巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

神へのあこがれ(A・W・トーザーの信仰詩およびエッセー集)

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出典

 

目次

 

信仰詩集

 

わが魂は汝を仰がんと切望し、ちりの中から汝に向かって叫んでいます

 

言語に絶する荘厳さ。

わが魂は 汝を仰がんと切望し

ちりの中から 汝に向かって叫んでいます。

 

しかし汝の御名を尋ね求めようとするも、

それは秘められています。

汝は光の内に隠れておいでになり、

そこに近づくことのできる人間は誰ひとりとしていません。

 

汝のご本質は、人間の思考や言語をもっては

把握することのできないものです。

なぜなら、汝の栄光は、口にするのをはばかられるほど

あまりに聖いからです。

 

にもかかわらず、私は、古の預言者や詩編記者、

使徒や聖徒たちに励まされこの自分も、

いくらかは汝を知ることができるという信仰をいただきました。

 

ですから、私は祈ります。

汝ご自身に関わる何であれ、

それらの真理を啓示することを汝が良しとみなされるのなら、

私がそれらを、紅玉や良質の金よりも尊い宝として

探求していくことができますよう助けてください。

 

なぜなら、薄明りの星々がもはや姿を消し、

上天がくずれ去り、

ただ汝だけがとどまられる その時、

私は汝と共に生きるようになるからです。

 

アーメン。

 

A.W.Tozer(私訳)

 

主よ、汝の御声に耳を傾けることを教えてください

 

主よ、汝の御声に耳を傾けることを教えてください。

この世はかまびすしく

私の耳は、絶えまなく襲ってくる 何千という騒音によって

疲れ果てています。

 

私に幼な子サムエルの霊をお与えください。

「お話しください。しもべは聞いております」と

汝に申しあげた彼の霊を。

 

どうぞ私の心の中でお話しください。

汝の御声のひびきに慣れ親しみたいのです。

 

地上にある もろもろの音が消え去り、

私に語りかける汝の御声の調べだけが

ただひとつの音となるほどに。

 

アーメン。

 

A.W.Tozer, The Pursuit of Godより(私訳)

 

神を切に慕い求めて

 

おお神よ、私は汝のすばらしさを味わってきました。

それは私を満足させると共に、

汝に対するさらなる飢え渇きへと私を誘います。

 

そうです、さらなる恵みの必要性を私は切実に感じています。

私のうちには汝を求める願いが欠如しており、

それを恥ずかしく思っています。

 

おお神、三位一体の神よ。汝を求めることをしたいのです。

切望感で満たされたい。

そしてさらに飢え渇きを覚えられたらどんなにいいかと願っています。

 

どうか汝の栄光を見せてください。そうすれば、私は真に汝を知ることができるでしょう。

 

憐れみの中で、私の内に新しい愛の業を始めてください。

そして私の魂に語りかけてください。「わが愛しい者、さあ立って、出ておいで」と。

 

そうして、長い長い間さまよっていた

この靄(もや)の立ち込める低地を起ちて、

汝の元へと飛翔していくことができますよう、恵みをお与えください。

 

イエスの御名によって。アーメン。

 

 

A.W.Tozer, The Pursuit of Godより(私訳)

 

主よ、私たちのジレンマはなんと大きいことでしょう!

 

主よ 私たちのジレンマはなんと大きいことでしょう!

あなたの臨在の中にあっては 

沈黙がもっともふさわしいのです。

 

でも愛が心を燃え立たせるので、

私たちは語らずにはいられなくなります。

私たちが口をつぐむなら、石が叫び出すでしょう。

 

でも、、、そうであるからといって、

私たちは何を語ることができるというのでしょう。

私たち自身は知ることができないーー、

そのことを教えてください。

 

なぜなら、神に関する事がらは 

人の知るところにあらず、

ただ唯一、神の御霊だけがこれを知っておられるからです。

 

理性で量ることができないとき

どうか信仰が私たちを支えますように。

 

イエスの御名によって。アーメン。

 

A.W. Tozer(私訳)

 

ああ、神の知恵と知識の富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。ローマ11:33

神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。Ⅰコリント2:11b

 

エッセー集

 

『神へのあこがれ(The Pursuit of God)』第1章 神を切に追い求めて

 

A.W. Tozer, The Pursuit of God, Chapter 1(抄訳)

 

 

第1章 神を切に追い求めて(Following Hard after God)

 

わたしの魂はあなたにすがりつき、あなたの右の手はわたしをささえられる。詩編63:8 

My soul followeth hard after thee: thy right hand upholdeth me. Psalm 63:8

 

キリスト教神学は、「先行する恵み」という教理を奉じています。人が神を求め得る前に、神の方でまずこの人間を追い求めていたという教えです。

 

罪深い人間が正しく神のことを認識する以前に、この人の内で、なにがしかの「照らし」の業がなされていなければならない。それは不完全ではあるかもしれないけれど、いずれにしてもまことの働きです。そしてそれに引き続いて、あらゆる人間側からの求め、渇望、そして祈りが起こされるというのです。

 

私たちが神を求めるのは、神がまず私たちのうちに、ご自身を求めるよう強い願いを起こさせてくださるからです。「わたしを遣わした父が引き寄せられない限り、誰もわたしのところに来ることはできません」と主は仰せられました。

 

そしてまさにこの「先行する神の引き寄せ」ゆえに、主は、人が神を追い求め、神の元に行くというその行為についての功績をことごとく取り去ってしまわれます。

 

神を求める強い願望は、神より生ずるものですが、その願いを完遂していく過程においては、そこに我々人間の、神を追い求める行為があるわけです。そして私たちが神を追い求める間中ずっと、私たちはすでに主の御手の中に入れられているのです。「あなたの右の手はわたしをささえられる。」

 

そしてこの神聖な「(神よりの)支え」と「(人間の)追い求め」の間には、何ら矛盾がありません。全ては神より出ており、ヴォン・ヒューゲルの言うように、神は常に「先行する方(previous)」だからです。しかし実際には(つまり、神の先行する働きが、人間の現在の応答と交わる場において、という意味で)人は神を追い求めなければならないのです。

 

私たちの側として考えてみると、もしこの、神の秘かな引き寄せというものが、結果的に聖なる方を経験するという事を生じさせるのだとしたら、そこには肯定的な「相互性(reciprocation)」があるわけです。こういった事をあたたかく私的な感情を込め、詩編42篇は次のように記しています。

 

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」

 

これは「淵が淵を呼び起こす」ものであり、神を切に求めている心にはこれが理解できます。信仰義認の教え(これはれっきとした聖書的真理であり、不毛な律法主義やむなしい自己救済からの喜ばしい救いです)は、残念なことに現在、悪い者たちの手中に陥り、多くの人はこれを「神を知る知識を求めてはいけないという意味なのだ」とさえ解釈してしまっている有様です。

 

その結果、回心の行程は、機械的なもの、そして命のないものへと変貌していきました。信仰は今や、倫理生活なしに、そして古いアダムのエゴに対する羞恥心なしに、表明されるようになりました。

 

キリストはーー受け入れる側の魂の中に主に対する特別な愛を生じさせることなしにーー「受け入れられて」います。ある人が「救われた」と言っても、その人の内には神に対する飢え渇きがありません。いや、むしろ、こういった人々は、「そのままの状態で満足しなさい」「(そのわずかなもので)満ち足りることが大切」とはっきり教え込まれているのです。

 

現代の科学者が、神の創造された世界の神秘のただ中に置かれていながらも、神を見失ってしまったのならーー、私たちクリスチャンは、神の御言葉という神秘のただ中に置かれていながらも神を見失いつつある、という切迫した危険にあると言えましょう。

 

神は人格をもったペルソナであり、それ故、人間の場合と同様、(関係において)育み育まれる存在だということを、私たちはほとんど忘れ去ってしまっています。「他の人格を知ることができる」という属性は、元々人格に内在するものですが、一つの人格が他の人格を完全に知るようになるのは、ただ一回の出会いと交わりによってはなされ得ません。

 

それはむしろ、長期的で、かつ愛情に満ちた精神的交流を通し、互いの内に内在する可能性がくまなく見つけ出されていくものなのです。社会的な人間関係はすべて、人格の人格に対する応答によって成り立っています。そしてそれは、もっとも軽い、うわべだけの接触というレベルから、人間の魂がなしうる最も完全にして親密な交わりというレベルまで実にさまざまです。

 

宗教というのは、それが純粋なものである限り、その本質において、「創造された人格の、創造する御人格(=神)に対する応答」ということができます。

 

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。(ヨハネ17:3)

 

神はペルソナであり、主はその力強いご性質の深みにおいて、人間と同じように、考え、意思し、楽しみ、感じ、愛し、願い、苦しまれます。そしてご自身を私たちに知らしめる過程において、主は私たちになじみのある人格の型として存在されます。そして、私たちの思考、意志、感情といった媒介物を通して意思疎通を図ってくださいます。

 

神と、贖われた人間の魂との間に存在する、絶え間ない、流れるような愛と精神の交わりは、新約聖書の宗教の、心うち震えるような真髄です。

 

神と魂との間におけるこの交わりは、自覚することのできる個人的認識(personal awareness)の下に、私たちに知られうるものです。それは個人的です。つまりそれは、信者たちの群れ(the body of believers)を通してではなく、個々人に、そしてからだを構成する個々人を通して知られうるものです。

 

そしてまたこれは自覚(意識)することのできるものです。つまり、それは意識の域を下回るものではなく、魂の知らないところで働くものでもありません。(例えば、幼児洗礼のことをそのように考えている人がいます。)しかし真実はそうではなく、それは私たちの意識できる領域内に来るものであり、そこで人は、経験による諸事実を知るのと同様、それを「知る」ことができるのです。

 

神が大規模だとすると、あなたや私は(罪を除き)その小規模版です。神のかたちに造られた私たちは、自らのうちに主を知ることのできる能力を備えています。しかし罪ゆえに、私たちにはその力がありません。

 

新生により御霊が私たちにいのちを吹き込まれるや、私たちの全存在が神に対する親しさを感じ、喜びに満ちたその認識の中で、神を歓喜するようになります。それがいわゆる天的な誕生であり、それなしには私たちは神の国を見ることができません。

 

しかしそれは終焉ではなく、始まりにすぎないのです。というのも、いよいよここから、栄光ある「神への求め」、神の無限の豊かさを求める心の幸いな探求が始まるからです。

 

それを持って始まると私は言いましたが、未だそれを極めたことのある人はいません。なぜなら、深遠にして神秘に満ちた三位一体の神の深さの中には制限も終わりもないからです。

 

果てしのない海原 誰が汝を測ることなどできようか

汝の永遠は 汝を取り囲む

おお 偉大な神よ!

  

神を見い出したにも関わらず、依然として神を追い求め続ける。これは魂のなす愛の逆説であり、いとも容易に満足し切ってしまう宗教家にはあざ笑われるかもしれませんが、火のような熱意を持って神を慕い求める魂にとっては、自らの幸いな経験において正当化されるものです。

 

聖ベルナールはこの神聖な逆説を次のような四行詩で言い表しましたが、これは神を慕ってやまない魂にとっては瞬時に理解され得るところのものでしょう。

 

われらは汝を味わい喜んでいます。おお 生けるパンよ。

そして尚も汝を味わおうと切望しています。

われらは汝を飲んでいます。おお すべての源泉よ。

そしてわれらが魂を満たそうと、今なお汝を渇き求めているのです。

 

過去に生きた敬虔な男女をよく見てください。彼らがどんなに神に対し燃えるような情熱を持っていたかに気づくはずです。彼らは主を想って嘆きました。昼と言わず夜と言わず、そして時期が良かろうが悪かろうが、とにかく彼らは主に祈り、祈りの中で主と争い、そして主を探し求めました。そうした後についに主を探しだした彼らの甘美な喜びは言い尽くせぬものでした。

 

事実モーセは、「主をさらに知りたい」という主張をもって、自分が「神を知っている」という事実を示したのです。

 

「今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。」

 

そしてここから起ちて彼はさらに大胆な嘆願をしました。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」

 

神はモーセのこうした情熱を率直に喜ばれ、翌日にはモーセをシナイ山に呼び、そこで荘厳な一連の出来事を通し、彼の前にご自身の栄光が通り過ぎるのをお許しになりました。

 

ダビデの人生は霊的渇望のほとばしりであったと言っても過言ではなく、彼の書いた詩篇には神を求める者の叫びと、神を見い出した者の歓喜の叫びが鳴り響いています。

 

パウロは、自分の人生を突き動かしているものは、キリストを求める燃える情熱に他ならないと告白しました。「キリストを知り That I may know Him」というのが彼の心の目的であり、そのためにパウロは全てを犠牲にしたのです。

 

「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためである。」

 

讃美歌は神を慕い求める者にかぐわしく、歌う者は賛美の中で神を求めつつも、自分が神をすでに見いだしたことをも同時に知っているのです。

 

「♪主の足跡を見いだし、私をそれを追い求める。」これは、ほんの一世代前まで先人によって歌われていた賛美の一節ですが、今ではどの教会でもほとんど歌われていません。

 

この暗い時代に生きる私たちが、「神への求め」という営みを自分たちの教師たちに任せっきりにしているとは、何という悲劇でしょう。今、全てはただキリストを「受け入れる」という最初の行為のみに焦点が当てられ(ちなみに、キリストを「受け入れる」というこの表現は聖書のどこにも存在しません。)、その後、魂がさらなる神の啓示を求めることは何ら期待されていないーー残念ながら、これが目下の現状です。

 

「一度主を見い出したのなら、もはや主を求める必要はない」という誤った論理が私たちの間でまかり通っています。そしてこういった論理は正統派信仰の「決定版」としてのお墨付きをもらい、その結果、聖書信仰のクリスチャンは、これ以外の信じ方をしてはならないのだ、と思い込んでしまっています。

 

それゆえ、このテーマに関し、これまで礼拝し、追い求め、賛美してきた過去の教会の証しは、もろともにうち棄てられてきました。数多くの香り高い聖徒たちの「経験に基づく心の神学」は、ひとりよがりで独善的な聖書解釈による被害を被り、拒絶されています。

 

こうした聖書解釈は、もちろん、アウグスティヌスやラザフォード、ブレイナードといった聖徒にとっては奇妙なものに思えて仕方がないに違いありません。

 

しかしこういう陰気な状況のただ中にありながらも、そのような浅薄な論理に己を甘んじさせようとしない一握りの聖徒たちが存在しています。彼らは現行の議論が優勢であるのを認めながらも、その後、涙のうちに、ひと気のない場所を求めて一人退き、「おお神よ、私にあなたの栄光を見せてください」と祈ります。

 

そうです。彼らはこの神秘、つまり神ご自身を味わいたい、心で触れたい、内なる目で見たいと熱望しているのです。

 

『神へのあこがれ(The Pursuit Of God)』第6章 語りかける神の声

 

第6章 語りかける神の声(The Speaking Voice)

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。ヨハネ1:1
In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. John 1:1



キリスト教の真理については無知な、ごくごく普通の教養人が、上の聖句を遭遇したと仮定してみましょう。そうすると、おそらくこの人は次のように結論づけるだろうと思います。

 

「えー、つまり、ここでヨハネが言っているのは、『語り、そして自分の考えを他者に伝達しようとするのが神の性質』ということじゃありませんか?」と。

 

確かに、その人の指摘は正しいと言えます。ことばというのは、思想や考えが言い表されるための媒介物です。そして、この「ことば」(Word)という部分を永遠の御子に当てはめて考えるなら、私たちは次のような結論に導かれるでしょう。

 

つまり、自己表現というのは神性(Godhead)に本来備わっているものであり、神はとこしえにご自身のことを被造物にお語りになりたいと願っておられるのだと。

 

聖書全体もこの考えを後押ししています。神は今もお語りになっておられると。「神は語った」という過去形ではなく、「語っておられる(God is speaking)」という現在進行形なのです。神はそのご性質により、今も絶え間なく明瞭にお語りになっておられます。そうです、神はご自身の発せられるその御声で、この世界を満たしておられます。

 

私たちが考えなければならない大いなるリアリティーとはまさに、この方の世界に満ち満ちる「神の声」に他ならないのです。もっとも簡潔にして唯一満足のいく宇宙起源説とはこれです。「神は仰せられた。するとそのようになった。」

 

自然法則の因は、ご自身の被造物の中に内在する、生ける神の御声です。また全世界を存在するにいたらしめた神のこの言葉をもって、それをそのまま「聖書」と解釈することはできません。なぜなら、ここで私が言っている生ける神の御声とは、成文化もしくは印刷された言葉ではなく、あらゆる物の構造の中に語り込まれた「神のご意思の表現」だからです。

 

この神の言葉は、生き生きとした潜在性をもってこの世界を満たしている神の息です。神の声というのは自然界の中において最も強力なパワーであり、実に自然界における唯一の力なのです。なぜなら、あらゆるエネルギーというのは、力に満ちた御言葉が語られたゆえに、今ここに存在しているからです。

 

聖書は成文化された神の言葉です。そして、それが「書かれたもの」であるゆえ必然的に、聖書はインクや紙やなめし革等によって閉じ込められ、制限された状態にあります。

 

一方、神の御声というのは、主権者なる神が自由であるように、生きており自由です。「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」(ヨハネ6:63b)。

 

いのちは、語られている言葉のただ中にあります。聖書の中の神の言葉は、それが宇宙における神の言葉と調和しているゆえに、力を持ち得ています。それは「今まさにここに在る」御声であり、それが成文化された御言葉を全能のものにしています。そうでなければ、それは書物の扉の中に閉じ込められ、力なく横たわるしかなくなってしまうはずです。

 

私たちは、創造時に、物質と接触をもたれた神のことを考える際、あたかも神が大工のように、物を形作ったり、備え付けたり、建てたり、、という風に、それらを低く原始的な見方でとらえがちです。しかし聖書の見方はそうではありません。

 

「主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。」詩篇33:6
「まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。」詩篇33:9
「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り」 ヘブル11:3a

 

留意しなければならない点は、神がこういった箇所で言及しておられるのは、成文化された神の言葉ではなく、今もお語りになっている御声(His Speaking Voice)のことだという事です。

 

全世界を満たす主の御声は、次のことを意味しています。

・それは、聖書に先行し存在してきたものであり、
・創造の黎明以来、けっして沈黙することなく、今に至るまで宇宙の隅々まで鳴り響いている声である、ということです。

 

神のことばは生きていて、力があります。はじめに神は無に対して仰せられました。そうすると、それは(有形の)なにかになりました。
カオス(混沌)がそのことばを聞くと、それは秩序と化し、
暗闇がそれを聞くと、それは光となりました。

 

そして神は仰せられた(said)。するとそのようになった(it was so)。


原因と結果を言いあらわす、この双子のような対句は、創世記における、創造の記述の箇所全体に記されています。

 

「仰せられた(said)」は「そのようになった(so)」を説明しており、一方、「そのようになった(so)」は途切れずに今も続いている「現在」という時を表現する神の言明(said)なのです。

 

神はここに在られ、今も語っておられます。そして、この真理は、他のあらゆる聖書真理の背後に存在しています。そうです、これなしには、啓示というものは存在しえないのです。

 

はたして神は書物を記された後、それをほいと使者に託したまま何もされず、読む人が何の助けも得られないような状態に私たちを放置されたのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。

 

主は聖書に仰せられ、語られたことばの中に生きておられます。そして絶えず私たちにことばを語っておられ、その御言葉の力が時を超えて保たれるよう、取り計らっておられるのです。

 

神が土のかたまりに息を吹き込むと、それは人となりました。主は今も人に息を吹き込んでおられ、(やがてその営みがなくなると)人はまた土になります。

 

「立ち帰れ、人の子らよ」というのが、堕落時に主が仰せられたことばであり、それにより、神はすべての人に死を定められました。それに対し、どんな付け足しの言葉も必要とはされませんでした。誕生から墓場まで、人類の織りなすこういった一連の悲しい営みは、結局、神が最初に仰せられたこの言葉の充足性を証明しているものであります。

まことの光があった。それは世に来て、すべての人を照らすものである。ヨハネ1:9

 

この聖句については次の別訳もありますが(「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」)、いずれにしても、依然として真理がそこにあります。つまり、神のことばは、魂の中を照らす光としてすべての人の心に感化をもたらしているということです。

 

すべての人の心の内で、この光は輝き、神のことばは鳴り響き、そこから逃れ得るものはありません。もし神が実際に生きておられ、この世に存在しておられるのなら、必然的にそのようであるはずです。それに対しヨハネも然りと言っています。

 

聖書のことを一度も耳にしたことのない人であってさえも、依然としてこのことばは彼らの心に十分な明瞭性をもって語られており、それは、彼らの心から永久に弁解の言葉を取り除くためなのです。

 

彼らは、このようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。ローマ2:15

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。ローマ1:20

 

こういった普遍的神のみ声のことを、古代ヘブル人はしばし「知恵」と呼びならわしていました。彼らによれば、この「知恵」は、いたる所で鳴り響き、全地をくまなく巡りながら、人の子からの応答を待ち望んでいるというのです。箴言の八章は次のように始まっています。

 

知恵は呼ばわらないだろうか。英知はその声をあげないだろうか。箴言8:1


そしてさらに、箴言記者は知恵を、「丘の頂、道のかたわら、通り道の四つかどに立つ(8:2)」美しい女性になぞらえます。彼女はあらゆる町かどに立ち、誰も聞き逃すことのないよう、声を張り上げて言います。

 

人々よ、わたしはあなたがたに呼ばわり、声をあげて人の子らを呼ぶ。箴言8:4


そして彼女はわきまえのない者、愚かな者に対し、自分のことばに耳を傾けるよう嘆願しています。これは神の「知恵」が私たちに求めている霊的応答であり、彼女がいつもそれを切望しながらも、残念ながらほとんど得られることのない応答なのです。

 

私たちの永遠の福利は、実にこの「聞く力」にかかっているにもかかわらず、悲劇的なことに、私たちの耳は、むしろそういうものを受け付けず、遮断してしまっています。この普遍的「神の声」は、今に至るまで鳴り響いており、(たとい人が自らの抱いている恐れの源が一体何なのか理解していなかったとしても)それでもしばし、その声は、人の心に呵責の念を起こさせています。

 

人の心を覆いし生露の滴るがごとくーーこの「声」こそが、呵責に苦しむ良心の隠れた主因、そして(歴史が始まって以来、無数の人々によって求められてきた)不死に対する渇望ではないでしょうか。

 

私たちはこの事に直面することを恐れる必要はありません。語りかける神の声というのはれっきとした事実だからです。神が天から、主イエスにお語りになられた時、それを聞いた自己中心的な人間たちは、その「声」を自然的原因に帰して言いました。

 

「雷がなったのだ」(ヨハネ12:29)


神の声を説明するのに、自然法則に訴えるやり方というのは、近代科学の根源ともいうべきものです。生き息づく宇宙の中には、ある神秘的な「何者か」がおられます。そして、このお方はあまりに偉大かつ驚異的であり、人間理性の理解をはるかに超えているのです。

 

信仰者は、是が非でもこれらを「掌握してやろう」ともがいたりはせず、むしろ膝をかがめ、こう囁くのです。「おお神よ!」と。

 

この世に属する人間も跪きますが、それは神を礼拝するためではなく、そういったものの原因や諸現象を調べ、突き止め、発見すべく彼らは跪くのです。そうです、私たちは世俗時代のただ中に生きており、それゆえ、私たちの思考様式も、科学者のようであって、礼拝者のそれではない、というのが現状です。

 

私たちは驚異の念に打たれ神を崇めるよりはむしろ、それを「説明」しようとする傾向を強く持っています。そして「雷が鳴ったのだ」(ヨハネ12:29)と言いつつ、そのまま地上的な道を進んでいきます。

 

しかしそんな中でも依然として神の声は鳴り響き、今も私たちを探しておられます。世界の秩序および命が、このお方の「声」に依拠しているにもかかわらず、私たちは余りにも多忙すぎるためか、もしくは頑迷すぎるためか、その声に注意を向けようとしないのです。


しかし私たちの内誰もが、言葉では表現できないある種の経験をしているはずです。例えば、突然襲ってくる孤独感、宇宙の広大さを前にした畏敬の念、、もしくは、、次のような経験はありませんか。

 

あたかも別の太陽から放たれているようなまばゆい光を受け、その瞬間、自分がこの世に属さないよそ者であること、私たちの源は神よりくるものである事、、などを確かに知るのです。

 

その際に、私たちがそこで目にしたり、感じたり、耳にしたりするものは、自分たちがこれまで学校で教わってきたものとはまるで正反対の現象かもしれませんし、これまでの信念や考えともかなり異なる種類のものであるかもしれません。しかしこれらの現象に対する私たちの素朴な疑問は無理やりもみ消され、そうこうしているうちに、また雲が頭上を覆ってしまいます。

 

このような事を説明しようとするに当たり、私たちがぜひとも覚えておかなければならない事があります。それは、少なくとも次に挙げる二点、つまり、

・こういった経験は、この世界に存在しておられる神の臨在より来たものかもしれない。
・これは人間と意思疎通を図ろうとしておられる主のたゆみない努力と願いによるものであるかもしれない。

 

という事がもしかしたら可能性としてあり得るかもしれない、と私たちが受け入れようとしない限り、私たちは諸事実に対して公平な態度を取ることができないという事です。ですから、こういった仮説を、あまりに軽率に斥けるのは慎むようにしましょう。


次に述べるのはあくまで私個人の見解です。

 

この世界で人類が作り出してきたあらゆる良き物、美しい物は、全地に響き渡っている創造的な神の「声」に対する、人間側の、(罪で塞がれた)不完全な応答だということです。

 

美徳に関する高尚な理想に夢を抱いた倫理学者、神および不死についての思索にふけった宗教思想家、ありふれた物から純粋で永続する美を造り出そうとした詩人や芸術家たち、、、彼らのことを一体どう説明すればよいのでしょうか。

 

「どうせ、あの人たちは天才だったんですよ」と言うのではあまりにも短絡すぎます。それでは天才とは何なのでしょう。もしかしたら天才とは、語りかける御声にとりつかれたようになった人ーー漠然としか理解できていない目的をなんとか達成しようと、労し努力している人間のことを指すのかもしれません。

 

もちろん、こういった偉人の中には、神のことを見落としてきた人もいるでしょうし、あるいは神に敵対するような事を言ったり書いたりしてきた人もいるでしょう。しかしたといそのような事実があるにしても、依然としてこれまで私が述べてきた論点を崩すことはできません。

 

聖書の中に記されている贖罪の啓示は、救われるための信仰および神との平和を持つに当たって必要不可欠です。不死に対する漠然とした憧れが私たちを神との平安にして満たされた交わりへと導いていくのだとするなら、復活された救い主イエス・キリストへの信仰はその過程で不可欠なのです。


神の御声はやさしく親しみやすい声です。(人がその御声に何が何でも抵抗しようと決意しているのでない限り)、御声を聞くのに恐れる必要はまったくありません。イエスの血潮は人類を覆っているだけでなく、あらゆる被造物をも覆っているのです。

その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1:20)


こうして私たちはやさしく親しみやすい天国について説くことができます。天も地も主の善きみこころで満ちています。キリストの贖いの全き血潮が、これを永遠に確かなものとしているのです。

 

誰であれ神の御声に耳を傾ける者は、「語りかける天国」の体験するでしょう。しかし悲しいかな、今日、「静まって神の声を聴く」というのは、教会の中で人気のない教えとなっています。

 

むしろ私たちはその対極にいるといっても過言ではないと思います。キリスト教会は、騒がしさ、規模、活動、おおげさなパフォーマンスといったものを神の前に良しとする、恐ろしい異端の教えを受け入れてしまっています。しかし失望しないでください。たいへんな苦しみと葛藤のさなかにいる人々に対し、神はこう仰せられます。

 

「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10a)。

 

そして今日も主はそう言われます。あたかも「私たちの力や安定は、騒がしさの中にではなく、静寂の中にこそあるのだ」とおっしゃっているかのように。

 

静まって神を待ち望むことは大切です。

 

一番望ましいのは、一人になれる時間帯を選び、できれば目の前に聖書を広げるのがよいでしょう。そうして後、私たちは神に近づき、主が私たちの心に語ってくださり始めるのです。おそらく普通の方なら、この過程は次のように進んでいくでしょう。


1)あたかも神の臨在が庭の中を歩いておられるかのような、なにがしかの「音」が聞こえてきます。

2)次には「声」が聞こえてきます。(1)の段階によりも神の御声はもっと理解しやすいものになっていますが、依然としてまだ明瞭ではありません。

3)しかしついに、御霊が聖書に啓示の光を当て始めるという幸いな瞬間がやってきます。

 

最初は音だけでした。もしくはせいぜい不明瞭な声でしかありませんでした。しかし今やそれは理解できる言葉となり、大好きな友達の言葉のごとく、あたたかく、親密ではっきりした言葉として聞こえてくるのです。

 

そうした後、命と光が来、ついに救い主であり、主であり、全ての全てであるイエス・キリストを見、主の内に安らぎ、主を包み込み受け入れることが可能とされていきます。

 

神が、ご自身の宇宙の中で「今も語っておられる存在である」ということに確信が持てない限り、聖書は私たちにとって決して生ける本とはならないでしょう。

 

大半の人にとって、「死せる機械的な世界」から「ドグマチックな聖書」への移行など、あまりにしんどく、受け入れがたいものです。彼らは頭では知っています。聖書は神の言葉である。だからそう信じなくてはいけない。でも実際問題、聖書のページの上の言葉が自分のために書かれているということは到底信じられない、、これが彼らの現状です。

 

あるクリスチャンは言うでしょう。「これこれの御言葉は私に対して語られたものです」と。でも彼の心はそう感じることができておらず、確信もありません。彼は分裂化した心理学の犠牲者といえます。神はどこに在ても沈黙しておられ、ただ書物の中でだけお語りになる方なのだと彼は思い込んでしまっているのです。

 

私たちの不信仰の大部分は、真理の御言葉に対する間違った概念ないしは、誤った感情にあるではないかと私は考えています。彼らはこう考えています。

ーーいつもはだんまりを決め込んでおられた神が、書物の中で突然話し始めた。でも本が終わりにさしかかるや、またもや神は沈黙してしまった、、永久に。だから私たちが聖書を読むというのは、つまり、神が話す気分でいらっしゃったほんの束の間に言われたことの記録書を読むということなのだ、と。

 

あゝこのような前提があっては、私たちはいかにして信じることなどできましょう。しかし実際には、神は沈黙しておらず、これまでも決して沈黙されてこなかったのです。お語りになるという行為は神のご性質そのものです。三位一体の第二格はロゴス(ことば)と言われています。

 

聖書は絶え間なく話される神の御声の生み出した必然的結実であると言えます。そして、これは、私たちになじみのある人間の言葉で表現され、私たちに対する主の思いを述べた、誤ることのない宣言なのです。

 

聖書というのが、かつて(過去のある時点で)話された本であるにとどまらず、今現在も話し続けまた語り続けている本である、ということを念頭に置いた上でこの書物に臨むなら、宗教的霧の中からやがて、くっきりと新しい世界がひろがってくるに違いありません。

 

預言者たちは繰り返しこう言いました。「主はこう言われる。」

 

こう言う時、彼ら預言者は聴衆に対し、「神の語りかけは、継続する現在という時の中でなされている」ということを伝えていたのです。過去のある一時点で、ある神の言葉が話されたことを伝えるのに、確かに私たちは過去形を使います。

 

しかし、かつて語られた神の言葉は、その後も継続して語られ続けています。それはたとえて言うなら、(過去のある一時点において)生まれた子供がその後も生き続ける様、あるいは、かつて創造された世界が、その後も継続して存在し続けている様などになぞらえることができるかもしれません。

 

しかしこういった例は不完全な説明でしかありません。というのも、子どもたちもいつの日か死に、世界もやがては焼き尽くされるからです。しかし、私たちの神の言葉はとこしえまでも生きながらえます。


あなたが神を知りたいと渇望しておられるのなら、今すぐにでも聖書をお開けなさい。そして聖書があなたに語りかけるのを待ち望んでください。聖書があたかもモノであるかのように、自分勝手に取り扱ってはいけません。

 

この書物はモノ以上のものです。そうです、これは声、ことば、そして生ける神のことばに他ならないのです。


『聖なる方を知る知識』第2章 知り尽くしえない神

 

A. W. Tozer, Knowledge Of The Holy, Chapter 2. God Incomprehensible(抄訳)

 

子どもも、哲学者も、宗教家もみな共通した一つの問いを持っています。それは「神とはどのような方か」という問いです。

 

この本はその問いに答える目的で書かれています。しかし初めにことわっておきたいことがあります。それは、神は何かや誰かにそっくりそのままなぞられるような方ではないということです。

 

私たちは何かを学ぶ際、自分たちがすでに知っているものを橋として、未知の領域へ渡っていきます。私たちの知性は、突如として既知のものからまったく未知のものへと突き進むことはできないのです。

 

もっとも強健にして勇敢な知性といえども、想像力を働かすという自然の行為によっては無から何かを生み出すことはできません。神話や迷信の世界に住まう、かの物珍しい生き物たちは、純粋な意味における創造の産物ではありません。

 

それらは、大地や空や海に住むありきたりの居住者を素材に、それらなじみの型を越境・拡大させたものか、もしくは、二つか三つのもともとあった型を混ぜ合わせて何か新しいものを作り出したか、そのいずれかです。

 

それらがたとえどんなに美しく、あるいはグロテスクであっても、その原型(プロトタイプ)はいつも特定できます。それは私たちがすでに知っている何かに似ているのです。

 

言葉で言い表しがたいものをなんとか表現しようとした聖書記者たちの努力は、聖書の思想の上にも、言語の上にも、相当の緊迫感をもたらしました。

 

それらは、自然界を超えた世界の啓示である場合が多かったのですが、その一方において、そういった書の読み手の知性は自然界の一部でありました。そのため、聖書記者たちは、読み手に分かってもらうため、「~のようなもの」という語をさかんに使わざるをえなかったのです。

 

御霊が私たちの知識の領域を超えたところにある何かを私たちに知らしめようとされる時、御霊は、それが、「私たちがすでに知っているものに似たなにかである」ということをおっしゃいますが、いつもご自身の描写を言い表すのに注意深くあられます。陳腐な直訳主義に私たちが陥ることのないようにするためです。

 

例えば、預言者エゼキエルは天が開かれるのを見、神の幻を目の当たりにしましたが、そこで見たのは、どんな言語でも表現できないようなものでした。エゼキエルが見ていたものは、彼がそれまで知っていたどんなものとも全く異なっていました。だから彼は「~のようなもの」という言葉に頼らざるをえなかったのです。

 

「それらの生きもののようなものは、燃える炭のように見え、、」

 

火のようにみえる王座に近づけば近づくほど、エゼキエルの言葉は不確かな響きを帯びてきます。

 

「彼らの頭の上、大空のはるか上のほうには、サファイヤのような何か王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった、、その中と回りとが青銅のように輝き、火のように見えた、、それは主の栄光のように見えた。」

 

こういった言葉は何か奇妙な感じがしますが、しかしそれでも非現実的な印象は作り出していません。ここから推測できるのは、全光景は非常にリアルだったのですが、にもかかわらず、この地上に住む人間の知るいかなるものとも全く異質なものだったということです。

 

ですからエゼキエルは自分の見たものについて伝達する上で、「~のようなもの」「似たもの」等の表現を使わなければならなかったのです。王座でさえも、「何か王座に似たもの」となり、その上に座しておられる方は、人のような姿に見えはしたものの、同時にそれとは全く似ていないもののようにも見えたため、「人間の姿に似たもの」と表現するより外に法がありませんでした。

 

「人が神のかたちに創造された」と聖書は言っていますが、その際に、私たちは自己流の思想をそこに投入して、「全く同じかたちに」という意味合いをもたせるようなことはしないでしょう。

 

そんなことをするなら、人間を神の複製品にしてしまうことになり、それはとりもなおさず神の独自性を失わせることを意味し、最終的にはそれは神でも何でもなくなってしまいます。

 

それはまた〈神であるもの〉と〈神でないもの〉とを隔てている無限に高い壁を打ち壊すことを意味します。被造物と創造主のことを、本質的に似た存在であると考えることは、神の属性のほとんどを奪うものであり、神を被造物の地位に貶める行為です。

 

それは例えば、神の無限性を奪い取るものです。宇宙には二つの無限の実体は存在しえないからです。また、それは神の至上権をはく奪するものです。

 

宇宙には、二つの、絶対的に自由な存在者というのは存在しえません。もし存在するようなことがあれば、完全なる二つの自由意志は遅かれ早かれ衝突を起こしてしまいます。ですからこういった属性が属すべき対象はただ一つをおいて他にないのです。

 

神がどのようなお方であるかを想像する際、私たちはやむを得ず、〈神でないもの〉を、思考の働きのために用いることを余儀なくされます。従って、私たちの思い描く神というのは何であれ、神ではないのです。なぜなら、私たちは神の造られたものによって自分たちのイメージを作り出しており、神の造られたものというのは神ではないからです。

 

もし私たちがそれでも、神を視覚化しようとあえて主張し続けるなら、最終的に偶像をこしらえてしまうことになります。その偶像とは、手で作られたものではなく、思想で作られたものです。そしてそういった知性によって生み出される偶像というのは、手で作られた偶像にもひけをとらない位、神にとって不快なものなのです。

 

クサのニコラスは言いました。「知性はそれが汝(神)について無知であることを知っています。」

 

「なぜなら、知りえないものが知られるところとなり、不可視のものが見え、近づきえないものに到達しない限り、汝は知られざる存在であるということを知性は知っているからです。」

 

ニコラスは続けてまたこうも言います。

 

「もし誰かが、汝を把握することのできるという概念を打ち立てたとするなら、、私は知っています。その概念は所詮、汝の概念ではないということを。なぜなら、すべての概念はエデンの園の壁に終わってしまうからです。

 

 ですからまた、もし誰かが、神理解のための手段を提供しようとの意図から、汝に対する理解について語ったとしても、その人は依然として汝から遠いところにいるのです、、なぜなら、汝は人が構想することのできる概念すべてを絶対的に超えた上におられるからです。」

 

自分たちだけで放っておかれるや、私たちは瞬く間に、神を御しやすい術語の中に押し込もうとする傾向にあります。私たちは自分たちが神を利用できるところにおいて神を得たいと思っており、あるいは、少なくとも、神を必要としている時に神がどこにいるのか知りたいと欲するのです。ある意味、自分たちのコントロール下に置くことのできる神が欲しいのです。

 

「神がどのようなお方であるか」ということを知っていると思うことからくる安心感を私たちは必要としており、神がどのようなお方であるかということは、もちろん、私たちの見てきた宗教的絵画、自分たちの知っているあらゆる偉人、自分たちの抱いてきたあらゆる崇高な思想などという複合要素によって構成されています。

 

こういったことが現代人の耳に奇異に聞こえるとしたら、それは他でもない、私たちがここ半世紀というもの、神を軽視し続けてきたからです。神の栄光は、この世代の人間には啓示されてきませんでした。

 

「(キリスト教の)神は弱く頼りない存在である一方、古代の神々は少なくとも力は持っていた」という点で、実際には神はそういった神々よりも劣っていないとしてもーー現代キリスト教の神は、ギリシアやローマの神々よりほんのわずかに勝った存在にすぎないような印象を与えています。

 

もし私たちが神だと考えているものが実際には神をあらわすものでないとするなら、私たちは神のことをいったいどのように考えていけばよいのでしょうか。

 

もし神が信条でも宣言されているように、本当に知り尽くしえず、パウロが言うように近づくことのできない存在なら、私たちクリスチャンはいったいどのようにして、神を切望するこの思いを満たすことができるのでしょうか。

 

「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。」(ヨブ22:21)という希望に満ちた言葉は、何世紀経った今でも依然として立っています。しかし、しかし私たちの側のあらゆる懸命な知性的、心的努力を「お避けになる」方と、いったいどのようにして和らぐことができるのでしょうか。

 

知りえないことを知ろうとすることに対し私たちはどれほど責任を負わされているのでしょうか。

 

「あなたは神の深い事をきわめることができるか。」とナアマ人ゾパルは問いました。

 

「全能者の限界をきわめることができるか。それは天よりも高い、あなたは何をなしうるか。それは陰府よりも深い、あなたは何を知りうるか(ヨブ11:7,8)」と。

 

「父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。」と主は仰せられました。

 

ヨハネによる福音書は、神という大いなる奥義を前に、人間の知性がいかに無力であるかを啓示しています。またコリント人への第一の手紙の中でパウロは、聖霊が自らを顕示する行為として、神を求める心のうちに働いてくださることを通してのみ、私たちは神を知ることが可能であることを説いています。

 

知りえない方を知ろう、知り尽くしえない方を理解しよう、近づくことのできない方に触れ、味わおうと切望する心は、人間本性の中に存在する「神のかたち」によって生み出されるものです。

 

深淵は深淵を呼び起こし、神学者たちが(人類の)堕落と呼んでいる、大規模な災害によって汚染され陸に閉じ込められてはいても、魂はその起源を感知しており、その源へ立ち帰ろうと切望しているのです。

 

これはいかにして実現可能なものとなるのでしょうか。聖書の示す答えは、ただ単純に「私たちの主イエス・キリストを通して」です。

 

キリストにあって、そしてキリストによって、神は完全なる形で自己を啓示することをよしとしてくださいました。ただし、主はご自身を理性にではなく、信仰と愛に顕してくださいます。信仰は知識の器官であり、愛は経験の器官です。神は受肉と贖いの中で私たちの元へ来てくださいました。

 

主は私たちをご自身と和解させてくださり、信仰と愛によって私たちは入り、主をとらえるのです。

 

「まことに神は計り知れない偉大さを持しておられる」と、天の喜びにあふれキリストの抒情詩人リチャード・ロレは言いました。

 

「私たちが考えることのできる以上に、、、造られた物によっては知られることのないもの。そして神それご自身としては、私たちは決してこの方を理解することができない。

 

しかし今この時にあってさえも、心が神への切望によって燃え上がり始める時はいつでも、非被造的な永遠の光を受けることができるようになり、聖霊の賜物によって感化され満たされ、心は天国の喜びを味わうようになる。

 

 その人の心は、目に見えるあらゆる物を超越し、永遠のいのちの甘美さのうちに引き上げられる。この中にまことに全き愛が存在する。知性のあらゆる意図、精神の秘かな働きの一切合財が、神の愛の中に引き上げられる時である。」

 

「神は、愛情のこもった個人的経験の中にあって、魂に知られうる存在でありながら、他方において、理性の好奇な目からは頑として離されている」というパラドックスは、次の句によってもっともよく描写されているでしょう。

 

知性にとっては暗闇 

しかし心にとっては太陽の輝き

ーフレドリック・W・フェーバー

 

『未知の雲』という高名な小作品の著者であるフェーバーは、全書に渡ってこのテーマを展開しています。彼は言います。神に近づいていく過程で、探求者は、聖なる方が、未知の雲のうしろに隠れるように不明瞭さのうちに宿っておられることを発見します。

 

しかしここで私たちは意気消沈してはならず、神に対する明白な決意をもって意志を据えるべきだと。

 

この雲は探求者と神の間に存在するため、悟性の光によってははっきり神をみることができず、また感情のうちにあっても主を感じることができません。しかし、神のあわれみにより、もし探求者が御言葉を信じて、強く求めるなら、信仰は雲を突き破り、主のご臨在のうちに入ることができるのです。

 

スペインの聖徒であるミゲル・デ・モリノスも『霊の導き』の中で同様のことを説いています。

 

曰く、神は御手で魂をとらえ、純粋な信仰という道を通して魂を導かれ、「知性をしてあらゆる考察や推論を後にせしめることで、主は魂をさらに引き寄せる、、、よって、神は、魂がーー単純にして不明瞭な信仰の知識という手段によって、ただひたすら愛の翼の上におられる天の花婿を求めるように働きかけるのである。」と。

 

こういった教えを説いたため、モリノスは異端審問所によって異端として弾劾され、終身刑を言い渡されました。投獄後まもなくしてモリノスは死にましたが、彼の説いた真理は不滅です。キリスト者の魂についてモリノスは言いました。

 

「魂よ、知っておきなさい。この世のすべて、そして最高の知識人たちによって打ち立てられた最も洗練された概念であっても、魂に語るべき何をも持たないことを。

 

 そして魂の愛するお方のすばらしさと美しさは、それらすべての知識をはるかに凌駕するものであることを。すべての被造物は配慮を欠いているため、神についてのまことの知識を魂に知らしめることもせず、導くこともしない、、、それゆえ、魂はすべての悟性を後にし、愛とともに前進しなければならない。魂よ、想像のこしらえた神像ではなく、神をそれご自身として愛しなさい。」

 

「神はどのようなお方でしょうか。」もしその問いが、「神そのものが、どのようなお方か」を意味するのでしたら、そこに答えはありません。しかしもしそれが、「敬虔な理性が理解することのできるように、神がご自身について何を明らかにされたのか」という意味でしたら、十分に納得がいき、また満足のいく答えが存在すると私は考えています。

 

なぜなら、神の名が秘められており、神の本質的な本性は知り尽くすことのできないものではあっても、主は遜った愛の中で、啓示によって、主ご自身についての真実を反映するようなある種の事柄を明示しておられるからです。

 

こういったものを私たちは神の属性と呼んでいるのです。

 

 

『聖なる方を知る知識』第22章 神の主権について

 

A.W.Tozer, Knowledge Of The Holy, Chapter 22. The Sovereignty of God(抄訳)


万軍の主なる神、いと高く、恐るべき方、誰か汝を畏れない人はいるでしょうか。

 

なぜなら、汝だけが主であられるからです。汝は天と天にあるものすべて、地とそこに存在するものすべてをお造りになり、汝の御手の内に、生きとし生けるものの命はあります。

 

汝は洪水の上に座し、みくらに座して、とこしえに王であられます。汝は全地を治める偉大なる王です。汝は御力を身にまとい、誉と威厳とは汝の御前にあります。アーメン。


ーーーーー


神の主権とは、ご自身の全ての被造物を神が統治しておられるという属性のことを言います。

 

そして主権を持つには、神は全知全能にして、絶対的に自由でなければなりません。なぜでしょうか。以下、その理由を挙げることにします。


どんなに些細な知識であっても、それが神の知られざるところにあるとしたら、その時点で、神のご支配は破城をきたしてしまいます。なぜなら、あらゆる被造物を治める主であるためには、主は全ての知識を持しておられる必要があるからです。

 

また、神がほんの微量でも力に欠けているとするなら、その欠如は主のご統治にピリオドを打ち、主の御国を無効にしてしまいます。そしてごくごく微小な力が神以外の誰かに属しているとするなら、その時点で、神は有限な統治者となり、従って主権を持たないということになってしまいます。

 

さらに、神の主権は、主が絶対的に自由でなければならないということを意味してもいます。つまり、主は、妨げられることなく、あらゆる詳細な点において、ご自身の永遠の目的を達成されるべく、いつでも、どこであっても、ご自身のなさりたいことを遂行する自由があるということです。

 

その自由が欠如しているなら、神は主権を持つ方でなくなってしまいます。こういった無制限の自由という概念を把握するには、相当な思考の努力を要します。

 

というのも、私たちはーーその不完全な形におけるもの以外にーーそういった自由を理解するようには、心理学的に条件づけられていないからです。それについての私たちの概念は、絶対的な自由が存在しない世界の中で形作られてきたものです。

 

この世界においては、それぞれの自然物は他の多くの物体に依存しており、そしてその依存性によって、自由は制限されているのです。

 

ワーズワースは、『序曲』の冒頭のところで、これまで長く幽閉されていた街から脱出し、「今や、自由に、鳥のように自由に、わが思うままに住みつくことができる」と歓喜しています。しかし、鳥の持つ自由とは、全く自由ではないのです。

 

博物学者が周知のとおり、一見、自由にみえる鳥というのは、実際には、その全生涯を、恐れ、飢え、本能から成り立つ檻の中で過ごしているのです。彼らの自由は、気候条件、さまざまな気圧、各地の食料事情、肉食動物などにより制限されています。

 

そしてあらゆる束縛の中でも最も奇妙なものとして、彼らは鳥の王国の協定によって定められし狭いテリトリー内にとどまるよう、不可抗的強制力により自由を制限されています。

 

もっとも自由な鳥であっても、他の全ての被造物と同様、必要性という網による、絶え間ない監理下に置かれています。ただ唯一、神だけが自由なる方です。


神が絶対的に自由なる方だと言われるのは、何者も、どんな物も神を妨害したり、強制したり、差し止めたりすることができないからです。主は常に、どこであっても、そして永遠に、ご自身の望むところを為すことのできる御方です。

 

そのように自由であるためにはまた、主は普遍的権威を持していなくてはなりません。御言葉や、主の他の属性などから分かるように、主は無制限なる力をお持ちです。では、主の権威とはいったい何なのでしょうか。

 

しかし、そもそも全能なる神の権威について議論しようとする事自体、ある意味、無意味なことであり、それに対して異議を唱えることは荒唐無稽なことと言わざるを得ないでしょう。万軍の主なる神が、誰かに許可を求めたり、より権威のある存在に訴え出たりするような必要性があるなどと想像できますか。

 

神は誰の所へ認可を得るべく行けばいいのでしょう。いと高き方より高い方がどこに存在するのでしょう。全能の方以上に強い存在などいったいどこに在るのでしょう。永遠なる方に先行するものが存在するのでしょうか。どの王座に向かって、神は跪くというのでしょうか。
神がお伺いを立てに行くような、より偉大な方など、どこに存在するのでしょう。

「イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。『わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。』」(イザ44:6)



神の主権は、聖書の中で明確に述べられている事実であり、真理の論理によっても声高に宣言されているものです。しかしそうは言っても、これは、未だに満足のいく解答の与えられていないある種の問題を提起しています。その問題とは、大きく分けて次の二つあります。

 

第一に、それは、被造物の中における、悪、痛み、死といった神の是認しておられないものの存在についてです。もし神が至上の方なら、そういった物が存在するのを前もって防ぐことができたはずではないでしょうか。なぜ神はそうなさらなかったのでしょうか。


ゾロアスター教という、聖書的啓典宗教に属さないものの中では最も高尚な宗教の経典『アヴェスター』は、この難題を、神学的二元論を打ち出すことで打開しようとしました。この宗教によれば、この世界にはアフラ・マズダーとアフリマンという二神が存在しており、この二神によって世界は創造されたのだとされています。


善神アフラ・マズダーが、あらゆる善きものを造り、悪神アフリマンが残りのものを造ったのだと。とてもシンプルな説明です。ですから、アフラ・マズダーは、自分の主権の有無について悩む必要はなく、自分の大権を悪神と共有することに関しても、そこにこだわりはなかったようです。

 

しかしクリスチャンにとっては、この説明は意味をなしません。というのも、これは聖書全体を通し断固として提示されている真理と明らかに矛盾しているからです。

 

聖書においては、神は唯一であり、この方だけが天と地、そしてそこに存在する万物をお造りになったのです。こうした神の属性ゆえ、他の神の存在というのはあり得ないわけです。

 

確かに、「なぜ悪の存在が許されているのか?」という問いに対し、クリスチャンは自分たちが最終的な答えを持っていないことを認めています。しかし、少なくとも、クリスチャンは何がその答えでないのかという点については知っており、『アヴェスター』のような経典にもその答えはないということを私たちは知っているのです。


罪の起源についての完璧な説明というのはできないかもしれませんが、幾つかの点においては少なくとも、私たちはその理由を知っています。至高なる知恵の中で、神は、ご自身の被造界の限られた領域内でのみ悪をお許しになっておられるのです。

 

それはたとえて言えば、活動が一時的にしか過ぎず、範囲においても限られている逃亡犯の如くあります。これを遂行するにあたり、神はご自身の無限なる知恵と善に従い行動を起こしておられます。現時点においては誰もそれ以上のことは知りません。そしてそれを知る必要もありません。神の御名こそ、ご自身のみわざの完成を保証するに十分なものなのです。

 

さて、神の主権という教理によって引き起こされるもう一つの深刻な問題は、人間の意志をどう扱うかという点にあります。もし神が、ご自身の絶対主権に基づく掟によって、宇宙を支配しておられるのだとしたら、「人間の自由選択というのは不可能」ということになってしまわないでしょうか。

 

そしてもし、人間に選択の自由が与えられていないのなら、一体いかにして、その人は自分の行為の責任を負えるというのでしょう。そういう人間は結局、単なる「操り人形」ーー舞台裏で、心もおもむくままに糸を引いておられる神によって、その行動を決定づけられているーーということになってしまわないでしょうか。

 

こういった問いに答えを出そうとする試みが、これまでキリスト教会を二陣営に分かつ結果をもたらしてきました。そして、両陣営は、二人の代表的神学者、ヤコブ・アルミニウスとジャン・カルヴァンの名を取ってそれぞれ「アルミニウス主義」、「カルヴァン主義」と呼ばれています。

 

大半のクリスチャンは、どちらかの陣営に収まることで、それなりに満足しており、「神の主権」を否定するか、あるいは人間に対する「自由意志」を否定するかしています。

 

しかし、私は思うのです。片方を侵すことなく、この二つの立場を和解させることが可能ではないかと。もちろん、これから述べる私の説明は、どちらかの立場の熱心な支持者にとっては、所詮、不完全な代物に過ぎないでしょう。

 

以下が私の個人的見解です。神は、「人間が自由に倫理的選択をすることができるよう」主権を持って、これをお定めになりました。そして人間は創造のはじめより、善と悪の間にあって自分でそれを選択することを通し、その定めを遂行してきました。

 

従って、人が「悪を行なうことを選択する」時、その人は、神の絶対的な意志を減殺している訳ではなく、それを遂行しているのです。永遠の掟は、人がどちらの選択をするかについては決定を下さず、むしろ人がそれを自由に選択できるように取り計らっているものだからです。

 

もし神がご自身の絶対的な自由の下に、「人間に対して、制限付きの自由を与えよう」とお望みになったのだとすれば、誰が、その主の御手をつかんで、「あなたは一体何をしているのですか?」と諫めることなどできましょう。

 

人間の意志は自由です。なぜなら、神が絶対主権を持った方だからです。絶対主権を持たない神であったならば、ご自身の被造物に、倫理的自由を与えることはできなかったはずです。然り、そういう事は怖くてできなかったはずです。

 

ここで理解しやすいように、身近な例を出してみることにします。ある遠洋定期船があって、この船がニューヨークを発ちリバプールに向けて出港しました。

 

船の行き先は、しかるべき権威によって決定されています。それに対し何者も変更を加えることはできません。これがおぼろげながらも、私が描き出そうとしている「神の主権」像です。

 

また船内には何百人という船客がいます。彼らは鎖につながれてはおらず、また彼らの行動が掟(decree)によって決定されている訳でもありません。どこでどのように行動しようとそれは一切彼らの自由です。食べたり、寝たり、遊んだり、デッキをぶらぶらしたり、読書したり、おしゃべりしたり、、と彼らは好きなように行動しています。

 

しかしそうこうしている間にも、巨大な定期船は、着実にーー事前に決定されているーー港へと船客を運んでいます。ここには「自由」と「主権」と、その双方が存在しており、両者は互いに矛盾していません。そしてこれが、「人間の自由」と「神の主権」を表しているのではないかと私は考えているのです。

 

強大な定期船に表される「神の絶対主権」に基づく主の御計画というのは、歴史という海の上を、一定の航路を保ち進んでいます。神は、世界の始まる前よりキリスト・イエスにあって計画されていた永遠のご目的の成就に向け、妨害されることなく、阻止されることもなく、進んで行っています。

 

私たちは、そういったご目的の全容については知りませんが、少なくとも、今後起こるであろう事についての大まかな概観、未来の事に関する希望と揺るがない確信を持つに足りるだけの啓示は与えられています。

 

また神が預言者たちにお与えになった御約束はことごとく成就するということ、やがて罪びとは地から断たれるということ、贖われた民が神の喜びの内に入り、義とされた者が御父の王国で太陽のように輝くということを私たちは知っています。

 

さらに、神の完璧なご計画は、未だ普遍的には受け入れられていないけれども、やがて全ての被造物が主イエス・キリストゆえに御父に栄光を帰する時が来ること、そして現在の不完全な秩序は崩れ、やがて新しい天と地がとこしえまで打ち建てられることを私たちは知っています。

 

そしてこれら全ての事の成就に向け、神は無限の知恵と完璧にして精密な行動をもって、働き続けておられます。誰も主のご目的遂行をとどめることはできず、ご計画を逸脱させることもできません。主は全知の方ですから、不測の事態とか出来事というのは存在しえない訳です。

 

また主は主権者であられるゆえ、撤回された定めや掟というものはそこには存在せず、権力失墜という事態も起こり得ません。そして全能の神として、主はご自身の選んだ目的を達成するに当たり、その力に欠くということもあり得ません。こういった全ての事について、神はご自身において充足しておられるのです。

 

しかし現実には、このような概略では説明できない事が多々あります。不法の秘密はすでに働いています。そして、神の至高なる、許容されたご意志という広大な領域内で、善と悪の間の死闘が、さらなる勢いを増しつつ怒涛のように繰り広げられています。

 

つむじ風と嵐の中にあっても、神は依然としてご自身の道を貫徹していかれますが、今ここに嵐とつむじ風があるというのは紛れもない事実です。そして私たちは責任を負うべき存在として、現在の倫理的状況の中で、自身の選択を選び取っていかなければなりません。

 

ある種の事柄は、神の自由な裁量によって定められていますが、その中の一つが、「選択とそれに伴う結果」の法則です。

 

誰であれ、信仰の従順により御子イエス・キリストに対し、自ら進んで自身を明け渡す人は、永遠のいのちを得、神の子となる、ということを神はお定めになりました。

 

また、誰であれ、暗闇を愛し、天のいと高き権威に対し刃向かい続ける人は、霊的に失われた状態にとどまり、ついには永遠の死に至るということも、神はお定めになったのです。

 

こういった一連のことを、個別的な言葉に置き換えてみると、私たちはここで非常に大切な個的結論に至るだろうと思います。つまり、現在、周囲で荒れ狂っている倫理的確執のさなかにあって、誰であれ神の側につく人が勝ち組であり、負けることはあり得ないということ。

 

同時に、誰であれ、それとは反対の側につく人は負け組であり、勝つことはあり得ないということを。ここにおいて偶然とか賭けとかは存在しません。どちらの側につくかについて私たちにはこれを選択する自由が与えられていますが、いったんその選択がなされたなら、その選択の結果についてあれこれ交渉するという自由は私たちに与えられていません。

 

神の憐れみによって、私たちは自分たちの犯した負の選択について悔い改め、正しい選択をし直すことによってその(負の)結果に変更をもたらすことがあるいはできるかもしれません。しかしそれ以上のことは私たちにはできません。

 

倫理的選択をめぐる全ての問題は、イエス・キリストを中心に回っています。キリストはこの点に関し、次のように明言しておられます。「わたしの味方でない者は、わたしに逆らう者であり」(マタイ12:30a)、「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6b)。

 

福音のメッセージには次の三つの明確な要素が包含されています。1)宣べ伝え、2)命令、3)召し、です。

 

福音の使信は、1)憐れみのうちに成就された贖いの良い知らせを宣べ伝え、2)どこにいる人であれ全ての人に対し悔い改めるよう命じ、3)イエス・キリストを主として救い主として信じることにより、恵みの関係に自らを明け渡すよう、万人に対して呼びかけているのです。

 

私たちは皆それぞれが、この福音に従うのか、それとも不信仰の内に福音に背を向け、その権威を退けるのか、どちらかを選択しなければなりません。

 

そういった私たちの選択は自分たち自身に属するものですが、その選択の結果というのは、神の至高の意志によってすでに決められており、これに対しては何者も逆らうことはできません。

 

 

主は、いと高き天より降りて来られた。

空の暗闇をその足の下にして。

主は荘厳に、ケルビムとセラピムに乗られ

風の翼に乗って飛びかけられた。

 

主は洪水の上に座し、

その猛威をしずめられる。

そして主権者なる主であり王であるこの神が

とこしえまでも統べ治められる。

 

ートーマス・スターンホールド