巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ドグマ、懐疑、モダニティー、そしてゲットー神学ーーある信仰者の精神の軌跡

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出典

 

Fr. Aidan Kimel, Dogma, Doubt, Modernity and Ghetto Theology(抄訳)

 

先月、ピーター・エンズは「経験はわれわれに、ラディカルに非ドグマチックであれと教える」という論文*1を発刊しました。このタイトルを読んでまず私は「おお、〔このような言明をする〕エンズ氏は逆になんとドグマチックなことであろう!」と思わざるを得ませんでした。

 

〔中略〕クリスチャンはイエス・キリストに対する信仰においてラディカルに非教義的(undogmatic)であるべきだとのエンズ氏の提示に同意することは私には不可能です。、、福音はそれ自体いとも深遠に供するよう私たちを招くべく、土台的教義となり、それを通してあらゆるリアリティーが真に理解され得るようになります。

 

レスリー・ニュービギン(Lesslie Newbigin, 1909-1998)は次のように書いています。「イエスの復活をーーそれが基盤であるところの世界観を除くーーその他いかなる世界観の型にフィットさせようとする試みはこれまで決して成功したためしがなかった。」*2

 

確かにニュービギンは、(エンズが戦っているところの)聖書主義ー無謬主義の立場にはほとんど同情を示さないかもしれません。しかしニュービギンはおそらくエンズや歴史批評学メソッドのすべての実践者たちに対し、「確実性に対する啓蒙主義批判はそれ自体もまた、批判と懐疑にさらされている」ということを忠告するだろうと思います。

 

あらゆる形の知的問いは、単に前提され自明のものと捉えられている哲学的予断に基づいています。私たちは全てを疑うことはできません。それは自分が腰かけている枝をのこぎりで切り落とすような行為に等しいのです。

 

ニュービギンは続けて次のように言います。

 

「マイケル・ポランニーが『疑いに対する批評』と呼ぶところのものを私たちは必要としています。何かの言明を疑ってかかろうとする際、私たちはある種の『信仰(beliefs)』を基盤にそうしているのであり、ーー疑うという行為のさなかにあってーー私たちはその『信仰』を疑っていません。

 

 つまり、私がある一つの言明の真理を疑うことができるのはひとえに、それが、自分が真だと信じているところのその他の諸事物(通常、非常に多くの事物)を基盤にしてのみ為され得るのです。言明と、その言明が疑ってかかられているところのものを基盤にした『信仰』、その両方を疑うことは不可能です。」*3

 

そうした上でニュービギンは、はっきりと主張される必要のある次のような内容を語っています。「『疑いとはある意味、信仰よりもより正直である』という意見が、現在、非常に広範囲に渡って支持されていますが、これは完全に不合理で筋の通らない偏見です。これはドグマチズム(独断主義)の一形態であり、完膚なきまでに破壊的です。」*4

 

私たちは皆、実践的なドグマチストです。

 

ピーター・エンズのような福音主義者たちが霊的・神学的生活の中における『疑いの果たし得る創造的役割』について言及している(例:彼の論文“The Benefit of Doubt“を参照)背景は理解できますが、彼のアンチ・ドグマチズムは哲学的にナイーブです。

 

たしかに私たちは時として、自分の神学的解釈や構造の妥当性について省察/自問するかもしれませんし、そうする必要があります。しかし、もしも私たちが真にクリスチャンでありたいと望むのなら、私たちは ‟ドグマチック”なクリスチャンとしてのみそれを為すことができます。そしてその事実は、私たちが近代、ポスト近代、どの世界に住んでいようが変わりません。

 

10年前、私は(25年間、司祭として務めてきた)米国聖公会を離れ、ローマ・カトリック教会に移りました。私がそうした理由の一つは、教導権(magisterium)及び教会的無謬性に関するカトリック教会の理解は、当時プロテスタント諸教会に支配的だった啓蒙主義イデオロギーの腐食的懐疑主義からの実行可能な脱出を提供しているのではないかと考えたからです。

 

個人的裁断(“private judgment”)に関するジョン・ヘンリー・ニューマンの批評は、自分にとってかなり説得力を持つものでした。そしてこの問題に対する彼の解決策は、ローマ教皇にフォーカスを置いた教会的無謬性でした。

 

しかしローマ教会に転向後、時を置かずして私は気づいたのです。--教会的無謬性というのもまた、ある種の誤った信条や実践を支持するよう私たちをけしかけ得るのであり、こういった信条や諸実践は、結局のところ、良くて見当違い、そして最悪の場合、誤謬かつ破壊的なものであると判断せざるを得ないものでした。

 

結局、テベル川彼岸のローマ側に移っても、ニューマンがあれほど激しく非難していた個人的裁断を相も変わらず行使している自分を発見したのです。それで、ニューマンが信じていたようには自分は信じることができないという事実と、それから、非カトリックの兄弟たちに自分はローマ教会を心から推薦することができないという二つの事実により、私は「ローマに転向した自分は判断を誤ったのだ」という結論を下すに至りました。

 

ある人は、私が妥当性を欠く理由によりカトリシズムに改宗してしまったのだ、もしくは、私は十分に代価を査定することができていなかったのだと言うかもしれません。そうかもしれません。

 

しかし、多くの場合、そういった事は後になって初めて分かるものです。つまり、人は実際に経験する中で、自分自身の信仰を試され、それまでは自分の内に隠されていたさまざまな動機が浮かび上がってくるのです。ーーそして驚くなかれ、実際、隠れた動機というのは常に存在するものです!私たちの主は、自分たちがめざとく兄弟の目の中のちりには気づくのに、自分の目の中の梁には気が付かないことを警告しておられます(マタイ7:3-5)。

 

そして、それゆえに、私はローマ教会を離脱し、東方正教会に入りました。しかし私は勝ち誇り、意気揚々とした様でそうしたわけではありませんでした。もうその時点で私は痛ましいほどに打ち砕かれていましたし、‟バラ色の正教会ライフ” とか、東方教義の神学状況に対するロマンチックな幻想を抱いていたわけでもありません。

 

私はモダニティーからのこぎれいで整然とした脱出劇を求めてもいません。ーーそういうこぎれいで整然とした脱出というのは存在しません。また私は、インターネット上に溢れている正教の弁証家たちの書き物や、多数の20世紀正教神学者たち、アトス山の苦行僧たちの書物の内にみられるデマゴーグ的アンチ西洋主義のがやがやに関わるつもりも一切ありません。

 

アンチ西洋主義はきわめて西洋的です(Anti-Westernism is so very Western.)。ただ単に教父の著述を引用するだけで自己満足し、モダニティーによって提示されている数多くの困難な諸問題に対する必要不可欠な取り組みを避けているような種類の正教神学は、「神学」という語を授与されるに値しないと思います。ーーそういうのは単なるゲットー的イデオロギーに過ぎません。それゆえ、セルゲイ・ブルガーコフ(Sergius Bulgakov)は次のように言っています。

 

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Mikhail Nesterov作「Philosophers (1917)」。左が Pavel Florenskyそして右側がSergei Bulgakov.

 

「ある特定の時代に対する教義(dogmas)の制限は、教義の存在自体に対する軽減となるでしょう。なぜなら、それは人間の諸制限を神の豊満性に適用しようとしているからです。教義というのは、所与の性質の中において静的であるだけでなく、その役割、その発展において動的でもあります。

 

 そしてこの動的性質は、歴史の中におけるドグマの開示の中に表現されており、教義学(dogmatic theology)の中における私たちの理解および詳説の中においても表現されています。それらは教会の活きた経験の中で授与されるものであると同時に、教義的思想そして教義的創造の中で実現され結晶化されるのであり、それらの外側には教義学なるものは存在しません。

 

 こういった文脈の外側では、それらは枯渇した死せる目録と化してしまいます。今日、教義学の創造的使命はしばし、告白主義という形をとった見せ掛けの弁証的働きによって置き換えられています。ーー見せ掛けの弁証的働き、つまり、〈非正教ドグマ〉と対照あるいは対立させたうえでの、〈正教ドグマ〉の擁護および詳説です。

 

 しかし、神学はそれ自身を教会教理の持つ積極的にして活動的開示に向けて発信しなければならず、それは教会生活の中に内包されていなければなりません。換言すると、それは神秘的、リトルジカル的、そして極めて歴史的なものとならなければならないということです。この教えは、新しい教義的諸問題の前にひるんではならず、逆に、非常なる注視および創造的大胆さの持つ全き力をもって力強く言及されなければなりません。」*5

 

冒頭のエンズやニュービギンやモダニティーのことからやや脱線してしまったかもしれません。現代人として私たちは今、混沌の中に生きており、それらに対する解決策を私は見い出していません。解釈学的、神学的難問の解決に取り組むような哲学を前進させることに比べれば、避ける必要がある(と自分の考える)数々の誤りを見い出すのは比較的容易です。

 

最終的に私ができることは、主イエス・キリストに信頼を置くことであり、この御方は断固として、そしてきわめて教義的に次のように宣言しておられます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

 

ー終わりー

*1:Experience Teaches Us to be Radically Undogmatic

*2:Lesslie Newbigin, Honest Religion for Secular Man, p. 53.

*3:Lesslie Newbigin, The Gospel in a Pluralist Society, p.19.

*4:同著p.20.

*5:“Dogma and Dogmatic Theology,” in Tradition Alive, p. 76