巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

私の辿ってきた道ーージョシュア・リム神学生の真理探究記【前篇】

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あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。詩篇25:5a出典

 

目次

 

Joshua Lim’s Story: A Westminster Seminary California Student (拙訳)

 

 

熱心なバプテスト信者になる

 

私は長老派教会で生まれ育ちました。高校生の時、ある非常に敬虔な牧師のおかげで、私は聖書を真剣に学ぶようになり、その後、生まれ育った長老主義を離れ、バプテスト信者になりました。

 

私が新しく加わるようになったバプテスト教会は全般的にカルヴァン主義的であり、そこに集う大学生や青年たちは皆、主への情熱そして献身の心で満ちていました。また牧師や長老たちはソラ・スクリプトゥーラ(「聖書のみ」)、共同体、聖い生き方、信仰復興、福音宣教にとても熱心でした。

 

教義的には、うちの教会には、プロテスタント信仰に関する伝統的信条に関するいかなる義務的是認も要求されておらず、教会ホームページにも、一般的な保守的福音主義教会と同じような簡潔な「信仰告白」が載っているだけでした。

 

神学は否定されこそしてはいませんでしたが、私の感触では、そこにはある種の反知性主義的エートスがあり、神学研究に深入りし過ぎることはーーしばし聖書に対置された上でーーあまり好ましいことではないとみなされていました。

 

こういった雰囲気が教会内に醸し出されていた部分的原因としては、誰かの聖書解釈(この場合ですと、私の牧師の解釈)と、聖書の ‟明白な意味”というのがイコールなものとして同一視されていたことにあると思います。

 

うちの教会のサイズは比較的小さかったのですが(もしかしたらそれが故に?)、なんというか「僕らこそ唯一の、真に聖書的な教会なんだ」という自覚みたいなものがあったように思います。

 

その他すべての教会はなんらかの形でどこかにおいて欠けており(誤っており)、たとい教理や実践の面でそれなりに近いように見える人々であっても、やはり決して完全には受け入れられないものを感じていました。ーーそしてこういった暗黙の疑念は往々にして双方向的なものでした。

 

孤立した教会構造に疑問を感じ始める

 

しかしながら時の経過に伴い、私はこういった小規模で孤立した教会構造(主任牧師は教皇に匹敵するほどの権威を持っているようにみえました)の持つ恣意性に疑問を感じるようになっていきました。

 

また、若気の至りもあったと思いますが、ほとんど全て聖化主導で構成されているうちの教会のテーマ説教に対しても、ルターの如き不安と懸念が自分の中に生じてきました。その結果、最終的に私は、プロテスタンティズム内に存在するより伝統的な改革派の方に移っていくことになりました。

 

古典的神学書を熱心に読み始める

 

 

 大学3年生の時までに、私はジャン・カルヴァンの『キリスト教概要』を完読し、またザカリウス・ウルスィヌスの『ハイデルベルグ信仰問答註解』、ルイス・ベルコフの『組織神学』、ヘルマン・バヴィンクの『改革派教義学』全4巻をすべて読了していました。そして私はさらに深く改革派の契約神学を掘り下げていきました。

 

最終的に、ゲルハルダス・ヴォスおよびメレディス・クラインの著作を通し、私はディスペンセーション主義を拒絶するに至りました。またさらに学びを続ける中でマイケル・ホートンの著作集に導かれました。ホートンは説かれた御言葉および定期的なサクラメントの執行(この場合はバプテスマと聖餐の二つ)を強調していました。

 

また、これまでの自分の霊的環境(=しばし一貫性に欠け、主観主義的なタイプのエヴァンジェリカリズム)とは対照的なリトルジカルな礼拝様式およびサクラメントをますます好むようになっていきました。さらに、自分の律法誘導型の不安感は、ソラ・グラティア(「恵みのみ」)ソラ・フィデ(「信仰のみ」)という無償なる義認論にもとづいた福音によって緩和されました。

 

律法の恐れに突き動かされてではなく(自分は ‟真に選びの民である” ということを確信しつつ)、私は、少なくとも観念的には、喜びと自由の心で律法に従うに当たり、無償の義認に対する感謝に突き動かされていました。私に代わって成し遂げられたキリストの歴史的御業に関する客観性に対するより大きな気づきーーこれは改革派の義認教理との出会いを通して私が初めて知ったものでした。

 

なぜかカール・バルトの『教会教義学』を読了しようと決意する

 

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カール・バルト(1886-1968)

 

にもかかわらず、自分の中にあった真理に対するニーチェ的衝動は「さらにもっと」と求めて止みませんでした。大学4年生の時、私はどういうわけかカール・バルトの『教会教義学』を読了しようと決心しました。

 

ええ、もちろん、私はこの革新的スイス人神学者に対するヴァン・ティルの厳しい批判も知っていました。でもどういうわけか私はバルトに引き寄せられました。おそらく彼が多くの点で、近代性にかかわる改革派神学者であり続けていたからではないかと思います。

 

バルトのバージョンの改革派プロテスタンティズムは、自分が馴染んできた改革派のそれとは本質的に異なっていました。たしかにバルトはカトリシズムを激しく糾弾してはいましたが、依然として彼の著述には、ある種のカトリック的傾向、エキュメニカル精神といったらいいのでしょうか、、なにかそういうものが在るように思えました。

 

バルトの著述を通して私は徐々に、自分とは相反する諸見解に実際に耳を傾けるようになりました。それも、自分自身のレンズをかけたまま相反する諸見解を読む(批判に対し難攻不落の防御態勢をとる)のではなく、相手自身の視点や諸前提に従い、それぞれの見解を理解しようと努め始めたのです。

 

また私は、聖書を、ーーソラ・フィデとしての義認という固定概念に順応させるべく聖句テキストを解釈するのではなく、自分とは異なる解釈諸伝統がどのように聖書を理解してきたのかを理解しようと努め始めました。そして往々にして、競合するそういった諸解釈は、それ自身の視点に立ってみると、それなりにかなり説得力があることに気づかされました。

 

しかしこの事により、自分にとって非常に大切なものになっていた改革派の信条告白主義(confessionalism)に対し葛藤を覚えるようになっていきました。広範なエヴァンジェリカルに対抗するところのプロテスタント的 ‟伝統” への訴え、そしてカトリックに対抗するところの「聖書のみ」への訴えーーというスタンスにより、信条告白主義的改革派神学はかなり不安定でおぼつかない立場に置かれているようにみえました。

 

信条告白主義

 

神学校で私はよく、「エヴァンジェリカリズムにおけるアナバプテスト的衝動」に対する激しい非難の言葉を耳にしました。それによると、アナバプテストに欠けていたのはーーカルヴァンやルター、そして多くのプロテスタント・スコラ哲学者たちが決して破棄しようとしていなかったものーー、すなわち「伝統」でした。

 

さらに現代福音主義およびモダニティーにかかわるあらゆる問題は、系譜学的に辿るなら、それは決して教導的改革主義者たちでなく、あの ‟アナバプテストの連中” に起源しているのだとされていました。

 

私は当初このナラティブをそのまま鵜呑みにして信じていたのですが、その内、そういった区分は恣意的防御メカニズムに過ぎないのではないかという疑念が生じてきました。というのも、アナバプティズム内にみられるある種の衝動は、ルターの教導的宗教改革に潜在する諸思想そのものから発生していたことは否定しようのない事実だと思ったからです。

 

こういったアナバプテスト問題に対し、提起されていた ‟改革派的” 解決法というのはきわめてシンプルなものでした。ーーそうです。改革派の信仰告白(confessions)が元の適切な位置に回復されなければならなかったのです。しかしそういった回復が内ゲバで有名な改革派諸教団内に直ちに委譲され得ないのか不明でした。

 

少なくともこの点においては、チャールズ・フィニーのポイントにいくばくかの分(ぶ)があるのかもしれません。つまり、信仰告白はーー少なくとも実践的な面においてはーーなにかしら ‟ペーパー上の教皇” のような機能を果たしているように見える、ということです。さもなくば、各種信仰告白は事実上、なんら権威を持っていません。

 

〈中庸路線〉ーーつまり、改革派諸教会およびそれぞれの信仰告白にはただ単に ‟牧会的(ministerial)” 権威があるーーというのでは問題は何も解決されません。なぜなら、中庸というのがそもそも何を意味しているのかさえも明らかではないからです。絶え間なく細裂・分裂を繰り返していく長老派&改革派諸教派内のさまざまな教理論争をみてもそれは歴然としていました。

 

もしも各種信仰告白が、少なくとも実践の面で、教導権(Magisterium)と同等の権威を持っていないのだとしたら、それは結局何ら権威を持っていないも同然のように思われました。

 

誰かが信仰告白もしくは信仰告白に関する特定の解釈に対し聖書的な理由で同意できないと判断した瞬間、その人たちはもはや自分たちをその教会の統治体に従わせる必要はなくなります。

 

換言しますと、人は、教会戒規を回避すべく、事ある毎にルターのあの『我ここに立つ』の格言を用いることが可能なのです。しかも厄介なことに、そういう風に自分自身の良心や聖書に訴えてくる個人を責めることは、プロテスタント教団にとっては偽善的なことです。そして実際こういった事が歴史の中で繰り返し起こってきたことは明白な事実なのです。

 

出口が見えない

 

こういった出口の見い出せない難題的懐疑は、私を落胆の沼に追いやっていきました。一方において私はーーそのナイーブなbiblicismゆえにーーもはや広範でゆるやかなタイプの福音主義に戻ることはできませんでした。(こういったナイーブなbiblicismは信条告白主義的プロテスタントからもローマからも糾弾されています。)

 

しかし他方において、私は信条告白主義的改革派クリスチャンとしてとどまることにも困難を覚え始めていました。

 

バルトも助けにはならない

 

バルトもここではほとんど全く助けになりませんでした。あらゆる人間知識に対する彼の絶え間ない批判、カント哲学的懐疑主義と混ざった「全的堕落」というプロテスタント概念の一貫した奔流、、、

 

こういったものにより、次第に自分は「信頼することのできる教会は一つとして存在せず、信頼することのできる人も皆無である」と認識する地点まで追いつめられていきました。なぜなら神は常に主体であり、人間によって制御される‟客体”になることは決してあり得ないからです。

 

バルトは間違いなく当時のプロテスタント自由主義に対し反動を起こしていましたが、彼自身のキリスト中心的解決策は、永久的解決を与えることなく物事を保留しているに過ぎませんでした。究極的に言って、啓示における出来事の性格に重点を置き過ぎている余り、バルト神学においては、啓示それ自体の実際的内実へのフォーカスがぼかされてしまう恐れがあるように思われました。

 

あるカトリック神学者が言っているように、「『私ではない!神だ!‘Not I! Rather God!’』というバルトの痛烈な叫びは実際には、あらゆる眼を神ではなくむしろそれ自体に誘導しています。隔絶性へのその叫びは隔絶への余地を何ら残していないのです。」*1

 

不可知論の深淵へ

 

こうして私は、プロテスタンティズムに関わるあらゆる事に疲れを覚えるようになっていきました。かといって、カトリシズムへ向かおうという気にもなれませんでした。

 

こうして私は徐々に不可知論への暗い道を下っていきました。ルードヴィヒ・フォイエルバッハの宗教批判ーーつまり、宗教というのは単に人が大声で話しているに過ぎないーーというのは不可避的に真であるように思われました。

 

改革派キリスト教が間違っていて他のどこかの教派が正しいとか、もしくは教団教派はどこも皆正しいとか、そういう事ではなく、もしも一つの小さなキリスト者グループがその他いくつか(もしくはその他多く)を排他する形で「自分たちこそ真理を持っている」と主張できるのだとしたら、そしてもしもこういう諸主張が結局、ある個人やあるグループによって作り出される『想像による恣意的構築物(つまり各自の聖書解釈)』に過ぎないということに帰着するのなら、、それなら、僕はもはやいかなるキリスト教教派であれ、それらが真理を所持しているということを信じることができないーー、そう思いました。

 

思えば、こういった種類のドグマの恣意的選択は、キリスト教史を通して絶えず起こってきたのではないでしょうか。キリストの神性、三位一体としての神の御性質、キリストの二性〔神性、人性〕の真理などは、結局のところ、人間の議論によって生み出されてきた産物なのではないでしょうか。(こういった決定事項は最終的に政治的・社会的権力を渇望する雑多な人間たちによって決定された、、そうではないのでしょうか?)

 

つまりリベラル派のプロテスタントであってさえも、少なくてもこの点についてはまともな事を言っているのかもしれないということです。ーーそう、‟正統性” なるものはこれまでも、そしてこれからも永久に、絶望的に恣意的なものであると。これに同意せず、今後も ‟信条告白主義的” プロテスタントであり続けるのは、もっともおぞましい偽善であるように思われました。

 

神学校にて

 

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ウェストミンスター神学校、カリフォルニア校図書館(出典

 

言うまでもなく神学校に入る頃までには、私はある意味、プロテスタンティズムにもキリスト教にも幻滅を覚えていました。それでもかろうじて細い一本の糸にぶらさがり、なんとか祈ろうとしたり、「このバージョンのキリスト教が真のバージョンなんだ」と信じようと絶えず努力しました。

 

私は当初、プロテスタント神学者たちは、現代プロテスタンティズムの疾患に対する答えを持っていると確信していましたが、次第に分かってきたのは、高名なプロテスタント神学者たちであってさえも、(本人たちがあれほど侮蔑しているところの)恣意的な人間的考案の感覚は依然としてそこに現前しているという事でした。

 

「自分は神の御言葉を堅持し、人間の作り事には頑として反対している」と単に言っているだけでは、そういった人間の信条や言明を主張するということに関する人間的側面そのものを除去することはできないのだということに私は気づきました。

 

そう考えていくと、マルティン・ルターやジャン・カルヴァンはもしかしたら英雄的な神の人たちというよりはむしろ、自らの思い込みの犠牲者になってしまった人々のように思えてきました。もちろん彼ら自身は自分たちが神からの使命を帯びていると信じていたと思いますが、見方によっては、彼らもまた、当時の哲学や文化によって形成された彼ら自身の聖書解釈に従い、教会を ‟改革” しようとした人物の中の二人に過ぎないのではないかと。

 

もしもーールターおよびカルヴァンの聖書解釈が言うようにーー全ての人が絶望的に腐敗し堕落しているのだとしたら、いかにして私は人を信頼することができるのでしょうか。なぜ私は、その事項に関し、マルティン・ルターの聖書見解、あるいはジャン・カルヴァンの教え、もしくは改革派の信仰告白などを信頼することができるのでしょう。

 

みんな「全的堕落」していて、それにも拘らずそういう人間たちによって施された聖書解釈が聖霊によって保証されているということに信頼を置き続けるというのは、ナイーブな朴訥さの極み、もしくは偽善ではないでしょうか。

 

むしろ、ニーチェやフーコーと共に、すべての人間はただ単に権力への意志により突き動かされていると言った方がよほど正直ではないでしょうか。そしてもしそれが真なら、(プロテスタンティズム内の‘ministerial’諸教派をも含めた)いかなる人間の機関も信用し得ないということになります。なぜならそれらは単なる諸構造に過ぎないのであり、それらを通し権力を持つ者は、権力を持たざる者たちを利用し支配することができるからです。ーー事実、これが今日に至るまでプロテスタンティズム側からのローマ批判の一つです。

 

カトリック教会に加入することを決意した多くの人々に伴うといわれている後悔の念、それは改革派になった後、私が経験した心情でもありました。

 

教会に「忠実」であることをめぐって

 

いくぶん皮肉なことに、ある人がどこかのプロテスタント教団教派へと参入する旅路の中で、失望を経験したとします。その際、彼は次のような事を言う人々に出会います。「教会というのはね、いつも途上(in via)にあるんだ。だからどんな失望に遭っても、僕たちはキリストの教会に忠実であり続けなければならない」と。

 

にもかかわらず、こういった忠告と共に、そこにはまたプロテスタント的確信があり、それは「人は教会の真のしるし(福音の宣教およびサクラメントの妥当な執行)のない教会には、それがいかなる教会であれとどまるべきではない」と言います。

 

ちょうどこの時期、つまり、自分が地元の改革派教会に忠実であり続けようと努力していた時期に、何人かの親しい教会の友人たちが教会を離れたいと言い始めました。彼らはこの教会から自分たちが受けるべきものを受けていないように感じると私に告白してきました。私はそういう事があっても尚、教会に忠実であるよう、友人たちを説得しようとしたのですが、その際、困難にぶつかりました。

 

つまり、可視的な教会に対し比較的重要性を置いている私の改革派信仰が、個々人の良心の重要性に対する改革派の力点と衝突していたのです。

 

それゆえ、一方において自分は、可視的みからだに対し忠実であり続けることに伴う重要性に心から同意していたのですが、それをプロテスタント教徒して実感することになにかしらひどく矛盾を覚えました。

 

ルターはカトリック教会から離脱することが必要だと感じました。そしてツヴィングリはルターから離脱することが必要だと感じ、アナバプテストは教導的改革派から離脱することが必要だと感じ、カルヴィニストたちはアルミニウス主義者たちから離脱することが必要だと感じ・・と、このリストは際限なく続いていきます。

 

そしてこれら全てに共通しているのは、それぞれが自分の聖書解釈こそが正しいと確信し、『われここに立つ。神よ助け給え!』というスタンスを採っていたということです。*2

 

信仰と懐疑の激しい凌ぎ合いの中で

 

こういった疑念や疑いを持った状態でまともな歩みをすることはおよそ不可能でした。これほどの激しい懐疑の症状は、(おそらくルターを除いて)私は他に見い出すことができませんでした。

 

しかしまた、私はルターやカルヴァンたちとは違って、無数に存在する競合する諸解釈以上に自分の個人解釈により信頼をおけるだけの自信も持ち合わせていませんでした。

 

実際、もしも自分が改革派神学の正当性を ‟確信” する以前に、何かすばらしい仕方でメソディスト主義やペンテコステ主義などにどこかで出会っていたとしたら、私は聖書テキストをかなり異なる方法で読んでいたことでしょう。そしてその特定解釈を、改革派のそれに優る正当な解釈であると確信していたことでしょう。

 

自分の ‟正しい” 見解を、ただ単に「神の恵みゆえです」とするのは、あまりにも短絡的で安易な解決法であるように思えました。実際、カルヴィニストであれ別の派であれ、ほとんどのグループは実質上、次のような同一の訴えをしているのではないでしょうか。ーー「主よ。自分が彼らのようでないことをあなたに感謝します」と。

 

どうすればいいのだろう。私の足はほとんど滑りかねない状態にあり、キリスト教それ自体を放棄する瀬戸際にありました。私はキリスト教がことごとく真であるということを信じたかった。でも自分自身をしてそうせしめることができなかったのです。助けを求め神に祈ろうとしました。しかし自分の祈りは聞かれていないのではないかという困惑した思いを如何ともすることができませんでした。

 

私は、自分の救いが自分自身のいかなる努力や働きを基盤にしたものではないという義認の福音に感謝しようとしました。しかし時が経過するにつれ、「日曜ごとに御言葉の使役を通し、神が私に義を宣言してくださる」ことと、「『そう、万事はOKなのだ』と心理学的に自分自身に言い聞かせ、自分を納得させようとすること」の間の輪郭描きがより一層困難になっていきました。

 

主の晩餐について

 

神学校の恩師や牧師が、主の晩餐の有益性に言及しても、はたして主の晩餐に価値があるということを自分自身に納得させることに私は困難を覚えていました。なぜならそれは可視的なみことばでしたが、いずれにしても、それ以上でも以下でもなかったからです。どういうことかといいますと、人は主の晩餐に与ることで信仰を強められます。しかしそれは文字通りにキリストのみからだ/血潮なのではなく、あくまでも ‟サクラメンタル的” にそうなのです。

 

それでは「サクラメンタル的にそうだ」とは一体どのような意味なのでしょうか。それに関する説明として、「サクラメント的結合」というあいまいな用語が用いられていましたが、実際には、ーーそれがカトリック的でもツヴィングリ的でもないということを除いてはーー誰も本当にはその意味を理解していないように見えました。

 

うちの教派は本当に ‟より伝統的” なのだろうか?

 

こういった諸問題に直面していく中で、私の中に一つの問いが生じてきました。ーーそれは、信条告白主義的な改革派プロテスタンティズムというのは、果たして本当に、より広範なエヴァンジェリカルよりも ‟より伝統的” なのかという問いです。

 

例えば初代教会との歴史的連続性があったとしても、それは純粋に表層的なもののように見えました。

 

たしかにサクラメントが祝われ、バプテスマが子供たちに施されてはいましたが、それらが祝われ、施行されていた理由は初代教会のそれとは本質的に異なっていました。つまり、伝統に関し、たといそこに連続性があるように見えても、そういった連続性の背後にある諸根拠は、残りの福音主義界のそれと同様、やはり斬新かつ恣意的なものなのではないかと。

 

ーつづくー

*1:Balthasar, The Theology of Karl Barth, p. 84.

*2:訳者注:関連記事