巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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教会的理神論(ecclesial deism)かぁ。う~ん、その論点は分かるけど、、でも、、【プロテスタンティズムと歴史観】

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可視的教会の過去・現在・未来をどうみればいいのだろう。(出典

 

元改革派で現在カトリックのブライアン・クロス教授は、モルモン教やプロテスタンティズム等に典型的にみられる歴史観および教会観のことを「教会的理神論 ecclesial deism」と呼んでおられます。

 

理神論というのは、「神は世界をお造りになった。しかし創造されたあとの世界は、あたかもねじを巻かれた時計のごとく、神によって定められた自然法則に従い、その働きを続ける」とする自然宗教的な神観のことを指します。

 

それに対し有神論は、「神は世界をお造りになっただけでなく、その後も続けて、被造世界全体を保持し、統治されている」という見方をします。クロス氏によると、「教会的理神論」とは次のような考え方のことを言います。

 

「教会的理神論というのは、『キリストはご自身の教会を建てた。しかしその後、引っ込んでしまわれ、ご自身の教会の教導権(Magisterium)が異端や背教に陥るのをお防ぎにならなかった』という観念のことです。

 

 これは、教導権の中の個々のメンバーが異端や背教に陥ることがあり得るという信念ではなく、教導権それ自体が信仰教理の本質的部分を喪失したりそこから堕落したり、あるいはそれに何かを加えた可能性があるという事に関する信念を指します。そしてプロテスタントによると、こういった喪失や堕落は、5、6、7回の全地公会議の時に起こったとされています。」(引用元

 

続けてクロス氏は、なぜこの「教会的理神論」がプロテスタンティズムおよびモルモン主義に内在的なものであるのかについて、次のように説明しています。

 

「なぜ教会的理神論はプロテスタンティズムおよびモルモン主義に内在的なものなのでしょうか。なぜなら、誰であれ、①カトリック教会から離脱し、ないしは離脱した状態のままでいることをよしとし、尚且つ、②クリスチャンであり続けたいと願う人は、必然的に『カトリック教会は異端ないしは背教に陥った』と言わなければならなくなります。そうしなければ、カトリック教会から離脱したままでいる今のあなたの状態を正当化することができなくなります。

 

 こういった考え方は教会史を通し数多くみられます。2世紀のグノーシス主義者たちは、『使徒たちでさえキリストの教えを曲解した』と主張しつつ、自分たちがカトリック教会から分離していることを正当化していました。」(引用元

 

しかし(改革派時代のクロス氏本人も含め)、プロテスタントやモルモン教徒たちは一般に、自分が教会的理神論者であるとは自覚していない。それはなぜだろうかとクロス氏は読者に問いかけ、次のように分析しています。

 

「もちろん、教会的理神論者たちは普通、自分たちの立場を、理神論の一種としては捉えておらず、そのように見てもいません。かつてプロテスタントであった自分の経験から言いますと、教会的理神論者が自分自身の教会的理神論に無自覚である重要な要因の一つは、教会の本質に関する、彼らの潜在的グノーシス主義(反サクラメンタル主義)にあります。

 

 こういった思想によると、教会というのは、可視的ヒエラルキーをもつ一つの統一されたからだではなく、それ自体において、純粋に霊的な性質をもつなにかです。そしてそれは、肉体を帯びたキリスト者が信仰のみを通し、現在教会に加わっていることを人が見ることができる、という意味に限ってそれは可視的なものです。

 

 『教会というのがそれ自体において霊的で不可視的でものである』と捉えることにより、キリストは常にご自身の〔不可視的〕教会を忠実に守ってこられたと信じることができるようになります。ーーその間、カトリック教会の指導者たち全体が異端や背教、福音の歪曲に陥ってしまっていたとしても、です。」(引用元

 

前の記事*1とも合わせ、私はこういった議論に底力を感じます。どういう「底力」かといいますと、人類史すべてを貫く、神の主権的力およびキリストの教会の普遍性(catholicity)、一貫性を世界に提示しようとする、統合された人間の証の力です。そして非カトリック教徒として、私は、ここにカトリシズムの巨大な力ーー底力ーーを感じます。

 

しかし、です。紙の上での議論としては私はここにものすごい説得力を感じるのですが、生々しい教会史の史料は時として否応がなしに、私を(クロス氏の言うところの)いわゆる「教会的理神論」および「真のエクレシア=不可視的教会」という岸に追いやります。

 

宗教改革期に書かれた教会史家ジョン・フォックスによって書かれた『殉教者たちの書物 Foxe's Book of Martyrs』、何千何万という再洗礼派の殉教者たちの裁判記録や拷問・殺害の模様や遺書が収められた『殉教者たちの鏡 The Martyrs' Mirror』などの記録を読むと、歴史の中の可視的教会は、クロス氏の明晰なる解析だけではYesともNoともいえない、混沌と矛盾と悪と悲劇で溢れているーーこの事実から私は目を逸らすことができません。

 

ですが、できることなら私も、‟潜在的グノーシス主義的教会観” の誘惑とジレンマから完全に解放された上で、クロスさんたちと共に、可視的教会を常に守り導いてこられた神の主権と力を認め、それに対し「然り。アーメン。」と告白できたらどんなにいいだろうと内心思っています。

 

〈でも、やはり問いは残る。。なぜ神はその可視的教会が悪と抑圧と暴力でまみれるままになさってこられたのだろう?なぜ神は十字軍を許されたのだろう?ピエモンテ大虐殺*を許されたのだろう?異端訊問所を、焚刑を、体切断を、ユダヤ人、‟異端者”たちへの虐殺を、強制改宗を許されたのだろう?そして神父たちによる幼児への性的虐待を許されたのだろう?〉

 

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中世の異端審問所(出典

 

アテネ大学でビザンツ史の授業を受けていた時、教授が史料と共に、女帝イリナ(エイレーネー)がいかにして実の息子であるコンスタンティヌス6世を殺害したか説明していました。覇権争いの中で彼女は、息子を産んだ分娩の部屋で、彼を殺したそうです。

 

続けて教授は説明しました。「この女帝イリナは、イコン賛成論者であり、787年に開催された第7全地公会議も彼女の働きによって召集され、彼女はイコン破壊派を徹底的に弾圧しました。そして後に、イリナは、正教会によって聖人とされました。」*2*3

 

「このイリナが、、聖人?」私は驚きの余り、思わず隣に座っていたギリシャ人のクラスメートに囁きました。「ねえ、なぜ、正教会は、権力欲しさに自分の息子の目をえぐり虐殺することのできた殺人者を ‟聖人” に認定したの?どうしてそんなことが可能なの?」

 

すると彼女は答えました。「ほら、第7全地公会議でイコン崇敬が公式に認められたでしょ?だから、、強力なイコン賛成者だったイリナは正教会内では英雄だとされているの。理に適わないかもしれないけど、、まぁ、そんな感じ。」そう言って彼女は困ったな、でもどうしようもないよねという風に肩をすくめてみせました。

 

使徒継承につながる可視的教会の正統性および7回の全地公会議の正統性を信じる(<信じたい)のなら、私はイリナやその他の個々人の残虐行為にぎゅっと目をつぶり、「神は悪を用いてでも、ご自身の御心を可視的教会を通し成し遂げられる。アーメン。」と言わなければならないのでしょうか。

 

こういった歴史のごちゃごちゃにどういった意味をもたせるのか、どのような史観を持つべきなのかーー、非常に悩むところです。

 

*1:

*2:井上浩一 『ビザンツ皇妃列伝―憧れの都に咲いた花 (白水uブックス)』 白水社、2009年。4 エイレーネー (七五二頃~八〇三年), 権力に溺れた聖人 ―エイレーネーの時代

*3:シリア出身のイサウリア王朝の諸帝はイコノクラスムを推し進めてきたが、かつてのギリシア古典文化の中心地アテネの出身であったイリナ(エイレーネー)はイコノクラスムに反対であり、夫を懐柔して破壊政策を緩和してきた。784年、コンスタンティノポリス総主教のパヴロス4世が引退すると、イリナは後継として俗人で官吏であったタラシオスを次の総主教に据えた。タラシオスはローマ教皇のハドリアヌス1世と連絡を取り合い、787年の第2ニカイア公会議を開催した。この公会議ではタラシオスが進行役となり、イコノクラスムを根拠付けた754年のヒエレイア教会会議の決議は無効とされ、イコノクラスムを異端として宣告、聖像崇敬は公式に認められることとなった。これにより、イリナはイコンに描かれ、テオドルスにより作られた修道院などでは聖人として扱われている。(引用元