あぁ~、また訂正しなきゃ・・・(出典)
①
自見解(2018年1月21日付)
「しかし私の目に、著者の見解は、(罪性および有限性による)人間認識の限界に対する考察の詰めが今ひとつ甘いように映っています。そしてもしも認識論をもう少し詰めることができていたなら、彼は「『聖書のみ』というプロテスタンティズムの土台にこそもしかしたら根本的誤りがあるのではないか?」という懐疑に陥ることからあるいは守られていたかもしれません。」
上記の言明に関して(2018年8月20日付)
私は自分の書いた上記のパラグラフの内容を撤回します。
②
自見解(2018年4月13日付)
そうすると、次のような問いが出されるかもしれません。「20世紀、『聖書のみ』をスローガンにしていた人々の大半は結局、誤った教理体系を受け入れ、しかもそれが誤りであることを見抜けなかった。それはなぜだろう?」
可能性1)そういった人々の多くは、何らかの形で「聖書のみ」という教理を誤解していた。
可能性2)「聖書のみ」というプロテスタンティズムの教理自体に何か根本的問題がある。
しかし2)は却下され得るかもしれません。(「聖書のみ」の教理を堅持しつつ、尚かつ古典的/改訂ディスペンセーション主義を誤解釈として初めから拒絶していた福音主義クリスチャンも20世紀の時点で存在していたからです。)
上記の言明に関して(2018年8月20日付)
上の記事の中で言及しましたように、ディスペンセーション主義教理研究をしていた2017年-2018年春の時点では、この神学体系の誤りと、「聖書のみ」の教理は未だ二つ別々のものとして自分の中に位置していました。それがゆえに、「可能性2は却下され得るかもしれない」と書きました。しかしながら今、私はこの部分をも撤回しなければならない必要性を感じています。
ですから、「『聖書のみ』というプロテスタント教理自体は正しいけれども、ディスペンセーション主義を奉じる人々が何らかの形でこの教理を誤解していた」(可能性1)というよりはむしろ、「『聖書のみ』というプロテスタンティズムの教理自体に何か根本的問題があるからこそ、この土壌から、ディスペンセーション主義を含めた誤体系・誤解釈が次々と生み出されてくるのではないだろうか」という可能性2の方に私の見解は徐々に変更されつつあると思います。
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今後も、修正・撤回の必要性を見い出した際にはその都度、お知らせいたします。消しても消しても次々にぼろが出てきて本当に泣きたい気持ちです。主よ、憐んでください。