巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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パウロにおけるイエス・キリストのピスティスの意義ーーロマ 3 : 22、26 ; ガラ 2 : 16 ; 3 : 22 ; フィリ 3 : 9 の釈義的考察(原口尚彰氏論文)【「イエス・キリストの信実」/主格的属格説】

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目次

 

東北学院大学、論文出典

 

はじめに

 

ロマ 3 : 22、26 ; ガラ 2 : 16 ; フィリ 3 : 9 に出てくる διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦという句や、ガラ 3 : 22 に出てくる ἐκ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦという句に用いられている属格名詞  Ἰησοῦ Χριστοῦ が主格的属格なのか、それとも、目的格的属格なのかということに関し ては解釈の余地があり、新約学研究者の間で論争が続いている。

 

主格的属格説に立てば、名詞 πίστις の意味上の主語はイエス・キリストであり、πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦは「イエス・キリストの信実(信)」、または「イエス・キリストの信仰」を意味する 。*1

 

これに対して、目的格的属格説に立てば、πίστις の意味上の主語は信徒であり、この句は「イエス・キリストへの信実(信)」、または、「イエス・キリストへの信仰」を意味する 。*2

 

この場合、イエス・キリストは、πίστις の主体ではなく対象である。 このことはパウロの義認論の核心部分の解釈に関わる重要な問題であるが、従来は主としてギリシア語表現の文法的解釈に関する語学的問題として議論されて来た。

 

主格的属格説の根拠は、七十人訳聖書や新約聖書において、名詞 πίστις に係る属格の多くは主格的であることである(サム上 21 : 3 ; 王下 12 : 16 ; 代上 9 : 22 ; ハバ 2 : 4 ; シラ 46 : 15 ; ソロ詩 8 : 28 ; ロマ 1 : 8、 12 ; 3 : 3 ; 4 : 5、 12、 16 ; I コリ 2 : 5 ; 15 : 14、17 ; ガラ 2 : 16 ; フィリ 1 : 25 ; 2 : 17 ; I テサ 1 : 8 ; 3 : 2、 5、 6、 7、 10 ; I ヨハ 5 : 4 ; 黙 13 : 10 他)。*3

 

これに対して、目的格的属格説は、名詞 πίστις と同根の動詞 πιστεύω の用例に照らして(ガラ 2 : 16 ; フィリ 3 : 22 他)、キリストは信仰の主体でなく客体であり、名詞 πίστις に係る  Ἰησοῦ Χριστοῦは目的格的であるとしている。*4

 

語学的・文法的議論はこの問題への取り組みには不可欠の手順であるが、名詞 πίστις に係る Ἰησοῦ Χριστοῦ 性格を考察するにあたって決定的証拠を提示する訳ではない。*5

 

例えば、 新約聖書や使徒教父文書の用例において、名詞 πίστις に係る属格の多くは主格的であるが (ロマ 1 : 8、 12 ; 3 : 3 ; 4 : 5、 12、 16 ; I コリ 2 : 5 ; 15 : 14、17 ; ガラ 2 : 16 ; フィリ 1 : 25 ; 2 : 17 ; I テサ 1 : 8 ; 3 : 2、 5、 6、 7、 10 ; イグ・エフェ 9 : 1 ; 13 : 1 ; 20 : 1 ; イグ・マグ 1 : 1 他)、明らかに目的格的な用例も存在するのであり(マコ 11 : 22 ; 使 3 : 16 ; エフェ 3 : 12 ; フィリ 1 : 27 ; コロ 2 : 12 ; II テサ 2 : 13 ; 黙 2 : 13 ; 14 : 12)、語学的考察により直ちに主格的属格説が証明されるのではない。*6

 

逆に、この句を使用した文章の後に、イエス・キリストが動詞 πιστεύω の対象となっている文章が続いているような場合でも(ロ マ 3 : 22 ; ガラ 2 : 16)、直ちに目的格的属格説が支持される訳ではない。

 

キリストの信実がキリストを信じる根拠となっていると考えれば、διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦは、「キリストへの信仰によって」ではなく、「キリストの信実によって」と訳すことも出来るからである。前置詞句 διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦにおける  Ἰησοῦ Χριστοῦ の意味を考える際には、属格表現についての文法的考察だけでは不十分であり、この句が使用されている文脈に即した πίστις の語義を釈義的・神学的に明らかにすることを通して、この名詞に係る 属格表現の性格を見定めなければならない。

 

本研究はロマ 3 : 22 ; ガラ 2 : 16 ; 3 : 22 ; フィリ 3 : 9 に出て来る διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦという句の意味の解明を目指す釈義的考察であるが、第一に、語学的見地から πίστις の語義に関して聖書内外の文献の用例を再検討して、全体的展望を得ると共に、特にパウロ書簡中の用例に焦点を宛ててその特色を考察する。その際には、特に、πίστις の動作主が神であるか、キリストであるか、信仰者であるかによって生じる意味の違いに注目する。

 

第二に、ロマ 3 : 22 ; ガラ 2 : 16 ; 3 : 22 ; フィリ 3 : 9 が置かれている文脈を考察し、これらの節が提示する神の義の啓示という主題と πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦという句の間に存在する構造的連関を明らかにする。

 

第三に、パウロ書簡に展開されている神学思想の全体の文脈の中で、πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦという句がどのような機能を果たしているのかを考察し、パウロ思想についての新たな理解の地平を切り拓きたい。

 

I. 語学的考察

1. πίστις の語義

 

前置詞句 διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦに使用されている πίστις(ピスティス)は、古典ギリシア語では、「信頼」(ヘシオドス『仕事と日々』372 ; ソフォクレス『オイディプス』 1445 ; プラトン『国家』VI 511e ; VII 533e534a)、「確信」(ピンダロス『ヌメアー祝勝歌』 8.44)、「誠実」(ヘロドトス『歴史』8.105)、「保証」(プラトン『法律』III 701c ; アリストテレス『弁論術』1375 ; ヘロドトス『歴史』9.91、 92)、「証拠」(プラトン『パイドン』 70b ; アリストテレス『弁論術』1414a ; イソクラテス『弁論集』3.8)、「委託」(ポリュビ オス『世界史』5.4.12 ; IG 7.21.12)を意味する 。*7

 

ヘレニズム・ユダヤ教文献において πίστις は、古典ギリシア語のような「保証」(フィ ロン『律法総論』1.90)、「証拠」(フィロン『律法総論』1.90 ; ヨセフス『ユダヤ古代誌』 19.16 ;『ユダヤ戦記』4.337)、「委託」(ヨセフス『ユダヤ古代誌』2 : 57 ; 6 : 326 ; 7 : 47) の意味の他に、「信実」(フィロン『言葉の混乱』31 ;『改名』182 ; ヨセフス『ユダヤ古 代誌』6.276 ; 7.160 ; 13.48 ; 14.192 ;『ユダヤ戦記』1.94、 207 ; 2.121、 341 ; 3.448 ; 5.121 ; 『アピオン駁論』2.134 他)や「信仰」(フィロン『アブラハム』268、 270、 271 ;『モーセの 生涯』1.90 ;『神のものの相続人』94 ; ヨセフス『ユダヤ戦記』1.485 ;『アピオン駁論』2.163、 169)という意味でも使用されている 。*8

 

七十人訳において πίστις は殆どの場合、ヘブライ語名詞 אֱמֶתまたは אֱמוּנָהの訳語となって おり、「信実」を意味する(サム上 21 : 3 ; 26 : 23 ; 王下 12 : 16 ; 22 : 7 ; 代下 31 : 12 ; 34 : 12 ; 詩 33[32]: 4 ; エ レ 5 : 1、 3 ; 7 : 28 ; 9 : 2 ; ホ セ 2 : 22 ; シ ラ 15 : 15 ; 22 : 23 ; 40 : 12 ; 41 : 16 他多数) 。*9

 

名詞 אֱמֶתはしばしば ἀλήθειαと訳されており(創 32 : 11 ; 47 : 29 ; ヨシュ 2 : 14 ; サム下 11 : 6 ; ミカ 7 : 20 ; ネヘ 9 : 33 ; 詩 25[24]: 5 ; 26[25]: 3 ; 40[39]: 11 ; 54[53]: 7 他多数)、七十人訳において、πίτιςと ἀλήθειαは互換的である 。*10

 

尚、πίστις を「信仰」の意味で用いた例は七十人訳の正典部分にはなく、外典部分に散見されるだけである(IV マカ 15 : 24 ; 16 : 22)*11。 新約聖書において πίστις は、旧約的な「信実」の意味で用いられることがあるがその頻度は多くない(ロマ 3 : 3 ; ヘブ 6 : 12 ; 黙 2 : 13、 19 ; 13 : 10 ; 14 : 2)。*12

 

新約聖書おいてこの名詞は、「信仰」という意味で用いられることが多い(マタ 9 : 2 ; 15 : 28 ; マコ 11 : 5、 22 ; ル カ 5 : 20 ; 8 : 25 ; 使 20 : 21 ; ロ マ 1 : 8 ; 4 : 5、 12、 16 ; I コ リ 2 : 5 ; 15 : 14 ; II コ リ 1 : 24 ; 10 : 15 ; フィリ 2 : 17 ; コロ 1 : 4 ; I テ サ 1 : 8 ; フィレ 5 ; I テ モ3 : 13 ; ヤコ 2 : 1 ; I ペト 1 : 21 ; I ヨハ 5 : 4 他多数)。*13

 

この場合、信仰の対象は神(マコ11 : 22 ; I テサ 1 : 8)、或いは、キリスト(使 20 : 21 ; フィレ 5 ; コロ 1 : 4 ; I テモ 3 : 13 ; ヤコ 2 : 1)である。信仰対象は、πίστις に係る前置詞句または属格名詞によって示される。

 

例えば、マコ 11 : 22 は信仰対象が神であることを属格名詞 θεοῦによって示している。同様な用例は、使徒教父文書にも見られる(イグ・エフェ 16 : 2 ; ヘルマス『幻』4.1.8 ; ポリュ・フィラ 4 : 3 を参照)。前置詞句について言えば、πρός τον θεόν(I テサ 1 : 8)、もしくは、πρὸς τὸν κύριον ἡμῶν Ἰησοῦν(使 20 : 11 ; フィレ 5)、ἐν τῷ Κυρίῳ(エフェ 1 : 15)、 ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ(コロ 1 : 4 ; I テモ 3 : 13)、εἰς Χριστὸν(コロ 2 : 5)等様々な表現が用いられている。

 

2. πίστις に係る属格表現

 

2.1 事物を表す名詞の属格

 

名詞 πίστις に係る属格名詞の性格について考えると、事物を表す名詞の場合は、事柄の性格上主格的とはなりえず、すべて目的格的である(使 3 : 16 ; フィリ 1 : 27 ; コロ 2 : 12 ; II テサ 2 : 13 を参照)。

 

2.2 人格的存在を表す名詞の属格

 

2.2.1 神的存在を表す名詞の属格

 

名詞πίστις に係る属格名詞が神である場合について言えば、マコ 11 : 22 ; イグ・エフェ 16 : 2 において πίστις θεοῦという句は「神への信仰」を表しており、属格の意味は目的格的である。

 

同様に、神を指す普通名詞や代名詞の属格表現を用いた ἡ πίστις τοῦ κυρίου 主への信仰)や(ヘルマス『幻』4.1.8 ;『戒め』11.4 ;『たとえ』6.3.6 ; ポリュ・フィリ 4 : 3)、ἡ πίστις αὐτοῦ(その方への信仰)も(Iクレ 3 : 4 ; 27 : 3)目的格的であると考えられる。

 

他方、ロマ 3 : 3 においてτὴν πίστιν τοῦ Θεοῦは文脈上「神の信実」を表しており、属格名詞は主格的に用いられている(ヨセフス『古代誌』17.179 も参照)*14。同様に、神を指す代名詞の属格表現を用いた ἐκ πίστεως μου(私の信実から)や(ハバ 2 : 4 LXX)、ἡ πίστις σου(あなたの信実)も(ソロ詩 8 : 28)、主格的であると考えられる。

 

2.2.2 人間を表す名詞の属格

 

人間を表す代名詞の属格表現が用いられている場合は、主格的であると考えられる。新約聖書では、σου ἡ πίστις(あなたの信仰)という表現が共観福音書に出て来るし(マタ15 : 28)、 ἡ πίστις ὑμῶν(あなた方の信仰)という表現が、共観福音書や(ルカ 8 : 25)、 書簡文学や(ロマ 1 : 8 ; I コリ 2 : 5 ; 15 : 14、17 ; II コリ 1 : 24 ; 10 : 15 ; フィリ 2 : 17 ; I テサ 1 : 8 ; I ペト 1 : 22 ; II ペト 1 : 5 他)、使徒教父文書に(イグ・エフェ 13 : 1 ; ディ ダケー 16 : 2)数多く見られる。

 

ローマ書においては、特に4章においてアブラハムに関して主格的属格が使用されているのが目立つ(ロマ 4 : 5、12、16)。 これに対して、七十人訳では、ἐν πίστει αὐτου(彼の信実によって)や(シラ 46 : 15)、τῇ πίστει αὐτῶν(彼らの信実)という表現が見られるが(代上 9 : 22)、すべて主格的である。このタイプの用例は、新約聖書では黙 13 : 10 に見られる。

 

2.2.3 イエス・キリストを表す名詞の属格

 

属格が主格的であるか、目的格的であるかが争われているロマ 3 : 22、26 ; ガラ 2 : 16 ; フィリ 3 : 9 を除いた新約聖書と使徒教父文書箇所について考察すると、例えば、黙 14 : 12 に出て来るτὴν πίστιν Ἰησοῦ(イエスへの信実・信仰)や、2 : 13 のτὴν πίστιν μου(私への信実・信仰)は目的格的属格である。

 

他方、イグ・ロマ序言における κατὰ πίστιν καὶ ἀγάπην Ἰησοῦ(イエスの信実と愛に従って)という句では、主格的属格が使用されている。 同様な用例は、イグ・マグ 1 : 1 ; イグ・エフェ 20 : 1 ; ヘルマス『たとえ』9.6.5 にも見られる。

 

以上の概観から、イエス・キリストを表す名詞の属格は、新約聖書や使徒教父文書の用 例において主格的であることも、目的格的であることもあり、文法的議論だけではその性格を決定することが出来ないことが分かる。*15

 

II. 釈義的考察

 

1. ロマ 3 : 22

 

ロマ 1 : 18- 3 : 20 の部分は、ユダヤ人も異邦人もすべてを含んだ世界の罪を明らかにしている。続く 3 : 21- 8 : 39 は神の義の啓示と神の義の下の人間の問題を明らかにしており、その導入部をなす 3 : 21- 26 は、罪の下の人間を描写する部分から、神の義の下の人間を描く部分へと移行する転回点に位置している 。*16

 

神の義ということは 3 : 21- 26 の部分 全体を貫く主題であるが、特に、神の義の啓示と人間の義認への言及が 21 節と 26 節になされており、全体を囲い込んでいる。

 

21- 22 節は、神の義の啓示とキリストの信実の主題を論じ、24- 25 節は、神の義の啓示とキリストにおける贖いとの関係を論じ、最後に全体の総括として、26 節において神の義の啓示とキリストの信実による義認ということが論じられている。

 

ロマ 3 : 21 は神の義が「顕された(πεφανέρωται)」と述べる。「神の義」(3 : 21、 22)、 または、「その義」(3 : 25、26)という句はロマ 3 : 21- 26 の中に合計 4 回出てきており、 神の義がこの章節の中心的主題であることは明かである。神の義という表現は 3 : 21、 22 の他では、1 : 17 にローマの信徒への手紙全体の主題として登場し、10 : 3 ではイスラエルの救済史との関連で出て来る。

 

ここで用いられている動詞φανερόωは、新約聖書や初期キリスト教文書において ἀποκαλύπτωと並び、神の啓示を表す術語として用いられている (マコ 4 : 22 ; ヨハ 1 : 31 ; 2 : 11 ; 3 : 21 ; 7 : 4 ; 9 : 3 ; 17 : 6 ; 21 : 1、14 ; ロマ 1 : 19 ; 3 : 21 ; 16 : 26 ; II コリ 2 : 14 ; 3 : 3 ; 4 : 10、 11 ; 5 : 10、 11 ; II クレ 20 : 5 ; イグ・ロマ 8 : 2 他)。*17

 

しかも、ここでは「顕された(πεφανέρωται)」と現在完了形で述べられている。 このことはキリストの死と復活によって救いが成就した決定的時の到来を表現している。「律法なしに(χωρὶς νόμου)」という句は、名詞句「神の義(δικαιοσύνη τοῦ Θεοῦ)」ではなく、動詞句の「顕された(πεφανέρωται)」に係っている。

 

ここでは律法の遵守が、神の義の啓示を受領する手段とならないことを述べており、直前にある「すべての肉は、律法の業によってその(= 神の)前に義とされることはなく、律法を通して罪の認識が生じ るだけであるからである」という発言を承けている(ロマ 3 : 28 ; ガラ 2 : 16 を参照)。

 

「律法なしに(χωρὶς νόμου)」とは、「律法の業によることなしに(χωρὶς ἔργων νόμου)」(ロマ 3 : 28 ; ガラ 2 : 16 ; 3 : 5)と同義である。 ロマ 3 : 22 に前置詞句 διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦ が登場している。本節においてこの句は文章の主語であるδικαιοσύνη δὲ Θεοῦ(神の義)を形容しており、神の義の啓示の手段を表している。*18

 

ローマ書におけるδικαιοσύνη Θεοῦ(神の義)は、神がキリストの故に信じる者を義とすることに他ならない(1 : 17 ; 3 : 21、22 ; 10 :3)。従って、3 : 22 のδικαιοσύνη δὲ θεοῦという句におけるθεοῦは主格的属格であり、神は動詞的名詞δικαιοσύνη(義)の意味上の主語であると判断される。

 

それに対応して、名詞句δικαιοσύνη δὲ θεοῦに係る διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦにおいて想定されている πίστις の動作主も信徒ではなくキリストである可能性が強い。この前置詞句については、「イエス・キリストの信実によって」という訳が適当であると考えられる 。*19

 

こう解釈すると、この句は、神の義が実現す る手段として、「律法の業」と「キリストの信実」を対照させ、前者を否定し、後者を肯定していることとなる。尚、一部の研究者は主格的属格説を採りつつ、この句を、「イエス・キリストの信実」ではなく、「イエス・キリストの信仰によって」と解している 。*20

 

この場合は、イエスが神を信じる者である点が強調され、イエスの πίστις は続くローマ書 4 章に 言及されるアブラハムの πίστις に対応することとなる(ロマ 4 : 9、11、12、 13、 14、16)。 *21

 

イエスは 1 世紀のパレスチナに生きたユダヤ人であり、無論、神への信仰を持っていたが、 イエスが神を信じる者であったということをパウロが特段に強調している訳ではないので、ここでもイエス・キリストの πίστις とは、「イエス・キリストの信仰」ではなく、「イエス・キリストの信実」という意味合いが強いと考えられる。

 

ロマ 3 : 22 においては、直ぐ後に続く前置詞句「すべての信じる者たちのための」において、「信じる者たち(πιστεύντας)」という分詞句が、神の義を受ける人間の側の信じる行為に言及している。特に、この句においては、「信じる者たち」の前に「すべての(πάντας)」 という形容詞が置かれ、信じることを通して神の義を受領するという点において、ユダヤ 人も異邦人区別がないことを示している。

 

ロマ 3 : 25に前置詞句διὰ τῆς πίστεωςが出て来るが、3 : 22 の διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦ「イエス・キリストの信実」の用例との並行関係から、キリストが意味上の主語である可能性が強い。従って、この句は「信仰により」ではなく、「信実により」と訳すことが出来る。

 

さらに、ロマ 3 : 26 にはτὸν ἐκ πίστεως Ἰησοῦという句が出てきている。この句に用いられている πίστις も信実という意味であり、句全体は「イエスの信実による者を」と訳すことが出来る。ここで用いられている属格形 Ἰησοῦは主格的である。

 

2. ガラ 2 : 16

 

ガラ 2 : 15- 21 の部分はガラ 1 : 10 から続いてきた自伝的部分の結びの部分に当たる。

 

先行する 1 : 10-2 : 11 の部分が、パウロ自身の宣教者としての歩みの中で起こった具体的出来事を回顧しているのに対して、この部分はこれらの出来事の根底にある根本問題、即ち、「人は如何にして神の前に義とされうるか」という神学的問題への考察を行っている。

 

この部分に述べられているパウロの神学的理解は、「人は律法の業によらず、イエス・キリストのピスティスによって義とされる」(2 : 16 を参照)と要約することが出来る。

 

この立場は過去の自分の歩みを振り返る中で明確になったパウロの思想の到達点を示して いるが、論敵達との論争の渦中での議論であるために、律法の業によって義とされるのか、 それとも、キリストのピスティスによって義とされるのかという鋭い二者択一の問いとし て受信人に対して提示されている。

 

ガラ 2 : 16 の主節は「私達はキリスト・イエスを信じたのであった」(16 節 b)という 部分であり、パウロらユダヤ人のキリストへ教への入信行為を回顧する自伝的な要素を含 んでいる。

 

宣教の言葉を「信じた」と述べて、一回的回心行為を指す例はパウロには他に も例があり(I コリ 15 : 2)、神の子キリストの啓示(ガラ 1 : 15 ; I コリ 15 : 5- 8)に呼応する人間の側の応答を指している。*22

 

16 節の他の部分(16 節 acd)は主節に懸かる副詞節であり、入信行為の目的と根拠を示している。16 節 a に出て来る διὰ πίστεως  Ἰησοῦ Χριστοῦを「イエス・キリストへの信仰による」と訳すべきなのか、あるいは、「イエス・キリストの信仰による」または「イエス・キリストの信実による」と訳すべきであるかということがここでも問題になる。

 

名詞 πίστις(信仰、信実・真実)にかかる  Ἰησοῦ Χριστοῦという属格名詞を、前者は目的格的に考えているのに対して*23 、後者は主格的に考えている。*24

 

目的格的属格と解すれば、この文章は人が義と認められる手段として、律法の業を行うことと、キリストを信じる信仰 とを対照している。ところが、主格的属格説を採用すれば、この文章は義認の根拠として、人が律法の業を行うことと、死に至るまで従順であったキリストの信実なる行為を(ピリ 2 : 6- 11)対照させていることになる。

 

16 節の文章の主節は「私たちはキリスト・イエスを信じたのであった」(16 節 b)となっ ており、キリストが明確に evpisteu、samen(私達は信じた)という行為の対象とされている。 このことを手掛かりにして、注解者達は伝統的に 16 節 a の πίστις(信仰、信実・真実) にかかる  Ἰησοῦ Χριστοῦを目的格的属格であると考えて来た 。*25

 

実は、筆者自身もかつては 伝統的理解に従ってこの句における  Ἰησοῦ Χριστοῦを目的格的属格であると考えていた。*26 しかし、ガラ 2 : 15- 21 全体の議論の中でこの問題を再度考察すると、よりキリスト論的な解釈も可能ではないかと考えるに到った。

 

16 節に続く 17 節において、パウロは信仰者 がキリストのうちにあることを強調し、19- 20 節においては、キリスト者がキリストの死に結ばれる結果、生きる主体が自分ではなく、キリストとなるという理解を提示している。 宗教的実存における生きる主体の転換の結果、主体としてのキリストが神の子として歩ん だ受難と死の生涯がクローズアップされることになる。

 

このことに照らせば、2 : 16a の διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦは、「イエス・キリストの信実による」と訳すと論旨がより鮮明になることが分かる。16 節の中では、「イエス・キリストの信実」と「律法の業」という相反する二つの救済原理が登場し、鋭く対照されているのである。

 

16 節 c に出て来るἐκ πίστεως Χριστοῦという句も、同様な論拠から「キリストの信実に よって」という意味であると認められる。より具体的に言うと、16 節 c は主節である 16 節 b の目的を示す従属節であり(「私達が ἐκ πίστεως Χριστοῦによって義とされるためであ り、律法の業によって義とされるためではない」)、ここでもまた、「キリストの信実」と「律法の業」という二つの選択肢が、神の前に義とされるための二つの相対立する道として提示されている。

 

「イエス・キリストの信実によることなくして、律法の業によって人は義とされることがない」(16 節 a)という認識は、パウロらが回心以前に持っていたユダヤ教的義認論を根本的に覆すものである

 

δικαιοῦνται(義とされる)という受動態の動詞の動作主は勿論神である(ロマ 3 : 10 を参照)。パウロは律法を遵守しその戒めを遵守することを、基本的には神の自分の義を立てようとする人間的業と考えている(ロマ 9 : 30- 33 ; 10 : 1- 4)。

 

彼がたびたびἐξ ἔργων νόμου(律法の業によって)という表現を用いるのはこのためである(ガラ 3 : 2、 5、 10 ; ロマ 3 : 20、 28 他)。回心以前のパウロは律法を厳格に守ることによって神の前に義を得ようとし、「律法の義については責められるところがなかった」と誇っ ていたのである(ピリ 3 : 9)。

 

しかし、キリストの啓示を受けて回心したパウロは生き方を転換して、律法の業によって自分の義を立てる道を断念し、キリストの信実によって、「不敬虔な者を義とする」(ロマ 4 : 23)神の義(1 : 17 ; 3 : 21)を受けている。

 

それは、律法の業によって義に達することが不可能であるからであるが、このことをパウロはさらに、 「すべての肉は律法の業によって義とされることはないからである」(ガラ 3 : 16d)という聖書引用(詩 143[142]: 2)によって根拠付けている(ロマ 3 : 20 ;『感謝の詩編』4.30 も参照)。

 

ガラ 2 : 20b は、ἐν πίστει ζῶ τῇ τοῦ υἱοῦ τοῦ Θεοῦ τοῦ ἀγαπήσαντός με καὶ παραδόντος ἑαυτὸν ὑπὲρ ἐμοῦ (私を愛し、私のために御自身を捧げられた神の子のピスティスのうちに私は生きている)となっており、ἐν πίστει ζῶ τῇ τοῦ υἱοῦ τοῦ Θεοῦという部分の ἐν πίστει...τοῦ υἱοῦ τοῦ Θεοῦ(神の子のピスティスのうちに)が目的格的属格なのか、それとも、主格的属格な のかという問題があるが、直前の 2 : 20ab が信仰的実存において生きる主体が信仰者であるパウロからキリストに転換していることを述べているのだから、この句も信仰者の生き る主体的姿勢よりもキリストの主体性を強調していると考えた方が良く、「神の子の信実のうちに」と訳するのが相応しい(主格的属格)27 。*27

 

3. ガラ 3 : 22

 

ガラ 3 : 6- 22 の部分の中心テーマは、誰がアブラハムの真の子らであり、アブラハムが 受けた約束と祝福の継承者であるかということであるが、その前提としてアブラハム理解が問題となる 。*28

 

アブラハムはイスラエル民族の父祖であり(マタ 1 : 2 ; 3 : 9 ; ルカ 1 : 73 ; 3 : 8 ; 16 : 24、 30 ; ヨハ 8 : 39、 53 ; 使 7 : 2、 32 ; ロマ 4 : 1、 12)、ユダヤ人たちは その子孫である(ルカ 1 : 55 ; 13 : 16 ; 19 : 9 ; ヨハ 8 : 33 ; ロマ 4 : 12 ; 9 : 7 ; 11 : 1 ; II コリ 11 : 22 ; ヘブ 2 : 16 ; 7 : 1 ; ヤコ 2 : 21)。

 

初期ユダヤ教において、アブラハムは神 に対して信実である義人と理解されていた(I マカ 2 : 52 ; ヨベ 23 : 20 ;『ミドラーシュ』 「キッドゥーシュ」4.14)。*29しかし、パウロはここでは、旧約聖書の再解釈を通してアブラハムをユダヤ民族の始祖としてではなく、彼の信仰の足跡に従う信仰者(= キリスト教徒)の父祖として提示しようとする(ロマ 4 : 11、 13 ; ガラ 3 : 7、 29 を参照)。

 

ガラ 3 : 22 は 3 : 6- 22 の結びの文章として、約束がキリストのピスティスを通して信じる者に与えられることを救済史的な展望のもとに置いている。パウロによればキリストの 到来以前の世界の人間に対しては、罪と死の支配が不可避的力として及んでいる(ロマ 5 : 12- 21 のアダム・キリスト予型論を参照)。律法がいのちを与えることが出来ない原因は罪の支配にある(ロマ 3 : 9 ; 5 : 21 ; 7 : 9- 10 ; 8 : 3)。

 

ガラ 3 : 22a によれば人間を罪のもとに閉じ込めた主体は「聖書」である。ここでパウロの念頭にあるのは、創世記 2- 3 章に記されている堕罪物語であり、原人アダムの罪過によって罪が世界に到来し、罪と死の支配が全人類に及んだ出来事であろう(ロマ 5 : 12、 14、 18、 21)。

 

ロマ 5 : 12- 21 のアダム-キリスト予型論は、罪と死の支配は第二のアダムであるキリストによって打破され、現在は恵みと義といのちが支配しているとしている(ロマ 5 : 15、 17、 21)。従って、聖書 が人類を罪の支配下に閉じ込めたのは、「約束がイエス・キリストのピスティスによって信じる者達へ与えられるため」であった(ガラ 3 : 22b)。

 

ガラ 3 : 16 ではアブラハムとそ の子孫(= キリスト)への神の約束に焦点が当てられているが(創 13 : 15 ; 17 : 8 も参照)、 22 節では 16 節で述べた内容を承けて、キリストを信じる者達が約束の受領者となることが述べられている。信仰によってキリストに属する者達は、アブラハムの子孫と見なされ、 約束による相続人として(ガラ 3 : 29)、約束された霊を受けて神の子となる(3 : 14 ; 4 : 5- 6)。

 

22 節において約束とその受領の主題が登場することによって、19- 22 節は 3 : 6- 4 : 7 全体を貫く福音の先取りとしての約束とその受領のテーマにしっかりと結びつけられている(特に 3 : 14、18、29 ; 4 : 7 を参照)。

 

前置詞句ἐκ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦに出て来る Ἰησοῦ Χριστοῦという句については、2 : 16a の διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦと同様に目的格的属格なのか、主格的属格なのかという問題 がある。筆者はかつて伝統的理解に従ってこの句についても目的格的属格であると考えていた。 *30

 

しかし、22 節において罪の支配から人間を解放する根拠として、イエス・キリストのピスティスが言及されていることを考慮すると、ここでも信徒の生きる姿勢としての 信仰よりも、キリストの信実が含意されていると考えられる(主格的属格説) 。*31

 

4. フィリ 3 : 9

 

フィリ 3 : 2- 11 のところは、競合するユダヤ人キリスト者の宣教者に注意するようにと いう内容の勧めであるが、「犬達に注意しなさい。悪しき働き人に注意しなさい。去勢した者達に注意しなさい」という極めて厳しい調子の言葉で始まっている(フィリ 3 : 2)。

 

論敵達は割礼を受けたユダヤ人であり、ユダヤ民族に属していることを誇りとしていた (3 : 3)。こうした人間的誇りに対決するかのように、パウロ自身も生まれて八日目に割礼を受け、ベニヤミン族の出身で、かつてはファリサイ派に属して律法の遵守に熱心だった 前歴を持ち、人間的な誇りを持ちうる立場にあったが(3 : 4- 6)、今はキリストを知るより優れた知識の故に出自に関する誇りを損と見なし、キリストを得るために糞土のように 無価値なものと考えていると断言する(3 : 7、 8)。

 

3 : 8- 11 はギリシア語本文では一文であり、特に、8 節 c10 節は 8 節 ab にある主節を 修飾する目的節を構成している。ここでは特に、9 節 b のμὴ ἔχων ἐμὴν δικαιοσύνην τὴν ἐκ νόμου, ἀλλὰ τὴν διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦ(律法による自分の義ではなく、イエス・キリストのピスティスによる義を持っている)という部分に出て来る διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦの意味が問題である。

 

この句の直後には、τὴν ἐκ Θεοῦ δικαιοσύνην ἐπὶ τῇ πίστει(ピスティスに基づく神からの義)という句があり、両者は類似の内容を違った角度から述べていると考えられる。目的格的属格論者は、両方の句に同一の名詞 πίστις が使用されていること に注目する。*32

 

後者に出て来る ἐπὶ τῇ πίστει(ピスティスに基づく)という句を、次に出て来るτοῦ γνῶναι αὐτὸν(その方を知る)という不定詞が修飾しているので、γνῶναιの場合 と同様に πίστις の主体は「私」(書き手であるパウロ自身)であり、キリストは客体と想 定するのが自然であるとされる 。*33

 

しかし、τὴν ἐκ Θεοῦ δικαιοσύνηνが、τὴν διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦと同格の関係に置かれていることに注目すれば、διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦという句 におけるπίστεωςの意味上の主語はイエス・キリストであり(主格的属格)、この句は「イエス・キリストの信実による」と訳すことが出来る。

 

他方、ἐπὶ τῇ πίστειという句におけ るπίστειの意味上の主語は「私」であり、この句は、「信仰に基づく」と訳すことが出来る。 フィリ 3 : 9 において名詞 πίστις が最初はキリストの信実を指して使用され、次にはそれ に対する応答としてのパウロの信仰について使用されていることになる。

 

パウロが同じ単語の複数の意味を意図的に使い分けながら、修辞的な効果を上げようする例は、ロマ 3 : 21 において νόμοςを法規範と律法の書の両方の意味で使用しているとしていることや、διαθήκηに遺言と契約の二重の意味を掛けて用いているガラ 3 : 15- 18 に見られる。 *34

 

III. 神学的考察

 

1. 神の信実とキリストの信実

 

名詞句 πίστις Ἰησοῦ ΧριστοῦにおけるἸησοῦ Χριστοῦを主格的属格と理解する見解に対 しては、パウロはキリストの信実にことさらに注意を促すことをしていないという反論が なされている 。*35

 

確かに、ローマ書の中に  τὴν πίστιν τοῦ Θεοῦ(神の信実)という句は出て くるのに対して(3 : 3)、解釈が分かれているロマ 3 : 22、 26 ; ガラ 2 : 16 ; フィリ 3 : 9 の他には、キリストの πίστις に言及している箇所はない。*36

 

他のパウロ書簡においても、「神 は信実である(πιστός ὁ θεός)」と述べる箇所は散見されるが(I コリ 1 : 9 ; 10 : 13 ; II コ リ 1 : 18 ; I テサ 5 : 24)、キリストは信実である(πιστός ὸ Χριστός」と述べた箇所はな い 。*37

 

しかし、キリストの義なる行為や(ロマ 5 : 18)、神への従順に言及した箇所はある ので(5 : 19)、キリストの死を神への信実や忠誠を表す行為と理解することは可能である (フィリ 2 : 8 ; 3 : 10 を参照)。

 

ロマ 3 : 3 では救済史的展望の下に神の信実(πίστις)が、イスラエルの不信実(ἀπιστία) と対照されて言及されている。神の信実は父祖達に与えた約束の言葉を守ることにある。

 

神は信実であり(πιστός ὁ θεός)、その約束は神の子キリストを通して成就するのであるから(コリ 1 : 18- 20 を参照)、キリストの信実なる行為を通して神の信実が現実化すると考 えて良いであろう。

 

新約聖書では動詞πιστεύωによって信徒が神(ヨハ5 : 24 ; ロマ4 : 3、 5、 17 ; ガラ3 : 6 ; I ヨハ 5 : 10)、もしくは、神の御子イエス・キリストを信じる行為を表すことが多くある(ヨハ 3 : 14、 16 ; 8 : 31 ; 12 : 11 ; 使 16 : 31 ; ロマ 9 : 33 ; ガラ 2 : 16)。

 

名詞 πίστις につい て言えば、多くの場合、前置詞句を伴って、信徒が抱く神(I テサ 1 : 8)、または、キリストへの信仰を示す(使 20 : 11 ; エフェ 1 : 15 ; コロ 1 : 4 ; 2 : 5 ; フィレ 5 ; I テモ 3 : 13)。

 

パウロ書簡においてパウロは、信仰の対象を明示せずに、信徒の信仰を指して名詞 πίστις を使用する場合が多い(ロマ 1 : 5、8、12 ; 3 : 27、28、 30、31 ; 4 : 5、 9、 11、 12、 14、 16、 19、 20 ; 5 : 1 ; 9 : 30、 32 ; ガラ 2 : 20 ; 3 : 2、5 ; フィリ 1 : 25、27 ; 2 : 17 ; I テサ 1 : 3、8 他多数)。

 

ロマ 3 : 21- 26 に続く 3 : 27- 31 のところでは、パウロは名詞 πίστις によって、キリストの信実ではなく、応答としての人間の信仰に言及している。特に、ロマ 3 : 28 の「人は律法の業によることなく、信仰によって義とされる」という文章は、前節の結論の帰結となる原理的見解を表明している。

 

この文章において、不定詞句δικαιοῦσθαιと同様に、名詞 句 πίστει(πίστις の与格形)の動作主は人(ἂνθρωπον)であるので、πίστειは「信実によって」ではなく「信仰によって」という意味であろう。 *38

 

アブラハム伝承の解釈において、パウロは神の約束の言葉の受領者としてのアブラハムの信仰を強調し、キリストを信じる者の信仰の先取りと見なしている(ロマ 4 : 1- 12、 13- 17 ; ガラ 3 : 6- 10)。キリストの信実 なる行為を通して神の約束が成就したことを信じることが、信徒の信仰の本質であり、信徒の信仰は神の信実とキリストの信実への応答であると考えられる。

 

2. キリストの愛とキリストの信実・信仰

 

使徒教父文書の一部では、イエス・キリストの信実はイエス・キリストの愛と並行関係に置かれているように(イグ・ロマ序言 ; イグ・マグ 1 : 1 ; イグ・エフェ 20 : 1)、キリストの信実とキリストの愛とは密接不可分である。

 

そこで、ἡ ἀγάπη τοῦ Ἰησοῦ Χριστοῦとい う句における属格の性格を考えてみることも、πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦにおける属格表現を 考える際の参考となる。

 

パウロ書簡に出て来る ἡ ἀγάπη τοῦ Θεοῦ(神の愛)という句について考えてみると、ロマ 5 : 5、8 ; 8 : 39 ; I コリ 13 : 13 が明確に示しているように、この 句は「神を愛する愛」ではなく、「神が愛する愛」を表し、用いられている属格は主格的 である 。*39

 

同様に、ἡ ἀγάπη τοῦ Χριστοῦ(キリストの愛)も(ロマ 8 : 35)、「キリストを愛 する愛」ではなく、「キリストが愛する愛」を表す。神の愛は罪人の救いのためにその御子を死に渡したことを通して表される(ロマ 8 : 32、39)。

 

キリストの愛は、罪人のために 自らのいのちを捨てることに現れるのであるから(ロマ 5 : 6- 8 ; 8 : 34- 35)、神の愛はキリストの愛を通して成就すると言える。キリストの側からすると、自らのいのちを捨てる行為は、自らを世に派遣した神の意思に対する信実・従順を意味するが、それを内的に支 えるのが罪人に対する愛である。キリストの愛はキリストの信実を支える内的動機を与え ている。

 

IV. 結論と展望

 

イエス・キリストを表す名詞の属格は、初期キリスト教文書の用例において主格的であることも、目的格的であることもあり、文法的議論だけではその性格を決定することが出 来ない。イエス・キリストを表す名詞の属格の意味内容は、それぞれが使用されている文脈を考慮して釈義的に決定するより他はない。

 

ロマ 3 : 22に出て来る前置詞句 διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦは 文章の主語 で あるδικαιοσύνη δὲ Θεοῦ(神の義)を形容しており、神の義の啓示の手段を表している。この前置詞句において想定されている πίστις の動作主はキリストであり、この句は主格的に、「イエス・キリストの信実によって」と訳すことが出来る。

 

同様に、ロマ 3 : 26 に出て来るτὸν ἐκ πίστεως Ἰησοῦという句も、「イエスの信実による者」と訳すことが出来、ここで用いられている属格形 Ἰησοῦは主格的である。

 

他方、ガラ 2 : 16 ; 3 : 22 ; フィリ 3 : 9 に出て来る前置詞句 διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦにおいても、キリストの主体性を重視した キリスト論的解釈は可能であり、この句を「イエス・キリストの信実による」と訳すことが出来る。

 

神の信実(ロマ 3 : 3)は父祖達に与えた約束の言葉を守ることにある。神の約束は神の子キリストを通して成就するのであるから(I コリ 1 : 18- 20 を参照)、キリストの信実なる行為を通して神の信実が現実化する。

 

パウロ書簡に出て来る ἡ ἀγάπη τοῦ Θεοῦ(神の愛)という句は、「神が愛する愛」を表し、 用いられている属格は主格的である(ロマ 5 : 5、 8 ; 8 : 39 ; I コリ 13 : 13) 。*40

 

同様に、ἡ ἀγάπη τοῦ Χριστοῦ(キリストの愛)も(ロマ 8 : 35)、「キリストを愛する愛」ではなく、「キリストが愛する愛」を表す。この事実は、ロマ 3 : 22 ; ガラ 2 : 16 ; 3 : 22 ; フィリ 3 : 9 における の用法と並行している。

 

他方、パウロは、信徒の信仰を指して名詞 πίστις を使用することも多い(ロマ 1 : 5、 8、 12 ; 3 : 27、 28、 30、 31 ; 4 : 5、 9、 11、 12、 14、 16、 19、 20 ; 5 : 1 ; 9 : 30、 32 ; ガラ 2 : 20 ; 3 : 2、 5 ; フィリ 1 : 25、 27 ; 2 : 17 ; I テサ 1 : 3、8 他多数)。

 

キリストの信実なる行為を通して 神の約束が成就したことを信じることが信仰の本質であり、人間の信仰は神の信実とキリストの信実への応答である(ロマ 3 : 28 ; ガラ 3 : 2、5、7 他)。

 

人は律法の業によらず、キリストを信じる信仰によって義とされるというテーゼは(ロマ 3 : 21、28 ; ガラ 2 : 16)、神に従順であり、罪人を愛し、苦難を受け、死に赴いたキリストの信実に依拠している(特に、ガラ 2 : 20 ; フィリ 3 : 9 を参照)。信仰義認論は人間論的基礎ではなく、キリスト論的基礎の上に成立していると言える。

 

ー終ー

*1:A.G. Hebert, “Faithfulness and Faith,” RTR 14(1955)33-40 ; G. Howard, “On the ‘Faith of Christ’,”HTR 60(1967)459-465 ; M. Barth, “The Faith of the Messiah,” Hey J 10(1969)363-370 ; D.W.B. Johnson, “Faith of Jesus Christ,” RTR 29(1970)71-81 ; S.K. Williams, “The Righteousness of God in Romans,” JBL 99(1980)272-278 ; L.T. Johnson, “Romans 3 : 21-26 and the Faith of Christ,” CBQ 44(1982)77-90 ; S.K. Williams, “Again Pistis Christou,” CBQ 49(1987)431-47 ; M.D. Hooker, “PISTIS CRISTOU,” NTS 35(1989)321-42 ; D.A. Campbell, The Rhetoric of Righteousness in Romans 3.21 26(JSNTSup 65 ; Sheffield : JSOT, 1992)58-69 ; idem., “Romans 1 : 1-17─A Crux Intrepretum for the πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ Debate,” JBL 113(1994)265-285 ; idem., “The Faithfulness of Jesus Christ in Romans 3 : 22,” in The Faith of Jesus Christ : Exegetical, Biblical, and Theological Studies(eds. M.F. Bird-P.M. Sprinkle ; Peabody : Hendrickson, 2009)57-72 ;I.G. Wallis, The Faith of Jesus Christ in Early Christian Traditions(SNTSMS 84 ; Cambridge : Cambridge University Press, 1995)65-102 ; R.B. Hays,“PISTIS CRISTOU and Pauline Christology : What is at Stake?” in Pauline Theology(Vol.4 ; eds. E.E.Johnson and D.M. Hay ; Atlanta : Scholars, 1997)35-60 ; idem., The Faith of Jesus Christ(2nd ed. ; Grand Rapids : Eerdmans, 2002)170-177 ; 木下順治「ローマ人への手紙三章二二の『キリストのピスティス(真実)』の理解について」『新解・ローマ人への手紙』聖文舎,1983 年,169-182 頁,太田修司「πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ─言語使用の観察に基づく論考」『パウロを読み直す』キリスト図書出版,2007 年,32-59 頁,同「『キリストのピスティス』の意味を決めるのは文法か ?」『聖書学論集 46 聖書的宗教とその周辺』リトン,2014 年,481-500 頁 ; 田川建三『新約聖書 訳と注 4』作品社,2009 年,141-142 頁,佐藤研『旅のパウロ』岩波書店,2012 年,221-231 頁 ; 吉田忍「ガラテヤ人への手紙におけ
る PISTIS CRISTOU」『聖書学論集 46 聖書的宗教とその周辺』リトン,2014 年,481-500 頁を参照。

*2:A.J. Hultgren, “The Formulation πίστις Χριστοῦ in Paul,” NovTest 22(1980)248-263 ; J.D.G. Dunn,Romans(WBC 38AB ; 2 vols ; Dallas : Word, 1988)I 166, 177-178 ; idem., “Once More, PISTIS CRISTOU,”in Pauline Theology(Vol.4 ; eds. E.E. Johnson and D.M. Hay ; Atlanta :Scholars, 1997)61-81 ; D. Linsay, Josephus & Faith : πίστις & πιστεύω as Faith Terminology in the Writings of Flavius Josephus & in the New
Testament(Leiden : Brill, 1993)75-111 ; J.A. Fitzmyer, Romans(AB33 ; New York : Doubleday, 1993)345-346 ; E. Lohse, Der Brief an die Römer(Göttingen : Vandenhoeck & Ruprecht, 2003)130-131 ; K.F.Ulrichs, Christusgalube(WUNT II 2.27 ; Tübingen : MohrSiebeck,2007); R. Jewett, Romans(Hermeneia ; Minneapolis : Fortress, 2009)277-278 ; B.A. Matlock, “Detheologizing the PISTIS CRISTOU Debate : Cautionary Remarks from a Lexical Semantic Perspective,” NovTest 42(2000)1-23 ; idem., “The Rhetoric of pi,stij in Paul : Galatians 2.16, 3.22, Romans 3.22, and Philippians 3.9,” JSNT 30(2007)173-203 ; idem., “Saving Faith : The Rhetoric and Semantics of πίστις,” in The Faith of Jesus Christ : Exegetical, Biblical, and Theological Studies(eds. M.F. Bird-P.M. Sprinkle ; Peabody :Hendrickson, 2009)73-89 ; T.H. Tobin, Paul’s Rhetoric in its Contexts : The Argument of Romans(Peabody, MA : Hendrickson, 2004)132-134 ; idem., “The Use of Christological Traditions in Paul : The Case of Rom 3 : 21-26,” in Portraits of Jesus : Studies in Christology(ed. S.E. Myers ; WUNT II 321 ; Tübingen : MohrSiebeck,2012)232-235 ; 原口尚彰『パウロの宣教』(以下,『宣教』と略記)教文館,1998 年,217-243 頁を参照。

*3:太田「πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ」32-59 頁を参照。

*4:Hultgren, “Formulation,” 248-263 ; Dunn, I 177-178 ; idem., “Once More,” 61-81 ; 原 口『 宣 教 』
230-231 頁を参照。

*5:この点について,Hays, “PISTIS,” 39 ; T.S. Schreiner, Romans(Grand Rapids ; Baker, 1998)181-186 ;
Matlock, “Detheologizing,” 1-23 ; 吉田忍「PISTIS CRISTOU 文法的観点から属格の用法を決定できるか ?」『福音と社会』第 29 号(2014 年)83-101 頁を参照。

*6:吉田「PISTIS CRISTOU」86-88 頁 ; 太田修司「『キリストのピスティス』の意味を決めるのは文法か ?」『聖書学論集 46 聖書的宗教とその周辺』リトン,2014 年,481-500 頁を参照。

*7:LSJ 1408 ; R. Bultmann, “πιστεύω, πίστις ktl.,” ThWNT VI 174-177.

*8:原口『宣教』196-199 頁を参照。

*9:BauerAland,1332-1333 ; R. Bultmann, “πιστεύω, πίστις“ ktl.,” ThWNT VI 174-228 ; G. Barth, “πίστις,πιστεύω” EWNT III 216-231 ; 原口『宣教』198 頁を参照

*10:Dunn, “Once More,” 76.

*11:原口『宣教』196-197 頁を参照

*12:D. de Silva, “On the Sidelines of the πίστις Χριστοῦ Debate : The View from Revelation,” in The Faith of Jesus Christ : Exegetical, Biblical, and Theological Studies(eds. M.F. Bird-P.M. Sprinkle ; Peabody : Hendrickson, 2009)259-274 を参照。

*13:原口『宣教』196-198 頁 ; M.A. Seifrid, “The Faith of Christ,” in The Faith of Jesus Christ : Exegetical,Biblical, and Theological Studies(eds. M.F. Bird-P. M. Sprinkle ; Peabody : Hendrickson, 2009)130 を参照。

*14:Ulrichs, 178-179 を参照。

*15:Hays, “PISTIS,” 39 ; Schreiner, 181-186 ; Matlock, “Detheologizing,” 1-23 ; 吉田忍「PISTIS CRISTOU」83-101 頁を参照。

*16:Dunn, Romans, I 176 も同趣旨。

*17:BauerAland,1700-1701 ; P.-G. Müller, “φανερόω,” EWNT 3.988-991 ; R. Bultmann / D. Lührmann,“fanero,w,” ThWNT IX 4-6 ; Käsemann, 86 ; Dunn, I 165.

*18:Campbell,“Faithfulness,” 62-64 も同趣旨。

*19:J. Dunnill, “Saved by Whose Faith ? ─ The Function of πίστις Χριστοῦ in Pauline Theology,” Colloquium30(1998)13-14 を参照。尚,原口『宣教』235-237 頁の見解を訂正する。これに対して,Cranfield, I 203 ; Käsemann, 87 ; Kuss, 113 ; Wilckens, I 187-188 ; Schlier, 105 ; Dunn, I 166,177-178 ; Fitzmyer, 345-346 ; Lohse, 130-131 ; Jewett, 277-278 ; Matlock, “Rhetoric,” 184-187 ; idem.,“Saving Faith,” 79-81 ; K.F. Ulrichs, Christusgalube(WUNT II 2.27 ; Tübingen : MohrSiebeck,2007)149-194 ; T.H. Tobin, “The Use of Christological Traditions in Paul : The Case of Rom 3 : 21-26,” in Portraits of Jesus : Studies in Christology(ed. S.E. Myers ; WUNT II 321 ; Tübingen : MohrSiebeck, 2012)232-235 は目的格的属格説を採り,この句を「イエス・キリストへの信仰によって」と理解している。

*20:Hays, Faith, 156-161 ; “PISTIS,” 44-47

*21:Hays,“PISTIS,” 47-48.

*22:拙稿「パウロにおける πιστός ὁ θεός/πίστις τοῦ θεοῦ」『宣教』193-
194 頁を参照。

*23:H.D. Betz, Galatians(Hermeneia ; Philadelphis : Fortress, 1979)115-118 ; 佐竹明『ガラテヤ人への手紙』新教出版社,1973 年,215-216 頁 ; 山内眞『ガラテヤ人への手紙』日本キリスト教団出版局,2002 年,147-
148 頁 ; A. Hultgren,“The Pistis Christou Formulation in Paul,” NovT 22(1980)730-744 ;Matlock, “Rhetoric,” 184-187 ; idem., “Saving Faith,” 79-81.

*24:B. Longenecker, The Triumph of Abraham’s God : The Transformation of Identity in Galatians(Edinburgh : T. & T. Clark, 1988)87-
88 ; J.L. Martyn, Galatians(AB33A ; New York : Doubleday, 1997)
251-252, 263-264 ; C. Howard, “Notes and Observations on the Faith of Christ,” HTR 600(1967)459-484 ; S.K. Williams,“Again Pistis Christou,”CBQ 49(1987)431-447 ; M.D. Hooker, “PISTIS CRISTOU,”NTS 35(1989)321-341 ; Hays, Faith, 156-161 ; “PISTIS,” 44-47 ; D.A. Cambell, “ Meaning,”91-103 ; idem., “Romans 1 : 17,” 265-285 ; Seifrid,“Faith,” 143-144 ; 太田修司「ガラテヤ書における『イエス・キリストの信実』」同『パウロを読み直す』キリスト教図書出版,2003 年,60-87 頁 ; 田川建三『新約聖書 訳と注 3』作品社,2007 年,166-174 頁 ; 佐藤『旅のパウロ』221-231 頁を参照。

*25:E. de. Burton, The Epistle to the Galatians(ICC ; Edinburgh : T. & T. Clark, 1921)121 ; H. Schlier,Der Brief an die Galater(KEK7 ; Göttingen : Vandenhoeck & Ruprecht, 1989)56 ; F. Mussner, Der
Galaterbiref(HThKNT9 ; Freiburg : Herder, 1974)173 ; Betz, 117 ; Dunn, “Once More,”67-74 ;Matlock, “Rhetoric,” 184-
187 ; idem., “Saving Faith,” 79-81 ; 吉田「PISTIS CRISTOU」86-
88 頁 ; K.F.Ulrichs, Christusgalube(WUNT II 2.27 ; Tübingen : MohrSiebeck,2007)106-108 を参照。

*26:原口尚彰「πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ」230 頁,同『ガラテヤ人への手紙』新教出版社,2004 年,110-112 頁を参照。

*27:拙稿「πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ」231-232 頁,同『ガラテヤ人への手紙』116-118 頁に述べた見解を訂正する。

*28:W. Kraus, Das Volk Gottes(WUNT85 ; Tübingen : Mohr, 1996)206 に賛成。

*29:Str.-Bill. 3.186-187.

*30:拙稿「主格的属格説に答えて」232-235 頁 ; 同『ガラテヤ人への手紙』166 頁 ; さらには,Ulrichs, 140-148 を参照。

*31:Hays, Faith, 148-
153 を参照。

*32:Dunn, “Once More,” 78-79 ; Ulrichs, 229-241 ; Matlock, “Rhetoric,” 178-181 を参照。

*33: Matlock, “Rhetoric,” 181-184 を参照。

*34:原口『ガラテヤ人への手紙』150-158 頁を参照。

*35:Dunn, I 166.

*36:Dunn, “Once More,” 77 を参照。但し,使徒教父文書にはキリストの信実や信仰についての言及が存在する(イグ・エフェ 20 : 1 ; イグ・マグ 1 : 1)。この点については,原口『宣教』227 頁を参照。

*37:Ulrichs, 187 を参照。但し,第二パウロ書簡やヘブライ書や黙示録にはキリストを指して,「信実である(pisto,j)」と述べる箇所が存在する(II テモ 2 : 13 ; II テサ 3 : 3 ; ヘブ 2 : 17 ; 3 : 2 ; 10 : 23 ;黙 1 : 5 ; 3 : 14 ; 19 : 11)。

*38:Kuss, 174-175 ; Käsemann, 96 ; Fitzmyer, 363 ; Jewett, 298.

*39:原口尚彰『新約聖書神学概説』教文館,2009 年,62 頁を参照。

*40:原口『概説』62 頁を参照。