巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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教会政治とジェンダー論ーー女性教職を認めるべきか?(ウェイン・グルーデム著『組織神学』第47章)前篇

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ウェイン・グルーデム(1948~)過去20年間に渡り、イリノイ州にあるトリニティー神学校で教鞭を取った後、現フェニックス神学校教授。ハーバード大(B.A.)、ウェストミンスター神学校(M.Div.)、ケンブリッジ大(Ph.D.)1998-1999年にかけ、Evangelical Theological Societyの会長。『ESVスタディー・バイブル』編纂主幹。

 

目次

 

Wayne Grudem, Systematic Theology, ch.47. Church Government, D. Should Women be Church Officers?, p.937-942.(全訳)

 

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はじめに

 

大半の組織神学書には、「女性教職を認めるべきか?」に関する項は含まれていません。といいますのも、教会史全般に渡り、わずかな例外を除き、これまでずっと男性だけが牧師職および長老としての機能を果たすことができるという前提があったからです。*1

 

しかし近年、福音主義界で大きな論争が起こっています。ーー男性と同じように女性も牧師になることができるのでしょうか。女性たちも教会のあらゆる役職に就くことができるのでしょうか。私は別の著書の中でこの問題について詳説いたしましたが*2、本書ではその要約をしたいと思います。

 

まず是認しなければならないのは、創世記1:27における創造のナラティブは、男性も女性も等しく神のかたちに似せられて造られたとみているという事です。

 

それゆえに、男女共に、神の前で等しい価値を有しており、人格としても両者は全く等しい価値を持つ存在であり、教会にとっても両者は等価値の存在だということを認識しなければなりません。さらに、救済にかかわるあらゆる祝福に対し、男女は等しくそれらを受けることができる旨を聖書は確証しています(参:使徒2:17-18;ガラ3:28)。*3これはイエスの初期のミニストリーにおいて主が高い尊厳および敬意を持って女性たちに接していたことからもはっきりと確認することができます。*4

 

また認めなければならないのは、福音主義諸教会が往々にして、男女の完全なる平等性を認識し損なってきたこと、それゆえ、価値に於いて女性が男性と等価値であることを認識し損なってきたことです。

 

その結果として、神がしばし男性と同様ーーあるいは男性以上のーー霊的賜物を女性たちに与えているということを把握せず、教会のさまざまな働きにおける完全にして自由な参加の道を十分に奨励してこず、さらに教会生活における重要な決定事項において神が女性たちに与えておられた知恵に十分に耳を傾けてこなかったという悲劇的結果が生み出されました。

 

もしも教会内における女性の役割に関する現行の論争により、過去のこういった乱用のいくつかが撲滅されるのだとしたら、その際には、教会全体は大いに益を受けることでしょう。

 

にもかかわらず、冒頭の問いは残ります。ーー女性たちは教会内で牧師や長老になるべきなのでしょうかと。(もしくは教会政治における別の形態を持つ教会においていわゆる「長老職」に該当するような役割を女性たちは担うべきなのでしょうか?)

 

この問題における私自身の結論は、「聖書は、教会内において女性たちが牧師や長老の機能を果たすことを許可していない」です。そしてこれが、教会史を通し、さまざまな社会において諸教会の大多数の出してきた結論です。この問いに対し回答する上で最も説得力があると思われる根拠は以下の通りです。

 

1.1テモテ2:11-14

 

この問いを最も直接的に言及している聖句は1テモテ2:11-14です。

 

11 女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。

12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。

13 アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。

14 また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。

15 しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。

 

ここでパウロは〔信徒たちが〕一同に集った際の教会のことを言及しています(8-9節を参)。こういった状況の下、パウロは「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。」と言っています(12節)。これらは、教会の長老たちによって営まれていた機能であり、そして特に、現代の教会の状況において牧師として知られている人によって営まれている機能です。*5

 

そしてパウロが教会の中の女性たちに禁じているのは、長老たちに特有なるこういった諸機能です*6。さて、この立場に対し、いくつかの反論が出されています。*7

 

反論1

「この聖書箇所はある特定の状況にのみ適用され得ます。おそらく、当時、エペソにあった教会内で女性たちが異端教理を教えていたと考えられます。」

 

回答

しかしこの反論には説得性がありません。なぜなら、1テモテにおいて女性たちが実際に異端教理を「教えていた」とする明瞭な言明は一か所もないからです。(1テモテ5:13ではゴシップ話をする女性たちのことが言及されていますが、異端教理のことは語っていません。)さらに、パウロは異端教理を説いているある女性たちに静にするよう言っているのではなく、「女が教えたり男を支配したりすることを許しません。I permist no woman to teach or to have authority over men.」と言っています。

 

さらに、パウロが禁止している理由は、この反論の中で提案されているような内容とは大きく異なる種類のものです。パウロは、 ①堕落以前の、アダムとエバの状況/罪が存在する前(13節)、および、②堕落の際に男女の役割に逆転が起こったあり方(14節)に言及しているのです。そしてこれらの理由は、エペソの教会という一状況に限定されているものではなく、男性像および女性像一般に対する適用を包有しています。*8

 

反論2

「パウロがこの禁止命令を与えたのは、1世紀の女性たちにはあまり教育がなく、それゆえ、彼女たちは教会で教えたり統治したりするに適した資格を持っていなかったからなのです。」

 

応答

しかし、パウロは女性が「教えたり、男を支配したりすること」ができない理由として教育の欠如を挙げていたのではなく、私たちの注意を創造(creation)の記述に向けさせています(13-14節)。パウロが実際に与えている理由ではなく、与えていない理由を基に議論を進めるのは不安定で心もとない試みといわねばなりません。

 

それに加え、この反論は、古代教会および古代世界に関する実際の諸事実を誤解して受け取っています。新約の教会における教会リーダーシップには公的聖書教育というのは要求されていませんでした。現に、使徒たちの内の幾人かも公式的な聖書教育を受けていません(使4:13)。

 

他方、基本的読み書きや、聖書を読んだり学んだりする能力は男性にも女性にも可能でした(使18:26;ローマ16:1;1テモテ2:11;テトス2:3-4)。古代世界には多くの教養ある女性たちがおり、エペソのような文化的中心都市においては尚更そうでした。*9

 

最後に、こういった議論を繰り広げている人々は、往々にして、自己矛盾した事を述べています。といいますのも、彼らは別の場所では、今度は一転して「プリスカなど、古代教会には指導的立場にいた女性たちもいた」ということを指摘しているのです。この点は特に1テモテ2章に関連しています。

 

なぜなら、パウロはエペソに宛てて書いており(1テモテ1:3)、エペソというのはプリスカとアキラの母教会だったからです(使18:18-19、21参)。そして、プリスカがAD51年にアポロの聖書理解を助けることができるほど聖書に通じていたのは他ならぬこの教会でした。

 

その後、おそらくプリスカは3年に渡り、パウロがエペソに滞在し「神のご計画の全体」(使20:27;20:31、1コリ16:19)を教えている間、パウロ自身から聖書の教えを受けていたと思われます。そしてエペソにいる他の多くの女性たちもプリスカの例に倣い、パウロから教えを受けていたはずです。プリスカとアキラは後にローマに行きますが、パウロの生涯の終りの時期(AD67年頃)には再びエペソに戻っていました(2テモ4:19)。

 

それゆえ、パウロが1テモテを書いた時期であるAD65年に彼ら夫妻はおそらくエペソにいたと考えられます(プリスカがアポロの聖書理解を助けた約14年後)。にもかかわらず、パウロは、教養高いプリスカやその他、エペソにいる教養ある女性たちが、公同の集会の席で男性たちに教えることを許していません。ですから、理由は教育の欠如にあったのではなく、神が男女の間にお立てになった創造の秩序にあったのです。

 

2.1コリント14:33b-36

 

上記と同様の教えの中で、パウロは次のように述べています。

 

33b 聖徒たちのすべての教会で行なわれているように、

34 教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。

35 もし何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、妻にとってはふさわしくないことです。

36 神のことばは、あなたがたのところから出たのでしょうか。あるいはまた、あなたがたにだけ伝わったのでしょうか。

 

この箇所ではパウロは明らかに教会における女性の公的言明すべてを禁止しているわけではありません。なぜなら、彼は1コリント11:5において明確に、女性たちが教会の中で祈ったり預言したりすることを許可しているからです。

 

それゆえ、この箇所は、直接的文脈の中で言及されているカテゴリーの中における言説、つまり、集まりの中での預言の吟味のことだと解釈するのが最善ではないかと思います。(29節参:預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。)

 

パウロは教会の集会で女性たちが話し、預言することを許していましたが、預言に対し公に発言したり批評を加えたりすることは許していませんでした。なぜなら、そういった行為は、教会全体にかかわる統治ないしは支配機能になってしまうからです。*10

 

本聖句に関するこういった理解は、新約聖書時代における預言の賜物に対する私たちの見方に依拠しています。つまり、ここでいう預言というのは、権威ある聖書の教えに関わるものではなく、聖書と同格の‟話された神の言葉”に関わるものでもなく、それらは、自然的に私たちの思いに与えてくださったなにかのメッセージを報告することです。*11

 

こういう理解に立つと、パウロの教えは、1コリント14章と1テモテ2章との間できわめて首尾一貫していることになります。つまり、両事例共に、パウロは、教会での教えおよび統治における男性リーダーシップを保持することに心を砕いているのです。*12

 

3.1テモテ3:1-7、テトス1:5-9

 

1テモテ3:1-7もテトス1:5-9も、長老たちは男性であることを自明のこととみなしています。長老(ないしは監督/司教)は「ひとりの妻の夫」(1テモテ3:2、テトス1:6)でなければならず、「自分の家庭τοῦ ἰδίου οἴκου; his own house)をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人」でなければなりません(1テモテ3:4)。

 

ある人々は、「これらの指示は古代世界の文化的状況のみに適用されるものであり、その当時、女性たちは十分な教育を受けていなかったのです」と反論するかもしれません。ですが、前項の1テモテ2章に関して提示した回答がここでの反論に対しても適用され得るでしょう。

 

4.家庭と教会の関係

 

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父と子(出典

 

新約聖書はしばしば、家庭生活と教会生活の関連性に言及しています。パウロは「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。」(1テモテ3:5)と言っています。

 

また、テモテに対し、「年寄りをしかってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人たちには兄弟に対するように、年とった婦人たちには母親に対するように、若い女たちには真に混じりけのない心で姉妹に対するように勧めなさい。」(1テモテ5:1-2)と言っています。その他にも引用できる類似の諸聖句がありますが、とにかく、家庭と教会の親密な関係性は明確だと思います。

 

そしてこの関連性ゆえに、家庭内におけるリーダーシップの型が、教会内におけるリーダーシップの型を反映し、逆に、教会内のリーダーシップの型が家庭内におけるそれを反映するというのは不可避なこととなります。

 

それゆえに、敬虔な男性が家庭内でリーダーシップの責務を全うするのと同様、彼ら男性たちが教会でのリーダーシップの責務を全うするというのはきわめて適切なことです。反対に、もしも女性リーダーシップの型が教会内で確立された場合、家庭内における、より強大なる女性リーダーシップおよび、男性リーダーシップの退行(放棄)の方向へと重圧がかかってくるのはもはや避けられないこととなるでしょう。*13

 

5.使徒たちの例

 

使徒たちは地方諸教会の長老たちと同一ではありませんが、それでも尚、イエスが使徒として12人の男性たちを任命された時、主が教会における男性リーダーシップの型を確立されたということを認識するのは重要です。

 

女性たちが教会内の全ての役職へ等しく就任することができるというのは正しい見解ではありません。なぜなら教会のかしらであるイエスは男性だからです。そしてやがて12の座に着き、イスラエルの12の部族を裁くことになり(マタイ19:28参)、且つ、天の都の土台石にその名が永遠に記されるところの12使徒たち(黙21:14参)は、全員が男性です。

 

それゆえ、教会のあらゆる次元における、男女の等しい役割のための永遠なる形というのはこの先も存在しません。そうではなく、教会の最高統治の役割における男性リーダーシップという型が存在し、この型は、永遠に至るまで全ての信仰者たちに明らかなものです。この議論に対し次のような反論が出されています。

 

反論1

その当時の文化のせいで、イエスは使徒として6名の男性と6名の女性、もしくは6組の夫妻で構成される男女混合チームを選ぶことができなかったのです。*14

 

回答

しかしこのような反論は、イエスの統合性と勇気に対し疑問を差し挟む行為です。イエスは、倫理原則の是非がかかっている際、社会的慣習を打ち破ることに躊躇するような臆病な方ではありませんでした。イエスはパリサイ人を公に非難し、安息日に癒し、神殿を清め、サマリヤの女と話し、取税人や罪人と食事を共にし、洗わない手で食されました。*15

 

もしも主が、教会リーダーシップにおける男女両性の等しい役職に関する原則を確立しようと思われたのなら、使徒たちの選出の時点で、主はそうなさっていたに違いありません。そしてもしそれが主がご自身の教会にて確立したい型であったのなら、たとい文化的抵抗があったとしても、主はそれを敢行されていたことでしょう。しかしイエスはそうなさいませんでした。*16

 

反論2

もしそれが本当なら、それなら、ユダヤ人だけが諸教会の中で指導者になれるということになりませんか?なぜなら、12使徒はまた全員がユダヤ人でもあったからです。

 

回答

この反論には説得力がありません。なぜなら、これは、教会がその始まりには完全にユダヤ人で構成されていたという事実を取り損なっているからです。ユダヤ人を通して救いをもたらすというのが神のご計画であり、それゆえに12人のユダヤ人の使徒たちが誕生したわけです。

 

しかし新約聖書の中身をみますと、教会はすぐに異邦人を含む形で拡大していき(マタイ28:19;エペソ2:16)、異邦人たちはまもなく新約教会における長老や指導者になっていきました。異邦人(ルカ)が新約聖書中の二書を記し(ルカの福音書、使徒行伝)、テトスやエパフロデトといった異邦人たちは、パウロの使徒的助役者であり同労者でした。実際、神は、アブラハム時代から、最終的にご自身の民に数えきれないほど無数の異邦人たちを包含するのがご自身の計画であることを漸進的に啓示しておられました(創12:3;17:5)。

 

ですから、初期使徒たちのユダヤ人性は、彼らの男性性のようなものではありません。教会は完全にユダヤ人で構成されるものとして始まりましたが、その後すぐにユダヤ人と異邦人両方を含むものになりました。

 

他方、教会はどうでしょう?教会は、はじめに完全男子制で始まり、後になって女性たちをも包含するようになっていったのでしょうか?いいえ、違います。キリストの弟子たちは初めから男性と女性その両方で構成されており、ペンテコステの時に教会が誕生したあの場にも男女両方がいたのです。ですからこの反論もまた説得力を持ちません。

 

6.聖書全体を通した男性による教えとリーダーシップの歴史

 

時に、この見解に対する反論者たちは、「これは1テモテ2章というただ一つの聖句箇所にしか基づいていない」と言うことがあります。これまでの議論を通しその批判が真ではないということが明示されていると思いますが、それに加え、次の主張をすることもできます。つまり、創世記から黙示録までの聖書全体の歴史を通し、神の民の間における一貫した男性リーダーシップの型が存在しているということです。

 

確かに、女王や裁き人のような政治的地位において女性が指導者となっている例が時々あります。(女王:アタリヤは2列王記11:1-20で専制君主として統治していますが、彼女は模範とすべき例からはほど遠いでしょう。/それから裁き人としては、士師記4-5章のデボラを参照。)また、預言者であったデボラやフルダのような女性たちも時々登場しています(士4-5章、2列22:14-20)。

 

しかしながら留意しなければいけないのは、こういった例は普通でない状況の中における例外的ケースであるということです。このような事例は、教えと統治における男性リーダーシップという圧倒的パターンの中で生じており、それゆえ、それを新約聖書の教役職の型とみなすことは到底できません。*17

 

さらに、新約聖書の教会の中で牧師/長老に対し求められている会衆的聖書の教えに相当する事をやっている女性を、私たちは聖書の中にただの一例も見い出すことができません。旧約聖書においては、人々に教える責任を担っていたのは祭司たちであり、祭司制は完全に男性によるものでした*18。さらに、デボラやフルダといった女預言者たちでさえ、私的に預言しており、公的に会衆を前に預言していたわけではありませんでした。*19

 

7.教会史

 

上述しましたように、これまでの教会史全体を通じた圧倒的多数の型が示しているのは、牧師/長老(もしくはそれに相当する役職)は男性たちだけに保持されてきたということです。もちろん、そうだからといって、それがそのまま当該立場の正しさを決定的に証左することにはなりません。ですが、私たちは自らの結論を急ぎ、「この問題に関しては、歴代のキリスト教会がずっと誤っていたのだ*20」と断定してしまう前に、この問いそれ自体に対する真剣なる省察を行なうことがまずは肝要なのではないかと思います。*21

 

 

*1:William Weinrich, "Women in the History of the Church: Learned and Holy, But Not Pastors," in Recovering Biblical Manhood and Womanhood: A Response to Evangelical Feminism, ed. John Piper and Wayne Grudem (Wheaton, Ill.: Crossway, 1991), pp.263-79を参照。それからRuth A . Tucker and Walter L. Liefeld, Daughters of the Church: Women and Ministry from New Testament Times to the Present (Grand Rapids: Zondervan, 1987).

*2:Recovering Biblical Manhood and Womanhood: A Response to Evangelical Feminism, ed. John Piper and Wayne Grudemを参照。次に続く段落の中で私が採っている立場は、1988年に発行されたダンヴァーズ宣言("Danvers Statement")by 聖書的男性像・女性像評議会(Council on Biblical Manhood and Womanhood)と調和しています。

*3:Raymond C. Ortlund, Jr., "Male-Female Equality and Male Headship: Gen. 1-3," in Recovering Biblical Manhood and Womanhood, pp.95-112も参照のこと。

*4:James A. Borland, "Women in the Life and Teachings of Jesus," in Recovering Biblical Manhood and Womanhood, pp.113-23を参照。

*5:教会内での長老たちの教え及び統治機能に関する上記のp.915-16部分の議論を参照。

*6:この点に関する詳説は、Douglas Moo, "What Does It Mean Not to Teach or Have Authority Over Men?: 1 Tim 2:11-15," in Recovering Biblical Manhood and Womanhood, pp.179-93.

*7:こういった反論の詳細内容に関しては、Mickelsen, Spencer, Bilezikianの著述群を参照。*訳注:詳細文献目録は、ウェイン・グルーデム『組織神学』のp.946-948にあります。

*8:訳注:この反論内容に関する検証記事

*9:Piper and Grudem, Recovering Biblical Manhood and Womanhood, p.82を参照。訳注

*10:この点に関する詳細論文は、D.A. Carson, "'Silence in the Churches': On the Role of Women in 1 Cor. 14:33b-36," in Recovering Biblical Manhood and Womanhood, pp.140-153.

また以下の諸論文も参照。Wayne Grudem, The Gift of Prophecy in the New Testament and Today, pp.217-24. それから、Wayne Grudem, "Prophecy--Yes, but Teaching--No: Paul's Consistent Advocacy of Women's Participation Without Governing Authority," JETS 30/1 (March 1987), pp.11-23.

*11:詳細は、グルーデム著『組織神学』第53章, pp.1049-61を参照。

*12:1コリント14:33-36の部分に関するこの結論に対する最近の福音主義者による反論としては、「ここの聖句はパウロによって執筆されたものではなく、1コリント人への手紙のテキストに属してはいない。それゆえ、ここの箇所は、今日私たちに適用される権威ある聖句と捉えるべきではない」というものが挙げられます。参:Gordon Fee, The First Epistle to the Corinthians, pp.699-708. ゴードン・フィーの基本的主張というのは、「ここの聖句と、1コリント11:5を調和させることは不可能である。なぜなら、1コリ11:5ではパウロは明確に女性たちが教会で話すことを許可しているからである。」というものです。(フィーはまた、いくつかの古代写本の中で、1コリント14章の末尾に34-35節が移動していることを強調しています。)しかし、フィーは、ここでパウロは単に、教会の集まりの中で女性たちが預言を吟味するという権威を伴った働きを担うことを禁じているという点に十分な考慮を払っていません。また1コリントの古代写本の中でここの聖句箇所が省略されているものはただの一例もないという事実を鑑みる時、フィーのこの立場には驚愕せざるを得ません。(フィーの強調している写本〔=ここの箇所を14章の末尾に持ってきている写本〕はわずかで、しかもそれらの写本は、1コリントのその他の箇所でもしばしvariationsがみられ、信憑性のある写本とはみなされていません。)訳注:詳しくは以下の検証記事をご参照ください。

*13:この点に関する詳説は、Vern Poythress, "The Church as Family: Why Male Leadership in the Family Requires Male Leadership in the Church," in Recovering Biblical Manhood and Womanhood, pp.233-47を参照。

訳注:関連記事

*14:訳注:検証記事

*15:James Borland, "Women in the Life and Teachings of Jesus," in Recovering Biblical Manhood and Womanhood, pp.120-22を参照。

*16:ローマ16:7の「ユニアかユニアスか」という議論に関しては、グルーデム著『組織神学』p.908-9を参照。〔訳注〕検証記事:

*17:こういったナラティブの実例に関する詳細論文としては、Thomas R. Schreiner, "The Valuable Ministries of Women in the Context of Male Leadership: A Survey of Old and New Testament Examples and Teaching," in Recovering Biblical Manhood and Womanhood, pp.209-24.

それから特に、デボラの事例に関してですが、まず私たちが留意しなければならないのは、士師記全体で物語られている歴史的諸出来事の解釈に当たっては相当の注意が必要であり、それらの諸出来事が私たちの模倣すべき模範であると軽率に前提してしまうことに気を付けなければなりません。またデボラは公的にではなく私的に預言したという点でその他の男性の預言者たちとは異なっています(士4:5;フルダも2列22:14-20で同様のことをしています。)そしてデボラは彼女のリーダーシップの役割を一人の男性に謙渡し(士4:6-7)、そしてたしかに神は彼女を通して祝福をもたらしましたが、その他の主要な裁き人たちーーオテニエル(3:9)、エフド(3:15)、ギデオン(6:14)、エフタ(11:29)、サムソン(13:25;14:6)とは違って、主が彼女を起こされたという明確な確言をしていないという点は興味深いです。

*18:訳注:関連記事

*19:前の註の欄を参照。新約聖書の集会の中で女性たちが預言することができていたという事実に関しては、本記事のセクション2を参照。(グルーデム著『組織神学』p.939-40).

*20:訳注〕プロテスタンティズムの教理史観とBOBO理論について 

*21:注1を参照。近年、教会史を通し女性たちが為してきたさまざまな貢献にスポットを当てた著書が出版されています。特に、Ruth Tucker and Walter Liefeld, Daughters of the Churchには有益な情報や詳細文献目録が収録されてあります。しかしこういった研究の内どれも、教会史の圧倒的多数が女性たちを牧師として認めていないという明確な結論を覆してはいません。