巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

男性が男性らしくあれるように――強靭な男らしさのためのスペース造りと女性たちの配慮(by レスリー・ルディー)

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目次

 

Leslie Ludy, Letting Guys be Guys: Making Room for Strong Masculinity, 2012(拙訳)

 

男らしすぎるのはアウト?

 

最近、私は、ある女性集会でお話をしたのですが、その席で私は主人のエリックにもスピーチを頼みました。

 

そこで、集会の締めとして主人が、情熱と権威をもち真理を語ってくれたのです。彼の言葉は愛と憐れみに満ちていましたが、それと同時に力に満ちたものでもあり、多くの女性たちが感銘を受けたそうです。

 

しかしながら、そんな彼のメッセージにひどく憤慨された女性たちもおられました。彼女たちの憤慨は、主人の語った真理そのものに向けられていたのではなく、彼が力をもってそれを語った、その行為に気分を害されたのでした。

 

端的にいうと、問題は主人の語り口が、ちょっと「男らしすぎた(too masculine)」ことにありました。もちろん、これは女性の集会だったので、こんなに「男性的な」何かを聞くことになるとは予想していなかった方もおられたのかもしれません。

 

しかし、一人の女性として私は個人的に、福音の真理をこのように力強く、権威の満ちた仕方で語ろうとしている男性の姿に、励ましと感銘を受けます。

 

しかし現代の多くの女性たちは私とは違った見解を持っていらっしゃいます。彼女たちは、気骨があり、剛毅な男性よりは、やんわりしたソフトな話し方の、ちょっと及び腰の男性の方を好んでいるようなのです。

 

でもよくよく考えてみると、それは皮肉なことだと思います。女性たちは男性が立ち上がり、誉と尊敬を受けるにふさわしい勇猛で英雄的な姿を見たいと強く望んでいるのです。それなのに、いざ真に男らしい男性に遭遇するや、私たちの女性感覚はそれに苛立ちを覚えてしまうことがよくあります。

 

世俗文化による思想教育 

 

なぜでしょう?なぜなら、私たちの女性感覚は、世俗文化によって「教育」を受け、仕込まれてきているからです。そしてその文化は、「男性が真の意味で男性になることは社会的によろしくない」というメッセージを私たちに発し続けているのです。

 

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見るからにさえない&情けない男として描かれているディンウォール家の長男(メリダの求婚者の一人):2012年に公開されたディズニー映画『メリダとおそろしの森』より

 

メディア、ファッション業界、ゲイ社会、そして大半の女性界は一丸となって、現代の男性たちから「ごつごつした気概」を抜き去ろうとしています。その結果、「メトロ男性像(Metro Manhood)」と呼ばれているーー偽の男性像が生み出されてしまったのです。

 

メトロ男性像とは何か?

 

メトロ男性というのは、男性というよりはむしろ女性に近いような行動をとる男の人たちのことを指していう言葉です。

 

たしかに最近の流行りでは、女性たちはひどく繊細で当たりの柔らかい男性を称賛する傾向にあると言われていますが、実際には、メトロ版の男性性というのは、女性が本当に望んでいるものとしては、はるかに物足りないものなのです。

 

ある若い男性が私に言ってくださったように、もしも、男らしさ(masculinity)から「男性的なもの」を取り除いてしまうなら、そこに残る社会は「脆弱な男性と、無防備な女性」ということになってしまうかもしれません。

 

若い娘たちなら誰でも(その子がこの世の差し出すフェミニスト・アジェンダによって洗脳されるまでは)次のような夢を胸に抱いています。ーー目の前には英雄的な騎士がいて、彼は彼女を守るために邪悪な竜をやっつけ、そしてその後、さっそうと彼女をお城へと運び入れてくれるのです。

 

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姫を救う王子(Sleeping Beauty;Edward Frederick Brewtnall 画)

 

しかしメトロ男性はそうではありません。彼らは洗ったばかりの自分のジーンズやムースで固めた髪が乱されることを気にする余り、一人の女性を守るために、自分の手を泥で汚してまでアクションを起こそうとはしません。メトロ男性像は、男性のソフトな面だけを強調し、創造主により男性に与えられている生来の力を完全にないがしろにしています。

 

また、この男性像は、神さまが男性のためにデザインされた繊細さ、崇高さ、威厳といったものを定義するのに、キリストに模範を仰ぐ以上にファッション業界やポップ文化にその規範を求めています。その結果、骨抜きされ、可もなく不可もないような種類の「男らしさ」が生み出され、そこに、若い男性たちは自分たちの身勝手さ、怠惰、根性のなさ、軟弱さの隠れ蓑を見い出していると思います。

 

私たちを取り巻く現代文化は、真理のために堅く立ち、己の信じるところに堅固な男性を疎んじようとします。その結果、見てください。実際に善戦している男性、何かのために大胆に立ち上がろうとしている男性の何と少ないことでしょう!こうして多くの男性は、闘う代わりに、ソファーにゆったりと腰かけ、Haloゲームやアクション映画に興じています。

 

そうする一方、真の命に溢れた勇敢な戦士たちがいないために、今この瞬間にも死にゆくこの世は滅びに向かっているのです。

 

キリストの模範

 

私たちはキリストの模範から真の男らしさを学ぶことができると思います。ええ、たしかに主イエスは、病人を癒し、子どもを抱き上げ、ご自身のことを「良い羊飼い」とおっしゃった通り、いとも深き優しさ、謙遜、そしていつくしみの心をお示しになりました。

 

他方、主は超自然的な力と強さをもお示しになられました。主は、風や波を鎮め、水の上を歩き、宮で商売をしていた両替人たちを鞭で追い出し、崖から突き落とそうとしていた怒り狂う群衆の真ん中を抜け、この世の咎をご自分の身に背負い、罪と死を征服され、そして三日目に復活されました。黙示録には次のようなことが書いてあります。

 

黙19:11-16

11 またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。 

12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。

13 彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。 

14 そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。

15 その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。

16 その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。

 

これが私たちのイエス様です。究極的な男性、究極的な王。主イエスほど偉大にして、力強く、強靭で、勇猛なお方は他にいません。このような荘大な威厳と威光を前にして、私たちは、「イエス様は打たれ弱く、軟(やわ)なお方だったのだから、僕たちだって、そうであっていいじゃない」と言うことはできるでしょうか。

 

キリストにおいて、私たちは真の「強さ」と「繊細さ」の究極的融合をみることができます。主は鉄の杖をもって国々を治められる一方、平和の君でもあられます。主は激しく風や波に命じ、それらを従わせましたが、その一方で、幼い子供たちは主の御腕の中に優しい隠れ家を見い出したのです。また主こそ真の従軍詩人です。

 

そして1ペテロ2:21に書いてあるように、キリストは、その足跡に従うようにと、私たちに模範を残してくださいました。兄弟のみなさんにとっては、従うべきこの模範の中に「男らしさ」という要素も含まれていると思います。

 

この世の文化ではなく、キリストの模範ーーこれに男性たちは従うよう召されていると信じます。イエス様はまったくメトロ的男性ではありませんでした。今こそ、私たちは、男性のみなさんが王の王である主イエスの基準に従うことができるよう励ましていくべきだと思います。

 

しかし誤解しないでください。私は「一つのことにしか興味を示さない専門おたく的な男性」のことを奨励しているわけではありません。現在よく見られる自己中心的で、獣欲主義的な若い男性たちの姿は、本物の神の戦士像の見せかけ・偽造にすぎません。

 

そうではなく、私たちは神のお持ちになっている男らしさのビジョンーーキリストのような力強さと、キリストのような繊細さの融合を掴み直す時期に来ていると思います。

 

純潔を踏みにじるのではなく、それを守ってくれる男性。現代の社会的コレクトネスに迎合しようとやっきになるのではなく、真理のために立ち上がろうとする男性。わが身の定評や人気や願望以上にイエス・キリストを第一にする男性。

 

おわりに

 

今日の男性たちの間に、こういった種類の真の男らしさの兆しがみえた時、私たちはそれが女性的なやさしさを帯びていないからといって不満を言ってはいけないと思います。また、少々無骨に聞こえるかもしれない彼らの声のトーンに気分を害したりしてもいけないと思います。

 

覚えておきたいのは、神様は男性たちを女性にお造りになったわけではないという事実です。そうです、神様は男性を男性としてお造りになったのです!男性たちが立ち上がり、神の御霊による喊声(battle cry)に勇ましく応答することができるよう、そのためのスペースを、私たちは今こそ彼らのために造ってあげるべきです。

 

男性たちが、真理のために堅く立ち、大胆に雄々しく自らの確信を表明し、神の授与された男性的な力の限りを尽くし神の戦場で戦うーーそのことが許され、奨励されなければなりません。

 

今日、神様はそのような強靭な神の男性たちをお立てになろうとしておられると思います。どうか私たちがそのご計画の邪魔をする者ではなく、むしろそれに進んで協力していく者となることができますように。

 

ポップ文化は今後も、女性化され、気概なく、誰の気分も害さず、ふわふわ「皆に好かれるタイプの」男性像を普及させていこうとするでしょう。しかし主よ、私たちに、気骨と根性と力、そして戦場での鬨声を鳴り響かせる、そのような男性たちをお与えください。

 

なぜなら、男性が真の男性である時、おとぎ話は現実のものとなるからです。そうです。クリスチャンの男性が真の男性として生きる時、その時、世界はイエス・キリストゆえにひっくり返ることになるのです。

 

ーおわりー

 

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