ユートピア社会
Utopia(Nowhere land)=ギリシャ語の οὐ (ou, 無い)と τόπος (topos, 場所) を組み合わせた語で「どこにも無い場所」が原義。現実には決して存在しない理想郷のことを指す。
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女性牧師制度を正当化するに当たり、「すでに、今まだ already, not yet」という神の国の原理をその論拠として提示している論客の方々がおられます。
これは一般に、「フェミニスト軌道解釈」と呼ばれている考え方の類種であり、R・T・フランス氏は、著書『Women in the Church's Ministry: A Test Case for Biblical Interpretation(教会のミニストリーにおける女性たち:聖書的解釈の試験的論拠)』の中でこういった立場を次のように表明しています。
「四福音書には、女性へのユダヤ的偏見や、リーダーシップの役割から完全に女性を締め出すことに対しての完全な逆転についての記述はないかもしれません。しかしそういった逆転現象が今後増し加わっていくに違いないことを示す萌芽自体は、四福音書の中に確かに含まれています。効果的革命というのは、一年やそこらでは完成することはありません。他の事項に関してと同様、女性のミニストリーにおいても、イエスの弟子たちは呑み込みの悪い、緩慢な学び手でした。しかし、たとい時間はかかっても、導火線自体はすでに点火されていたのです。」*1
そうした後、R・T・フランス氏は、「男子も女子もない*2」というガラテヤ3:28の箇所を次のように注解しています。
「パウロはここで歴史的『軌道』の終着点を示しています。つまり、旧約聖書および後期ユダヤ教の男性優位社会からの終着点です。それは、革命的含みはあっても依然として制限された働きであったイエスの女性たちに対する態度、そして使徒的教会およびその精力的ミニストリーの中で増し加わる女性たちの卓越性を通し、表わされています。
聖書歴史の枠組みの中におけるあらゆる時点において、ガラテヤ3:28に表されている根本的平等を根拠とした働きは、当時の時代的現実によって制約された状態のままになっていました。しかし、そこには、人類の堕落以降、蔓延していた性差別撤廃に向けての基盤ーー実に必須の基盤ーーが存在していたのです。、、これは〔1コリント14:34-36、1テモテ2:11-15といった〕少数の聖句の中ではなく、聖書の中で徐々に発展してきた思想と慣習の『軌道』の内に、そしてそれ自身を超え、キリストの中にある『究極的神の目的』の、より完全な働きを指し示すところのものの内にあります。そしてこれらの究極的神の目的は、1世紀当時の状況においては依然として許されていなかったのです。」*3
アズベリー神学校教授デイビッド・L・トンプソン氏も、Christian Scholar's Review(1996年)の中で同様の見解を述べています。
「正統な対話の方向性およびや祈りの内にそれと取り組む中で、神の民は、次のような結論に導かれました。つまり、神の民は、1)聖書の中ですでに予測されている標的を受け入れることによって、そして2)聖書の『軌道』が向かっているところの標的を受け入れることによって、神の民は最も忠実に主の御言葉を崇めることができると考えたのです。当時のこの時点における会話は、最終的な決着をみることなく幕を閉じました。しかし、『軌道』は、対等主義的関係性に向けて、明確にセッティングされていたのです。」*4
また、上記のフェミニスト軌道解釈の他にも、類似したもう一つ別の解釈法もあって、それは「贖罪的運動(Redemptive-Movement)」解釈と呼ばれています。詳しくは以下の記事をご参照ください。
これらの論客の方々は、聖書の『軌道』が向かっているところの最終標的というのが、(「男子も女子もない」というガラテヤ3:28に表される)対等主義的 ‟平等” 関係であり、前世紀から始まった「女性牧師制度」という新しいイノベーションは、「今すでに、まだ」という神の国の完成に向けた漸進的中間状態を表す現象であると考えておられると思います。
そうすると、次のような問いが出て来ると思います。「これらの論客が思い描いている対等主義の最終形態と、聖書の中に啓示されている神の国の最終形態ははたして同じものだろうか?」と。
そしてこの問いを考究するに当たり、私たちは、対等主義(egalitarianism)という思想がなぜ、歴史的に、無神論的実存主義やマルクス主義と本質的親和性を持ってきたのかという点にも注意を向ける必要があると思います。
①無神論的実存主義とフェミニズムの親和性
シモーヌ・ド・ボーヴォワール著『第二の性』(新潮社)
②マルクス主義とフェミニズムの親和性
上野千鶴子著『家父長制と資本制ーーマルクス主義フェミニズムの地平』(岩波書店)
↓ウェストミンスター神学校ヴェルン・ポイスレス教授によるマルクス主義及びフェミニズム思想分析
さらに、八木秀次高崎経済大助教授は、『誰が教育を滅ぼしたか』の中で、フェミニズム思想が目指す、究極のユートピアーー「ファランステール」と呼ばれる共同体を紹介し、そのカルト性を指摘しておられます。
ファランステールというのは空想的社会主義者フランソワ・マリー・フーリエによって提言されたユートピア社会です。*5
フランソワ・マリー・シャルル・フーリエ(Francois Marie Charles Fourier、1772-1837)空想的社会主義者。
スターリン時代のソビエト・イデオロギーにつまずいたマイケル・ポランニーは、1935年、モスクワでブハーリン(38年に処刑)と交わした会話のことを回顧しつつ、マルクス主義の生み出す機械論的な人間観や歴史観およびユートピア主義がいかなる悲劇的結末を招いたかについて次のように述べています。
「私はまた、こうした精神の自己否定の背後には強力な道徳的動機があるのだ、と思った。機械的に進展する歴史が普遍的正義を実現する、と信じられていたのだ。世界的同胞愛を実現しようとして科学の懐疑主義=無神論が信じようとしたのは、唯一、物質的必然性であった。かくして、懐疑主義とユートピア主義は一つに解け合って、新しい懐疑主義的狂信が出現するに至ったのである。」*6
現在、教会の中に持ち込まれている対等主義者による対等主義者のための対等主義的「神の国」実現のためのビジョンは、今後どこに向かっていくのでしょうか。
ー終わりー