大学が ‟デイケア託児所” に様変わりする時ーー高等教育機関に忍び寄る「セーフ・スペース」文化
アフリカ系アメリカ人であるジェームズ・サイダニウス教授(ハーバード大学)は、「セーフ・スペースをマイノリティー学生に提供することは彼らにとって却って有害である」と述べています。(情報源)
執筆者:エミリー・ジョーンズ
さて8月になり、多くの高校卒業生たちは、新学期に向け、それぞれの大学に向かおうとしています。
しかし、大学に入学した新入生たちを往々にして待ち受けているのは、高等教育機関というよりはむしろ、デイケア託児所的な雰囲気のキャンパスです。
自分にとってチャレンジとなるようなさまざまな異なる思想や考えと向き合い、オープンにそれらを議論するのではなく、最近の学生たちは、自分とは意見の異なるものを見聞し、読むことを避けるべく、「精神的セーフ・スペース」や「トリガー警告」といったものに赴こうとしています。
Clare Boothe Luce Policy Institute “Safe Spaces” Are Unsafe for Free Exchange of Ideas(2015年4月ジョージタウン大学)
Safe Spaces | Trigger Warnings | Campus Feminism | Sommers(2015年4月、ジョージタウン大学)
「私たちはみんなに居心地よさを感じてもらいたいのです。そして大学の中で、‟周りの人が異なった意見や信条で自分を混乱させる。みんな自分が信じているものに反対している” って思ってほしくないのです。」と、一人の学生はCBNニュースの取材に答えました。
セーフ・スペースやトリガー警告をその極限まで持っていく学生たちは、自分たちの気に入らない大学講師たちに対し抗議し、攻撃を加え、果ては、講師たちが教室で講義できないよう妨害行為をしようとしています。
ベン・シャピロ(Ben Shapiro)を例に挙げてみますと、学生たちは、大学キャンパスで保守的な価値観を述べる彼の言論を定期的に妨害し、抗議し、時には力づくで言論をやめさせようとしています。
「私たちそれぞれの見解は、その価値を基盤にすべきであって、言論者の皮膚の色や、性別、性的志向などを基盤にすべきではありません。そしてそれぞれの見解は、それらが誰かの気を悪くさせたからという理由で決して禁止させられてはなりません。」シャピロは語っています。
クリスチャン・カレッジもまた例外ではありません。オクラホマ・ウェスリアン大学のエヴェレット・パイパー学長は最近、『デイケア託児所ではない。ーー真理を破棄したことによって生じた破壊的結果 "Not a Daycare: The Devastating Consequences of Abandoning Truth"』という本を出版しました。
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執筆者:クリス・バーグ
たしかにトリガー警告やセーフ・スペースは社会の中で必要な役割を持ってはいます。しかしながら、米国の諸大学におけるこれらの蔓延は、すでに独断的(dogmatic)レベルにまで達しつつあり、ある場合においては、教育本来の目的に相反しています。
イェール大学およびミズーリ大学で起こった最近の出来事から明らかに見て取れるのは、大学の教室におけるトリガー警告やキャンパスにおけるセーフ・スペースを促進させようとする運動がドグマチックな倫理的〈反自由主義 illiberalism〉に変貌しつつあるということです。
ミズーリ大学において、反レイシズムの活動家たちが、「公有地における抗議野営地は自分たちにとっての ‟セーフ・スペース” だ」と宣言しました。学生ジャーナリストであるティム・タイが、この抗議に関して報道を試みました。その際、何が起こったのかをこのビデオで見ることができます。
ビデオの前半部分では、活動家たちがタイを取り囲み、彼を脅そうとしています。そしてビデオの最後10秒では、マスメディア学の助教授が、公的抗議運動を単に撮影しようとしていた別のジャーナリストを締め出すよう、‟腕っぷしの強い男(muscle)”を求めて叫んでいます。〔中略〕
これらの出来事をみますと、大学内でのトリガー警告、セーフ・スペースといった一見したところ無害な運動のように見えていたものが、いかにして「高等教育の場における論争的諸思想をめぐっての競合」に対する全面的攻撃へと劇的に転移していっているのかを私たちはみることができます。
トリガー警告の背後にあるもともとの考えは、深刻にしてむごい心的外傷を受けた学生たちに対し、彼/彼女が授業の中で不快な内容を耳にすることがあるかもしれない、ということを事前に知らせてあげようという配慮でした。
こういった理由づけは十分に理解ができますし、たしかに人文科学系の教材の中には、かなり強い内容が含まれていることも事実です。また女性ルームのようなセーフ・スペースも、一種の善意施設としてみることも可能だと思います。
しかしながらトリガー警告は常軌を逸した荒唐無稽なものになってしまっています。学生たちの中には、古典文学にもトリガー警告を要求している人々がいます。そしてセーフ・スペースは、幼児化した学生たちが各種異なる思想から隠れるための場所に変形しつつあります。
現在、この運動は、公開議論に対する全面攻撃と化しています。そしてこの中で、高等教育のあらゆる経験が、外傷後ストレスゾーンとして新たに概念化された上で、学生たちは、他の人々の持つさまざまな異なる表現や思想から自分たちを守るようにと、教師たちに要求しているのです。
「心理学的危害」という語を用いつつ、人々は、いろいろな意見や考えを、「反証」するのではなく、それらを「糾弾」しています。個人的な感情体験以上に、自由な言論に‟特権”を与えることは間違っていると彼らは言います。*1
こういった一連のこと以上に、教育の本来の目的に相反しているものはないように思われます。教育の目的ーーそれはもっとも広義な意味において、個人的経験の《外側》にあるさまざまな思想や考え方に組織的に触れることです。
そしてこれはジョン・スチュアート・ミルによって展開された、「言論の自由」擁護のためのかの有名な議論と合致しています。ミルは、「相反する諸意見を聞くことによりーーそれらを考慮し、破棄する目的のためだけだったとしてもーー私たちは知的に成長することができる。*2」と言っています。
このように自由な言論と、教育というのは互に堅い結びつきを持っています。ですから前者が制限される時、後者が妨害されるのです。学生たちが他のさまざまな強い意見から過度に保護されるような教育システムは、そういった健全な発展を窒息させてしまいます。
むしろ人は、「イェール大学を卒業した暁には、『○○の諸思想がなぜ間違っているのか』ということを立派に論証できるようになっていたい」ーーそう願うべきではないでしょうか?
ー終わりー
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