巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「個」という自由、そして「個」という監獄ーープロテスタンティズムと聖書解釈

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「最終的に大切なのは、どの宗派/教派の教会が正しいのかではなく、各個人が神の前にいかにあるかということである。」

 

私はこれまで上記のような教会論に希望を託してきました。そして現在でもこういった意見は妥当なのではないかと思っています。しかし最近とみに感じるのは、「それは一面において真であるかもしれない。でもそれだけでは十分でないのかもしれない」という漠然とした欠乏感です。

 

具体的に何が欠けているのかということはうまく言葉に表せないけれども、私の教会観には何かが抜け落ちている気がしてならないのです。

 

マット・マリノ師は、「すべては結局『私』に関することーーいかにして『聖書のみ』の歪曲が、アメリカ福音主義クリスチャンたちを『自我狂』に変質させたのか(It’s All About Me: How a distortion of “sola scriptura” turned American evangelicals into junkies of the self)」という記事の中で次のようなことを書いています。

 

「今日、『聖書のみ』の教理が通俗的に広く宣布されるにつれ、私たちの多くはもはや教会を必要としなくなりました。私たちは各自が、聖書の解釈者であることができ(そのように召され)、聖書は、『自己証明し、合理的読者に明瞭であり、それ自身がその解釈者であり、それ自身で教理の最終的権威として十分なものです。』Sola scriptura - Wikipedia

 

 換言すると、各個人の頭が最終的基準であり、、それと同様、『万人祭司説』も事実上(de facto)、『個々の信者という教皇制』にまで高揚されました。ですから、現在、4万以上の教派が乱立しているのも無理ないわけです。

 

 そしてますます多くの人が、そういった雑多な教派教会を離れ、自分の家にとどまるという選択をするようになってきています。結局のところ、もしも私が自分自身の『教皇』であるとしたら、そしたら、私が自分自身の『教会』となるのではないでしょうか。

 

 私の個人的解釈である『ソロ・スクリプトゥラ “solo scriptura”』がアメリカ的個人主義とドッキングした上で、ポストモダン的『真実さ "truthiness"』の具と共にぐつぐつ煮込まれた結果、‟陰鬱なる自我”という毒入りスープが出来上がりました。

 

 こうしてこのスープで人々を養った結果、『自分=宇宙の中心』としての一世代が出現してきたのですが、私たちはそれに驚き、『なぜ今の人々は自我に消耗されているのだろう?』といぶかしがっています。でも、これはいわば当然の帰結なのではないでしょうか?」(引用元

 

「最終的に大切なのは、具象的/可視的/有形なる教会ではなく、不可視的/霊的教会の構成員である各個人が神の前にいかにあるかということである。」という自分の言明の背後には、実のところ、可視的教会に対する深い深い絶望感があると思います。

 

そして私のように有形なる教会に対する絶望感を抱えている人にとっては、教会の「不可視的/霊的」側面および神と個人との関係性を強調してくれる現代プロテスタンティズムは一種の精神安定剤となってくれているのかもしれません。

 

現代プロテスタンティズムは、良い意味でも悪い意味でも、「個」を守り擁護してくれる防波堤なのかもしれません。プレーヤーもレフリーもそれぞれ各個人が担うことが可能です。

 

雑多な解釈の展示場から一番自分にとって整合性があり、説得力があるように思える解釈法を個々人が自由に選び、クリエイティブに自分の納得できる「聖書の読み方」を構築していくことができます。自分の教会の牧師の神学とかみ合わなくなったら、その際には自分の解釈とマッチする教会や群れを探し出し、新たにそこに移籍すればいいだけの話です。

 

ある人はこれを「個」の自由と肯定的に受け取り、別の人は、これを「個」の牢獄化と受け取るかもしれません。あるいは両方の要素が併存していると見る方もいることでしょう。

 

先日、All Saints of North America Orthodox Churchのジョン・A・ペック神父に聖書解釈に関し質問をしてみました。そこで私が気付いたのは、解釈および公同性と個の問題は、教会論と切っても切れない関係にあるのではないかということでした。

 

また、それまで私は、19世紀プロテスタンティズムの一潮流であった古典的ディスペンセーション主義聖書解釈法の特異性はその終末論にあると考えていたのですが、その後、この解釈法の最大の問題点はむしろ教会論にあるのではないかと考えるようになりました。

 

「永遠の神のご計画の中における『挿入句』としての教会」という発想は、やはりプロテスタンティズムの中からしか生まれてこない解釈であり教会観だと思います。

 

ですから20世紀前半に米国のプロテスタンティズムがこの教会観を無理なく受け入れることができた理由も、宗教改革以来の「個」と教会に関する人々の意識変革に負うところがそれなりに大きいのではないかと思いますが、みなさんはどう思われますか?

 

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地上の教会は「個」の牢獄から私たちを解き放ってくれるのでしょうか。自己の限られた資源、閉ざされた小窓の外に果たしてキリストの可視的教会の公同性はリアルに存在しているのでしょうか。