巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

私の辿ってきた道ーージョシュア・リム神学生の真理探究記【後篇】

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出典

 

【前篇】はココです。

目次

 

カトリック神学者たちとのディベート

 

懐疑に陥っていたこの時期、私はプロテスタント&カトリック神学に関する会議の席で、数人のカトリック神学者たちと知り合いになりました。しかし自分の出会ったカトリック信者は彼らが初めてではありませんでした。

 

この出会いの前にもかつて私は約2年というスパンに渡り、近くの喫茶店で、ある知的なカトリック信者とディスカッションをしていたことがありました。(ただその時は彼が改革派プロテスタンティズムについてほとんど無知だったために、結局、彼の諸議論をパスすることができました。)

 

またインターネットでもプロテスタントとカトリックのオンライン・ディベートが開かれており、それに参加しました。おそらくこの時期、改革派神学の欠陥に気づき始めていたからでしょうが、私はカトリック神学をカトリックの視点から理解しようと本気で取り組み始めました。(しかしカトリシズムに対する不信を教え込まれつつ生育してきた私のような者にとってこれはかなり困難を要する作業です。)

 

「自然と恩寵」の関係

 

またある摂理的な会合を通し、私はドミニコ会士たちと共に腰かけ、じっくり話し合う機会を持つことができました。

 

自然と恩寵の関係について、昇天について、創造主ー被造物の区分について、その他、歴史的諸問題(例:アヴィニョン教皇庁)などについて私は会士たちに質問を投げかけました。これらは自分が神学校で学んでいた時、カトリシズムに関連する主要問題として取り扱われていたテーマでした。

 

すると予想に反し、ドミニコ会士たちはこれらの質問にかなり満足のいく回答をくれただけでなく、会合を重ねていく中で次第に明らかになっていったのは、彼らは、「自然と恩寵」に関する理解、そしてそれに付随する形での「神学と哲学」の関係についても、かなり説得力のある理解を提示しているということでした。*1

 

それからの5カ月余り、私はカトリックとプロテスタントその両方の著作を片っ端から読み研究していきました。私は予定説と義認に関するピーター・マーター・ヴェルミグリ(Peter Martyr Vermigli)の著述を精読しました。ヴェルミグリはプロテスタント運動に身を投じる以前にはアウグスティヌス会修道士でした。

 

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Peter Martyr Vermigli (Pietro Vermigli;1499–1562) イタリア生まれのの改革派神学者

 

さらに私はヘイコ・オベーマン(Heiko Oberman)の著述である、ガブリエル・ビエールの中世唯名論およびそれがルター神学に及ぼした巨大な影響についての本を読みました。*2

 

自分の疑いと懐疑主義の発生源に気づく 

 

これらの研究を通して私は自分の疑いや懐疑主義の大部分が、ルターの十字架の神学*3を通した神知識および、現実認識に関するある種の哲学的諸前提に由来していたことに気づきました。

 

「哲学と神学」の関係

 

また、私が抱えていた哲学的諸問題の大部分も、「哲学と神学」の関係に関するこれまでの自分の理解から生じてきていたのだということに気づきました。

 

こうして哲学と神学の分かち難い結びつきが自分の中で確かなものとされていきました。いわゆる「純粋なる神学」というものを人は所持することはできません。それはちょうど、ーー聖書を解釈するという行為なくしてーー単に「聖書を信じる」ということが不可能なのと同じです。人がそれを認めているいないに拘らず、哲学というのは常にそこに現前しています。

 

そして「神学とは区別されたところの哲学など、私は一切持っていない」と主張している人々は不可避的にある種の疑念を引き出さずにはおれないのです。(それはちょうど、「自分はただ単にまっすぐに聖書を読んでいるのです」と主張しているファンダメンタリストたちによって引き起こされる疑いと同様です。)

 

トマス・アクィナスに行き着くーー懐疑主義からの漸進的回復

 

この時期、私は聖トマス・アクィナスの著作の中に知的安らぎの資源を見い出しました。すでに溯ること1年前、アクィナスのことを紹介してもらい、神学校でも彼に関する講義を受講していました。

 

その時点で私はすでに彼の『神学大全』の4分の1を読了していましたが(この学びにより、『アクィナスは存在論神学(ontotheology)をやっていた』という観念は是正されました。)、依然として私は恩寵と律法に関する彼の見解にいくばくかの疑念を持っていました。とはいえ、私は前に進むことにし、『神学大全』を最後まで読み切ることにしました。

 

 

聖アクィナスを通し、私は神を信じるに当たってのより説得力のある強靭な根拠を見い出し、またこの天使的博士(Angelic Doctor)による入念な描出ーー自然によって知られ得るもの(例:神の存在)と、恩寵を通してのみ知られ得るものとの間の輪郭ーーにより、自分自身の懐疑主義を見直すことができ、そこから脱出する上でトマスに大いに助けられました。*4

 

ちなみにこういった懐疑主義はカントを遥かに溯り、最終的には裸の神(deus nudus)に対するルターのアレルギーに根差しているのではないかと思われます。この考え方によると、すべてのスコラ哲学者たちは、不法に哲学を通し垣間見ようとしていたとされています。

 

ルターの「十字架の神学」

 

ルターは「栄光の神学 theologia gloriae」と「十字架の神学 theologia crucis」を区別しましたが、それに付随する形で、ソラ・フィデ(「信仰のみ」)という概念、そしてソラ・スクリプトゥーラ(「聖書のみ」)の教理が生まれました。*5

 

私の目には、唯名論的な哲学的レンズを通してのみ、義認は、なにか純粋に外因性のものとして認識され得るように思われました。(その結果として、クリスチャンは「同時に聖徒であり罪びとである(simul iustus et peccator)」という見解が生じることになりました。)*6

 

換言しますと、改革派神学者たちが一般に「教父たちは過度にギリシャ哲学から影響を受けていた*7」と非難しているのと同じようなあり方で私は、宗教改革者たちは、さらに無批判的な様で同時代の哲学を受け入れたという責めを負っているのではないかということに気づきました。それどころか彼らは自らの諸前提を無視した上で、自分たちの聖書解釈を聖書と同一視していたのではないでしょうか。中世神学者たちの‟推論”を批判しながらーー。

 

さらに、私が改革派神学の中に見い出していた肯定的資質の多くを、私はカトリック教会の中に非常に豊かな形で発見しました。「カトリックや東方正教会に改宗しようとする人々は、ただ単に根拠のない『確かさ』を求めて極端に走っているだけ」という内容をよく耳にします。(そしてその際、改革派教会は中道的なものとして描かれており、同様の主張がアングリカンやメソディストからもなされています。)

 

しかしそういった言説とは裏腹に私が見い出したのは、カトリック教会というのは、聖書に対しても伝統に対しても、むしろよりバランスがとれ、一貫性のあるアプローチを採っているということでした。

 

さらに、①福音主義神学内に蔓延している個人主義の問題や、②よりイマージング系列の諸教会にみられる曖昧なコミュニティー中心の教会論に関しても、改革派神学と比べ、むしろカトリック教会内に妥当なバランスがあるように思えました。つまり一致の中の多様性です。(改革派神学においては①と②と結合させた結果、自分たちは‟だだっ広い福音主義”の人々とは違って、神学における専門家であるとそれぞれ自負する人々の集団が発生してしまった感があります。)

 

一(いつ)が多を昇華しているのではなく、むしろ、唯一の、聖なる、普遍的、使徒的教会というものには、真の意味での一致感覚と、教会の各メンバーという真の意味での個別性が付随していることを見い出しました。

 

こうしてノルベルト派の神父と数か月、一対一の会合の時を持った後、私はついに最近、カトリック教会に受け入れられました。

 

米国における現代カトリック教会の厳しい現実を直視しつつ

 

多くのプロテスタントの方々が警告しておられる通り、カトリックに改宗した人々が必ず直面する諸問題があります。特に米国における現代カトリック教会は完璧からは程遠い状態にあります。

 

典礼の面でいっても、(少なくとも南カリフォルニアでは)本来カトリック教徒がなすべき仕方でミサを捧げている教区は非常に少数であるというのが現実です。また数多くのリベラル派カトリック教徒がいて、これらの人々は教導権に従っていませんし、その他にも問題は山積みです。*8

 

しかしこういった事は実際、教会にとって真新しい問題ではありません。常に教会はこういった諸問題に直面してきました。これだけの諸問題を目の前にみながらも、カトリック教会が真の教会であるという確信は私から去りませんでした。その反対に、時の経過に伴い、これが真の教会であるに違いないという自分の信仰はますます強まっていきました。

 

というのも、もしもキリストが、これまで信徒、司祭、司教、教皇たちによって犯されてきたこれだけ大量の失敗史を抱えた教会を建てるべく、これまで働き続けることがおできになったのだとしたら、やはりこの教会は神ご自身によって支えられているに違いない、ーーそう思いました。2000年以上の歳月が経ったにも拘らず、教会は、自身が常に保持し教えてきた内容を実質上、今も保持し教え続けています。

  

最初の内、私は大部分のカトリック信者が自分の望むような形で神のことに通じていない事実にややうんざりしてしまいましたが(結局、それは私自身のプライドが原因なのでしょう)、それでも、私は、一見、朴訥にみえるカトリック教徒の献身によって謙遜にさせられています。彼らの主への愛や、聖体拝領時の主のご臨在に対する彼らの信仰からは、真におさな子のような信仰が顕されていると思います。

 

かつて私は離れたところからこういった ‟愚鈍な” 羊たちを見て、彼らを批判していましたが、今ついに自分も、そんな彼らの一人とみなされていることに喜びを感じています。

 

ー終わりー

 

Joshua Lim (ウェストミンスター神学校在籍〔執筆当時〕

ーーーーーー

*1:訳者注:

*2:訳者注:Heiko Oberman, The Harvest of Medieval Theology: Gabriel Biel and Late Medieval Nominalism, 2001

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*3:

 

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訳者注:アウグスブルグ信仰告白、第18条 自由意志について

「自由意志について、われらの諸教会は、かく教える。人間の意志は、公民的の正義を行い、理性が把握するような事柄を選ぶいくらかの自由を有する。しかし聖霊なくしては、神の義、すなわち霊的正義を行う力をもたない。引用元」 theologia crucis;Kreuzestheologie

*4:訳者注:最良のアクィナス入門書

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それから ↓ も有益。

Bishop Barron's Top 10 Resources on St. Thomas Aquinas by Word on Fire

*5:訳者注:関連文献 A.E.マクグラス著(鈴木浩翻訳)『ルターの十字架の神学―マルティン・ルターの神学的突破』(2015)

*6:訳者注:関連記事

*7:訳者注:

*8:訳者注: