巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

あなたの葛藤は尊いものーー点在の世界に統一性を見い出そうとする人間の知的欣求について(by エスター・ミーク)

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執筆者:エスター・L・ミーク。ペンシルベニア州ジュネーブ大学哲学科教授。ヴァン・ティル学派の前提主義、ジョン・フレームの多元遠近法(multiperspectivalism)及び、マイケル・ポランニーの暗黙知(tacit knowledge)をベースに、契約主義キリスト教認識論を構築。モダニズム的認識論、ポスト近代の懐疑主義その両方を批判しつつ、ポストモダンの世界で私たちキリスト者がいかにして神を知り、また証し人として生きてゆくべきかを探求する哲学者。尚、彼女はクリスチャン・ホームに生まれ育ちながらも、青春時代、大学、院生時代とずっと懐疑の問題に苦しんできた経験があり、本書は同様の葛藤を覚えている若いクリスチャンに対する励ましのメッセージともなっている。(詳しくは「知ることは可能か?」キリスト教認識論ーー21世紀の激戦地

 

Esther Meek, Longing to Know, chapter.9.The Struggle That Makes Us Human, 2003(抄訳)

 

なぜ私たちは一貫性や統一性を得るべくもがき葛藤しているのでしょうか。この問いに対する答えはすこし野暮ったく聞こえるかもしれません。というのも答えは拍子抜けするほどベーシックなものだからです。--そうです、一貫性/統一性に対する私たちの求めは、「人間であること」の本性の一部であるからです

 

大陸哲学者であるマルティン・ハイデッガーの言葉をかりるなら、「現存在 Dasein」における人間特有の経験は、内在的・本質的に気遣い、対処する性質のもの(caring and coping)です。*1

 

私たちがもはや物事の整合性を求めることをやめ、そういうのがもうどうでもいいと感じられ、自分たちの直面している諸問題に向き合うことをもはやしなくなる時、その時、人は自分が非常に病んでいる、あるいは死からそれほど遠いところにはいないことを悟ります。

 

みなさんはこれまでどうしようもなく病み、全てがどうでもいいもののように感じられたことはありますか。そしていつ頃、みなさんはその状態に快方の兆しが見え始めたように感じましたか。ーーもしかして、やらなければいけない事に少しずつ気を遣い始めた頃からではありませんでしたか。

 

人が一介の健全な人間であるために、私たちは強いて、自分の持つ経験を統合し、それらの意味を理解する必要性に迫られます。そして本書で取り扱っている「神をいかにして知るか?」という営為においても、私たちは自分たちの経験に意味をもたせるべく一貫性/統一性を模索します。

 

この本を読んでくださっている読者のみなさんはきっと、そのことを真剣に求めていらっしゃるだろうと察します。そしてあなたの内なるその求めにより、あなたの試み・努力は断念されることなく現在に至るまでずっと続け保たれています。

 

人間であるということは、経験を理解・把握し、自分たちの世界を発展させ、己の概念的理解を拡張するがごとく、自分たちの影響領域を広げていくことです。

 

聖書の神に関する事柄で、「知る」という営為のこの側面をとてもよく表した箇所があります。創造に関する聖書の物語の中で、神は人間をお造りになり、その後、彼らに明確な命令を与えられ、次のように仰せられました。

 

(以下パラフレーズします。)「わが規則を拡張し、わが世界をケアし発展させることにより、なんじらはわたしを心象せよ」と。主は人間に、ご自身の創造の範囲内においてご自身を表象するよう(represent)お命じになられました。ーー創造されたものにとっての祝福となる形でもって、それらを発展させ、ケアするようにと。*2

 

私見では、この時点ですでに神は、〔神が人間にお命じになられた内容に対し〕人間がその意味を理解しようとする営為(sense-making)に抗うことができないーーそのような仕方で人間をお造りになられたのではないかと思います。つまり私たち人間には、創造された事象を理に適うものとしながら、それらを発展させていこうとする、いわば組み込み式衝動のようなものが授与されているのかもしれません。

 

人間としての私たちは、なかばやむにやまれぬ形で事物を気遣いケアするべく創造されています。そして人間の認識行為は、こういった「気遣い」によって生まれた統合であり、それによって私たちは自らを世界に拡張させ、進みゆく中で世界を形成し発達させていきます。

 

でも私たちはどう頑張っても御命令を完全に成し遂げることはできません。私たちに可能なのは、それをうまくできるか、あるいはうまくできないかです。また人間は非人間環境とけっして完璧な形では調和(blend in)することはできません。人間の光栄はそれを形成することです。しかしそれは被造物に対し祝福や呪いを発するものなのでしょうか?

 

ウォルト・ディズニーの映画『ライオン・キング』は悪い支配者の元での呪いと、信頼できる善い支配者の元での祝福について活き活きと描写しています。

 

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ライオン・キング

 

スカーの支配は潤いなく命なきものであり、そこには飢えすさんだ住民たちがいました。一方、シンバが自分の任務を担い始めるや、そこに住む臣民たちには活気といのちと喜びが溢れてきたのです。ディズニーは、義にして公正なる統治によってもたらされる祝福に関する聖書の言明を裏付けています。*3

 

仮にそれら被造物を媒介にしてそれに近づいたとしても、統合された私たちの型(モデル)は世界を形造っていきます。点在するものをなんとか互に結び付けようとする私たちの切実なる営為の中で、私たちは人間としての召命(calling)をまさに果たしつつあるのであり、このようにして、神について聖書が言っていることを私たちは確証するのです。

 

人間であるということは、自らの経験の意味を理解することです。しかし今日の時代潮流は、あなたのそういった試みを阻止しようとしてきます。彼らは言います。

 

「ほんとに正しく把握することなんて所詮できない話さ。本当に理解するってのはね無理なことだ。まっ、君にせいぜいできることは、個人的解釈をいくつか考案することかな。で、その際、君の個人的解釈が世界に適合しているか否かとか、そういう事は心配しなくていい。なぜって、それが適合するような世界がそもそも存在しないのだから。

 

 それにだね、『自分は正しく理解できている。客観的に正しく理解できている』っていう君のスタンスは、他のすべての人々の思想の自由を脅かす。『客観的な仕方で』自分の経験を把握できている、その意味を理解できているっていう君の自負心は、社会的にも不適当なものだ。つまりだね、『知りたい、知りたい』っていう君のその態度自体が、社会的にすでにアウトなんだ。だから、君のいろんな意見をどうかプライベートな領域だけにとどめておいてくれ。お願いだから。」

 

しかしながら、自らの経験の意味を理解しないことは、人間本性に反することです。ですから私は皆さんを励ましたいです。どうかそういった敵対的な声にひるまないでください。人生の諸経験の意味を把握したいという根本的に人間としての本来の切望を否定したり抑圧したりしないでください。

 

一個の人間としてあなたには知りたい/理解したい/把握したいという願いがあるはずです。ですからあきらめないでください。そして理解を求め追及していく中で、①あなたの諸結論が間違っているかもしれないという可能性、及び、②自分の理解が正しいと信じることーーこの両方を認める勇気を持ってください。とにかくその探求の旅を放棄しないでください。「こんな試みは所詮不適切だ」と自分自身に信じ込ませないでください。

 

実際には、ーー意識するとせざるとに拘りなくーー私たちの経験という膨大なる量をたたえた広領域に点在する個々の「dot」を互に関連づけ結び合わせるべく、私たちは模索しつつそれに取り組んでいるのです。

 

そしてこれは真正さ(authenticity)への呼びかけに他なりません。つまり、すでに進行していること、起こっていることに対する正直な認証です。

 

人間は自らの経験を把握しようとします。そしてこのようにして、人は人生という海を航行し、自らの心の求めにその表現を与えているのです。ですからこれからもひるむことなく、知ることを求めるその思いを大切にし続けてください。

 

ー終わりー

 

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*1:...intrinsically caring and coping. Martin Heidegger, Being and Time, tans. John Mac-Quarrie and Edward Robinson (New York: Harper and Row, 1962), ch.6.

*2:創1:26-27;2:15;詩8章。

*3:例:2サムエル23:3,4.