のアナロジーによって現在の私たちにも適用可能な ‟意味” を見い出すためであるかのようにーーそのようには考えていませんでした。

 

そうではなく彼は次のようにピリポに訊ねました。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」(使8:34)。するとピリポは答え、預言はナザレのイエスについて言及しており、主の受難の内に成就されているという事を宦官に説明しました。

 

それゆえ、‟意味” というのはテキストの語っているところのパーソン(御人格)の中に宿っており、私たちのタスクは「どのようにテキストがその御方について語っているか」を理解することにより、この御方をより良く知っていくことです。*1

 

キリストはヨハネの福音書の中で次のように述べています。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです」(ヨハネ5:39)。

 

イエスが聖書における真のテキストであるということを理解してはじめて、私たちは「なぜ新約記者たちにとり、『神のことば』という表現は本来聖書のことを指していたのではなく、『イエス・キリストご自身』および主として十字架につけられ高く上げられた御方のことを宣べ伝えている『福音』を指していたのか」ということが理解できるようになります。*2

 

イエスは肉となったことばです。それゆえにジョン・ベアによると、説教者や神学者にとっての釈義的タスクとは、「後代の神学的省察という負の堆積物を除去することにより聖書記者の本来言わんとしていた汚れなき純然たる意味を回復させること」ではないのです。*3

 

仮にそのような歴史的意味が存在し、回復できるのだとしたら、それは教会にとってはささいな関心でしかありません。なぜなら、そういった捉え方は、聖書テキストを聖書としてというよりはむしろ歴史的工芸品として解釈しなければならないことを私たちに要求するからです。ですから教会の使命は十字架につけられたキリストを宣布し、キリストによる救いの良き知らせを宣言することです。

 

ベアは、聖エイレナイオス(2世紀)による次のような啓発的文章を引用しています。

 

「それゆえ、誰であれ、このように聖書を読むなら、その人は聖書の中にキリストに関することばおよび、新しい召命における予表を見い出すことでしょう。キリストは『畑に隠された宝』〔マタイ13:44〕です。(『畑はこの世界のことである〔マタイ13:44〕』)そしてキリストは聖書の中の隠された宝です。なぜなら、キリストは予型や比喩によって表示されており、これは、主の降臨という〔旧約の中で〕予見されていた事柄の成就以前に生きていた人々によっては理解され得ないものでした。

 

 それゆえに預言者ダニエルには次のような言葉が告げられました。「ダニエルよ、あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう。聖なる民を打ち砕く力が消え去る時に、これらの事はみな成就する。」〔ダニ12:4、7〕。またエレミヤも言いました。「終わりの日に、あなたがたはそれを明らかに悟ろう。」〔エレ23:20〕

 

 なぜなら、預言は、その成就以前には、人々にとって謎であり不明瞭なものに他なりませんでしたが、時が到来し、予見が実現した際には、それは的確な説明(ἐξήγησις)になります。そしてそれゆえに、現時点において、律法がユダヤ人によって読まれる時、それは神話のように聞こえます。なぜなら彼らは、神の御子の降臨にかかわるすべての事柄に関する説明(ἐξήγησις)を所持していないからです。

 

 しかしそれがクリスチャンによって読まれる時、それは畑に隠された宝であり、そこにはキリストの十字架によって光がもたらされています。また、この光により、人間の理解が豊かにされ/神の知恵が示され/人間に関する神の御経綸が開示され/キリストの御国が予示され/聖なるエルサレムという相続地に関する良い知らせを待望しつつ使信が宣べ伝えられ、こうして神を愛する者はやがて神を仰ぎ見、御言葉を聞き、主の言説を聞くことにより、他の人が輝く顔を見つめることができないほどに〔2コリ3:7参〕栄化されるのです。

 

 ダニエルも次のように言っています。「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」ダニ12:3。」*4

 

キリストは旧約聖書の中に隠されています。復活された御方に関するnoetic〔νοητική〕な理解なしには、この書は閉じられたままであり、神話、物語、預言、掟等によって構成されるバラバラな収集物に過ぎません。しかしひとたびメシヤが死から蘇られ、御霊が注ぎ出されるや、旧約聖書は救い主およびこの宇宙の創造主なる神に対する照明された証言となります。

 

アンドリュー・グリーレイはかつて次のように述べました。「キリストは世界をひっくり返しました。そして世界をそういった驚くべき視点で見る時、それは突如として理に適ったものとなるのです。」

 

現代神学や聖書学は、高等批評学的メソッドに特権を与えることにより、不可避的に、使徒的解釈学をなにか恥ずべきものであるかのようにせしめています。使徒も教父たちも、聖書の書物をーーその意味が排他的にテキスト自体の内にあるとする文書として取り扱ってはいませんでした。もし彼らがそうしていたのなら、福音も教会も存在していなかったことでしょう。イエスーーそしてイエスだけがーー信仰のカノンです。

 

何十年も前になりますが、プリンストン神学校で開催された会議に参加したことがありました。その時の会議の主題は、聖書の権威および解釈に関することでした。

 

著名な講演者たちの中でも次の二人が私の注目を引きました。一人はかの有名な新約学者ジャック・ディーン・キングスベリー(Jack Dean Kingsbury)、そしてもう一人は偉大な神学者であり ‟熱血挑戦者” であるスタンリー・ハワーワスです。

 

講演の中でハワーワスは、「もしも神が私に、全国の神学校統轄の責務を授け給うなら、自分が取りかかる第一のタスクは、聖書学者たちを片っ端から全部束にして、彼らを一斉にクビにすることである」と言い切りました。私は、自分からそう遠くない所に座っていたキングスベリーの方をちらりと見やりました。彼はムッとした表情をしていました。

 

後にハワーワスは『聖書を解き放つ(Unleashing the Scripture)』という小著を出版し、その中でプロテスタント原理であるソラ・スクリプトゥーラ(「聖書のみ」)および、教会における高等批評学メソッドの特権化を強烈に論駁していました。

 

ハワーワスは言います。「ソラ・スクリプトゥーラが、テキストと解釈との区別を支持すべく用いられる時、ソラ・スクリプトゥーラは教会の中における助けというよりはむしろ異端だということが言えます。そしてこの区別が尚も主張され続ける時、ソラ・スクリプトゥーラはファンダメンタリズムの温床となり、また聖書批評学の温床となります。『聖書のみ』が前提しているのは、聖書のテキストというのは、ーーそれに意味を与えているところの教会から切り離されたところでーー意味をなすということです。」*5*6

 

聖ウラジミール正教学院の学長はハワーワスのこの見解に心から同意することでしょう。

 

ー終わりー

 

関連記事

*1:John Behr, The Mystery of Christ: Life in Death, p. 50.

*2:同著p.50.

*3:同著p.47.

*4:エイレナイオス『異端論駁』4巻26.1

*5:Stanley Hauerwas,Unleashing the Scripture, p.27.

*6:関連記事 Aidan Kimel, God Creates the World from the Cross | Eclectic Orthodoxy