巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

なぜ自分にとって「コンテンポラリー・フリー礼拝」が原理的にインポッシブルなのかについて(by C・S・ルイス)

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C.S. Lewis on the Liturgy(全訳)

 

C・S・ルイスは世界中のクリスチャンに愛読されている作家です。子ども向けのファンタジー、キリスト教弁証、神学、アレゴリー、サイエンス・フィクション、デボーショナル、文芸評論に関する諸作品は何百万という売り上げをみせています。

 

しかし多くのクリスチャンは、C・S・ルイスがリトルジー(「共通祈祷書」)と共に礼拝を捧げていただけでなく、リトルジカル礼拝(典礼的礼拝)そのものに対する強靭なる支持者であったという事実に関してはあまり考慮していません。

 

ここ聖フランシス教会で私たちが用いている同じリトルジーが日々、C・S・ルイスの霊的滋養となっており、彼は生前、公的礼拝においても私的礼拝においても毎日、朝の祈りおよび夕の祈りを欠かさず、聖餐にもしばし参加していました。

 

ルイスはこういった聖書的にして美しいリトルジーという枠組みを用いつつ、自分の霊的生活を養っていただけでなく、健全な礼拝には定式のリトルジー(a fixed liturgy)が不可欠であると考えていました。

 

ある人々は「規則として定められた礼拝はデボーションのいのちを窒息させる」と言います。しかしルイスはそれとは全く反対に、それがまさしく私たちの心を自由に祈りと礼拝に向けるがゆえに、礼拝における固定的性質を推奨していたのでした。この事に関し、1952年4月1日、ルイスは友人に宛てて次のように書いています。

 

「定式の礼拝形態の持つ利点は、われわれ礼拝参加者が『次に何がくるのか』を知っていることにあります。そして即席での(extempore)公的祈りにはこの点で困難があります。つまり、私たちはその祈りを聞き終わるまで果たして自分がその祈りに精神的に参入していいのか悪いのか分からないのです。ーーその祈りは偽りを含んだまがい物であるかもしれないし、あるいは異端的なものであるかもしれません。

 

 それゆえに私たちは同じ瞬間に、①クリティカルな精神的検証活動と、②デボーショナルな敬虔活動ーーこの二つを同時挙行することが要求されるわけです。しかしこの二つは到底両立不可能です。他方、定式形態においては、私たちは私的な祈りの前に‟形式的なもの”を通らなくてはなりません。がっちりした堅固な形態は本当に私たちのデボーションを自由にします。」

 

堅固な形態が私たちのデボーションを自由にする!みなさんもぜひ試してみてください。それがまことに真であることを発見されると思います。

 

聖書から直接引用した数々の祈りや詩篇、そして神の民の歴史の中で育まれてきた豊かな霊性の土壌から汲み出された「書かれた祈り」--これらは精神を乱されず私たちの心が神の元に上げられるための跳躍台となります。それだけではありません。定式リトルジーにより、その他の精神的妨害事項が取り除かれ、私たちは信仰の本質により一層近づくことが容易になります。

 

「リトルジーが厳正であればあるほど、私たちは思いの中であちこち彷徨い出ることなく、より一層礼拝に集中できるようになるということにも私は気づくようになりました。

 

 またこの形式により、私たちの礼拝が、(戦争、選挙など、、)時代の浮き沈みや最新ニュース、有為転変に振り回されたり、飲み尽くされたりすることから守られやすくなります。つまり、キリスト教の永続的かたちが透き通って見えるのです。その意味で、即席式メソッドは偏狭化を免れることがやはり難く、この形式により、神よりも牧師の方にダイレクトな注意が向けられやすくなると思います。」

 

現代アメリカ教会は新奇性(novelty)というものを、自発性および生き生きした活力の兆候として大いに称賛しています。一方のルイスは、ーーまさにそれが新奇さを取り除くという理由ゆえにーーリトルジーに価値を置いています。

 

新奇性はナルシズム的になりがちです。新奇さはともすれば、私たちのフォーカスを神から引き離し、自分たちが今やっていることに逸らしがちです。『マルコムへの書簡集ーー主として祈りについて』の中でルイスは次のように書いています。

 

「新奇さというものにはエンターテイメントとしての価値しかありません。そして礼拝者は娯楽目的で(to be entertained)で教会に行くわけではありません。彼らは礼式を用いるもしくは礼式を行う(enact)べく教会に行くのです。各典礼は、礼拝行為とみことばによって成り立つ構造であり、それを通し、私たちはサクラメントに与り、あるいは懺悔し、嘆願し、敬拝するのです。

 

 そして、永きに渡って慣れ親しむことで私たちはそれ(=典礼スタイル)について考える必要がなくなりますが、まさにその『考える必要がなくなる』ことで私たちは上記に挙げたような礼拝行為を最善の仕方で捧げていくことができるようになります。

 

 礼拝の手順に関し、あなたがまだ何か意識し、注意・吟味しなければならないことがある限り、あなたは未だ舞っているのではなく、舞踊を学び始めた段階にいるに過ぎません。あなたにとって良い靴というのは履いていることを意識させない、そのような靴のことです。

 

 良い読書というのは、あなたがもはや自分の目のことやライトの照り具合や、印刷の状態や綴りのことなどを意識しなくてもよくなった時、可能になります。全き典礼の中では私たちはほとんど意識しなくなります。つまり私たちの注意は神にのみ向けられているのです。

 

 しかしそこに新奇性が侵入してくる度に、それがかき乱されます。新奇性により私たちの心は礼式そのものに固定されてしまいます。しかし礼拝(worship)について考えるのと、礼拝する(worshipping)というこの二つは別物です。

 

 『神よりも礼式を偉大なものにするのは狂気の偶像礼拝である。』しかしそれ以上に劣悪なことも起こり得ます。新奇性は私たちのフォーカスを礼拝でさえなく、むしろ礼拝執行者という‟人”に固定してしまう可能性さえあります。

 

 私が今何を言っているのかあなたはお分かりでしょう。『おいおい、今いったい彼は、壇上で何やってるんだろう?』という問いが礼拝中、あなたの心に侵入してこないよう、この問いを締め出してしてみてください。--それができるのなら。これで人のデボーションは台無しになります。

 

 『使徒ペテロに対する命令は、‟わたしの羊を飼いなさい” であって、‟わたしのネズミたちを実験台に、新たな試案をトライしてみなさい” とか ‟芸を仕込まれたわたしの犬たちに新しい芸当を教えなさい” とかそういうものではなかったということを彼らが自覚してくれていたら、、』と言った人の中にはまことの遺憾の念がありました。」

 

こういった言葉には、私たちのコンテンポラリー教会文化がよくよく熟慮しなければならない内容が含まれていると思います。

 

ー終わりー