巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

何によって/誰によって、人の解釈は正しいとされるのだろうか?ーークリスチャンの真摯な努力とジレンマ

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目次

  

例①「聖霊が示してくださったので、ここの聖書箇所においてAという解釈が正しいことを私は確信している。」

 

この発言が妥当なものとされるために、私はすべての時代、すべての教派、すべてのクリスチャンに次の事を言うことができなければならない。

 

ー私の解釈は正しい。なぜなら私の解釈の正しさの根拠は聖霊なる神ご自身の直接的示しにあるから。また、聖霊が私にAという解釈を与えたからには、聖霊は、A以外の相反するいかなる解釈も与えない。なぜなら御霊なる神は、その正しいご性質ゆえに、互いに矛盾した解釈を神の他の子どもたちに示すような混乱したことはなさらないから。もしそうならば、公義なる神のご性質そのものに疑問が差し挟まれることになる。

 

従って、私にAという解釈を与えてくださった御霊なる神の義が証言されるべく、私は、自分とは異なる聖書解釈をしているあらゆる教団教派のあらゆるクリスチャンたちに対し、「あなたがた全ての諸解釈は間違っており、神から来たものではない。ただ唯一、聖霊より示されしAという解釈だけが正しく聖書的である」と言うことができなければならない。

 

これを断言することができなければ私は神を偽証人とする罪を犯してしまう。逆に言えば、これを断言することができない時、私は、神の正しさが証言されるべく、「聖霊が示してくださったので」という(主観的な?)フレーズを取り下げなければならない。

 

例②「私は帰納的な読み方をしたがゆえに、ここの聖書箇所においてBという解釈が正しいことを確信している。」

 

この発言が妥当なものとされるために、私はすべての時代、すべての教派、すべてのクリスチャンに次の事を言うことができなければならない。

 

ー私の解釈は正しい。なぜなら私は「聖書が聖書を解釈する」の原則に基づき、且つ、偏見眼に遮られることなく帰納的にここの聖書箇所を読み、そこから解釈が導き出されたということを確信しているから。

 

認識論的観点から言っても、人が純粋に帰納的聖書の読み方ができるということを私は確信している。逆にいうと、Bという解釈に至っていないすべての時代のすべての教派のすべてのクリスチャンは、どこかで「演繹的」な読み方をしてしまっており、それがゆえにBという正しい解釈に至ることができていない、ということを私は確信している。

 

ゆえに、Bという正しい解釈に至ることのできていないあなたがその誤りから矯正される唯一の方法は、あなたのかけている特定の解釈レンズを一旦取り外し、まっさらさらな状態で帰納的に聖句を読むことである。(そうするとあなたもBという解釈に必然的に導かれることになろう。)

しかし、それが純粋に帰納的であることを私はいかにして客観的に人に示すことができるのだろう?

 

例③「私は○○的視点で聖書を読むことを習得したため、ここの聖書箇所においてCという解釈が正しいことを確信している。」

 

この発言が妥当なものとされるために、私はすべての時代、すべての教派、すべてのクリスチャンに次の事を言うことができなければならない。

 

ー私の解釈は正しい。なぜなら、「○○的視点=‟聖書的”視点」であり、「非○○的視点=‟非聖書的”視点」であるから。従って、Cという解釈に至れていない、あらゆる時代の、あらゆる教派の、あらゆるクリスチャンたちは、どこかで非○○的な読み方をしてしまっており、それがゆえにCという正しい解釈に至ることができていない、ということを私は確信している。

 

ゆえに、Cという正しい解釈に至ることのできていないあなたがその誤りから矯正される唯一の方法は、あなたのかけている非○○的解釈レンズを取り外し、○○的視点で聖句を読むことである。(そうするとあなたもCという解釈に必然的に導かれることになろう。)

しかしながら実際、過去・現在を合わせ、これまで生き、死んでいった何百億というクリスチャン人口の内、約何パーセントが○○的視点を持てていたのだろう?さらに、○○的視点が聖書的であるということはいつ、誰によって、どのような権威の下に裁定されたのだろう?