巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

テキスト解釈における「疎隔」の機能ーーリクールとガダマーの出会い(久米博氏、一橋大学論叢)

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ハンス・ゲオルグ・ガダマー(1900-2002)

 

目次

 

テキスト解釈における「疎隔」の機能ーーリクールとガダマーの出会い一橋論叢, 77(2): 176-192(出典

 

1.テキスト解釈の問題

 

テキスト分析の理論は、 現代フランスにおいて、 主として構造言語学、 記号学の立場からさかんに追求されていることは、 周知の事実である。

 

それに対し、 ボール・リクールは解釈学的現象学、 意味論の立場から、 テキスト解釈の理論を構築しようとしている。 その場合、 リクールは伝統的な解釈学の立場に固執するのではなく、 いわゆる言語学的な「テキストの科学」との弁証法的対立の関係に入り、 その止揚を企てようとするのである。

 

そもそもリクールの哲学体系において、 テキスト解釈の問題が次第に主要な位置を占めるようになり、 言語学や修辞学の分野にまで理論的枠組が拡げられているのは、 「解釈学とは、 テキスト解釈との関連における了解の操作の理論である*1」とリクールは考えているからである。

 

すなわち、 文化や歴史において外部から与えられた記号の解釈から自己了解は発するのであり、 テキスト解釈は その特権的な場となるのである。 リクールはまず、 シュライエルマッハー、 ディルタイ、 ハイデッガー、 ガダマーというドイツ解釈学の流れを、 弁証法的な発展として捉え、 そこから自己の解釈学の課題を見いだそうとする。

 

その過程をきわめて図式的に略示しておくなら、シュライエルマッハーを経て、 ディルタイにおいて頂点に達する、 心理主義的、 歴史主義的な了解の認識論が陥ったアポリアを克服すべきものとして、 ハイデッガーの了解の存在論が現われる。 しかしそれはテキスト解釈を跳びこして、 一挙に存在様態としての 「了解」に行きつこうとするものであり、 そこには言語分析の過程が欠如している

 

そこで存在論的志向とテキスト解釈との綜合をはかろうとする、ガダマーの弁証法的解釈学が登場する。 リクールはガダマーの主著『真理と方法*2』から枢要な概念をいくつかとりだし、 それを彼なりに修正、 発展させて、 自己の解釈理論に適用している。 本論はそのような、リクールとガダマーの生産的な出会いをたどろうとするものである。

 

法解釈学、 神学的解釈学、 古典解釈学といった個別的解釈学を、 一般的、 哲学的解釈学にたかめようとする動きは、シュライエルマッハーによって決定的に開始された。 それまで、 ギリシャ・ ローマ古典の文献学と聖書釈義学の二つの領域においては、 テキストの多様性に応じて、 解釈の操作も多様であった。

 

一般解釈学を確立するには、 テキストの個別性だけでなく、 解釈の規則や方式の個別性をも超越することが要式される。 そこで文献学や釈義学を「技術学 Kunstlehre」にたかめようとする努力から、 一般解釈学は生れることになる。

 

それは文献学や釈義学の個々の規則を、 「了解」という一般的問題に従属させることである。 このことは、 リクールによれば、 認識の理論と存在の理論の位置を逆転させた、 カント哲学におけるコペルニクス的転回になぞられるものである。

 

シュライエルマッハーは解釈の規則を、 テキストにおいて言われていることの多様性にではなく、 解釈の多様性を統合する中心的操作に関係づけようとした。 こうした彼の解釈学は一面では批判主義的であるが、 他面ではロマン主義的である。

 

それが批判主義的であるのは、  「誤れる了解あるところに、 必ず解釈学あり*3」と彼が揚言するように、 誤れる了解に対して有効な、 普遍的な了解の規則を立てようとするからである。

 

それがロマン主義的であるのは、 シュライエルマァハーが「他者が自己了解している以上に、 他者を了解する*4」と宣言するよう に、 著者の創造過程の同化をめざすからである。 彼においてはむしろ、 客観的な「文法的解釈よりも、 語る人の主観に迫ろうとする「実証的」「技術的」解釈学が優越するようになり、 その意味で、 それはいっそう心理主義的になる。 シュライエルマッハーのこのような解釈学的志向は、 ディルタイに受け継がれるや、 意識的にその傾向が強調される。

 

この両者を隔てる歳月の間に、 ランケやドロイゼンらによるドイツ史学の顕著な発展があった。 そこでは、 歴史的文書は、 人間の記録、 資料として、 もっとも基本的な「生の表現」とみなされた。 ディルタイのみずからに課した問題は、 自然科学が獲得した科学性に匹敵する科学性を、 歴史的認識にも得させることであった。 すなわち、 歴史的認識、 もっと一般には「精神科学」はいかにして可能か、という課題である。

 

この間題は、 見方を変えれば、 自然の説明と歴史の了解という対立の問題である。 ディルタイは了解の弁別的特徴を心理学に求めた。 彼は「精神科学」というものによって、 歴史的関係を含意する、 人間の一切の認識様態を意味しようとするのだが、 それは、 他者の精神生活に置換しうる能力を第一の能力とする。

 

人間が人間を識るのであり、 それは自然を識るのとは異なるのであり、 説明と了解の差異もそこから由来する。 人間は人間にとり根本的に異質ではない。 なぜなら、 人間は自分の実存の記号を発出するのであり、 その記号を了解することが、 人間精神を了解することである。 それゆえに、 ディルタイによれば、 精神科学は基礎科学として、 歴史と社会の中で行動する個人の科学である心理学を要請するのである。

 

しかしながら、 他者と置換し得る能力によって定義される了解から、 文字によって固定された生の表現の了解、 すなわち解釈へ移行することは、 二重の問題を提起する。 つまり解釈学は了解の心理学を補足すると同時に、 了解の心理学は解釈学を心理学的方向に偏らせるのである。

 

解釈学が対象とするのは、 生の直接的表現ではなく、 文字言語(エクリチュール)によって固定されたテキストであり、 記号の構造化された総体である。 したがって解釈学は他者の心的生活を直接的表現において捉えることはできず、 客観化された記号を解釈することによって、 心的生活を再生、 再構成(nackbilden)しなければならない。

 

だがテキストの自律は一時的な現象ではないゆえに、 客観性の問題はディルタイにおいて不可避の、 そして解決不可能の問題となったままである。 彼は客観化の要請に応えられるよう、 「再生」の概念を完成すべく絶えず努めたのだが、解釈学的問題が、 他者の認識という、 本来心理学的な問題に従属している限り、 客観化の根拠を、 解釈固有の領域以外に求めねばならないわけである。

 

そもそも、 私自にとっての「私」にさえ、 私自身の生の客観化を経てしか到達し得ないとすれば、 「私」の認識はすでにして解釈であり、 それは他者の解釈より容易であるとは、 けっして言えないのである。 ディルタイはシュライエルマッハー以上に、 テキストに表現されている他者の生の了解という法則のもとにテキスト了解を置く、 解釈学の根本的アポリアを明白にさらけだした

 

ディルタイの企図が心理主義的であるのは、 解釈の究極目的を、 テキストの言うことにでなく、 そこに表現されている人に置いたからである。 同様にその解釈学の対象は、 テキストから、 またその意味や指向対象から、 そこに表現されている体験へと、 絶えず移されて いったのである。

 

このアポリアを克服するには、 解釈学の目標を、 他者の生の了解という、 純粋に心理主義的な概念に結びつけるのでなく、 それをテキストの内包する意味のほうへ、 テキストが開示し、 発見する世界へ設定することである。

 

解釈学を認識論の一つとするディルタイの前提が、 まさにハイデッガーやガダマ一によって問題にされた。 この両者の特質は、 解釈学をディルタイの延長上にでなく、 存在論の観点から見なおそうとすることにある。 認識論から存在論へは、 リクールによれば、 解釈学における第二のコペルニクス的転回である。

 

ここで新しく提示された問題は、 われわれはいかにして知り得るかを問うのでなく、 「了解しつつ存在する存在の存在様態は何か」を問うことである。

 

ハイデッガーの『存在と時間』において、 力点は存在者一般の存在よりも、 「現存在」にある。 現存在は客体に対する主体ではなく、 存在の中の一存在、 存在を含む存在である。 現存在は存在の問題が生起する場、 存在が顕現する場を指し示す。

 

ところでハイデッガ一によれば、 解釈学は精神科学についての反省ではなく、 この科学を樹立し得る存在論的な地盤の説明であり、 したがって解釈学は、 現存在の解釈である。 

 

「現象学的記述の方法的意味は解釈である。 現存在の 現象学のロゴスは、 ヘルメーネウェイン、 すなわち解釈するという性格をもっているのであって、 このものをつうじて、 現存在自身に属している存在了解内容には、 存在の本来的意味と、 現存在に固有な存在の語根本構造とが告知される。 現存在の現象学は根渡的な語義における解釈学なのであって、 その根源的な語義にしたがえば、 この語は解釈の仕事を表示している。」*5

 

リクールによる解釈学の第三のコペルニクス的転回とは、 ディルタイにおいて、 了解の問題は他者とのコミュニケーションの問題に結びついていたのが、 今や『存在と時間』において、 それが存在と世界の問題となったことである。 つまりそれは、 存在における私の位置の根本的了解の中に求められるべきなのである。

 

了解の存在論がはじまるのは、 「共存在」でなく、 「内存在」についての反省からである。 「他者」の問題は、 「世界」の問題に変るのであり、 ハイデッガーはこのように、 了解を世界化することにより、 脱心理主義化を果したのである。

 

了解することは、 『存在と時間』においては、 言語の事象、 エクリチュ ールまたはテキストの事象である前に、 まず「存在可能」の問題である。 了解の第一の機能は、 われわれを状況へ指向させることであり、 了解は事実の把握を呼びかけるのでなく、 存在の可能性の把握を呼びかける。

 

したがって、 少なくとも『存在と時間』におけるハイデッガー哲学は言語の哲学ではなく、 言語の問題は、 状況、 了解、 解釈の問題の後に導入されてくる。

 

「いまやはじめて言語が主題となるということは、 言語というこの現象が現存在の開示性の実存論的機構のうちにその故をもっていることを、 暗示するはずである。言語の実存論的・ 存在論的基礎は語りである。語りは情状性および了解と実存論的に等根源的である。 了解可能性は、 我がものにさせる解釈に先立って、 いちはやくつねにすでに分節されている。 語りは了解可能性の分節化なのである。」*6

 

つまり、 語りを存在の構造の中に入れかえるのであり、 存在の構造を語りの中に入れかえるのではない。 『存在と時間』では、 語ることは話すことより優越している。 語ることは実存の構造を示すが、 話すことは経験に堕した世俗的な様相を示す。そこで、 語ることの第一の決定は、 話すことでなく、聞く=沈黙することである。 了解することは、 「聞くこと」なのである。

 

「語りが了解および了解可能性と連関していることは、 語ること自身に属している実存論的な一つの可能性つまり聞くことから、 判然となる。 われわれが次のように言っているのは偶然ではない、 すなわち、‟正しく” 聞いていなかったときには、‟了解して” いなかったのだ、と。 聞くことは語ることにとって構成的なのである。」*7

 

このように聞くことが優先することは、 ことばが世界や他者にむかって開かれた関係をもつことを示している。 このことは大きな方法論的帰結をもたらす。 すなわち、 言語学、 記号学、 言語哲学は話すことの水準にとどまり、語ることの水準には達しない。 話すことは話者に関係づけられるが、 語ることは語られたことに関係づけられるのである。

 

ハイデッガーの哲学は、 基礎へは溯っていかせるが、 そこから還帰すること、 つまり基礎的存在論から精神科学の認識論へひき返すのを不可能にする。 プラトンが示したごとく、 上昇的弁証法は下降的弁証法よりも容易なのである

 

新たなアポリアは存在論と認識論との間に存する。 これを克服するには、 再びシュライエルマッハーやディルタイに還ること、 すなわち解釈の第一の場に還ることである。

 

解釈学が開拓すべき第一の場は言語であり、 とりわけ書かれた言語である。 解釈学の歴史において、 釈義学や文献学に力点は絶えずおかれてきた。 テキスト、 釈義学、 文献学の問題にもどり、 それらとの絆を回復させることにより、 普遍性を実現することができよう。 もろもろの解釈学を個別化から脱却させるものは言語なのである。

 

2.ガダマ一における「疎隔」の概念

 

ハイデッガーの陥ったアポリアが、 ガダマーの『真理と方法』における解釈学的哲学の中心的問題となる。 ガダマーの解釈学*8は、 個別的解釈学から一般解釈学へ、精神科学の認識論から存在論へという二つの動きを綜合することをめざすだけでなく、 ハイデッガーとは逆に、 存在論から認識論的問題への回帰の動きを開始するのである。

 

ガダマーは歴史や伝統に対する態度を、 疎隔 (Verfremdung) と帰属(Zugehörigkeit) という対立する概念で表わす。 現在と過去との間の緊張関係こそ、 解釈学にとり、 中心的で生産的な要素である。

 

解釈学的意識と事物との問には、 「事実、 親和と違和との対極性が生じる。 解釈学の務めは、 まさにこの対極性に基づいている。*9

 

「われわれにとり、 伝統が占める位置は、 この親和と違和との中間である。史料編纂的な意味で、われわれから距離をおいた客観性と、 伝統への帰属との間に確立される、 この両者の問 (Zwischen)にこそ、 解釈学はその真の場をもつのである。*10

 

この疎隔と帰属の経験との問の葛藤は、 『真理と方法』では、 次の三つの領域で探求されている。 すなわち、 美的領域、 歴史的領域、 言語的領域である。 疎隔、 隔たりは肯定、 否定両面の機能をもつ。 ちょうど作品を鑑賞するのに適した美的距離があるように、 「時間的距離」をおいて、 はじめてテキストの言わんとするところが把握できる。

 

テキストの媒介するのは著者の生や意見ではなく、 テキストが指向するものである。 解釈学の課題はテ キストを理解することであり、 著者を理解することではない。 「時間的距離」と「歴史的了解」という二つの概念は、 このことを明証してくれる。 テキストが了解されるのは、 そこに人間問の関係が含意されているからではなく、 テキストが伝達する主題に参加できるからである。

 

「了解すること自体は、 主観性の行為としてよりも、 伝達の出来事に入ること、 とみなされるべきで、 常に過去と現在とは、 その伝達の出来事において媒介しあっている。*11

 

問題はこの時間的距離をいかにして埋めて、 テキストにおいて生じている意味の疎外 (Entfremdung) を克服するかである。 ガダマーはそこで適用 (Anwendung) という概念をもちだす。了解することは、 テキストを現代の状況に適用することである。 「われわれのテーゼは、したがって、歴史的解釈学もまた、適用の操作をおこなう、ということである。*12

 

ガダマーは人間が歴史からさまざまな影響を受けて形成する歴史的意識を反省して、 それを「作用の歴史の意識 (Wirkungsgeschichtliches Bewußtsein) と表現する。 それは歴史が常に作用している、 という意識である。 われわれは過去がわれわれにとって客体となるようには、 歴史的生成から離脱することも、 歴史に距離をおくこともできない。 われわれは常に歴史の中に位置づけられているのである

 

ガダマーはこの歴史的作用の意識を、 我=汝の対話関係によって説明する。 この汝は、 我の投影としての汝でなく、 語りかける伝統としての汝である。 この解釈学的関係における汝は、 我に語らせる開かれた態度をもった汝である。 我は、 汝の呼びかけに対して耳をふさぐのでなく、 歴史的作用の意識に含まれる伝統に対して開かれていなければならない

 

このような歴史的通産との出会いの経験が、 「解釈学的経験」である。 この経験とは「知ることではなく、経験に対して開かれていること」である。 テキストにおける我=汝の関係は人間関係ではない。テキストにおいて歴史的通産は語りかけ、要求し、読者はそれに応える相互性をもつ。 テキストをして語らしめる読者は、 対象というより、 主体としてテキストに対して開かれていなければならない。

 

そこでテキストにおける我=汝の関係は、 問い=答えの関係である。 テキストに対し、 問いがなされ、もっと深い意味において、 解釈者に問いがなされる。 解釈学的経験の弁証法的構造は、 それ自体、 問い=答えの構造を反映している。 しかしテキストは文字言語によって固定されたものである。

 

そこでテキストをギブ・アンド・テイクの対話関係に入らせる必要がある。 解釈学の課題は、 「テキストが陥っている (固定され、書かれた形として) 疎外からテキストを引きだして、 対話の生きた現在にもどすことである。 対話の最初の成就は問いと答えである。*13

 

テキストを了解することは、 テキストの問いを了解することである。 テキストを解釈することは、 意味または問いの地平、 テキストの意味の指向が決定されている地平と、解釈者の地平とが融合することである。*14

 

異なった状況に位置している二つの意識間の遠隔交流は、 両者の地平の融合 (Horizontverschmelzung, fusion of horizons) によって実現する。*15

 

逆にいえば、了解するには、 遠いもの、 近いもの、 開かれたものの間に隔りが前提されているわけで、 われわれが住んでいるのは、 閉じた地平でも、 唯一の地平でもない。 こうした地平の融合を可能にするのは、 人間の経験の言語性(Sprachlichkeit)である。 言語はわれわれの「生世界」を露わにし、逆に、世界をもつことは、 同時に言語をもつことである。

 

「言語の本質的に人間的な性格は、同時に、人間の世界内存在の根源的に言語的な性格を意味する。 それゆえわれわれが、 解釈学的性格の言語的構造に適合する地平に到達するには、 言語と世界の関係をたどらなければならない。*16

 

解釈学的経験は、 言語に先行するのでなく、 言語において、 言語を通して生起するものである。 言語性は、 歴史的人間が世界内存在となる道をきりひらく。 われわれの経験が普遍的に言語的であることほ、 われわれが記号、作品、テキストの解釈を必然的に経なければならないことを意味する。 作品やテキストにおいて、 文化的遺産は、 われわれが解読すべく、 われわれに提示されているのである。

 

「われわれは対話である。Das Gespräch, das wir sind」とガダマーはくりかえし語る。 しかし対話における了解は、 対話者を了解するのではない。 対話において、 言われたものが了解されるや、 対話者はいずれも消えてしまう。われわれは言われたものにおいて、 了解しあっている。

 

このような、 了解におけるものの支配は、 言語性が「書記体Schriftlichkeit」になるとき、 さらに明瞭になる。 つまり言語による媒介が、 テキストによる媒介となるときである。 距離をおいて伝達されるのは「ものとしてのテキスト」である。 これは著者にも、 読者にも属さぬものである。

 

 「会話におけると同様、 了解は言われたものの意味を強化するようにしなければならない。 テキストにおいて言われたものは、 テキストに附随する一切の偶有事から 切り離されて、 その理念性において捉えられねばならない。 その理念性の外側ではテキストは一切の有効性を失う。 こうして、書かれたものによる固定が、了解せんとする読者を、 真理の要求の弁護者とするのは、 まさに固定化が書かれたものの意味と、 書く人とを完全に分離するからである。*17

 

このような、 ものとしてのテキスト、 エクリチュールによる固定化がつくりだす、 新たな疎隔こそ、 精神科学の客観化を可能にするのである。

 

3.リクールの解釈理論における「疎隔」の機能

 

リクールはガダマーの『真理と方法』の本質的原動力となっている、 疎隔と帰属という対立概念を重視し、一見逆説的ながら、 疎隔の機能こそ、 テキスト解釈を可能にするものであることを、 ガダマー以上に積極的に強調し、 立証しょうとしている。 それはガダマーの延長であると同時に、 新たな展開である。*18

 

疎隔と訳した原語 Verfremdungは、 ブレヒトの演劇理論におけるVerfremdungseffekt によって知られてい る。 異化効果と訳されているその語は、 演技者がその役割との間に距離を保つことによって得られる効果を意味する。

 

リクールはVerfremdungをdistanciation aliénanteまたは単にdistanciationと訳している。 distanciationは新語であり、 前記の異化効果の意味のほかに、 対象と隔たりをおくことを意味する。 そしてリクールは むしろaliénanteという形容詞をはずして、 distanciationだけを用いる場合が多い。

 

リクールは「真理か方法か」、 「疎隔か帰属か」という二者択一を排し、 両者の弁証法的統合をはかろうとする。 「帰属の経験と疎隔との間のある種の弁証法が、 解釈学の内面生活の原動力、 鍵となるよう、 解釈学的問題の最初の場を移動させ、 解釈学の基本問題を再編成することが必要なのではないか、 と私には思われる。*19

 

リクールの解釈学の中心問題はテキスト解釈の問題であり、 それによってかれは、 ハイデッガーの「了解の存在論」を止揚しようとする。 リクールはテキスト解釈を通じて、 疎隔の概念を導入する。

 

「テキストは私にとり、 人間内コミュニケーションの特殊事例であるよりも、コミュニケーションにおける疎隔の範例である。 その意味で、 テキストは人間経験の歴史性の根本性格を示す。 つまり、 歴史性とは隔りにおけるコミュニケーション、 遠隔コミュニケーションなのである。 *20

 

リクールはテキストを、 文字言語(エクリチュール)によって固定されたもの、と簡単に定義する。 テキストにおいて、 疎隔はその本質的部分をなす。 疎隔の契機は、 エクリチュールにディスクールよる固定化の中に、 また言述の伝達に関するあらゆる現象の中に含まれている。

 

エクリチュールはディスクールの物質的固定だけに還元されないのであり、 その固定化は、 テキストの自律という、 はるかに根本的な現象の条件となるのである。 それは三重の自律である。 すなわち、 著者の意図に対する自律、 文化的状況やテキスト創造の社会的条件づけの状況に対する自律、 そしてテキストの最初の受け手に対する自律である。

 

テキストは作品の世界として、著者の世界を超えて自律している。そこでテキストの問題は作品世界の問題に移っていく。リクールは「疎隔」を媒介に、解釈学の問題を「世界」の問題に結びつけるのである。その過程を、リクールは次の五つの主題に分けて、順次たどっていく。

 

ディスクールとしての言語表現

 

ディスクール言述という、まとまった文を単位とする言語表現には、話しことばと書きことばの両方が含まれるが、話された場合にも、すでに原始的な疎隔を呈している。この原始的な疎隔は、ディスクールにおける意味と出来事の弁証法として現れる。

 

一方で、ディスクールは出来事として与えられる。つまりコードがメッセージ化され、ラングがパロール化される出来事である。ディスクールは人称代名詞などで、語る主体を示し、ディスクールは指示し、表現する世界をもち、ディスクールによって、世界が言語に到来する。

 

最後に、ディスクールは対話の相手、受け手をもつ。他方、ディスクールは意味として理解される。言語が意味するものであるとすれば、それはディスクールの出来事が意味へ超出することによってである。最初の疎隔は、‟言われたもの” の中における ‟言うこと” の疎隔である。つまりノエマとノエシスとの間の関係にそれは存している。

 

リクールはこの ‟言われたもの” と ‟言うこと” の関係を解明するのに、オースティン(J.L. Austin)やサール(J.R. Searle)の「言語行為Speech-Act」理論を参照する。*21

 

ディスクールの行為は次の三つのレベルに分かれる。

1.表現的行為(loctionary act)のレベル。つまり、言う行為であり、命題としての文により外在化される。

2.非表現的行為(illoctionary act)のレベル。つまり言いながらすることで、命令法、直説法といった文法的な範列で外在化される。

3.表現遂行的行為(perlocutionary act)のレベル。つまり話すことによってすること、これはディスクールの中でもっとも記述しにくく、もっともディスクール的でないものである。

 

このように、意味作用は命題としての文だけでなく、さまざまなレベルで、さまざまな相(アスペクト)を表し得るのであり、逆にそれがディスクールを作品や文書として外在化するのを可能にするのである。

 

作品としてのディスクール

 

作品概念の特質として、 リクールは次の三つを挙げる。 第一に作品は文より長い要素連続から成ること。 第二に、 ディスクールを詩、 物語などとするコード化の形式に従うこと。 第三に、 様式、 文体という個人に独白の形状を与えられること。

 

ディスクールの実現はここでは、 「作品に客体化される」実践活動となり、 制作や生産に特有のカテゴリーをディスクールに導入しなければならない。 作品の出来事とは、 様式化自体であるが、 それは複雑で具体的な状況と弁証法的関係に入る。 著者ということばは、 文体論に属する。話し手以上に、著者は言語作品における職人(アルチザン)である。それと同時に、著者というカテゴリーは、 それが作品全体の意味と同時であるという意味で、 解釈のカテゴリーでもある。

 

人は個人的作品を産みだすことにおいて個人となるのであり、 作品に自署することは、この関係の標識にすぎない。 作品を解釈することは、 作品におけるディスクールを識別することであるが、 このディスクールは作品の構造において、 構造によってのみ与えられるものである。

 

「それゆえ、 解釈とは、 人間が自分のディスクールの作品の中に客体化されることによってつくりだされるこの基本的疎隔の模写である。 *22

 

パロールとエクリチュールの関係

 

パロールからエクリチュールに移行するときに、 ディスクールに起るもの、 その第一は前述のように、 著者の意図からテキストが自律することである。 テキストの意味するもの、 言語的意味と、 著者の言わんとしたこと、 つまり心理的意味とは別の運命をたどる。

 

この第一の自律は、 ガダマーがその Verfremdung 概念に与える否定的ニュアンスには還元されない、 肯定的、 積極的意味をわれわれに認めさせてくれる。 この自律のおかげで、 著者の有限な意図からテキストが分離される可能性がでてくる。 エクリチュ ールによって、 「テキストの‟世界”は著者の世界を破砕する。  *23

 

テキスト生産の社会的条件についても同様であり、 テキストは新しい状況の中で再びコンテキストをつくりだせるよう、 コンテキストを破壊しなければならない。

 

これは読む行為によってなされることである。書かれたディスクールが対話としてのディスクールの条件を超えることにより、書く=読むは、話す=聞くの特殊事例ではなくなる。このテキストの自律は、次のような第一の重要な解釈学的帰結を導き出す。

 

「疎隔は方法論の産物ではなく、したがって余分なものでも、寄生的なものでもない。疎隔はエクリチュールとしてのテキスト現象を構成するものである。同時に、疎隔は解釈の条件である。Verfrendungは了解するために克服すべきものであるというだけでなく、了解を条件づけるものでもある*24

  

テキスト世界

 

このように作品解釈において、エクリチュールによる疎隔と、構造による客体化とを重視する以上、ディルタイ流に、エクリチュールの客体化を通して表現される異質の生を理解するという、心理主義的、歴史的解釈は受け入れられない。

 

としても著者の魂を理解することを断念したわれわれは、作品の構造を再建することにとどまってしまうのか。リクールはここで、「テキスト世界」という概念を導入する。どんな命題においても、フレーゲの言う意味Sinnと指示Bedeudung(リクールはこれをréférenceと翻訳する)が区別される。

 

意味は命題の思念する理念的対象で、それはディスクールに純粋に内在する。命題の指示は現実世界に到達しようとする主張である。指示をもたぬラングと、ディスクールはこの点で対立し、それは事物を指向し、現実に通用され、世界を表現するのである。

 

会話の場合、指示は公然であり、共通の状況によって決定される。テキストにおいては、エクリチュールが、何よりも作品の構造が、指示を根本的に変えてしまう。テキストにおいて著者と読者に共通の状況はなく、指示する具体的条件は、もはや存在しない。

 

しかしそのことがまさに「文学」の現象を可能にする。「文学」では、いかなる現実指示も廃棄される。他方では、現実に再び到達しないような、いかなるフィクティヴなディスクールも存在しない。ただしそれが到達するのは別のレベルにおいてであり、それは日常言語とは異なる、詩的言語の到達するレベルである。

 

フィクションや詩によってなされる、 第一段の指示の廃棄は、 第二段の指示が解放されるための条件である。 第二段の指示は世界に到達する。 それは操作可能な事物の世界ではなく、 フッサールの「生世界」、 ハイデッガーの「世界内存在」のレベルの世界である。

 

ここでリクールはハイデッガーに依拠して説明する。 解釈することは、 テキストによって企投された世界内存在の様態を認識すること、 テキストの背後にでなく、 前に展開される世界内存在のあり方を明白にすることである。

 

『存在と時間』における了解理論は、 他者理解には結びつかず、 了解は世界内存在の構造となる。 リクール は「企授」というハイデッガーの概念から、 意志主義的含意をとり去って、 それをテキスト理論に適用するのである。

 

「まさにテキストにおいて解釈すべきは、 世界の提示である。 すなわち、 そこに私の可能性を企投できるような世界である。 それを私はテキスト世界と呼ぶのであり、この独自のテキストに固有の世界である。 *25

 

テキスト世界は日常言語の世界ではなく、 したがってそれは現実との疎隔をなす、 新しい仕方の疎隔である。 作品によるこの現実指示は、 日常言語の指示と断絶する。 フィクションや詩によって、 新しい世界内存在の可能性が日常世界の中に開かれるのである。

 

作品の前での自己了解

 

テキストは、 それを媒介にしてわれわれが自己了解するものである。 いかなるディスクールも誰かにむかって語られる。 しかし対話の場合と異なり、 テキストの場合、 一対一の対話関係は与えられていない。 その一対一の関係は、 作品自体によって創りだされ、 制定され、 確立されるものである。 「作品は読者をみずから開拓し、 それによって作品固有の主観的な一対一の関係を創りだすのである。*26」 

 

テキストを了解することは、 読者の現在の状況にテキストを通用することであり、 それは伝統的に、 「同化 appropriation, Aneignung」と表現されている。

 

同化は、エクリチュールがつくりだす疎隔と弁証法的に結びついている。 同化によって疎隔は廃棄されない。 それはむしろ同化の相補物なのである。 疎隔のおかげで、 同化は著者の意図との感情的親和性を少しも帯びなくなる。同化は同時性、同質性の反対である。同化は疎隔による了解、遠隔了解である、と言うことができる。同化はまた、作品に固有の客体化と、テキストの構造的客体化と結びつく。同化は著者に応えず、テキストの意味に応える。

 

したがって、このテキストの意味のレベルで、読者はテキストに媒介されて、よりよく自己了解をすることができる。ここから重大な哲学的帰結がひきだされる。

 

「コギト主義の伝統に反し、また直観によって主体が自己認識するという主張に反し、われわれは文化の作品の中に登録された人間の記号という、大いなる迂路を通ってしか、自己了解できないのである。」*27

 

愛情も、憎しみも、あるいは自己も、それらが言語によって媒介され、文学によって分節されなければ、われわれはそれらについて何を知り得ようか。われわれが同化するテキスト世界は、テキストの背後にでなく、テキストのにある。

 

それは作品が発見し、展開し、啓示してくれるものである。了解するとは、そこでわれわれがテキストの前で自己了解することである。テキスト世界はフィクティヴになるにつれて、ますます現実的になるのだが、読者の主観性も、テキスト世界と同様に、非現実化され、潜勢化されるにつれて、ますます強化される。「読者として、私は自己を喪失することによってのみ、自己を発見する。*28

 

同化するためには、自己喪失と自己批判とが要求される。自己との疎隔は、テキストの前で自己了解するための条件なのである。ということは、了解するには、同化と同時に自己の脱同化(放棄)をも要求するのである。

 

このように5つの主題について分析し、検討した結果、「疎隔は了解の条件である」という結論に到達するのである。リクールはこのように、疎隔の概念を彼なりに精錬して、テキスト解釈理論のための有効な武器とした。

 

これはリクールがガダマーの古稀記念献呈露文集に寄稿した「テキストとは何かーー説明と了解*29」(1970)以後、彼の解釈理論の大きな発展と言えよう。

 

こうした探求を通してうかがえるリクールの企図は、個別的な解釈学を統合する一般的、哲学的解釈学を確立し、その上で再び個別的解釈学に帰ることである。その例証としてリクールは、哲学的解釈学から聖書解釈学へという道程を探ろうとしていることは、最近の二、三の論文で明らかである。そしてテキスト解釈理論の聖書への適用は、新しき信仰理解を導きだすのである。

 

たとえば「神の国」「新しい存在」といった神学的概念は、「テキストに含意され、テキストとともに始まる現実である*30」としている。それは日常的現実と隔たった、可能的現実なのである。

 

他方、リクールは、イデオロギー批判の立場からの J・ハーバーマス対ガダマーの論争を通じて、イデオロギー批判と解釈学は対立せず、イデオロギー批判は、解釈学的自己了解が経なければならぬ、必然の迂路である、と結論している*31。リクールの解釈理論はこうして、究極にはコギトの哲学の危機を救おうとする彼の反省哲学に収斂されるものである。

 

ー終わりー

*1:Paul Ricœur, La tâche de l'herméneutique in Exegesis, Delachaux & Niestle, 1975, p.179.

*2:Hans-Georg Gadamer, Wahrkeit und Methode, J.C.B. Mohr, 1960, 1965, 1973.本論における引用はリクールの監訳による次の仏語訳による。Verite et methode--Les grandes lignes d'une hermeneutique philosophique, Seuil, 1976.

*3:Cf. F. Schleiermacher, Hermeneutik, #15, #16, ed.H. Kimmerle, 1959.

*4:Ibid., p.56.

*5:Martin Heidegger, Sein und Zeit, 1927, p.37. 引用は原佑、渡辺二郎訳『存在と時間』中央公論社、p.114.

*6:Ibid., p.161. 邦訳pp.288-289.

*7:Ibid., p.163. 邦訳pp.292.

*8:管理人注:

*9:H-G. Gadamer, op.cit., p.279. 仏訳p.135.

*10:Ibid., p.279. 邦訳pp.135.

*11:Ibid., p.275. 邦訳pp.130.

*12:Ibid., p.295. 邦訳pp.153.

*13:Ibid., p.350. 邦訳pp.215.

*14:管理人注:

*15:管理人注: 

*16:Ibid., p.419. 邦訳pp.295.

*17:Ibid., p.373. 邦訳pp.241-242.

*18:管理人注:

*19:Paul Ricœur, Hermeneutique et critique des ideologies, in Demythologisations et Ideologies, Aubier, 1973, p.52.

*20:Paul Ricœur, La fonction hermeneutique de la distanciation, in Exegesis, p. 202.

*21:管理人注:

*22:Ibid., p.209.

*23:Ibid., p.210.

*24:Ibid., p.210.

*25:Ibid., p.213.

*26:Ibid., p.213.

*27:Ibid., p.214.

*28:Ibid., p.215.

*29:Paul Ricœur, Qu'est ce qu'un texte?--Expliquer et Comprendre, in Hermeneutik und Dialektik, J.C.B. Mohr, 1970, pp. 181-200.

*30:Paul Ricœur, La philosophie et la specificite du langage religieux, in Revue d'histoire et de philosophie religieuses, No.1, 1975, p.23.

*31:Cf. Paul Ricœur, Hermeneutique et critique des ideologies.