巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

女性であることの意味ーーエリザベス・エリオット

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女性であることが何を意味するのかを学ぶためには、まず、私を創造してくださった神を知ることから始めなければならない。

-Elizabeth Elliot

 

目次

 

男らしさ、女らしさについて

 

Elisabeth Elliot, Let Me Be A Woman, Chapter 17, Masculine and Feminine(抄訳)

 

女性解放論者たちは「女性であること」から解放されたいと思っているのでしょうか。

 

「いいえ。」と彼女たちは言います。「女性はこうこうあるべきという社会のステレオタイプから解放されたいんです。」

 

彼女たちによれば、男性と女性に根本的な差異はないというのです。すべては環境および条件づけによるものだと。

 

最近、科学者たちによって次のような非常に興味深い発見がなされました。それによると、両性それぞれの行動様式の要因を、社会要因だけに帰すことはできない、というのです。それに対してフェミニストはよくよく考えてみるべきではないでしょうか。

 

あらゆる社会において、男性がこれまで常に治め、これからも治め続けていくだろうその理由として、強い生理的要因(ホルモンのこと)が存在します。また、家長制(matriarchy)という考えは、神話的なものにすぎないということを私は学んでいます。というのも、そのようなものがかつて存在していたという記録は一つだに存在していないからです。

 

男性が治める(male dominance)というあり方が、ただ単に社会的条件づけにすぎないのなら、なぜ、それがこれまでずっと普遍的なものであったのでしょう。おかしくありませんか?

 

私たちをそれぞれ異なる風にお造りになったのは神であり、神は御目的をもって、そうなさったのです。神は男と女を創造され、男性には、呼びかけ、導き、先導し、治めるよう、そして女性には応答し、つきしたがい、順応し、従うよう仰せられました。。

 

たとい私たちが「種の起源」に関して異なる理論を持っていようとも、女性の肉体的構造をみれば、女性というものが元来、受け入れ、産み、補い、はぐくむように造られているということがよく分かります。

 

フェミニストによる議論の中に非常に多くみられる、根本的そして私にとって理解に苦しむ欠落は、彼女たちが、女性らしさについてほとんど何も語っていないことです。それはおそらく、服従すること、そして結び合うことの要素が、女性らしさそれ自体に包含されているものであり、それらは、文化的に定義された概念よりもずっと永続的かつ普遍的な重要性をもっているからだと思います。

 

この問題について考えるのであれば、まず肉体そのものの事から考察していくべきでしょう。

 

人間の体というのは、肉体、精神、霊で構成されています。精神が肉体の健康に及ぼす影響を否定する医者はだれもいないことでしょう。患者の心理的問題が肉体的にも影響を及ぼしている可能性があることを精神科医は知っています。霊的な問題が、肉体的、精神的な次元にも及びうることを牧会者たちも一様に認めています。

 

精神と肉体、そして霊の境界線を明確に区分できる人など誰もいません。それにもかかわらず、今日、あらゆる人間の特徴の中でも最も強力かつ否むことのできないものであるセクシュアリティーについては、それが単なる肉体的なものに過ぎず、肉体の領域を超えた重要性など何もないとみなすよう、私たちは求められているのです。

 

初代教会を悩ませた異端の一派がいました。彼らは、物質を無視するようクリスチャンに説いてまわりました。物質というのは、それ自体にあってただひたすら悪なのだと主張する人たちがいるかと思えば、物質が存在するというその現実さえ否定してかかる人たちもいました。

 

またある人々は人間の中にある霊的な性質だけが唯一価値あるものなのだと主張しました。だから、肉体のことなど忘れ去ってしまいなさいと。しかし、こういった部門化は、危険な試みです。聖書は、私たちが、霊、魂、肉体ともにそれらすべてを従順に導くよう教えています。

 

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あなたの持しているのは、女性のからだです。これは何を意味しているのでしょう。その目に見える特徴ーーやわらかさ、なめらかさ、(男性と比べて)軽い骨格および筋肉の構造、胸、胎の中に、不可視的な意味をみることはできないでしょうか。

 

こういった特徴は、あなたという存在とは全く無関係のものなのでしょうか。あなたのアイデンティティーは、こういった肉体的なかたちとも分かちがたく結びついていませんか。人格を理解するという私たちの探求の過程で、どうしてこれらを無視することなどできるでしょう。

 

あらゆる正常な女性は母親になるよう造られています。もちろん、すべての女性がその肉体的機能を実際に用いるようには召されていません。しかし、より深い意味において、母親であるという属性は、女性の本質です。母親であるということは、自己をさしだすこと、犠牲、苦しみを要求します。

 

いのちを与えるために死へと下っていくという、偉大な霊的原則をあらわした、偉大な人間のアナロジーです。(パウロはこう書いています。『こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。』)

 

女性であることは召命です。これは神の下で、私たちが応答していくべき使命(vocation)です。

 

もし、それが文字通りに、子どもを産み、はぐくんでいくことなら喜びをもち、さらに、より広い意味において言うなら、結婚していようとシングルであろうと、子どもを産むことのできる体であろうと、不妊の体であろうと、すべての女性がーー処女マリアに表わされているような無条件の応答、そして、苦しむこと、受け入れること、宿すこと、いのちを与えること、はぐくむこと、そして他者をいつくしみケアすることへの意思、これらに参与すべく召されていることに感謝したく思います。

 

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この召しに答えていく力は、私たちが自分たちを創造した「愛なるお方」を仰いでいく時、与えられます。こうして私たちがこの愛なるお方の要求に自らを従わせていくにつれ、私たちはより謙遜な者に、そして、主に対しても、お互いに対しても、より寄り頼んでいく者、ーーそしてさらに言うなら、より生き生きとした存在へと造り変えられていくのです。

 

恭順とは息苦しいこと?

 

Elisabeth Elliot, Let Me Be A Woman, Chapter 19, Is Submission Stifling?(抄訳)

 

恭順な女性とは、「思慮もなく、ただはいはいと従うことしかできない種類の人たち」なのでしょうか。

 

女性解放論者といわれる人々によってそのような批判が出されていますが、そういった批判は誤ったアンチテーゼを作り出す結果を生んでいます。

 

これは旧来の政治的戦法であり、相手にそのようなレッテルを貼ることにより一時的に自らの陣地を強化できたように思えるのですが、究極的には、それは自らを破壊していくものとなります。

 

折しも先日、この混沌状態を如実に表すような一通の手紙が私の元に届きました。少し前に、「解放についてのクリスチャンの見解」と題し、娘の大学で(特別優等生に選ばれた学生たちを対象に)講演を頼まれたのです。

 

その際に、当日、その場にいた卒業生の一人が、私に対する抗議文を大学側に提出してこられ、そのコピーが大学事務局から私の方に転送されてきたのです。その抗議文には次のようなことが書かれていました。

 

「大学を最優秀の成績で卒業したばかりの女性たちに向かい、『あなたがたの最大の満たしは、結婚という枠組みの中で一人の男性に恭順に従うことにあります。』と言ってのける講演者を、こんなご時勢に招待したとはまったく驚くべきことです。1世紀前でも、こんな発言は言語道断だったのではないかと思います!

 

 もしも私たち女子学生の主たる召命が母親業なのだとしたら、なぜこの大学は女性に高等教育など施しているのでしょうか?キリスト教界にいる知的な女性たちは、ただでさえ困難で傷の多い所に置かれているのです。彼女たちに必要なのはむしろ励ましであって、息苦しい締め付けではありません。私は個人的に彼女(エリザベス・エリオット女史)の成した業績に感銘を受けていました。しかし彼女が言っているメッセージというかレトリックがこれほどまでに実際と矛盾しているのを耳にすると、混乱を覚えます。

 

 少なくとも私たちのようにこの道を歩んできた者にとって、彼女のような存在は「矛盾を抱えた模範者(role model)」と言わざるをえません。本当に、今まさにこの道を闊歩しようとしている私たち卒業生にとって、彼女は深刻に混乱をもたらす存在です。」

 

このレターの書き手は、抗議の印として、本年度の大学寄付金を取りやめ、さらに、「大学側の講演者の選択は、『とりわけ不適切であった』」とつけ加えていました。

 

私は今まで一度も、自分が「矛盾を抱えた模範者」だと思ったことはありませんでした。いや、自分が誰かの模範的存在になっていると考えたことすらなかったと言えましょう。私のレトリックは自分のやってきた事と矛盾しているのでしょうか。私が言ってきたことは、「キリスト教界にいる知的な女性たち」を息苦しくさせ、締め付けるような内容だったのでしょうか。

 

私はこういった批判について熟考してみました。もしも「母親というのは本を書いたりすべきでない」のなら、たしかに私は「矛盾を抱えた模範者」なのかもしれません。

 

もしくは「恭順な妻が大学の講堂で話をするよう求められるはずがない」し、「大卒の女性が家の仕事を好むなどというのありえない」のなら、私は確かに「矛盾を抱えた模範者」でしょう。

 

しかし、自分のなした「業績」と矛盾しているのは、はたして私のレトリックなのでしょうか。それともこの女性自身のレトリックなのでしょうか。(彼女は対等主義的な両性の平等について著述・講演活動を行なっています。)

 

私が、「あなたがたの最大の満たしは、結婚という枠組みの中で一人の男性に恭順に従うことにあります。」という時、もちろん、対象として述べているのは、あくまで神様から結婚の賜物をいただいている女性たちのことです。そして彼女の最大の満たしは、その召命に従順であるその行為の中に見いだされるものです。

 

しかしこれは、神様のくださる他の賜物を否定したり、軽んじたりすることではありません。私は宣教師として、また著述家としての召命を受けています。

 

しかし何物であれ、「女性というのが本来、男性のために造られた」という根源的な事実に対する認識および任務に匹敵するものはないでしょう。それにこれは自分のこしらえた思想ではありません。これら全ては聖書から導き出されたものです!

 

私が言うこれらのメッセージを聞いて「息苦しさを覚え、締め付けられるように感じる」「知的な」女性たちは、聖書の意味する自由について、まだ理解することができていないのかもしれません。

 

神の奉仕は、私たちの祈祷書のいう通り、「全き自由」です。「母親たちには大学教育は必要ない」という先ほどの女性の見解にとまどいを覚えています。彼女は問うています。「それなら、この大学は何のために女性に高等教育を授けているのですか?」と。

 

もちろん、それは、神様が私たちに与えてくださった賜物を引き出す(draw out)〔educateの語源:ラテン語educatus.「e-(外へ)+-duc(導く)+-ate=能力を導き出すようにする」〕ことにあるのです。

 

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娘のヴァレリーへ

 

 「もし、あなたがこういった光の下に、女性であることの意味を理解するなら、あなたは命の満たしを体験するようになるでしょう。女性であることに対する神の召命に耳を傾けてごらんなさい。その使命に従順になりなさい。そして自らの内にあるエネルギーを奉仕に注ぎ込みなさい。あなたに任せられた奉仕は、夫に対するもの、あるいは夫や家族に仕えることを通し、世界に仕えていくような種類のものかもしれません。

 あるいは、神の摂理の下、仕えるべき召命のために、あなたは夫や家族を持たず、独身としてとどまらなければならないのかもしれません。その場合も、あなたは命の満たし、自由の満たし、そして喜びの満たしを体験していくでしょう。」(Chapter49, Love Means a Crossより抄訳)

 

主よ、私を真の女性とさせてください

 

Elizabeth Elliot, Let Me Be A Woman, Chapter 44, Be A Real Woman(抄訳)

 

真の女性が求めているのは真の男性です。そして真の男性が求めているのは真の女性です。

 

女性は、男性の男らしさに惹きつけられます。そして男性は、女性の女らしさに惹きつけられます。

 

あなたが女性らしくなってゆけばゆくほど、あなたのご主人は今以上に男らしくなっていきたいと願うようになるでしょう。

 

ロシアの哲学者ベルジャーエフはこう言いました。「女性解放の思想は、両性間に横たわる深い敵意、ならびに嫉妬やまねごとに基づいている。こうして女性たちは単なるパロディー、偽の人間存在になろうとしている。」

 

神の御目的を理解しているクリスチャンにとっては、敵意や嫉妬、模倣への渇望などはありえないことです。

 

私たちは自分のセクシュアリティーをある意味「克服するよう」求められてはいません。その反対に、私たちはそれを肯定します。そしてその中に喜びを見い出します。

 

私たちはそれを神からの賜物として用いることを求めつつ、それに対して忠実でありたいと願います。自分の性に対して不誠実であることは、すべての人に対する不誠実でもあります。

 

なぜなら、男性たちとの関係においても、他の女性たちとの関係においても、女性は女性である必要があるからです。そして男性は、女性たちとの関係においても、他の男性たちとの関係においても、徹頭徹尾、男性でなければならないからです。

 

自分の男性性に対して誠実でない夫は、妻を欺いており、その逆もまたしかりです。ここで私がお話している誠実さとは、神の召命に対する私たちの応答のことです。一方が男性として召され、もう片方が女性として召され、二人は一体となり、一体になることを通して、二人は神と一つになります。

 

どの社会においても、それぞれの性に適応されるものとして理解されている期待というものが存在します。もちろん、そこで期待されているものというのは、時代や場所によって異なるかもしれませんが、男性らしさ、女性らしさにおける独自性というのは、歴史を通して一貫しています。

 

しかし現代社会において、この独自性を亡きものにしよう、男性がしていることを女性にもさせようという試みがなされるようになりました。男性の仕事は、それがどんなにつまらなく、おもしろくもなく、困難であっても、一般にそれは、女性の仕事よりも価値があるとみなされています。

 

「機会均等」という時、必ずといっていいほどそこに含まれているニュアンスというのは、「女性のしていることを男性がしたいというのではなく、男性がしていることを女性がしたい」というものです。つまり、特権というのは、女性の仕事ではなく男性の仕事に付随しているという前提がそこにあるのです。

 

女性の仕事、特に子供を産み育てるという、創造の掟によって女性だけに託された任務は、価値の低いものとみなされているばかりか、いやしめられ、「動物的だ」とさえ言われています。

 

これは真理に対するおそろしいまでの歪曲です。それは男性の基準によって女性を計り、異質な型に女性を無理に押し込め、彼女たちを本来召されているものへと導いてくれる賜物それ自体を奪う企てです。

 

女性らしさを、男性らしさの範疇の中に無理に押し込めることは、お肉をじゃがいもの基準で判断するのと同じくらい荒唐無稽な行為です。

 

あなたは、神の恵みによって、女性とされているのです。それはあなたに責任があることを意味します。あなたは余すところなく完全に女性です。そしてそれは特権を意味します。他方、あなたは女性にすぎません。それはあなたに限界があることを意味します。

 

あなたのご主人は男性です。彼は余すところなく完全に男性であり、また同時に、男性にすぎないのです。このことを神さまに感謝してごらんなさい。そしてフルにそれに生きてごらんなさい。

 

ー終わりー