巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

リチャード・バクスター選集

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「言葉や行為というのは一時的なものに過ぎない。それらは一度なされるや過去のものとなり、もはやそこにはない。しかし、それらが不滅の魂に及ぼす影響は、おそらく永遠につづいていくだろう。」リチャード・バクスター(1615-1691)

 

目次

 

リチャード・バクスターの詩と祈り

 

礼拝の前の静かなひとときに

 

light blue sky

 

主よ、家に戻るまでに

私の心を天に引き上げるようななにかを

あなたからいただきたく思っています

 

御霊により、あなたの臨在のうちに憩い

天的な喜びで 私の心を

やわらかく香(かぐわ)しいものにしてください

 

キリストが 私の前に現れてくださり

天からの光で 

私のまわりを照らしてくださいますように。

 

人を導き、たましいを生き返らせる 

あなたのみ声を お聞かせください

 

私の目から覆いを取りのぞいてください

そうすれば、さらなるあなたの栄光に目が開かれるでしょう

 

主よ、どうか私の心を 

あなたの安息の光景のうちにいこわせ

御父のみ前に 導き入れてください

 

そうすれば 

天の幻をみた あの羊飼いたちのように

「ああ、見聞きしたことが、ぜんぶそのとおりだった」と

神をあがめ、賛美しながら

帰路につくことができるでしょう

 

Richard Baxter, The Saints’ Everlasting Restより(私訳)

 

主の日にささげる祈り

 

おお 永遠にして全能、そしてもっとも恵み深き神よ!

天は汝のみ座であり、地は汝の足台であります。

汝の御名は聖にして、崇高なものです。

 

汝は天の軍勢によって讃えられ、

地においては聖徒たちの集いの中で

賛美をお受けになっています。

 

そうです、汝の元に来るすべての者のうちにあって、汝は

聖なる方とあがめられているのです。

 

私たちは罪深く、取るに足らない塵のような者です。

にもかかわらず、私たちは汝によって招かれています。

 

それゆえ、われらの仲介者イエスを通し、

私たちは大胆に、汝の前に自分自身と祈りをたずさえ進み出ます。

 

どうか慈悲深く、私たちを受け入れ、御霊によって助けてください。

 

汝に対する畏れが私たちの上にあり、汝の掟がわが心に据え置かれ、わが思いの内に書き込まれますように。

 

汝のみ言葉が力をもって私たちの内に臨み、愛をもってそれを受け取ることができますように。

 

心を集中し、畏敬と恭順な思いをもって、み言葉を聴くことができますように。

 

そしてそのみ言葉を、命から命へといたらせるわれらが糧とさせてください。

 

私たちが誠意を込めて祈り、喜んで汝を賛美し、今日一日、他のことに心を乱されることなく、一途に汝に仕えることができますよう助けてください。

 

そうすれば、汝の大庭にいる一日が、千日にまさることを私たちは実感するでしょう。そして神に近づくことのすばらしさを味わい知るにちがいありません。

 

私たちの主であり救い主であるイエス・キリストによってお祈りします。

 

アーメン。

 

 

Richard Baxter, The Savoy Liturgyより(私訳)

 


 

彼に、汝の愛を宿す朋友は欠けることがない

 

彼に、汝の愛を宿す朋友は

欠けることはない。

 

彼は、汝と言葉を交わし、汝と共に歩んでいる。

そして、地上や天上にいる汝の聖徒らと共に。

 

聖徒の交わりの中には

知恵と、安固さと喜びがある。

 

心が衰え、沈む時、

朋友たちの暖かみと光によって

わが魂は引き上げられる。

 

わが朋友たちは、遭難したのではない。

汝の船隊は、

嵐に吹きすさばれ、

 

今でこそ互いに離れてしまっているが、

やがて、必ず、かの港で再会するのだ。

 

われわれは、絶えず、

汝を中心に寄り合っている。

遠くに離れてはいても、

一つかしらの元にある それぞれの器官として。

 

そして、ひとつの家族とされ、

ひとつの信仰と御霊に導かれている。

 

汝の御座の前で、われわれは日々、共に集っている。

そして一つとされた祈り人として、汝の御前にいる。

 

御霊の中で、われわれは互いにあいさつを交わし、

そして再び互いに邂逅するのだ。

 

天の軍勢、終わりのない世界、

これが上にある わが同伴者。

 

そして、ああ最愛にして、もっとも誠実な友イエスよ、

誰が汝の愛からわれわれを引き離すことなどできようか!

 

 

Richard Baxter, He wants not friends that hath Thy love(私訳)

 

伝記

 

キッデルミンスターのリチャード・バクスター(by レオナルド・ラーベンヒル)

 

Leonard Ravenhill, Richard Baxter of Kidderminster(拙訳)

 

聖書の系図には心躍るものがある。「イサクからヤコブが生まれ、ヤコブから十二人の族長が生まれ、、、」しかし、福音派の系図もそれに劣らず、実に興味深い。「ウォルター・クラドックからリチャード・バクスターが生まれた。そして炎のような彼の説教と著作を通し、無数の僕が生まれた。」

 

リチャード・バクスターは1615年、ロンドンで生まれた。彼の回心がいつであったかは知らない。1634年頃、バクスターは、ウォルター・クラドックおよびジョセフ・スィモンズによる力強い説教を聞いた際、「魂が強く引き寄せられるのを感じた。」

 

話は少し遡るが、やせてひょろっとした十代のバクスター青年は、ある日、黙想しつつ森の中をさまよっていた。当時、彼に影響を与えていた思想家たちは、以下の三人であった。バニー、スィッブズ、そしてペルキンズ。

 

青年期の混乱の中にあった彼はそこから次第に確信へと導かれ、確信はやがて回心を生み出し、そしてキリスト信仰の告白へと彼を導いた。

 

劇的な回心後、青年バクスターにとり、この地上の一切のことは、奇妙なほど色あせたものとなった。こうして彼は神の中で、生き、動き、その存在を据えたのである。

 

彼の魂にはセラフの炎が燃え上がり、永遠の中に現在の〈生〉を生きんとした。キリストに生涯をささげた後、四年ほど経った時、彼は牧師として任命され(1641年)、英国キッデルミンスターにある教会を牧会すべくその地域に遣わされた。

 

バクスターは、「神の事柄において仕えていこうとする奉仕者たちは、しかるべき神学教育課程を修了した後、牧師として叙任されるべき」という考えに反対していた。

 

彼は人の不評を買うことを恐れず、人間的な「昇級」などを望んでいないと公言していた。それは、バクスターが司教冠(miter)を拒絶した事実からもうかがえるだろう。

 

それではここで、説教者、信仰復興者、(魂を勝ち取る)伝道者としてのバクスターを少し見てみることにしよう。

 

疲れを知らないこのピューリタンは、祈りの内に神の御顔を見つめ、御霊の甘美な声に耳を傾けていた。

 

どんな強欲な守銭奴といえども、バクスターが魂を愛したほどには、金銭を愛することはできなかっただろう。また悔い改めようとしない罪びとたちに対する彼の粘り強さにも尋常でないものがあった。彼の書いた二行連句からもその情熱が伝わってくる。

 

「(目の前にいるこの人に)もう二度と説教する機会はないかもしれないという思いと覚悟で、私は説教してきた。一人の死にゆく人間が、もう一人の死にゆく人間へとささぐる思いを持って。」

 

今日の説教者にとって、「改宗者は、(彼を導いた)霊的父親の生き写しとなる」という格言は、耳の痛いものだろう。

 

バクスターの魂から放たれていた火の粉は、彼の周りにいた魂にも飛び火していたようである。彼は次のように記録している。「昼となく夜となく、彼らは、隣人たちの救いを熱望していた。」

 

そう、バクスターの情熱は確かに「感染力」を持って周囲に伝播していたのだ。

 

「主はほむべきかな、、キッデルミンスターの教会はついに人が入りきれなくなり、二階部分を増築しなければならなくなった。主日だけでなく平日の集会においても、状況は同じである。主日になると、その地域一帯にはびこっていた無秩序と騒擾がおさまり、町は静かになった。日曜の朝、通りを歩くと、何百という家々の軒先から、家族みんなで詩篇を歌う、その歌声が聞こえてくる。

 

私がキッデルミンスターに来た当初、この界隈で神を礼拝し、御名を呼び求めている家庭は、ただ一軒しか存在していなかった。しかし、私がそこを去る時には、通り全体が一軒のこらず神を礼拝する、というような『敬虔な界隈』がいくつも生まれていた。教区には600名ほどの信徒がいたが、その中で私が救いに全き確信を持つことのできなかった魂は12名といなかった。」

 

バクスターのことを「怠惰者」とあざける者たちがいたが、そういった人々は、次の言葉を聞くべきである。

 

「私はすべての聖徒の中でも最も取るに足りない者であることを自覚しています。しかしながら、私は自分を非難する者たちに対し、恐れずに答えようと思います。私の労苦に比べたら、町の商人たちの労苦など、『体のための満足に過ぎない』といっても言い過ぎではないと。

 

 彼らの労苦は、健康を保持させるものですが、私のそれは、ひたすら消耗させるものです。彼らは安楽に働いていますが、私は絶え間ない苦痛の中で労しています。彼らには有り余るほど余暇の時間があります。しかし私には食事をする時間さえ、まともにありません。彼らが働いたところで、それを妨害する人は誰もいません。しかし自分の場合、奉仕すればするほど、私はますます忌み嫌われ、困難が身に降りかかってくるのです。」

 

今日、著名な神学者たちは、「神学理論を練って作り出すこと」に努めているがーー読者はここに注意ーーこういった理論家たちは、魂を勝ち取る伝道者としてはほとんど知られていない。彼ら聖書批評家たちは、ふかふかの安楽ベッドにゆったり横たわりながら、「あつらえむきの神学」という頭知識でいっぱいのスーツを「ほら諸君、受け取りたまえ」と私たちに提供しているのではないだろうか。

 

しかしバクスターはそうではなかった。彼の魂は、死にゆく魂のためにうめいていた。彼は勇んで外に出、永遠の契約であるイエスの血潮のメッセージを宣べ伝えた。そう、彼は神学の〈象牙の塔〉に閉じこもり一人、悦に浸っている夢想家などではなかったのだ。

 

また彼は、死せる教義を解剖し、日がな、神学の実験にうつつを抜かしているような人でもなかった。ウェスレーと同じように、バクスターは、実践的な聖徒(practical saint)だったのである。

 

こうして19年に渡り、バクスターはキッデルミンスター地区で牧会の労をとった。ある著述家は、そのことを次のように美しく表現している。

 

「バクスターの説教と、彼の聖い生活から溢れ出る力を通し、残虐さと不品行の巣窟であったこの地域一帯が、まことの敬虔さに満ちた庭園へと変えられたのである。」

  

この作家はさらにこう付け加えている。

 

「17世紀に生きた神学者の中でも際立って清い聖徒であったリチャード・バクスター。教会の一致を求め、そのために戦い、祈り、犠牲を惜しむことのなかった彼が、こともあろうに、プロテスタント教徒の裁判官と、(同じくプロテスタント教徒の)陪審によって、有罪判決を言い渡され、投獄されなければならなかったとは!これは倫理的歪曲としか言えない事実である。」

 

非国教徒抑圧を目的として、1662年、イギリスで統一令(The Act of Uniformity)が施行された。この条例により、イングランド内のすべての聖職者と学校の教師は聖公会の改訂祈祷書を承認することが義務付けられ、監督教会によって叙任されていない聖職者はすべて、牧師職をはく奪されることになったのだ。

 

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バクスターは、2000名の他の牧師たちと共に、この条例に反対した。そのため彼は激しく誹謗・中傷を受けたのである。折しもこの時期、スコットランドでは、カヴェナンター(契約派)の聖徒たちが、殉教の血を流していたのだが、それと同様、バクスターも、「しばし危険の中に置かれた。」

 

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殺された非国教徒の少女マーガレット・ウィルソン、スコットランド、1685年

 

そしてついに1685年5月、バクスターにとって最大の恥辱をもたらす日がやってきた。

 

「血なまぐさい裁判」を司ることで悪名高いジェフリー裁判官は、「新約聖書を意訳した」というでたらめな咎により、バクスターを教会誹謗罪に定めたのである。

 

こうして、偽りの告発を受けた彼は、400ポンドという当時としては甚大な額の罰金を命じられた。そしてその罰金を支払うまでは獄から出ることはできない旨を言い渡されたのである。

 

さらに、当時すでに70歳という高齢のバクスターに対し、「この者を荷馬車の後ろにつなぎ、鞭打ちながら、ロンドンの街道を引き回す」という判決まで出されたのだ。(しかしこれに関しては、執行直前に、酌量がなされ、バクスターはこの見せしめ刑を免れることができた。)

 

バクスターはまた読書の人、執筆の人でもあった。彼は生涯に渡り、200冊余りの著書を記し、詩集を編み、また詩篇歌を編纂したのである。

 

随筆・エッセー

 

へブンリ―・ライフ』からの抜粋

 

おゝ、常に神を友のごとく考えることができるなら、どんなによいことか! 

 

ご自分を愛するにもまさって誠実に私たちを愛してくれる友、私たちの益をはかるため私たちのことしか考えず、それゆえご自身とともに永遠に住まうための家を備えてくださった友と考えることができるなら、常に神とともにある心を持つことも、さほど難しくはないであろう。

 

自分が心からこよなく愛する人のことを考えることほど甘やかなこと、何の努力もなしにできることはない。

 

だが残念ながら、ほとんどのキリスト者は、神の愛よりも心暖かな友人の方がまさっていると考えているのではなかろうか。そうだとすれば、彼らが神よりも友人の方を愛し、神よりも友人の方に重い信頼を置き、神よりも友人とともにいることを好むとしても、何の不思議があるであろう。

 

それゆえ、私たちは、形式ばった上品さや、慣習や、人々の賞賛などは打ち捨てて、密室の祈りにおいても公同の祈りにおいても、祈り終えるまでに自分の心をより神に近づけようという希望をもって膝まづくことである。

 

聖書を開くときには、----他の本でも同じだが----神の真理の光を放つようなことばとの出会いを期待し、そこから受ける御霊の祝福によって、以前にもまさる天国の味わいを感じとることを期待するがいい。

 

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神の家へ行くときには、こう云うことである。

 

「私は、帰路につくまでに、自分の思いを高めてくれるような何かを神から授かりたい。御霊とまみえ、あの天来の喜びで心を満たしていただきたい。また、キリストが私の前に現われ、天来の光で私の周りを照らし、その導きの声、いのちを与える御声を聞かせ、私の目からうろこを取り去り、これまで以上にその栄光を見せていただきたい。

 

私は帰るまでに、主によって心を安息の光景に浴させ、御父の御前に連れて行っていただき、あの羊飼いたちのように、『自分の見聞きしたことによって、神をあがめ、賛美しながら』[ルカ2:20]帰らせていただきたい」と。

 

天的な勤めを行なえば行なうほど、魂は天的になる。神への賛美は、天使と天にいる聖徒らの勤めであり、また私たちの永遠の勤めとなるべきものである、、自分の祈りの中から、神への賛美を閉め出すことによって、いかに私たちが自分に害を与えているか、私たちは全く知っていない。

 

そうでなくとも私たちは、罪の告白や願い事にはすこぶる言葉数が多いくせに、賛美にはほとんど余地を与えないのが普通なのである。これがいかに自分に害を与えていることか。

 

読者よ、どうか心に留めてほしい。あなたの務めの中で賛美にもっと大きな場所を占めさせるがいい。罪の告白や願い事の種ばかりでなく、賛美をふくらませるための種をも常に用意しているがいい。

 

そのためには、あなた自身の欠けや足りなさに劣らず、神のいと高きといつくしみとを学ぶことである。犯した罪に劣らず、受けたあわれみと約束されているあわれみについて学ぶことである。

 

「賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。感謝のいけにえをささげる人は、神をあがめよう。主をほめたたえよ。主はまことにいつくしみ深い。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。われらは、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげよう」*[詩33:1; 50:23; 106:1; 147:1; ヘブ13:15]。

 

この天の勤めにあれほど携わったダビデは、天の光に最も輝く魂を持っていたではないか。時に私たちは、モーセの歌、ダビデの詩篇を読むだけで奮い立たせられるではないか。もしも私たちが、自分自身この勤めに習熟し、しばしば励むならば、どれほど燃やされ、奮い立たせられることであろう!

 

キリストの弟子として

 

そして神ご自身、しもべたちが困難によって試みられ、取り扱われるのをお許しになられる。

 

主は私たちがただ静かに座っていて報酬を得るようには意図しておられず、戦うことなくして勝利の栄冠を、あるいは敵や対抗勢力なしの戦いを意図してはおられない。

 

罪のなかったアダムは、誘惑によって試みられるまで、自身の信仰の状態や報いに際しては不適切であった。

 

それゆえ、殉教者たちはもっとも栄光ある冠を受けるにふさわしいのである。なぜなら、彼らは最も熾烈な試練を通ってきたからだ。ならば、私たちは神のなさる方法に対しておこがましくもつぶやいてよいものだろうか。

 

私たちを誘惑し、試みる自由を得たサタンは、私たちが航海に出るや、ここぞとばかりに、嵐や大波のうねりを起こすのだ。そうすると大抵、若い初信者たちは怖気づき、「生きて停泊港に辿り着くことは決してないだろう」と悲観してしまう。

 

それだけではない。サタンはあなたが以前に犯した罪の数々をクローズアップして見せ、「こういった罪は決して赦されない」とあなたを説得してくるだろう。

 

また、あなたの情欲や堕落のすさまじさを見せつけ、「どんなにしたってお前は、こういったものを克服することはできない」―そう信じ込ませようとするだろう。またサタンはあなたが今後通るかもしれない反対や苦しみの大きさを見せ、「お前には決して耐えられまい」と言ってくるだろう。

 

サタンはあらゆる手段を用いて、あなたに貧困、喪失、試練の数々、傷、悩み、暴虐、親しい知人の不人情などを味わわせ、神のことを悪しざまに言わせようと挑んでくるだろう。

 

さらにサタンはできることなら、あなた自身の家族をしてあなたの敵となさしめるよう働きかけてくるかもしれない。サタンはあなた自身の父や母、夫や妻、兄や姉、子どもたちをあなたに敵対させ、あなたをキリストから引き離そうと迫害を加えてくるかもしれない。

 

それゆえ、キリストは私たちにこう言われる。

ーーもし私たちがこういった全てを憎まないなら、つまりそれらを手放すことができないばかりか、彼らが私たちを主から引き離そうとしている時に(あたかも自分の忌み嫌う物を取り扱うごとく)断固として彼らに対することができないのなら、私たちは主の弟子となることはできないのだと。

 

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子となることはできません。」(ルカ14:26)

 

もし、あなたがすでに悪魔に対し宣戦布告し、キリストの兵士として、どんな代価を払うことになっても救われようと決意したのなら、悪魔からのもっとも熾烈な攻撃があることを予期していなさい。へブル11章を参照のこと。

 

しかし、以下に挙げることを鑑みるなら――たといこの世と地獄があなたを非常な苦しみに遭わせようとも――失意するには全く及ばないことに気づくだろう。

 

そう、神があなたの側についておられるのだ。あなたの敵はことごとく主の御手の中にあり、主は一瞬のうちにこれらを叱責することもできれば、滅ぼすこともおできになる。おお、塵や悪魔の息や憤りが、全能の主に対して何をしえよう?

 

「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。」(このローマ8章をしばしば読みなさい。)

 

あなたが神と契約を結んだ日、あなたは最も堅固な岩であり要塞に入ったのだ。そして防御された城に居を構え、地と地獄のありとあらゆる敵対勢力に対し挑んでいるのである。

 

もし神があなたを救うことができないのなら、それは神ではない。そして仮に主があなたを救わないのだとしたら、主はご自身の契約を破棄しなければならない。実に、主はあなたを救おうと決意しておられるのだ。――ただし、それは苦難や迫害「から」の救いを意味するのではなく、主は、その「ただ中にあって」、そしてそれに「よって」私たちを救おうとしておられるのである。

 

そして、こういった様々な苦しみの中で「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となる」(ローマ8:37)。

 

つまり、キリストゆえの苦しみの中でこれらを忍耐によって克服することは、武装した軍隊によって我々の迫害者を制覇するよりも、はるかに望ましく、すぐれているのである。

 

おお神にあって、高らかに勝利を歌っている聖徒たちのことを考えてみなさい。

 

「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。」(詩編46:1,2)

 

たとえあなたの「敵は多く」「一日中、彼らは私のことばを痛めつけ」「彼らの思い計ることはみな、私にわざわいを加えること」(詩編56:5)であっても、あなたは次のように言うのである。

 

「神にあって、私はみことばをほめたたえます。主にあって、私はみことばをほめたたえます。私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう。」(詩編56:10,11)

 

キリストの次の御言葉を思い出しなさい。

 

「また、体を殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体もゲヘナで滅ぼすことのできる者を恐れよ」(マタイ10:28)。

 

もし全世界があなたを迫害する者たちの側についているのなら、あなたはやはり恐れるかもしれない。しかし神があなたの側についているというこの事実に比べるなら、それらは無限に卑小なことなのである。

 

Practical works of Richard Baxter, Chapter 2, "Directions to Weak Christians for Their Establishment and Growth”(私訳)

 

個人的信仰復興の必要性

 

他の人がどう思っているのかは分からないが、自分自身に限って言えば、私はおのれの愚かさを恥じている。

 

そして自分自身および他人の魂に関し、それらを主の大いなる日を前にしたものとして真剣に取り扱っているのかと自問せざるを得ないのだ。というのも、その他の事にはやたらと気を取られる一方、こういった驚くべき肝心なことが自分の心と思いを完全に捕えていないからだ。

 

私はこのような事柄をいとも軽々しく冷淡に説教できる自分に驚いている。そして人を罪の中に放置したままにして平気でいられる自分に。

 

なぜ自分は彼らの所に行って、嘆願しないのだろう。そしてーー彼らがそれを受取ろうが否が、そしてその事によってどんな苦痛や困難が私の上に降りかかってこようともーー主のゆえに、彼らに悔い改めを求めないのだろう。

 

ーーーーー

 

良心の呵責を覚えることなしに説教壇から降りなかったことはほとんどないと言っていい。ああ私には真剣さも、熱心さも欠けていたと。

 

心に責めを感じるのは、私の説教が言葉の綾や優美さに欠けていたとかそういうことよりはむしろ、「なぜ自分は人の生死にかかわる事をあのような心で話すことができたのか?」という一事なのだ。

 

いったいお前はどうして天国と地獄をあのように軽率でぼんやりした態度で話すことができたのか。お前は自分の言っていることを果たして本当に信じているのか。お前は心底真剣なのか、それとも半分冗談がかっているのか。

 

お前は人に罪の恐ろしさを説いている。罪より来る悲惨が彼らの上にも前にも待ち受けているのを知っている。それなのにお前の心は震えていない。

 

そんな彼らの魂のためにお前はむせび泣くべきではないだろうか。涙で言葉が続かなくなるのが当然ではないだろうか。そして涙のうちに彼らの悪事を示し、生と死の現実を目の前に、彼らに悔い改めを嘆願するべきではないだろうか。

 

ーーーーー

 

ああ私は自分の鈍く軽率な心、そして緩慢でむだの多い生き方を恥じている。ああ主はご存じです。私は自分がこれまで話してきたこと、および私を遣わしてくださったお方のことを思う時、恥じずにはいられない。

 

人の永遠の救い、そして永遠の滅びがそこに深く関与しているという現実を前に、私は震える。神の真理および人の魂を軽んじた者として神は私を裁かれるのではないかと!そして自分としては最高の出来の説教であっても、依然として彼らの血の責めを私は負っているのではないかと!

 

私は思う。我々はこれほどの重大事を、涙なしに、もしくは最大の熱心さを持つことなしには、ただの一言も説くべきではないと。ああこれらの事は轟(とどろき)の如く私の耳に鳴り響いている。それなのにぼんやりとした私の魂には一向に目覚める気配がない。おお無感覚で、かたくなな心のなんと嘆かわしいことよ!

 

おお主よ、私たちの内に巣食っている不信と無情さというこの疫病から我々を救いたまえ。そうでなければ、我々はいかにして他人をそこから救出するための器として神に用いられることなどできよう。

 

おお主よ、汝が我々を用いて他の魂の上になそうとしておられることを、われわれ自身の上になしたまえ。

 

Richard Baxter, The Need of Personal Revival(私訳)