巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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「事実」が理論を造るのだろうか、それとも理論が「事実」を造るのだろうか?

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18世紀啓蒙主義時代のヨーロッパ(出典

 

目次

 

村上陽一郎著『新しい科学論』第2章「新しい科学観のあらまし」より一部抜粋

 

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村上陽一郎(1936~)東京大学名誉教授。科学史科学哲学。

  

理論が「事実」を造る

 

もう一つ、今度は歴史の中から印象的な例をご紹介しましょう。酸素の発見といえば、18世紀後半のラヴォアジェを想い出します。

 

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アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ(Antoine-Laurent de Lavoisier, 1743-1794)*1

 

不幸にしてフランス革命のギロチンの露と消えたこの化学者は、酸素《oxygene》の命名者として、酸素発見の栄誉を独り占めしているようですが、イギリス人のJ・ブリーストリ、あるいはドイツ系スイス人のK・シューレらがほとんどまったく同じ年に、相次いで酸素(という名は与えなかったにせよ)を発見しています。ここにも同時発見の例があります。

 

けれども「酸素の発見」とはいったいどういうことなのでしょう。例えば、何か還元反応が起こって、水溶液の中にぶくぶくと泡が立ったとします。その現象そのものが、突然18世紀に出て来たわけではありますまい。そんな現象は、中世にも古代にも、ヨーロッパだけでなく、中国にもインドにも、いつでもどこでも起こっていたに違いありません。

 

しかし、ではその現象を目撃した、その泡を発見した最初の人が「酸素の発見者」なのでしょうか。もしそうだったら、「酸素の発見者」は、ラヴォアジェやJ・ブリーストリはおろか、アリストテレスやプラトンでもなく、日本の無名な刀鍛冶だって、あるいは中国の練丹術師でも、あるいは極端にいえば、もしかしたらネアンデルタール人だって「酸素の発見者」になり得るではありませんか。

 

明らかにそれではおかしい。「酸素の発見」とは、酸素の気泡を目撃したこととは全く違います。ある気泡を、しかじかの酸化=還元についての統一的な理論を前提とした上で、その理論のなかで、ある機能を果たしている気体として見たときに、初めてそれは酸素の発見になるのです。

 

ある人が、視野の中のある部分に「酸素を見る」こと、「ここに酸素があります」と言えることは、ある視覚刺激の束をその人が受け取ることとは全く違うのです。そして、「ここに酸素があります」という「事実」は、明白に、そこに前提されている酸化=還元の理論によって、初めて「事実」たる資格を得るのです。このように考えてみれば、あの同時発見がなぜ起こるのか、ということは多少分かりやすくなると思います。

 

ただ、ここで非常に奇妙な論点が現れてきたことになります。と言いますのも、第1章でご紹介したような、科学についての常識的な考え方に従えば、理論は、データから、帰納によって造られることになっていました。しかし、ここに到って事態は完全に逆転したからです。「事実」が科学理論によって造られるものと考えられることになりました。この逆転こそ、わたくしがこの本で申し上げようとしていることの一つの中心となるものです。

 

科学的事実の理論依存性

 

ところで理論が、このように、いろいろなレヴェルで、科学者の共同体に共有されていて、その中では「事実」をも左右するほど決定的な働きをもっているという事態は、科学の歴史を眺めるに当たってどのような示唆を与えてくれるでしょうか。

 

すでにこれまでの話でお気づきだと思いますが、「事実」(あえて「データ」とは呼ばないことにします)は、あの常識的な科学観の場合のように、理論に対して完全に中立である、というわけにはいかなくなってしまいました。

 

あの常識的な科学観の図式にあっては、「データ」は理論の外からその当否を判定する裁判官の役割を果たしていましたが、逆転された新しい図式では、「事実」は当の理論によって造られるのですから、元来、理論の内部に、むしろ理論がよりかかって成立していることになり、そのような性格の「事実」が、理論に対して裁判官の役割を果たすことはできない相談なのです。

 

実際、科学の歴史を調べてみますと、このことがよく分かります。18世紀のヨーロッパで、一時、フロギストン説*2というのが流行ったことがあります。

 

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出典

 

これは、ものが燃焼する、という現象をまことに巧妙に説明しようとしたもので、酸化理論が成立する前には、多くの科学者がこの理論を共有していたのです。この説は、ものが燃える、ということは、そのもののなかに含まれている燃焼物質(それがフロギストンと呼ばれました)が、そのものから離脱することである、と主張したのです。したがって錆びた金属などは、フロギストンが離脱したあとの抜け殻だ、と考えられました。

 

では、そのフロギストンの抜け殻となった錆びた金属と、錆びる前の(フロギストンをたっぷり含んでいる状態の)金属と、どちらが重いでしょうか。今のわたくしどもなら、これは実際に精密な天秤で試してみなくとも答えを知っています。錆びた金属は(酸化されて空中の酸素をとり込んだのですから)当然、錆びる前よりも重いはずです。そしてそのような類の報告は、フロギストン説よりもはるかに前から、いくつもあったのです。

 

今のわたくしどもから見ると、この報告はフロギストン説に対して、それを決定的に反証する「事実」のように思われます。つまり、この「事実」はフロギストン説という燃焼理論に対して、裁判官の立場からこれを否定してしまう役割をもつように思われます。しかし、それは、今のわたくしどもが、酸化理論という理論を共有する社会、そういう共同体に生きているからに他ならないのです。

 

なぜなら、フロギストン説を共有していた人々は、その「事実」をこんなふうに見ていました。フロギストンは「軽さ」を持っている。だから、その金属がフロギストンと結び付いている間は、それだけ軽くなっていたのだ、それが離脱したのだから、錆びた金属が錆びる前より重くなるのは当然ではないか。

 

ゲシュタルト変換

 

今のわたくしどもには、屁理屈にしか聞こえないこの理解は、フロギストン理論を共有する共同体の中では充分説得力があり、かつ客観的であったのです。

 

これは単に一つの例に過ぎません。このような例を過去に探し求めれば、枚挙にいとまがないほどの多数をあげることができるのです。そして、この点が大切なところですが、過去のそれぞれの時代にこうした例が数々あるということは、現在のわたくしどもが絶対的に確かだと思い込んでいる科学理論においても、後代の人々が見たら、屁理屈としか見えないような理論に立っている、という可能性からわたしくどもはまぬがれ難い、ということを示しているのです。

 

現在のわたしくどもでも、現在のわたしくどもの共有する科学理論に対して致命的な反証となる「事実」をすでに数多く入手していながら、しかも、それに気づいていないことがあるかもしれない、ということは、想像してみるのにあまり愉快なことではありません。とりわけ現場の科学者の方々にはそうでしょう。しかし、この点は大切です。

 

そこからわたしくしどもは、いろいろな教訓を学びとることができます。第一に、それではある「事実」が今持っている理論に対する致命的反証になっているということがいつ気づかれるのか、という問いを立ててみることによって明らかにされるような問題があります。

 

それは、その「事実」を見るためのさまざまな理論上の前提が張り巡らす網の目の構造やその有機性に変化が生じたときだ、ということができます。

 

ちょうど「魔法使いの老婆」としか見えなかったものが、突然「若い娘さんの顔」に見え始めた瞬間のように、錆びたあとの金属の方が重いという「事実」を見るための前提ーーもっとも、このことに直接関係してくる前提は、いうまでもなくフロギストン説でしたが、もちろんそこに関係してくる前提はそればかりではなく、もっと一般的なものも多数含まれていたでしょうーーの構造が変わったとき、今まで、その図柄のなかにちゃんと収まっていたその「事実」が、どうしても収まり悪く感じられてくる、というような状況が起こっているのです。

 

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お婆さんと若い娘、どちらに見える?(出典

 

ハンソンという研究者は、これを「ゲシュタルト変換」と呼びました。*3

 

主観の側の変化

 

そのとき起こっている変化は、人間の、あえてそういうことばを使うとすれば、主観の側の意識構造の変化ということができます。しかも、その変化は、その当の人間がはっきり自覚しているかしていないかにかかわらず、彼がそれまでもっていた理論的前提の網の目の構造の破壊だけではなく、例の「事実」を見るため、新しい理論的前提の網の目の創造をも意味しているのです。ここに科学理論変換の根幹となる要点があります。

 

つまり、いっさいの理論的前提ぬきに「事実」を見ることができないという論点を認めますと、フロギストン説の前提のなかに素直に収まっていた例の「事実」が、ある人にとって、あるとき突然収まり悪く感じられるということ自体が、それを見るための何らかの新しい理論的前提の誕生を必然的に意味していることになるからです。

 

その微妙な心理上の変化の過程、意識構造の変質過程を、何らかの論理的な手続きを使って説明しきる、ということは、わたくしどもの一つの目標であるとは思いますが、しかし、実のところ、わたくしはその目標はあきらめなければならないと考えています。「魔法使いの老婆」から「若い娘さんの顔」への転換過程を論理的手続きで説明しようとしても恐らく不可能であるのと同じ不可能性が、そこにあると思うのです。

 

理論系の変化と複式構造

 

しかし、一つ大切なことは、あの社会共同体と理論系の双方に並行的に見られる「複式構造」と呼んだ状況です。

 

つまり非常に特殊な分野の限定された理論として成り立っているものも、それだけで孤立しているのではなく、より大きな理論へと組み込まれ、やがてはその時代その社会の常識的な考え方やその底流を形成する根本的なものの考え方へと、いわば足を下ろしているわけですから、そうした複式構造の上層部の特殊な科学理論の変化と、下層部の時代と社会をかたどる根本的なものの考え方の変化との間には、明らかに相関関係があると思います

 

実はこの点が、わたくしが文化史的な問題として取り扱った、あのキリスト教的な思想構造と自然科学との間の強い相関関係についての、認識論的な側面からの基礎づけをも与えてくれるところなのです。

 

例えば、歴史上そのもっとも鮮やかな例は、17世紀の原子論的な考え方の展開です。原子論というと普通、わたくしどもは、物質の基本構成単位としての原子《atom》を中心とした自然科学、とりわけ物理学や化学の理論を思い浮かべます。

 

もちろんそれは正しいのであって、古代ギリシアにもこれに似た考え方はあったとはいえ、わたくしどもが知っている物理学や化学の一分野としての原子論は17世紀に生まれたものです。しかし、17世紀ヨーロッパでは、自然科学以外の分野でも「原子論」が非常に重要なものとして登場しています。それは政治や社会科学的な場面です。

 

個人という単語に相当する英語《individual》をご存知でしょう。この単語は《divide》つまり「分ける」という動詞と関連があり、それに否定の意味を表わす接頭語《in》がついているのだから、「分けることができないもの」という原義をもっている、ということはだれでも想像がつきます。

 

しかし、もう一押ししてみる必要があります。「原子」つまり《atom》もまた「分けることができないもの」という意味だったはずです。《a》はギリシア語で否定の接頭語、《tom》はギリシア語で「分割する」の意味です。

 

実は、英語の《individual》の原語は、ラテン語の《individuum》であって、この単語は、ギリシア語系の《atom》をそのままラテン語に置き換えたものなのです。日本語で「原子」と「個人」はまるで脈絡がありませんが、ヨーロッパ語では、ギリシア語系、ラテン語系の区別こそあれ、まったく同じ意味なのです。

 

個人と原子

 

そして、16世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパでは社会における「個人」の重要性が注目され始めた時期でした。いわゆる「近代人の個我の成立」とともに、一人一人の人間が政治行動や意思決定に究極的単位として参加する民主主義の理念や、「万人の万人に対する闘い」という形で一人一人の人間が経済活動に参加する「自由主義」の理念は、まさしくそうした状態から生まれてきたものでした。

 

このような17世紀ヨーロッパ社会が底流としてもっていた基本的な考え方と、自然科学的な「原子論」の確立との間には、単なる現象面での同型性以上に強い関係があると考えてよいでしょう。

 

17世紀の自然科学的原理論者、例えばボイルやニュートンも、物理現象を考えるときの理論的前提としての「原理論者」であると同時に、より一般的な一人の「人間」としては、当時のキリスト教や、当時の「個人主義」のような常識的な前提のなかに生きていたはずです。

 

そしてこのような人間存在自体のもつ「複式構造」では、各レヴェルの間の関係は、絶対的な論理的整合性で結ばれているとはいえないのは当然としても、それらはまったく無関係であるわけでもなく、それらの間には構造的な同型性や意味の連関性があって然るべきでしょう。

 

そこで科学理論の変換の起こる過程には、単に特定の科学理論の場面だけでの操作が関与しているのではなく、それを組み込んでいる全体的な世界像や自然観などとの有機的な構造の総体が関与している、ということだけはいえると思います。

 

少なくとも第1章に述べたように、ある理論を反証するようなデータが発見されて、仕方なくそれまでの理論を造り換えて(アド・ホックな方法にせよ、全面的な方法にせよ)、新しい理論を造る、というような形で変換が起こるわけではないことは確かだと思います。

 

第1章で指摘してその説明を保留した「同時発見」の問題も、このような図式の中では多少分かりやすくなるのではないでしょうか。ある時代、ある社会の中で、ある考え方が有力な底流を形成しているとき、それは、その社会共同体のメンバーたちに共通の、広い前提の上に立つ限り、多くの人々が、その前提と構造的同型性や意味の連関性をもつような同一の理論に、独立に到達することは、ある意味では当然のことになりましょう。

 

そしてそれは、新しい理論の構築についてばかりでなく、一つの「事実」の発見でさえ、同じことになるのも、「酸素の発見」について述べたことを想い起こしていただけば、はっきり理解してくださることと思います。

 

ーおわりー

*1:フランス王国パリ出身の化学者、貴族。質量保存の法則を発見、酸素の命名、フロギストン説を打破したことから「近代化学の父」と称される。

*2:フロギストン説(phlogiston theory; Phlogistontheorie)とは、『「燃焼」はフロギストンという物質の放出の過程である』という科学史上の一つの考え方である。フロギストンは燃素(ねんそ)と和訳される事があり、「燃素説」とも呼ばれる。この説そのものは決して非科学な考察から生まれたものでなく、その当時知られていた科学的知見を元に提唱された学説であるが、後により現象を有効に説明する酸素説が提唱されたことで、忘れ去られていった。(参照).

*3:村上陽一郎訳『科学理論はいかにして生まれるのか』講談社