巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

新しい天地を共に目指すためにーー離れ離れになった友たちとの再会と新しい出発を祈りつつ

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ガラテヤ書講解(安黒務師、説教メモより)

 

ガラテヤ書の書かれた時代、エルサレムには字義的に解釈された旧約聖書、十戒、戒律の奴隷となったユダヤ教の総本山があった。しかし、天にあるエルサレムの神様の臨在の中には自由があるとパウロは言っている。

 

キリストを信じるだけで、神の民となる。イサクがアブラハムから生まれただけで、相続人となった様に。だが、正しい嫡子イサクを霊的な意味を知らないイシュマエルは馬鹿にしてからかった。ユダヤ教キリスト派が異邦人キリスト者に「割礼や戒律を守らないで救われたと言えるのか?」と馬鹿にした様に・・・

 

パウロはこんな誤った教えがキリスト教会に広まる事を許せなかった。旧約の衣を脱ぎ捨てて、キリストの御霊によって生まれ変わった者は後ろを振り返ってはならないのだと、その場の軋轢を恐れずはっきりと示した。このパウロの姿勢が後々のキリスト教会の歩みを決定づけたと私は思う。

 

しかし、今なお、旧約聖書の外側だけを見て、聖書はユダヤ人を中心として考えるべきだ、カナンの地はパレスチナ人の物ではなくて、イスラエル人の物だと言っている人々がいる。日本の教会にもディスペンセーション主義聖書解釈やキリスト教シオニズムに一生懸命になっている人々がいる。彼らのほとんどは間違った教えを信じているが真面目なクリスチャンたちである。

 

どうにかして、彼らが奴隷の女の子供ではなくて、自由の女の子供になって欲しいと、このガラテヤ書のパウロと同じように私も祈っている。新しい天地を共に目指すために!

 

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「キリスト教シオニズムの集会」も頻繁に行われており、その中の一つが ‟ハイナイト” という祈祷会である。そのプログラムをみると、第一のポイントでは、イスラエルの情報が満載、第二のポイントで日本のリバイバル、そして最後に “問題点” が隠されている。その問題点とは「聖書を、“民族としてのイスラエル” を軸として解釈する」ように導く教えである。第一と第二のステップで自然に心を開くように“あしらわれた” 人は、第三のステップを吟味し拒否することはきわめて困難であると思う。

 

こうした集会に参加していると、知らず知らずのうちに、「使徒的な聖書解釈」とは違った方向に導かれてしまう。、、私たちの学ぶべき、「使徒的解釈」を確立したパウロは、ユダヤ教徒の中でも特に熱心な信者であった。幼い頃から旧約聖書を学び、熟知していた彼が、「実ははき違えていた。」と告白しているのである。

 

「イスラエル民族を中心に書かれている」と思っていた旧約聖書が、実は、「キリストについて預言し証詞された書物」であるとわかったというのである。このことを彼がわかったのは、誰かに聞いたのではなく、「直接キリストからの啓示」として教えられたとパウロは証言している。

 

彼が熟知していた旧約聖書は、“始原的” に「キリストの恵み、キリストの福音」で満ちており、聖書は、「キリストのことを証詞する書物」であると確信したので、今までの全ての物を"塵あくた"だとまで思うと告白しているのである。

 

この章が書かれているメッセージの本質を今日の文脈の中で聞き取ると、「旧約聖書の影」からキリストの福音を再解釈しようとすると、「全く別の解釈」になってしまう。つまり、「ユダヤ教的解釈」になると、キリストの福音が、「イスラエルを中心とした福音」に“変質”してしまう、との警告として聞こえるのである。

 

教会の牧師や神学校の教師は羊である信徒や牧師となっていく生徒を「正しい方向」に導く責任があるのではないか。招こうとしている講師が「どういう背景」の人か、その人が「最近どんな教え」をしているのか?、「どんな集会」を開いているのか?、「間違った教え」や「間違った聖書解釈」をしていないのか?ちゃんと“吟味”した上で招く必要がある。

 

その人の話す内容は「イエス様中心」なのか?もしそうでなければ、パウロは "アナテマ!"、つまりその様な者は "のろわれよ!" とまで言っている、危険であると語っているのである。

 

パウロは「人間から」ではなく、「キリストの啓示」の受け、人には相談せずに異邦人への伝道を開始した。「福音理解」において、“右往左往”したり、“八方美人” にはならない、良い意味、正しい意味で “堅固に、自立した働き人” であった。

 

「キリストだけ」を信じよ!、我々の祖先であり、「ユダヤ民族であるアブラハム」ではなく、「キリストの復活信仰と同じ信仰によって御霊に導かれたアブラハム」から学びなさい。また、「姦淫の罪にまみれたが、悔い改め、罪を赦されたダビデ」の様に、「キリストの十字架の赦し」のみを握りしめて歩みなさい。

 

キリスト教会を激しく迫害してきたパウロの回心を、弟子達はすんなりとは認めなかったに違いない。だから、一部の弟子達としか会うことが出来なかったとある。しかし、「パウロが語る福音」が、「弟子達の語る福音」と “同じものである” ことを確かめることが出来たと書いている。

 

今日のキリスト教会もそうあらねばならない。我々の信じる信仰は、「キリストのみ、恵みのみ、信仰のみ」であると・・・

 

ー終わりー