巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ソロ・スクリプトゥーラ、ソラ・スクリプトゥーラ、そして解釈的権威の問題(by ブライアン・クロス&ニール・ジュディッシュ)【その1】

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出典

 

目次

 

Bryan Cross & Neal Judisch, Solo Scriptura, Sola Scriptura, and the Question of Interpretive Authority(拙訳) 

 

執筆者紹介

 

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ブライアン・クロス(Bryan Cross)。マウント・マースィー大学宗教哲学部哲学科助教授。ミシガン大学(B.S.)、カベナント神学校(M.Div.)、セイント・ルイス大学(Ph.D.)*1

 

Neal Judisch

ニール・ジュディッシュ(Neal Judisch)。オクラホマ大学哲学部助教授。形而上学、宗教哲学。テキサス大学(Ph.D.)*2

 

はじめに

 

キース・マティソンによると、ここ150年余りに渡り、福音主義はソラ・スクリプトゥーラ(「聖書のみ」)をソロ・スクリプトゥラに置き換えてきたとされています。

 

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キース・マティソン(Keith A. Mathison;1967~) 。*3

 

前者のソラ・スクリプトゥーラというのが、「聖書が唯一の誤りなき教会権威である」という観念であるのに対し、後者のソロ・スクリプトゥーラは「聖書が唯一の教会権威である」という観念です。そして後者から導き出される直接的含意は何かというと、各人がそれぞれ自分自身の最終的解釈権威であるということです。

 

マティソンによると、ソロ・スクリプトゥーラは、非聖書的な立場です。それゆえに彼は、「ソラ・スクリプトゥーラの支持者は、『聖書は唯一の誤りなき権威である』と主張はしても、個々人のクリスチャンが聖書の真理に関する最終的決定者(権威者)であるとするいかなる立場に対しても、これを断固として斥けなければならない」と述べています。

 

本稿において私たちは①最終的な解釈権威の所持者という点においてソラ・スクリプトゥーラとソロ・スクリプトゥーラの間には原則的相違はなく、また、②(両者が共に人々を向かわしめるところの)有害なる結末を避ける唯一の道は使徒継承(apostolic succession)に立ち返ることであることを論じようと思います。

 

目次

第1章.

第2章.ソロ・スクリプトゥーラの説明とその問題点ーーマティソンによる概説

第3章.ソラ・スクリプトゥラに関するマティソンの説明およびそれがいかなる点でソロ・スクリプトゥーラと違うのか

第4章.なぜソラ・スクリプトゥーラとソロ・スクリプトゥーラの間には原則的相違がないのかについて

---A.直接的そして間接的な最終的解釈権威

---B.ソラ・スクリプトゥーラの立場に内在する矛盾

---C.派生的権威という誤想

第5章.反論とそれに対する応答

---A.君だってそうじゃないか(Tu Quoque):「カトリックの立場はソロ・スクリプトゥーラを回避していない。」

---B.ソラ・エクレシア:教会は自律的であり、それ自身に対する律法であり、説明責任がない。

第6章.関連事項

 

第1章.序

 

ソラ・スクリプトゥーラ(「聖書のみ」)は、500年余りに渡ってカトリックとプロテスタントの間の亀裂の底辺にある最も根本的不同意点だとみなされています。

 

カトリック百科事典は、ソラ・スクリプトゥーラを、ソラ・フィデ(信仰のみ)、万人祭司説と並ぶ、プロテスタンティズムの三大基本原理の一つと捉えています。また19世紀の教会史家であるフィリップ・シャフは、多くのプロテスタント思想家たちと同様、ソラ・スクリプトゥーラをプロテスタント神学における「形式原理」だと描写しています。*4 

 

この教理を「危険思想」と見る人もあれば、活力的かつ解放をもたらすものであると見る人もいます*5 。しかし、ソラ・スクリプトゥーラが、歴史的プロテスタント神学の重要要素であり、且つ、これは16世紀の分裂の正当化および今日も存在するこの分裂の永続化にとり非常に重要です。

 

カトリックの批評家たちはソラ・スクリプトゥーラというのは実質上、教会権威の否定であり、それゆえに、ソラ・スクリプトゥーラは必然的に断片化を招き、その中にあって、各人が自分の目に正しいと見える聖書解釈を行なっている、と論じています。

 

「このようにして」と批評家たちは言います。「ソラ・スクリプトゥーラは、カトリック教会からのプロテスタント教徒の分離に対する責任を負っているだけでなく、プロテスタント教徒の間に存在する天文学的な数の分裂の責めも大いに負っています。」

 

しかし比較的最近発行された本があり、この本はカトリック批評家たちの正統なる懸念を認め、それに順応しながら、それと同時に、聖書と聖伝の関係に関するカトリック側の展望を拒むというスタンスを採ることにより、これらの批判に対するプロテスタント側の回答を提供しています。著名は「ソラ・スクリプトゥーラの像(かたち)The Shape of Sola Scriptura」であり、著者は、テーブル・トークの共同編集者であるキース・A・マティソンです。

 

 

マティソンは、著書の中で、(彼が初期告白主義的プロテスタントの信条であると論じているところの)ソラ・スクリプトゥーラと(彼が初期告白主義的プロテスタントの信条および教えからの、ここ150年余りに渡る逸脱と信じているところの)ソロ・スクリプトゥーラを区別しています。

 

マティソンの著書の影響で、プロテスタントの多くは最近、カトリック側からのソラ・スクリプトゥーラ批判に対し、「それらはソロ・スクリプトゥーラに対する批判であって、ソラ・スクリプトゥーラに対するものではない」と応答するようになってきています。

 

換言しますと、カトリックのソラ・スクリプトゥーラ批判に対する一般的プロテスタント応答というのが、「ソラ・スクリプトゥーラに対してのカトリック側からの批判は架空のものに対する批判に過ぎず、実際には彼らはソラではなく、ソロ・スクリプトゥーラを批判しているのだ」という具合になってきているということです。

 

マティソンがソロとソラの間に線を引こうとしている、その区別の重要性というものを私たちは理解します。ですが、これから論じていくように、「究極的解釈権威」という核心部に関して言いますと、ソラとソロ・スクリプトゥーラの間には原則に則った相違点(principled difference)はありません。

 

ソロ・スクリプトゥーラは勿論言うまでもありませんが、ソラ・スクリプトゥーラにしてもまた、個々のクリスチャンが「正しい」聖書解釈の究極的調停者であるという事実が付随してきます。これが含意するのはつまり、マティソンが「ソロ・スクリプトゥーラ」と呼んでいるものは、実際には、時の経過に伴い、ソラ・スクリプトゥーラの真の性質がより露わにされた、一種の‟蒸留された顕現体”であるということです。

 

さらに、ソロ/ソラの立場(およびそこから誘導される非聖書的諸結果)を回避する唯一の方法は、使徒継承を介する道であるということをこれから明示していきたいと思います。

 

ーつづくー

*1: クロス氏の論考リストはココ

*2:ジュディッシュ氏の論考リストはココ

*3:キース・マティソン(Keith A. Mathison;1967~):フロリダ州にあるリフォメーション聖書大学教授(組織神学)。ホワイトフィールド神学校(Ph.D.)、R・C・スプロール(編集主幹)、J・I・パッカー等と共に、『リフォメーション・スタディー・バイブル』の共同編集者を務める。主著:Dispensationalism: Rightly Dividing the People of God? (1995), Postmillennialism: An Eschatology of Hope (1999), The Shape of Sola Scriptura (2001), Given for You: Reclaiming Calvin's Doctrine of the Lord's Supper (2002), A Reformed Approach to Science and Scripture (2013), From Age to Age: The Unfolding of Biblical Eschatology (2014).

*4:See the Catholic Encyclopedia entry ‘Protestantism.’ See also Philip Schaff, The Principle of Protestantism (Wipf & Stock, 2004).

*5:Cf. Alister McGrath, Christianity’s Dangerous Idea (HarperOne, 2007).