巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ある修道士との対話から学んだこと

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ΙΕΡΑ ΜΟΝΗ ΤΙΜΙΟΥ ΠΡΟΔΡΟΜΟΥ ΣΤΕΜΝΙΤΣΑΣ - Μοναστήρια της Ελλάδος

 

先日、ペロポネソス半島の山岳地帯にあるプロドロモス修道院を訪れました。直角にそそり立つ岩壁の中にある古い修道院です。何百メートルもの下には真っ青なルシオス川が轟々と流れており、とにかく絶景です。

 

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現在、ここには5人ほどの修道士が住んでいるのですが、もじゃもじゃのお髯といい、浮世離れしたただならぬ雰囲気といい、とにかく彼らにまつわる全てがこの絶壁や渓谷の大自然と絶妙にマッチしているのを感じました。私は小さい時から「お山の仙人たちに会ってみたい」とずっと思っていました。その夢が叶い、とても嬉しいです。

 

さて、中に入ると、黒々とした髯で顔の半分以上が覆われている修道士の方がフレンドリーに私たちに話しかけてきてくださいました。私が日本人だと知ると、「コンニチワ。ゲンキ。デンキ。」と片言の日本語まで披露してくださいました。お話を聞くと、この方は長年イギリスの大学院で言語学の研究をしておられたそうです。しかし昨年、思うところがあって、この山にやって来、隠遁生活を始めたそうです。古のヒエロニムスの洞窟入りへのいきさつをふと思い出しました。

 

外国での研究生活が長かったということも影響しているのかもしれませんが、この方は私がプロテスタント出身だと言っても「ああ、そうですか」と、(少なくとも外面的には)アナテマ視することなく冷静に受け止めてくださったので、ホッとしました。それで「この人になら率直な質問をすることができるかも」と感じ、思い切って、カトリシズムと東方正教というセンシティブなテーマを切り出すことにしました。

 

まず私は、「東方諸教会はそのエスノセントリズム(ethnocentrism)によって、ニケア信条で明記されている教会のcatholicity(普遍性、公同性)という真理を、カトリック教会のようには透明に映し出せていないように思うのですが、ーーそして、この点が実際、多くのカトリック弁証家たちによって指摘されていますが*ーー、それについてどうお考えですか。」と訊いてみました。

 

すると彼はあっさり、「はい。正教会のエスノセントリズムは確かに私たちの内に存在する問題です。」と認めました。そして「‟ギリシャ”正教とか、‟セルビア”正教とか、そういう名称はおかしなものであり、本来なら、私たちはただ一言『正教』と統一して呼ぶべきだと思いますが、これまでの歴史の経緯の中でこういう事態が発生してしまっており、これはいずれ克服されなければならないものだと考えています。」とおっしゃいました。

 

次に私は、「西方教会のMystery(神秘)や霊性という部分についてどうお考えですか」と質問しました。そうしましたら、この方は「古典的カトリシズムの中には、東方正教と同じようにMysteryが現在も存在していると思います。」と言い、その後つづけて、「しかし現在、カトリシズムは大きく変化しつつあります。ーー特に第二バチカン公会議以後。」とおっしゃいました。「実践の面ではともかく、少なくとも教理の面において言えば、今後500年の後も、唯一正教会だけは不動であり続けるだろうと言われています。」

 

そして彼は私に、第二バチカン公会議のことをよくよく熟考するようにと助言してくださいました。そして、テサロニケにいるピーター・アルバン・ヒーズ神父の第二バチカン公会議研究を参照するよう勧めてくださいました。ヒーズ神父はテキサス生まれの元聖公会信者であり、正教入信以前、2年間、カトリック教会の洗礼志願者コースで学んだ経歴を持つ方だそうです。そして、以下が、その批評書です。

 

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The Ecclesiological Renovation of Vatican II: An Orthodox Examination of Rome's Ecumenical Theology Regarding Baptism and the Church by Fr. Peter Alban Heers D.Th.

 

The “Council” of Crete and the New Emerging Ecclesiology: An Orthodox Examination | Orthodox Ethos

 

また、彼は、「ちょっと待っててください。あなたにあげたい本がありますから」と言い、どこかに消え、その後戻ってきて、一冊の本を手渡してくださいました。なんと、ジョサイア・トレンハム主席司祭のお書きになった『Rock and Sand: An Orthodox Appraisal of the Protestant Reformation and Their Teachings(岩と砂ーープロテスタント宗教改革者およびその教理の正教会査定)』でした。

 

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「えっ、トレンハム主席司祭でしたら、私、つい最近、新教内の契約神学とディスペンセーション神学の件で相談さしあげたばかりなんです!」と驚いて言ったら、彼は「なにごとにも偶然はありません。」と静かにおっしゃいました。

 

トレンハム主席司祭のこの本を読みながら、また、2016年にクレテ島で開催された教会会議に対するヒーズ神父の批判内容を聞きながら、私はぼんやり思いました。

 

〈そうか、正教内の別の視点からみると、カトリックとのエキュメニズムの動きに猛反発するヒーズ神父やトレンハム主教司祭たちのような保守派陣営は、フォーダム大の正教研究所長ジョージ・E・デマコプーロス氏の言う『正教ファンダメンタリスト』に相当するんだろうなあ。そして、逆に保守陣営の視点からみれば、フォーダム正教陣営は、警戒すべき『正教リベラル派/エキュメニズム派』ということになるんだろう。うーん、でも、どちらもそれなりに一理ある感じで、一概にどちらがより正論なのか今の私にはよく分からない。。。〉

 

こういった一連の緊張関係を目の当たりにする時、私は幕末期の動乱の政治力学のことを思い出さずにはいられません。「フォーダム大」を〈開国派〉の代表格、それに対する「アトス山」を〈攘夷派〉の代表格とすると、2016年クレテ教会会議は、一種の「ペリーの黒船」のような衝撃と動揺を正教世界にもたらしたのではないかと想像します。(幕末日本の場合ですと、鎖国政策の維持に固執し攘夷を実行した薩摩藩(薩英戦争)および長州藩(下関戦争)の大敗北という事態に直面し、薩長両藩が、津和野藩の国学者大国隆正の「大攘夷論」を受け入れました。こうして従来、攘夷運動の主力であった人びとが倒幕に向かうという大どんでん返しがありました。)

 

でも、いろいろ模索する中で私ははっと気づきました。「焦点は、とにかく第二バチカン公会議の内容。でも、私はこれまで一度も自分で公会議の一次文献を読んだことがない。仮にヒーズ神父の第二バチカン公会議批評が正しかったにしても、やはりここには『正教の視点』という一つのフィルターがかかっている。

 

 しかし、誰かや何かについての真実を知る上での第一の基本は、まずその人/そのもの自体が何を言っているのか、できる限り直接耳を傾けることではないだろうか?思えば私は、トリエント公会議の文書も一度も自分で読んだことがない*。私が知っているトリエントは、常に福音主義のフィルターがかかった情報だった。だから結局情報がいつも一方的で偏っていたのかもしれない。私のこういう姿勢は間違っていたのかもしれない。

 

 正教や福音主義など多角的な視点で読むことそれ自体は有益だと思う。でも、まずはカトリックがカトリック教義についてどんな風な説明をしているのかを知ろうとするのがより望ましいあり方ではないだろうか。」

 

そうして検索してみたところ、トリエント公会議の全文〔英文〕が、アマゾンkindleでなんと110円で発売されていました。

 

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The Canons and Decrees of the Council of Trent

 

また、第二バチカン公会議の公式訳も発売されていました。(南山大学から出版されている公文書全集はなんと中古本で54円での購入が可能です。びっくり。)

 

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第二バチカン公会議公文書改訂公式訳

それから、低価格で次のように分冊の形でも売られています。中古だと100-200円位で買えます。

 

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第二バチカン公会議 教会憲章

 

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第二バチカン公会議 現代世界憲章

 

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第二バチカン公会議 典礼憲章/神の啓示に関する教義憲章

 

あるカトリックの方が書評に次のように書いておられましたが、「ほんとにそうだなあ」と反省しました。

 

「何はともあれ第二バチカン公会議に関する一次文献である。巷間には第二バチカン公会議についての、まったく根拠のない、個人的感想に過ぎないおしゃべりが散乱している。驚くのはそれらの多くが、実際に第二バチカン公会議公文書を読んだとは思えないところである。みな二次、三次文献の聞きかじり読みかじりだ。

 

 第二バチカン公会議によって「カトリックは変わった」と、誰もが一様に言う。しかし、何がどのように変わったのかを正確に知るためには、一次文献であるこの『公文書』をまじめに読むしかない。たとえば一次文献が研究者などでなければなかなか入手できないというのなら話は分かるが、このように邦訳で、しかも比較的安価で購入できるのであるから、公文書それ自体に目を通さずに第二バチカン公会議について語るのは、はっきり知的怠惰だと断言できる。


 もちろんこの公文書全集は、単にそのような資料的価値のみがあるのではない。これを読むことで、「現代カトリック」についての、全体的かつ正確な知識を習得することができる。例えば「教会憲章」は現代カトリックの教義についての適確な総覧になっているし、「啓示憲章」は聖書に対しての、「エキュメニズムに関する教令」は他教会に対しての、「現代世界憲章」は世界に対しての、こんにちのカトリック教会のスタンスを教えてくれる。あの浩瀚な『カトリック教会のカテキズム』を読み通す自信のない人でも、さしあたり上記の文書を読むことで、現代カトリックについて幾ばくかを学ぶことができよう。」

 

やはり基本は、「カトリックが何かについて知りたいのならカトリック文献に直接当たる。」「正教が何かについて知りたいのなら正教文献に直接当たる。」「プロテスタントが何かについて知りたいのならプロテスタント文献に直接当たる。」だと思います。

 

これは即席で明快な回答が得られにくいという点で手間暇かかる遠回りな道かもしれませんが、ーー人間関係と同様ーーやはりこれが他者理解に至る最善の道なのかもしれません。