巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

パリサイの濫觴(らんしょう)ーー三谷隆正『幸福論』より

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「パリサイ人たちに非難されるキリスト」(Duccio di Buoninsegna作, 1308)出典

 

目次

 

われらの実践生活における根底的問題は、はたして知不知の問題だろうか?

 

ソクラテスの幸福論は、前に述べたような道徳的主知主義に立脚するものであった。

 

すなわち、人が不善を為すのは無知だからである。知識を授けられれば、人はおのずから不善を為ないようになる。なぜなれば、善き生活あ幸福な生活であり、悪しき生活は不幸なる生活であるのだ。

 

人だれか生活の幸福を願わざらんや。悪を悪と知りさえしたらば、人は慄然(りつぜん)として悪を離れるだろう。喜んで善を為すであろう。そう信じたからソクラテスは孜々(しし)として道徳智の啓発のために尽瘁(じんすい)して倦まなかったのである。

 

すなわち人間は自己の行歩を道徳的に規制するだけの実力は持っている。ただ、どう規制したらば良いのか、その明智を欠くのだというのである。従って、道徳生活におけるもっとも根本的な問題は、この明智の問題、正邪善悪についての知不知の問題である。

 

知不知の問題ならば、教えて以てこれを正善にまで導き到らしめ得るはずである。教育が人の徳性を完(まった)くし得るはずである。先ず教うるに道を以てせよ、しからば人は誰でも善に励み悪を離るるであろう。

 

こうした主知主義がソクラテスの道徳論の根底であった。そうしてこれは独りソクラテスに限ることでない、古今東西の道徳家ないし倫理学者がなべて同じようにこの素撲なる主知主義的道徳観に立脚している。

 

しかしわれらの実践生活における最も根底的な問題は、はたして知不知の問題だろうか。明智さえ備わったらば、それでおのずからわれらの生活が善くなるのであろうか。明智さえあれば、その明智に従って善を実行する実践力は、いうまでもなく我らがすでに持っているものなのであろうか。

 

悪ははたして無知の生む子であろうか。問題はもっと深刻に実践的な所にあるのではないか。実践力それ自体の欠けたることにあるのではないか。誘致無知の問題よりも、もっと切実な実力問題であるのではないか。

 

楽園にあったアダムとエバとは、蛇に誘われて「善悪を知る」の樹の実を食べて以来、罪の呪いを身に負うて、楽園の外に流浪の一生を送らねばならぬようになったという。知に頼ろうとしたことが、人間の堕落の発端であったという。その同じ知が人間の堕落の終りとなり、楽園回復の機縁となり得るのであろうか。

 

マカベウス一族ーー真摯熱誠なる愛国者の一派登場す

 

紀元前2世紀の中頃、マカベウスの一族が、イスラエルの民のうちわけても伝統のユダヤ教に熱心な一派を率いて、ユダヤ国の政治的ならびに宗教的独立を確立しようとして、一時成功したことがあった。

 

一族のうちでも殊にユダス・マカベウスは用兵の胆略において優れ、勝手知ったる山間の隘路(あいろ)険阪を馳駆(ちく)して、ゲリラ戦術をほしいままにし、北方の強大国シリアの軍勢を所在に打ち負かした。

 

それはアレキサンダー大王の覇業後ギリシア文化が西アジアと東ヨーロッパと北アフリカとを光被して、いわゆるヘレニズムの時代を出現すると共に、政治的にはやがてローマ帝国が興って、ギリシャ人に代わって全天下に号令するに到ろうとする、その気運の醸成せられつつあった時分である。

 

その時パレスチナの全土はシリアの属領であって、エルサレムの神殿はヤーウェの神の幕屋ではなく、ゼウスの神の像の鎮座するところであった。そうしてユダヤ人の中にも多くのヘレニズム転向者があって、その人々は伝統のユダヤ教を棄てて新興のギリシア政権とその宗教学芸に追随した。

 

殊にサマリア人の間にはそういう追随者ないし転向者が多かった。しかしこの風潮に対して大いに気節の軟弱を慨歎し、あくまで伝統のユダヤ教的一神教を守り、ヤーウェ神への節操を堅持して他のいかなる神をも拝しまいとする、真摯熱誠なる愛国者の一派があった。マカベウスの周囲に集まったのは、この国粋的愛国者の一派であった。

 

「解放的」サマリアの民と「伝統忠実なる」ユダヤの民

 

同じパレスチナでも、サマリアとユダヤとでは著しく地勢風土を異にしている。サマリアは沃野(よくや)緑をのせて遠く伸びたる豊穣の地、旅する者はユダヤからサマリアに入る時、急に四囲の明るさが増し加わることを覚えるという。

 

古都シケムはエルサレムに遥かに立ちまさる所の形勝の位置にあり、真にパレスチナの中心に位(くらい)する要衝である。しかるにユダヤは地痩せて緑乏しく、磽确(こうかく)の岩山ばかりが起伏して野には水が乏しい。従って、寒暑の差もまた甚だしく、死海に近きヨルダンの渓谷の如きは、早朝は華氏50度の寒さが日中では90度を越える暑さに変わることが珍しくないという。

 

エルサレムの都自体が、不毛の荒野に辛くも築き営まれたる都城である。おそらく世界における最も住みがたき山野と又、比類を絶して強靭なる国土愛を持ち、民族的団結心を持つ民なのである。加えるにこの民の強靭なる性格は、その操守を固くせしめ、その信仰を深刻にし、容易に外来の文化に動かされないものにした。

 

しかしサマリアの民はそうではなかった。より豊沃な地とより温和な気候とに恵まれたサマリアの民は、ユダヤの民ほど強靭な性格を持っていなかった。自然がかれらに対して一層親和的であったように、彼らもまた他に対して親和的であった。またその地形から言っても、サマリアはユダヤよりも四隣に対して解放的であった。

 

北より西より東より南より、いろいろの民族がユダヤより以上にたびたびサマリアに侵入した。従って又、いろいろの宗教やその他の文化が四方からサマリアに侵入した。

 

それらの影響に対してサマリア人はユダヤ人ほど堅固ではなかった。むしろ容易に容れ、容易に動かされた。だからヘレニズムの天下になれば、サマリア人は比較的容易にヘレニズムの感化を受け入れた。

 

しかるに、そうした外来文化への追随迎合は、ユダヤ教の伝統に忠実なる者の眼を以て見ると、モーセ以来の神与の教学を離るるものであり、ヤーウェ神の律法を棄ててあだし神々と姦淫を行うものである。

 

殊にいわんやヤーウェの祭壇を毀(こぼ)ちてゼウスの神像を拝するというが如き、沙汰の限りである。古(いにしえ)の預言者の警告に聴いてヘレニズムとの妥協苟合(こうごう)を棄てよ。唯一神ヤーウェへの信仰の純潔を守れ。モーセ律に忠実なれ。こういう主張が当時の愛国的ユダヤ主義者の提唱するところであった。

 

そうしてマカベウスの率いたる一派はこの国粋的一派であった。即ちかれらは先ず信仰の純潔のために立った。そして熱烈なる信仰を以て戦いかつ勝った。ついにエルサレムを回復してそこにあったゼウスの神像を打ち毀し、またたく間にヤーウェの神殿を再建した。

 

のみならずさらに矛を同胞イスラエル人にも向け、すべてヘレニズムと妥協苟合せる輩(やから)を急追排撃して仮借しなかった。そのため多くのイスラエル人が同胞ユダヤ主義者の迫害の手を逃れて、却って救をシリアに求めたのであった。

 

サマリア人は大抵この亡命非難組からあるいは仮借なき迫害の犠牲かに属するものであった。サマリア人とユダヤ人とはこうして始終互いに敵視し合った。それは昔からの事であり、イエスの時代にも同じ事であった。

 

かくの如くに極端な又苛辣(からつ)な国粋主義がマカベウス一族による独立運動の精神であった。その信仰は純粋かつ熱烈であり、その道徳はすぐれて最上剛健であった。それは確かにめざましき国民精神の復興であり、信仰を以て起ち上った独立運動であった。

 

さればこそ寡兵よく大軍を制して、その進み往くや真に破竹の勢であった。頽廃的な老大国シリアの享楽的将兵がその勢に抗し得なかったのは当り前である。かくてユダヤ国独立の業は成った。成りはしたがしかし極めて短い寿命のものでしかなかった。それは要するにギリシア政権とローマ政権との交替途中の過渡的な異変でしかなかった。

 

けだしマカベウス一派の国粋主義は余りにも苛辣にして排他的であった。それは一切の違法的なものを排斥して一歩も譲らず、己が固有の生活様式を恪守(かくしゅ)して、異種異様の生き方をすべて不浄視するものである。

 

この狭隘(きょうあい)なる民族的自負に対して、四隣の異民族がひとしく反感を持ち、進んでは憎悪をさえ持つに至ったことは、人情の自然と言わなければならぬ。だからユダヤ人は悪(にく)まれた。だから又ユダヤ人も悪んだ。ますます根深く悪んだ。

 

そのユダヤ人が独立の反旗をひるがえして起ち、所在に異邦人とその文化とをうち毀し、己が同胞をさえ異邦にかぶれたる者はこれをうち殺したのである。

 

かくの如くに固陋(ころう)にして排他的なる民族は到底他民族と融合することはできない。しかずこの民族を殲滅(せんめつ)し尽くして永く後顧の憂を除かんには。そういう強硬論を国王に進言するものがシリア国内には少なくなかった。

 

しかし歴史はかかる壊滅政策が終(つい)に完遂の期なき暴策であることを、一再ならず明証しているのであった。そこで終にシリア王は令を出してユダヤ人に信教の自由を認めてやり、かれらがかれら固有の宗教を堅持することを許した。

 

マカベウスの反乱はもともと、この宗教的自由を獲得確保することを目的とするものであった。だからこそ民のうち特に、父祖伝来の教学に熱心なともがらがマカベウスにつき従ったのである。しかるに、今シリア王は令してユダヤ人に父祖伝来の教学を許すという。しからばもはや宗教的には反旗を掲げ続ける理由がないわけである。

 

果然マカベウスについておった者のうち、最も内面的にして純信仰的であった一派は、シリア王のこの新令に満足し、依然反乱を続けようとするマカベウス一派から分離帰順した。この分離派が新約聖書を通して世界に知れわたるに至ったパリサイ派なるものの濫觴(らんしょう)である。パリサイという語の語義は分離か分別とかいう意味なのである。

 

このパリサイ派の立場を以て見れば、すでにモーセ以来の信教の保持を許された以上、神の摂理によって己らの政治的支配者と定められてある権力者に、反逆の旗を翻し続けなければならぬ理由はないわけである。これ以上反旗を翻し続けることは、信仰の純潔のためであるよりは、政治的支配権力の獲得のためでしかない。

 

余りに深く己が心魂の内面にのみ沈潜して、一切政治も社会もかえりみないのはよろしくない。そう考えたればこそマカベウスの崛起(くっき)に同じて、その旗下に馳せ参じた彼ら内面派であった。しかしただ単に政治的支配獲得のためだけに抗争を続けることは、かれらの信ずるところにかなわない。かくてマカベウス政権は先ず内から崩れて往った。

 

シナゴーグの誕生

 

イエス時代のパリサイ派は堂々として社会の上層に位し、国民教化の実力を持てる指導者階級であった。そうしてかれらのその実力発揮の主たる場処がいわゆるシナゴーグであった。このシナゴーグはアレクサンダー大王以後のギリシア文化光被時代に、主として亡命離散のユダヤ人たちの発達したものらしい。

 

イエスの時代にはもはやこのシナゴーグ制度はパレスティナ内外のユダヤ人の間に確固たる根を下ろしておって、エルサレムとかアレクサンドリアとかローマとかいう大都には、いくつものシナゴーグ会堂があった。シナゴーグ(συναγωγή)というのはギリシア語であって、集会というほどの意味の語である。

 

祖国とそこの神殿とを失った流浪のユダヤ人が、祭壇も何もなしにただ集まって、共にモーセ律を誦し、預言書を学び、また祈禱を唱和した。その無儀式な平民的な礼拝の場処がシナゴーグであった。それは極めて内面的精神的な礼拝様式であって、護摩とか秘法とかいった類の神秘的行事を一切脱却したところの、甚だ理性的な内容のものであった。

 

そこでの中心的行事は、モーセの律法を教えさとし、預言書の意味を解き明らめることであった。すなわち聖典奉読説教とである。すなわち後にキリスト教や回教の教会において発達し蔓延したあの方法である。シナゴーグがその元祖なのである。

 

そこでは別に祭司という聖職者はなかった。会衆皆平等であった。誰でもその力あるものは、起って聖典を講じ所見を述べる権利があった。イエスが度々会堂に往ってこの権利を実行したことは、新約聖書中の福音書に随所に記録されているところである。

 

かくの如く平民的にして精神的なる宗教的指導が、安息日ごとに所在のシナゴーグにおいて行われ、民衆は自由にそこに出入りして神の言を学んだのである。それが国民教化の上にどれほどの実力を持っていたか、推測に難(かた)からぬことである。

 

シナゴーグにおける宗教の本質は何であったか

 

このシナゴーグにおける宗教の本質は、祭りではなく教えである。神の道を知り真の智慧に到り得たる者が、真の敬虔者である。徳育と知育とは一致する。知識と信仰とは帰一する。こういう主知主義がシナゴーグにおけるユダヤ教の信仰の基調であった。

 

すなわち当時一般に行なわれたる各種のギリシア的人生哲学におけると同じ主知主義的基調である。従って信仰は学習せられ得るはず、宗教は善知識が教導して以てこれを人々に教え込むことができるはずである。その理想とするところはまさに、ソクラテスやストアの哲学におけると同じ智者または賢者である。

 

その間、ユダヤ教に対するヘレニズムの感化を否定することはできないであろう。パリサイはこの意味の賢者であり、シナゴーグにおける教導者であった。そうして又パリサイの間には真実の賢者高士があった。

 

使徒パウロの如きもまた錚々(そうそう)たるパリサイ出身の秀才であったのである。すなわち古は情熱の預言者や高徳の祭司らによって占められていた役割を、今は有識の教養人たるパリサイの智者たちが引き受けるようになったわけである。信仰の人よりもむしろ教養の人が民を導くようになったのである。

 

しかしこのパリサイ的教養の実質は、ギリシア人のそれとは大分ちがうものであった。ギリシア人の教養は徹頭徹尾人間中心である。ギリシアの神は、神までが人間的である。しかしユダヤ人の神はあくまでも超越的な唯一神であった。殊に宗教生活の内面化に熱心であったパリサイ派の神観は、純精神的な超越神観であった。

 

そうしてこの超越神に仕える道は、儀礼沢山の祭祀拝礼にあるのでなく、モーセ以来神によって直接啓示せられ、又伝統によって継承せられつつあるところの教法を学び、それによってわれらの生活を規正すること、そのことが真の敬神であるとなした。

 

だから彼らは熱心にモーセ以来の教法を研究した。この教法研究がとりもなおさずパリサイ的教養の血肉であった。従って彼らにとっては神を忘れたる知識は知識ではなかった。「エホバを畏るるは知識の本(もと)なり」であった。この意味において徹底的に神中心の教養がパリサイの教養であった。

 

と同時にこの教養を積むことが直ちに又信仰においても成長することであると考えられた。神への信仰と神を知る知識とはひとつなのであるから、教法を知るの知識において一歩進むことは、そのまま直ちにまことの信仰においても一歩進むことであった。モーセの教法を学修することは、真の知識に到達する道であり、同時にまた信仰の奥義に達する道でなければならぬ。

 

ゆえに、学識者はすなわち信仰者にして又有徳者である。無学の俗衆は、不信また不徳の小人ばら、パリサイの人々はこれをアムハーレツと言って軽蔑した。小人と女子は養い難しというか。

 

イエスが「この小さき者の一人に冷なる水一杯にても与ふる者は必ずその報いを失はざるべし」と言った時の「この小さき者」。

 

また苦難多かりしガリラヤ伝道の成果をかえりみながら、「天地の主なる父よ、われ感謝す、これらのことを智(かしこ)き者聡い者にかくして嬰児(えいじ)に顕し給へり。父よ、然り、かくの如きは御意(みこころ)に適へるなり」と歎じ且つ喜んだ時のその「嬰児」。

 

これらはいずれもアムハーレツと蔑まれた無学の俗人を指したものであり、「智き者聡き者」と言ったのは学者パリサイの徒を指したものである。

 

かくの如くに教法に熱心なパリサイ派であったから、モーセ律の研究相伝の専門家たる教法学者はおのずからパリサイ派に組し、パリサイ派はまたおのずから教法学者に組するようになった。

 

パリサイ必ずしも専門的教法学者にあらず、教法学者必ずしもパリサイ派ではなかったけれども、モーセ律の学習を教養の肝腎(かんじん)と考えることにより、両者が期せずして相寄り相助けるに至ったのは自然のことである。

 

だから新約聖書はいつもこの二つを並べて、学者とパリサイ人とがああしたこうしたと記している。彼らは相携えて民衆の教育訓練に専念し、国民的教養の指導者になったのである。彼らはシナゴーグにおける教導者としては民衆の宗教教師、モーセ律の専門家としては法律家、教養の先達としては学者思想家であったわけである。

 

以て国民一般の精神文化における彼らの地位を知るべきである。イエスも言っている。「学者とパリサイ人とはモーセの座を占る。さればすべてその言ふ所は守りて行へ」と。しかし又直ちに語を続けて言う。「されどその所作には倣うな。彼らは言ふのみにて行はぬなり」と。

 

しかしイエスが学者パリサイの徒を責めたのは、ただにその言行不一致の故のみでない。パリサイ派といえば型にはまった道学者、曲学阿世の偽善者衒学(げんがく)者として、金襴の袈裟(けさ)かけた悪魔のようにイエスから痛罵されておった。

 

至誠の人イエスは、彼らに対してほとんど生理的嫌悪を感じておったものの如くである。イエスは激語してまむしの裔(すえ)よとまで彼らを罵った。パリサイの宗教とイエスの宗教とは氷炭全く相容れぬものであった。しからばどこが相容れなかったか。以下少しくその点を詳説しよう。

 

パリサイ的教養とギリシア的教養

 

前に言ったように、パリサイ的教養はギリシア的教養とちがって神中心である。従ってギリシア的教養は時に極端な主観主義に走って、一切万事を人間の主観的理性の自律自判にのみ委ね、一己の主観に超絶たる権威を認めないという立場に堕する場合があり得た。

 

ソフィストはその著しき例である。エピクロスの哲学などもそういう傾向のものである。しかしパリサイの主知主義は神中心の主知主義であるから、ギリシア哲学におけるような人間中心の主観主義に堕することはない。

 

反対に神の意思への絶対服従ということが生活の始めであり又終りでなければならぬ。このことは後にキリスト教会内においてもしきりに強調せられたことであって、例えば修道生活に専念せんとする僧尼から要求せられた聖なる誓願は、一に貧、二に貞潔、三に服従のこの三つであった。

 

またルターの宗教改革に対抗して立ったイグナチウス・ロヨラは、彼の率いるイエズス会の第一の旗印として、教会への絶対服従を高唱したのであった。信仰と服従とは車の両輪の如しである。

 

信仰なきギリシア哲学は服従よりもむしろ自由を説いたけれども、信仰に熱心なパリサイ主義は、神についての知識を重んずると同時に、又神の意思への全き服従を重んじないではいられなかった。

 

そこでパリサイの徒はしきりに教法の学習に励んでモーセ律法およびその後の伝統宗規を研究すると共に、一方またこれらの神が定めたまえる律法を無条件に遵守して、神意への絶対服従を実践しようとした。

 

綿密きわまり煩瑣きわまる細目的規定の発達

 

そうして一定の法規を実践しようとすれば、各種の具体的な細目規定が必要になって来る。例えば、モーセの十戒に安息日を聖守せよと記してある。そこで安息日には労働もしない、旅行もしない、戦争も休む。しかしもし敵が斬り込んで来たらば止むを得ない、そういう場合には反撃してよろしい。しかし敵の積極的攻撃なき場合は撃つなという。

 

かくてポンペイウスがエルサレムを攻略した時、安息日には妨害を受けることなしに壕を埋め、攻城用の構築を完成することができたと伝えられる。それほどに徹底したモーセ律法服従を実践した彼らであったのである。

 

自然安息日聖守その他の事項に関する細目的規定は、綿密きわまり煩瑣きわまるものにまで発達した。いわゆる決疑論Kasuistikの問題である。

 

後世では、第17世紀のイエズス会派内においてこの決疑論が著しく発達し、信者の行状に関し、百般の情況を案じて煩瑣きわまる是非善悪の規定が用意せられた。

 

そうしてこれらの煩瑣きわまる規定を以て生活を八方から規制することが、すなわち神命への服従であり、敬虔篤信なる生活の実践であるとパリサイ派は考えた。

 

またこの煩瑣なる律法の内容に通暁(つうぎょう)することが、とりもなおさず敬虔なる知識において成長し、真の智慧に到達する道であると信じた。それがイエスの頃の学者パリサイの徒である。

 

「知」と「行」と「信」ーー三種の誇りの合体

 

パリサイ派はその出発においては、形式化した神殿宗教を排撃して純粋なる精神宗教を唱道したる内面派であって、上層階級の専有物と化した神殿の儀式と伽藍(がらん)の重圧とから宗教を解放し、平民的な無儀式なシナゴーグでの自由な内面的宗教を樹立したのである。

 

そうした極めて精神的な真面目な又平民的で進歩的な改革者たちの一派がパリサイ派の濫觴(らんしょう)であったのである。だから前にも言ったように、後々までもパリサイ派の間には真実の高士がおった。真に国民教化の指導者たるに耐え得るような実力ある教師がおった。

 

そうしてそれらの優れたる教師たちが、彼らの宗教と信念とに基づいて民衆の教育訓練に専念し、かくて国民的教養の指導者たるに至ったのである。

 

しかるに人間は知識あれば知識に誇り、善行あれば善行に誇り、信仰あればまた信仰に誇りがちのものである。パリサイ派もその言動ようやく社会に重きをなして、終に国民の精神的指導者たるべく教学の実権を握るに至るや、知と行と信との三種の誇りがひとつに固まって、彼らの矜持(きょうじ)きわめて高く、俄然庶民大衆を眼下に見くだすようになってしまった。

 

イエスの当時のパリサイはそうした独善尊大なパリサイであった。わざわいなるかな、このパリサイの誇り。彼らはおのれ独り教学を体得すと誇り、おのれ独り祖国の伝統を救うと誇るのみならず、かえって驕って神の前におのれ独りを正しとなした。

 

しかし彼らは正しくはなかった。その教法知識は死知識であった。いたずらに煩瑣なる訓詁(くんこ)注釈を積み重ね、微に入り細を穿(うが)って日常の生活を羈束(きそく)しつつ、少しでも死文を乗り越えて精神に生きようとする者があれば、直ちに難じて祖先の遺訓に背くもの、教学をみだるものと言い、あるいは又、ローマ帝国の公安に藉口(しゃこう)し、権力に媚びて成敗しようとした。

 

みずからの生活から自由闊達なる精気を奪い涸(か)らしてしまうのみならず、口やかましく庶民の生活に干渉し、意地悪く誠実の士の真摯なる行動を監視した。みずから正しからざるのみならず、他人が正しくあることに得耐えなかった。

 

痛憤忍び難くしてイエスは言う。「禍害なるかな、僞善なる學者、パリサイ人よ、なんぢらは人の前に天國を閉ざして自ら入らず、入らんとする人の入るをも許さぬなり。禍害なるかな、僞善なる學者、パリサイ人よ、汝らは一人の改宗者を得んために海陸を經めぐり、既に得れば、之を己に倍したるゲヘナの子となすなり。」(マタイ伝23:13-15、文語訳)