巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

しかし自分もまた「時代の子」であるという事実を深く心に留めたい。(前回の記事の追記です)

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出典

もしも主が私の助けでなかったなら、私のたましいはただちに沈黙のうちに住んだことでしょう。もしも私が、「私の足はよろけています。」と言ったとすれば、主よ、あなたの恵みが私をささえてくださいますように。詩篇94:17-18

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「西方キリスト教 vs 東方キリスト教」、「ヘブライ的思考 vs ギリシャ的思考」等の二項対立を軸にした批判構造が、ある種の矛盾を逃れ得ないように*1、私自身の対等主義/フェミニズム批判もまた、一歩スタンスを間違うと、上記と同じ自家撞着に陥ってしまう可能性が大であることを、自戒を込め、再度ここに記しておきたいと思います。

 

というのも、私は回心前、平均的な日本人女性以上に、(リベラル神学を基盤にした)対等主義的で進歩主義的な高等教育を受けてきたと思うからです。

 

リベラル神学やフェミニズムの是非や正誤がどうであれ、とにかく自分という一人の人間の〈現在〉にこれらの思想がなんらかの形で関わってきただろう事実を私は如何ともすることができません。それは相剋/対決という形をとった関わりであるかもしれないし、もしくはある部分における融合/統合という形をとった関わりであるのかもしれません。

 

キリスト教会内のフェミニズム浸透に警告のメッセージを発し続けている南部バプテスト神学校のメアリー・カスィアン女史もフェミニズムとクリスチャン女性の中で、「私たちは程度の差こそあれ、皆、ある意味において、フェミニストだと思う」と述べ、次のように言っておられます。

 

「私たちは程度の差こそあれ、皆、ある意味において、フェミニストだと思います。なぜなら、フェミニズムというのは、すでに社会の中枢思想となっているため、私たちはもはやこれを『当たり前のもの』として受け入れてしまっているからです。

 

 フェミニズムは私たちの物の考え方であり、デパートで買い物をする時に、私たちが目にするものです。映画を観ても、それは、『女性はこうあるべき』だと私たちに説いてきていますし、本の中にも、教育制度の中にも深く浸透しています。このようにフェミニズムは完膚無きまで、社会に融合しているため、私たちの文化全体がこう叫んでいるかのようです。

フェミニズム――これが私たちの信仰!

フェミニズム――これが私たちの規範なの!」(引用元

 

支配的な時代イデオロギーというものはある意味、「空気」のような存在なのかもしれません。意識するとしないとにかかわらず、私は毎日、この空気を吸い、この空気の中で街を歩き、読み、聞き、考えています。

 

それでは、それが「空気」だからもう仕方がない、いちいち反抗したって無駄だし、反抗するというスタンスそれ自体がすでに自己矛盾をはらんでいるのでしょうか。

 

しかし聖書は「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ12:2)と確かに命じています。そして、そうであるからこそ、初期キリスト教徒や過去のキリスト教徒たちも、自分たちを取り巻く当時の文化や思想哲学と闘ってきたのだと思います。*2

 

ジャン・カルヴァンは回心前、ストア派哲学者セネカの思想に魅せられ、1532年にはセネカの著書『寛容について』の注解書を書きました。回心後、彼はストア哲学を批判しています。しかし、ある人々は、カルヴァンの摂理観や神観にはストア哲学の影響がみられると指摘しています。さあ、事の真相はどうなのでしょう。*3 

あるいはアウグスティヌスとマニ教、それからアウグスティヌスと新プラトン主義の関係はどうでしょうか。これらの異教や哲学はどれくらい、回心後の彼の中で隔絶していたのでしょうか。人は自分が反発しているものからどれくらい完全に自由になれるものなのでしょうか。ここに「~~に対する批判」というものの根本的難しさがあるように思います。*4

ユダヤ教パリサイ派出身パウロの「ユダヤ主義者たち」との戦いは、その意味で、どれほど大変なものだったろうかと想像します。相手に対して一つ批判をするなら、それと同時に自分に対してはさらに厳しい自己点検と省察、そして悔い改めがあったに違いありません。このような務めは、御霊の助けと主の恵みなしにはとても果たし得ないものだったろうと思います。

 

私たちクリスチャンは、それぞれ置かれた場所や働きこそ異なれど、「世」にいながら、「世」に迎合せず、「時代の子」でありながらも、「時代精神」と闘い、闘い抜かねばならない使命を帯びています。あゝ、それはなんという厳しさでしょう!自己矛盾への疑いや弱さを人はどうすればよいのでしょう!本当に頭を垂れ、主にひたすら恵みと憐れみを乞うのみです。

 

主よ、どうか私たち一人一人を憐れんでくださり、弱さと有限性ゆえに悩み迷うことがあっても、私たちを見放さず、信仰のレースの終りまでどうか私たちと共にいてください。私たちを助け、導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。