巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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新約聖書ガラテヤ書 2:16 およびローマ書 3:22 における "πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"の日本語翻訳検証(関智征氏論文)【「イエス・キリストの信」/主格的属格説】

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出典

 

目次

 

 

執筆者:関智征氏(日本薬科大学非常勤講師)。『翻訳研究への招待』No. 13 (2015)より 出典

 

はじめに

 

本論文では、新約聖書のパウロ書簡における"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"(ピスティス イエスー クリストゥー)の日本語訳を検証する 。  *1

 

この"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"を主語的属格にとるか、目的語的属格にとるかが議論されてきている。この属格をどう解するかの問題は、パウロの「信仰義認論」の解釈が大きく変わってくるため、聖書解釈上、非常に重要な問題である

 

聖書学の分野では、文法的、神学的な議論が欧米を中心に進展している。一方で、聖書学の 成果を踏まえた日本語の翻訳という視点からの研究は、未発展である。そこで、本論文では、新約聖書パウロ書簡中のガラテヤ書 2:16、ローマ書 3:22 について、"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"の日本語翻訳を検証する。

 

伝統的に"πίστις"は、人間側の信じる態度を表す概念であると考えられてきた。"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ "は、「イエス・キリストへの信仰(Faith in Jesus Christ)」と目的語的に解釈されてきた。

 

しかし、「イエス・キリストの信実(Faithfulness of Jesus Christ)」という主語的属格解釈が、近年盛んに 主張されるようになってきた。本論文では"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"を主語的属格で解釈することによって、「神の義」とはイスラエルとの契約における神の信実・忠実さ(faithfulness)の表れであるというパウロの主張の論点が明瞭になることを確認する。

 

その上で、既存の日本語訳を検討する。それによって、"πίστις"は、信仰も信実も含んだことば なので、"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"は「イエス・キリストの信」という訳語が適切であることを提案する。

 

方法論・手順として、最初に"πίστις"について語義的検討を行い、パウロの"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"の文法的考察および解釈史の考察をする。次に、ガラテヤ書 2:16、ローマ書 3:22 における"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"が、どのように機能しているかをその文脈から検討する。その上で、既存の日本語翻訳を検証する。

 

1.語義、文法、および解釈史の考察

 

1.1. 語義的考察

 

a) 古典ギリシャ世界での語義

 

"πίστις"は、古典ギリシャ語では「信頼」「確信」「信実」「忠誠」「保証」「委託」「証拠」「誓い」など を意味した。「信頼」の意味の用法として、ヘシオドス『仕事と日々』372、テオグニス『詩集』831、ソ フォクレス『オイディプス』1445、プラトン『国家』Ⅵ511e,Ⅶ533e-534a。「確信」の意味としては、ピンダロス『ヌメアー祝勝会』8.44。

 

「誠実」の意味としては、ヘロドトス『歴史』8.105。「保証」の意味とし ては、プラトン『法律』Ⅲ701.c、アリストテレス『弁論術』1375、ヘロドトス『歴史』8.105。「証拠」の意 味では、プラトン『パイドン』70b、アリストテレス『弁論術』1414a、イソクラテス『弁論術』3.8。「委託」 の意味では、ポリュビオス「歴史」5.4.12 などが挙げられる 。*2

 

b) 旧約聖書(七十人訳聖書)の語義

 

七十人訳聖書において"πίστις"は、ほとんどの場合、ヘブライ語名詞「エメット」または「エムナー」"אמונה" の訳語であり、信実・忠実を意味する。信実・真実の意味としての用法は、列王記下 12:16、22:17、エレミヤ書 5:1,3、ホセア書 2:22、ハバクク書 2:4 などにみられる。

 

旧約・ユダヤ教においては、神への信実とトーラー(律法)を行うことは、相互に対立する事柄ではない。トーラーを行うことは、神への信実の具体的表現である。神を畏れる者は、神の戒めを守る(申命記 6:2、詩篇 19:8-22)。そして、神を愛する者は、神のトーラーとその規定を守るとされている(ネヘミヤ記 1:5、シラ書 2:15-16)。

 

c) 初期ユダヤ教文献における語義

 

ヘレニズム・ユダヤ教において"πίστις"は、「保証」「委託」「証拠」の他に、「信実」「信仰」の意味で使われた*3 。たとえば、「信実」の意味では、フィロン『言葉の混乱』31,『改名』182,ヨセフス『ユ ダヤ古代史』6.276、7.160、13.48,14.192、『ユダヤ戦記』1.94,207、2.121 など。『アピオン駁論』 2.134。「信仰」の意味では、フィロン『アブラハム』268,270,271、『モーセの生涯』1.90、『神のもの の相続人』94、ヨセフス『ユダヤ戦記』1.485、『アピオン論駁』2.163、169 などが挙げられる。古典ギリシャ語に比べ、信実の意味が強くなってきたことが特徴である

 

1.2 文法的考察

 

パウロの"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"における"Ἰησοῦ Χριστοῦ"は、属格形で表現されている。文法的には、名詞クリストスの属格クリストゥーをピスティスの目的語と解すれば、"πίστις"の意味上の主語はキリスト者であり「キリストを信じる信仰」と訳出できる。この場合、キリストは、主体ではなく対象である。

 

一方、属格クリストゥーを主語的に理解すると、意味上の主語はキリストとなり「キリストの(持っている)信仰、信実」と訳せる。この論争は、目的語的な主張を faith in Christ(キリストへの信仰)、主語的解釈を faith(fulness) of Christ(キリストの信実)と訳すため、しばしば"faith in /of "という表現をもって、議論が分かれる。主語的解釈か目的語的解釈か争われているのは、ガラテヤ書 2:16,3:22、ローマ書 3:22、26、およびピリピ書 3:9 である。

 

主語的解釈の研究者たちは、七十人訳聖書と新約聖書において名詞"πίστις"に係る属格の多くが主語的に解釈されることを根拠にしてきた。英語訳においても、多くが"faith in Jesus Christ"と訳す(たとえば、New International Version, English Standard Version, New King James Version な ど)。

 

例外は、"faithfulness of Jesus Christ"(New English Translation)と"faith of Jesus Christ" (King James Version)である。パウロ書簡だけみても、名詞"πίστις"に係る属格について「わたしの信仰(ローマ書 1:12)」「神の信(ローマ書 3:3)」「アブラハムの信(ローマ書 4:12)」と主語的用法が多くみられる。

 

しかし、新約聖書中には、明らかに目的語的な用例もある(たとえば、マルコ 11:22、 使徒3:16、エペソ書3:12、ピリピ書1:27、コロサイ書2:12、Ⅱテサロニケ書2:13など)。したがって、 文法的議論で必ずしも主語的解釈が証明されるわけではない。

 

一方、目的語的解釈は、名詞"πίστις"と同根の動詞ピステウオーの用例に照らして(ガラテヤ書 2:16、ピリピ 3:22 他)、キリストは信仰の主体ではなく客体であり、名詞"πίστις"に係る Ἰησοῦ Χριστοῦ"は目的語的属格であると根拠とする 。*4

 

しかし、"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"の後に、「イエス・ キリストを信じる」と Ἰησοῦ Χριστοῦ がピステウオーの対象となっている文章が続く場合でも(ローマ 書 3:22、ガラテヤ書 2:16)、直ちに目的語的解釈が支持されるわけではない。

 

なぜなら、キリストの 信実がキリストを信じる根拠となっていると考えれば、"διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦ "を「キリストへの信仰によって」ではなく「キリストの信実によって」と訳すこともできるからである。 以上のように、文法的な議論としては、どちらの解釈も可能性がある。そのため、文脈から釈義によって判断することになる 。*5

 

1.3. 解釈史

 

a) 伝統的な解釈

 

ガラテヤ書 2:16、ローマ書 3:22、ピリピ書 3:9 などの"πίστις (Ἰησοῦ ) Χριστοῦ"は、伝統的に目的語的属格と解されている*6。この目的語的解釈は、16 世紀に M.ルターによるドイツ語訳がもたらしたと言われている。

 

ルターはギリシャ語原典から翻訳する際に、問題の属格を明白に目的語的に解釈した(ガラテヤ書 2:16=durch den Glauben an Jesum Christum)。これは、信仰義認の教理 を中心的とみるルターのパウロ解釈からの要請によるものだった。当時のカトリック教会の救済教理と戦うために「信仰のみ」と主張した点は評価されるべきである。

 

しかし、この解釈によってウルガタ訳では保たれていた"fides Iesu Christi"と"in Christo Iesu credere"の区別を廃棄した。上記ルター訳が、時代を下るにつれて人間側の信仰を救済の絶対的条件とする根拠となってきた。

 

b) 主語的解釈の主張

 

しかし、近年、英語圏を中心として、パウロの表現"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"について主語的解釈が積極的に主張されている。「イエス・キリストの信」と訳されるべき可能性は、19 世紀末、ヨハネス・ハウスライターによって紹介された。

 

Der Glaube Jesu Christi und der christliche Glaube : Ein Beitrag zur Erklärung des Rö...

Haussleiter.S,  Der Glaube Jesu Christi und der Christliche Glaube, 1891.

 

彼の議論は、"ἐκ πίστεως Ἰησοῦ"(ローマ書 3:26)という表現を出発点とする。パウロが他のいかなる称号もなしに "Ἰησοῦς" という名を用いていることから、 この表現を、あきらかにイエス自身の個人的な信仰を指したものとハウスライターはみなす。

 

ハウスライターは、"Ἰησοῦς(史的イエス)"と "Χριστός(宗教的信仰の対象である栄光の主)"の名の区別 と、それらがパウロの表現において出てくる順番とを、極めて重要視する。

 

たとえば彼は、もし語順 が" διὰ πίστεως Χριστοῦ Ἰησοῦ" であれば「キリスト・イエスに対する信仰によって」と訳すことができるかもしれないが、ローマ 3:22 の実際の読みである" διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦ" は、「イエス・ キリストの信仰によって」以外の意味ではありえないとハウスライターは主張する 。*7

 

1950 年代、A.G.ヘバートとトーマス・トーランスは、"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"の属格構成が主語的であることの根拠を、パウロの語彙のヘブル的背景に求めた 。*8

 

すなわち、ヘバートとトーランスは、 "πίστις" が、ヘブライ語 "אמונה)" エムナー) のギリシア語における対応語であるという事実を根拠に「信実」という解釈を主張する。ヘバートとトーランスは、ヘブル語の語幹"אמן) "アーメン)の 基本的な意味を「ゆるぎないこと」「堅実さ」ととった上で、"πίστις"概念は、神に対しても人間に対 しても、あてはまるとした。その上で、パウロはイエスを「受肉した神の信実」として提示している、とする。

 

ジェイムズ・バーは、上記ヘバートとトーランスの立論を、言語学的な見地から批判した。バーは、 文脈や用例に関わりなく、ギリシャ語"πίστις"がヘブライ語「信実」の意味をもちうるとのヘバート等の想定を、言語学的に未熟であると批判した 。*9

 

もっとも、トーランスとヘバートは、"πίστις"から「信仰」の意味を排除する、という間違った論述様式に依拠したものの、"πίστις "語群の背景に旧約聖書のアーメン語群をみる事自体も"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"を「イエス・キリストの信」と主語的に解釈する結論自体も間違っていない。

 

実際、ヘバートとトーランス以後の英語圏のパウロ研究においても、主語的属格の立場が提示されている。たとえば、ジョージ・ハワードは、パウロの手紙において、"πίστις"の後に、人や神を表す名詞または人称代名詞の属格形が続く用例を検討した。さらにそれをヘレニズム・ユダヤ教の諸文書にまで広げた。

 

ハワードの研究によれば、パウロの手紙において"πίστις"の後に人または 神の属格形が続く場合、それは例外なく主語的に用いられており、ヘレニズム・ユダヤ教の諸文書においても、実質的にすべてが非目的格的に使用されていた。ここから「キリスト」の語の属格形が続く場合も、主語的に「キリストのピスティス」という意味にとるのが自然である、という結論をハ ワードは導き出した 。*10その後も、R.ロングネッカーなどにより、主語的属格の読み方が、支持されるようになってきた 。*11

 

 

c) faith in /of 論争 ーJ.ダンと R.ヘイズー

 

1983 年のリチャード・ヘイズの著書"The Faith of Jesus Christ"以降、主語的解釈が少なからぬ 研究者の間で支持を得るようになった。ヘイズは、「イエス・キリストの信(Faith of Jesus Christ)」と主語的解釈にとることで、ガラテヤ書の底流にあるキリストの物語(ナラティブ)との整合性が成り立つ、という。

 

すなわち、"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"(ガラテヤ書 2:16)は、十字架の死に至るまでキリス トが神に忠実であったことを表す。そして、新しい時代への黙示的転換をもたらし信仰の到来とて新しい時代を特徴づける「キリストの忠実」をガラテヤ書 2-3 章は一貫して表す、という。そして、 ここには、イエスの十字架の死と復活が、イスラエルとの契約に対する神の答えである、という考え方がある、という。それゆえに、ヘイズは、イスラエルと教会との2つの物語の継続性を強調してい る 。*12

 

上記"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"の主語的解釈について、J.ダンが R.ヘイズに反論している。両者 は、初期ユダヤ教という文脈の中にパウロを置いている点では、立場を同じくするものの、"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"の解釈をめぐっては対立する。

 

J.ダンは、ユダヤ教の特権を示す「トーラーの行い」に対して、「イエス・キリストへの信仰」をパウロは示した、という目的語的属格に立つ。そして 「信仰」を最初のキリスト教徒たちを一つにつないだ公分母であった、と考える 。*13

 

また、ダンは、"πίστις Χριστοῦ"の句において、定冠詞がないことから、この句は最初期のキリス ト者集団において「キリストの信仰」としては理解されなかったという推定を支持する可能性をいう。 そして「キリストに対する信仰」を意味する他の表現が、真正パウロ書簡において相対的に不在であることは、パウロにとって"πίστις Χριστοῦ"が「キリストに対する信仰」を意味していたことを示す、 という 。*14

 

上記欧米のfaith of /in 論争について、日本での議論を牽引してきたのが、太田修司である。 太田修司は、「イエスの人々に対する誠実(忠実さ)」を描くものと解する。

 

さらに、この場合の誠実さは、信徒たちが信頼する相手がまさに信頼に足るということを表現しているのであって、我々人間の「信」が向かうところのキリストの「実」という意味をこめて「信実」と訳す、という。すなわち、イエス・キリストの信実とは、信じる者たちにとってキリストこそが信頼するに値することを言い表す表現という。*15

 

以上の議論を踏まえ、"πίστις"および"διὰ πίστεως Χριστοῦ Ἰησοῦ"について、問題となるテキス トの釈義を行う。

 

2.問題となるテキスト

 

2.1. ガラテヤ書 2:16

 

まずガラテヤ書 2:16a の"διὰ πίστεως Χριστοῦ Ἰησοῦ "の句の意味に集中して検討する。

 

16a, εἰδότες δὲ ὅτι οὐ δικαιοῦται ἄνθρωπος ἐξ ἔργων νόμου ἐὰν μὴ διὰ πίστεως Χριστοῦ Ἰησοῦ,

しかし、キリスト・イエスの信をとおしてでなければ、トーラーの行いからは、人は義とされな いことを知って、(ガラテヤ書 2:16a 著者訳)

 

伝統的に"διὰ πίστεως Χριστοῦ Ἰησοῦ "の句は目的語属格的に「キリスト・イエスへの信仰をとおし て」と解釈されてきた。しかし、「キリスト・イエスへの信仰」という目的語解釈では、義とされるかどう かを人間側の自発的な信仰の有無が決めることになり、救いの可否が人間の業(わざ)に左右されることにはならないか。

 

すなわち、目的語的解釈(キリストへの信仰)では、信仰者の信じる行為 を、もう一つの行いにしてしまい、それが形を変えた行為義認(善行によって神は人を義とする)/ 律法主義になるという批判である。

 

この点に関して、J.ダンは神の側の「恵み」としての効力を発揮できるような神的な源泉を「信仰」にもみる。すなわち、信仰も神の恵みであるという理解である。それは、「あなたがたをキリスト の恵みにおいて召してくださった」神(ガラテヤ書1:6)、「ご自身の恵みをとおして私を召してくださ った」神(ガラテヤ書 1:15)、「私は神の恵みを無駄にしない」(ガラテヤ書 2:21)などにみられる。

 

なるほど、確かに人間側の誇りが一切取り除かれる神的な召し、恵みによる賜物としての「信仰」という概念は、パウロ自身が恵みを強調していたことと合致する。実際、パウロ自身、信仰そのものも、元を正せば神に恵みとして与えられたものであることを言っている(ピリピ書 1:29、Ⅰコリント書 12:3,9)。しかし、人間側の自由意志がある以上、イエス・キリストへの信仰という信仰者の信じる行為が業(わざ)になってしまう側面が、なお残り得るのではないか。

 

また、目的語属格をとる立場の根拠として、J.ダンによれば、"διὰ πίστεως Χριστοῦ Ἰησοῦ "につ いて、ガラテヤ書 2:16 の"διὰ πίστεωςΧριστοῦ Ἰησοῦ " の意味は、"ἡμεῖς εἰς Χριστὸν Ἰησοῦν ἐπιστεύσαμεν"(私たちはキリスト・イエスを信じた)という表現によって決定的に確定される。なぜなら、これらの表現の双方とも、この同じ節に出てくるからである、という。

 

この目的語的属格の主張に対する批判として、"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"が目的語的な用法であったとすれば、ガラテヤ書 2:16 は、同じことを徒に繰り返す冗長な表現となり、レトリックの効果を大幅に減じることにはならないか。

 

この点、J.ダンは、この箇所はパウロの中心テーマを最初に述べる場であり、強調と明確化のた めにイエスを信じるという表現を繰り返すことは驚くに値しない、という 。*16

 

原口尚彰も、冗長という批判に対して「16 節 a は『人は』(三人称単数)という主体をとって信仰義認論の原理を一般的に述べているのに対して、16 節 b は『私たち』という主語をとり、パウロら初代教会の信仰者たちの一 回的な回心行為について語っている」ので、同義反復ではないと主張する。*17

 

しかし、ガラテヤ書 2 章での論点は、同じユダヤ人キリスト者とパウロの論争であることに注意しなくてはならない。すなわち、パウロの論敵である「惑わす者たち」は、パウロ同様、ユダヤ人キリス ト者であった。このことは、「福音」ということばを使って、自分たちはキリストの福音を宣べ伝えていると論敵が主張していることを、パウロが記述している事実からも明らかである 。*18

 

したがって、論敵も、「イエス・キリストへの信仰」によって義とされることを認めていた。ただ、論敵が「キリストへの信仰」に加えて、「トーラーの行い」を満たすことで救われると考えていたことをパウロは問題にした。

 

それゆえ、ガラテヤ書 2:16 で、パウロが「キリストへの信仰によって」義とされることを重ねて強調したとすると、ほとんど有効な議論にならない。論敵も「イエス・キリストへの信仰」の重要性は認めて いたのである。"διὰ πίστεως Χριστοῦ Ἰησοῦ "と”ἐκ πίστεως Χριστοῦ”を「キリスト・イエスへの信仰によって」「キリストへの信仰によって」と解釈するなら、パウロの論点が見失われてしまう。

 

したがって、ガラテヤ書 2:16 に述べられている「義とされる」ことの根拠をめぐる発言は、「律法達成の業績」か「イエスを信じる信仰」か、という人間の行いの次元での二者択一ではない

 

むしろ 「トーラー(ユダヤ人のしるし)」か「イエス・キリストの信(キリストの十字架と復活という神の黙示的介入)」か、という救いの根拠の次元での二者択一なのである。十字架に表される「キリストの信」は 「トーラーの行い」をはるかに超える根源性があることを、ここでパウロは強調したと考えられる。

 

「イエス・キリストの信」によって、すべての人が義とされる道が開かれたという客観的な出来事がまずあり、その中で二次的に「私たちもキリストを信じた」とパウロは述べているのである。 以上のごとく、「イエス・キリストの信」が、人間が義とされる根拠となっている。

 

したがって、ガラテヤ書"διὰ πίστεως Χριστοῦ Ἰησοῦ "は「キリスト・イエスへの信仰によって」ではなく「キリスト・イエスの信によって」と主語的属格で解釈する(日本語訳の検討は後述)。

 

2.2. ローマ書 3:22

 

次に、ローマ書 3:22 における前置詞句"διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦ"について検討する。

 

δικαιοσύνη δὲ θεοῦ διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦ εἰς πάντας τοὺς πιστεύοντας. οὐ γάρ ἐστιν διαστολή,

(すなわちイエス・キリストの信をとおして信じるすべての者たちに対して (顕された)神の義である。そこには何の差別もない。(ローマ書 3:22、著者訳)

 

この句は、「神の義」を形容しており、神の義の啓示の手段を表してる 。*19 

 

この"διὰπίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦ"について、伝統的には「イエス・キリストに対する(信仰者の)信仰」と目的語属格として解釈された 。*20

 

しかし、"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"をもし目的語的属格で解釈するならば、「神の義」が、イエス・キリストを信じる人間の行為をとおして顕されることになってしまう。また「イエス・キリストへの信仰ゆえ の義」と言った後で、重ねて「信じる者たちすべてへの」と念を押す形は、冗長になってしまう。

 

確かに、「イエス・キリストを信じる信仰」は信仰の対象を明確にするのに対して、「信じるすべての人たち」は、信じる者たちの信仰そのものに強調点が置かれているので、重複的な表現ではないとの主張も一理ある。しかし、なお冗長性は消えない。

 

この点について、「神の義」は「神が救う業(わざ)」である。それに対応して「神の義」に係る"διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦ"も「イエス・キリストの信をとおして」と主語的に解釈できる。そうすると、ロ ーマ書 3:20-22 は、「義とされる」手段として「トーラーの行い」と「イエス・キリストの信」を対照させて、 神の義が啓示された今や、前者が否定されることをパウロは述べていることになる。

 

さらに、ローマ書 3:26 の"των ἐκ πίστεως Ἰησοῦ"は、"τω ἐκ πίστεως Ἀβραάμ"(ローマ書 4:16)と 同じ型の表現である。後者は「アブラハムの信による(倣う)者」と主語的属格に読まざるをえない 以上、前者も「イエス・キリストを信じる者」というより、「イエス・キリストの信による者」と主語的属格に読むほうが自然である 。*21

 

したがって、ローマ書 3:22 は「イエス・キリストの信をとおして信じるす べての者たちに対して(顕された)神の義である。そこには何の差別もない」となる 。*22

 

3.日本語翻訳の検証 3.1.

 

3.1. "πίστις"の絶対用法

 

以上のテキストの検討から、"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ "が主語的属格で解釈できることを確認した。 ここからは、日本語翻訳の検証を行う。日本語翻訳を検討する上で、まず、冠詞など規定語がな い"πίστις"の用法(以下、「"πίστις"の絶対用法」)であるガラテヤ書 1:23、3:23、3:25 を予備的に考察する。

 

なぜなら、太田修司が指摘しているように、"πίστις"に規定語(「イエス・キリストの」「神の」 など)を伴わない場合の意味を確認することが、"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ "や"πίστις του θεοῦ "などを釈義する上で、土台となるからである。*23

 

ガラテヤ書において"πίστις"が最初に現れるのは「かつて私たちを迫害した者が、以前は滅ぼ そうとした"πίστις"を、今は宣べ伝える」(ガラテヤ書 1:23)である。この箇所は、伝統的に、「信仰」 を今は宣べ伝える、と解釈されている。また、ガラテヤ書 3:21、25 の「ピスティスが来る前には」「ピスティス(の時代)が来たので」も「信仰が来る前には」「信仰(の時代)が来たので」と解釈されてい る。

 

そして、ガラテヤ書 3:26 の"διὰ τῆς πίστεως"についても、目的語的属格説の立場の研究者は 「あなたがたは皆「(人間の)信仰によって、キリスト・イエスと一致し神の子なのです」と、ここの "πίστις"を「信仰」の意味にとって「人間の」を補って解釈する。

 

一方で、主語的解釈をとる研究者の中でも、田川建三は「あなたがたは、神の真実によって、神の子なのである」と"πίστις"に「神の」を補う。そして田川建三は、"πίστις"に「信仰」の意味が含まれ ていることを否定する 。*24

 

このように、従来の解釈者は、規定語なしで使われた"πίστις"の意味を、「人間の信仰か、神の信実か」の二者択一でしか捉えていない。しかし、一世紀以上前にヨハネス・ハウスライターが述べたように、ギリシャ語 πίστις は、「信実」(Treue) と「信仰」(Glaube) とを区別していない。すなわ ち、両方の概念が、この一つの単語のうちに含まれている 。*25

 

この点、太田修司によれば、ガラテヤ書 1:23 の"πίστις"は、信じる人々の存在を前提しているか ら、人間の信じる態度や行動、すなわち「信仰」を含意している。同時に、"πίστις"は信じられる「キ リスト」をも意味する。なぜなら、「"πίστις"が現れる前には」(ガラテヤ書 3:23)や「いったん"πίστις" が現れた以上」(ガラテヤ書 3:25)において、パウロは"πίστις"の到来を、イエス・キリストの到来と重ねあわせているからである。

 

さらには、"πίστις"は、宣べ伝えるという語から察せられるように、「宣教のことば」と分かちがたく結びついている。"πίστις"は、信じる人間、信じられるキリスト、および両者の関係を創出する「宣教のことば」を本質的な要素として含みもつ恵みの現実を指す。このような包括的な意味を示す訳語として、ピスティスの絶対用法については「信」が適切である、と太田はいう 。*26

 

この太田の指摘は"πίστις"には、信仰も信実も含む、多義的な意味がこめられていることの適切な洞察であろう。そもそも、信仰か信実かという二者択一を前提に議論する事自体、疑問視される べきだと筆者は考える。「信」(ピスティス)には、神の救いの現実の中での、神と人間の関係性における能動性と受動性の同時性が含まれている。 

 

3.2. 訳語の検証

 

ガラテヤ書 2:16 およびローマ書 3:22 の"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"の翻訳語を検討しよう。日本語訳において、この句は伝統的に目的語的属格で解釈され「信仰」と訳されている。

 

文語訳

「キリスト・イエスを信ずる信仰」(ガラテヤ書 2:16)

「イエス・キリストを信ずる(に由りて)」(ローマ書 3:22)

口語訳

「キリスト・イエスを信じる信仰」(ガラテヤ書 2:16)

「イエス・キリストを信じる信仰」(ローマ書 3:22)

新共同訳

「イエス・キリストへの信仰」(ガラテヤ書 2:16)

「イエス・キリストを信じること」(ローマ書 3:22)

新改訳

「キリスト・イエスを信じる信仰」(ガラテヤ書 2:16)

「イエス・キリストを信じる信仰」(ローマ書 3:22)

フランシスコ訳

「イエズス・キリストへの信仰」(ガラテヤ書 2:16)

「イエズス・キリストへの信仰」(ローマ書 3:22)

 

一方、主語的属格をとる日本語訳も近年、増加してきた。前田護郎(1983)は、上記 2 箇所につ いて「イエス・キリストのまこと」と訳す。この大和言葉「まこと」という訳は、聖書が礼拝において朗読 され聴衆は耳から聴く性格の書物であることから考えると、極めて有力な訳語の一つである。

 

田川建三(2007)は「イエス・キリストの信」と訳す。ここで、注意しなくてはいけないのは、パウロ において、イエス・キリストは信仰の対象でないと田川が解釈して「信」の訳語を使用していることである。この点、パウロは、イエス・キリストを信仰の対象として明記しているので、田川の解釈はパウロを正確に捉え損ねている。イエス・キリストと人間の関係性をパウロはピスティスの語で表現し ているのであり、人間の側からすればイエス・キリストは信を置くに値する存在であり、信仰の対象である

 

太田修司(2007)は、"πίστις"が用いられるにしても規定語を伴わないガラテヤ書 1:23、3:23、25 などの絶対的用法では、「信」と訳す。一方、"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ" を「イエス・キリストの信実」と 訳す。"πίστις" をイエスの神に対する誠実(忠実さ)ではなく、人々に対する誠実(忠実さ)を描くものと太田は解する。

 

さらに、この場合の誠実さは、信徒たちが信頼する相手がまさに信頼に足る ということを表現しているのであって、我々人間の「信」の向かうところのキリストの「実」という意味をこめたゆえの訳である。「イエス・キリストの信実」とは、信じる者たちにとってキリストこそが信頼するに値することを言い表す表現と太田はいう。

 

この太田の解釈は、パウロ思想における"πίστις"概念 がもつ関係的な側面を正確に反映した解釈である。ただし、「信実」ということばが、日本人一般の 日常の語彙として必ずしも馴染み深いものでない。また、「しんじつ」という音を聴いた聞き手は、 「真実」をまず想起する蓋然的が高く、礼拝朗読という聖書の役割を考えると、一般聴衆には馴染みにくい可能性が否定できない。

 

この点について、筆者は「イエス・キリストの信」の訳語が、より適切であると考える。なぜなら、 「信」には、「疑わぬこと」と「まこと/欺かぬこと」の二つの意味がある(「大言海」)。*27

 

たとえば、「信 なくば立たず」(論語)とあるように、「信」には二者の関係性の中で相手に信を置くことが含意され ている。そして、キリストが信任するに値するので、そのキリストに信を置くということこそ、当該箇所 でのパウロの意図であるからである。結果として、田川と同じ「信」という訳語を用いるが、田川のよ うに「信仰」の含意を否定した上での解釈ではない。

 

なお、「信」の読み仮名について、前田のように「まこと」と訓読みを採ることも捨てがたい訳語で はある。ただ、"πίστις"と密接な関連のある語"δικαιοσύνη"(ディカイオスネー)との並行性も考慮に入れるべきである。

 

すなわち、"δικαιοσύνη"(ディカイオスネー)は、救い、法廷的正しさなど多様な 意味を内包する単語である。そして、その多義性を表現する単語として「義」(ぎ)と音読みで訳さ れていることとの整合性も考慮すると、「信」(しん)と音読みでの翻訳のほうが、より妥当なのでは ないか。

 

おわりに

 

本論文では、"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"の概念を検討してきた。この句は、文法的には主語的属 格、目的語属格どちらもとれるので、それぞれの文脈から判断することになる。

 

文脈から判断した結果、ガラテヤ書 2:16、ローマ書 3:22 共に、人が義とされる根拠としてイエス・キリストの十字架の死と復活という黙示的出来事をパウロは述べているので、「イエス・キリストの信」と主語的属格で解釈できることを確認した。

 

そして、"πίστις"が、信仰と信実の両方を含意しているものなので、「信」という訳語がその両義性を含んでおり適切であると結論づけた。 今後の課題としては、パウロ書簡の"πίστις"が用いられる他の箇所、また新約聖書全体での "πίστις"の翻訳についても検討することを展望している。

 

それによって、聖書全体の翻訳において、 "πίστις"を一方では「信仰」、他方では「真実」と訳しわけることの是非を検討し、信仰と真実/信実 の訳し分けは、日本語訳しか読めない読者に不適切な情報を与えることになるので不当ではない か、という問いへのさらなる考察に進みたい。

 

【著者】 関智征(SEKI Tomoyuki) 東京大学法学部卒業。日本薬科大学非常勤講師。専門はキリスト教学、 聖書学、死生学。パウロ書簡における「死生観」「信仰義認論」の研究に取り組んでいる。

 

参考文献

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*1:"πίστις Χριστοῦ"関連の表現について、3 つのパウロの手紙に合計 7 回出てくる。πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ ――ローマ 3:2, ガラテヤ 3:22。 πίστις Ἰησοῦ ――ローマ 3:26 。πίστις Χριστοῦ Ἰησοῦ ――ガラテヤ 2:16。 πίστις Χριστοῦ ――ガラテヤ 2:16, フィリピ 3:9 。πίστις τοῦ υἱοῦ τοῦ θεοῦ ―― ガラテヤ 2:20。

*2:原口尚彰(1998)、196-197 頁。

*3:“πίστις," in Greek-English Lexicon of the New Testament and Other Early Christian Literature, Bauer, Arndt, 668-69. R.Bultmann,“πίστις," in Theological Dictionary of the New Testament vol. 4 , ed.Gerhard Kittel, Eerdmans, 1964, 217-22. 荒井献、H.J.マルクス監訳『ギリシア語新約聖書釈義辞典』教文館、1995 年、3 巻、121-128 頁。

*4:James Dunn (2002), 262ff.

*5:M.D.Hooker (1989), 321-342

*6:C.E.B.Cranfield (1975),203. J.Dunn(1988),177-178. A.Fitzmyer (1993)345-46. E.Lohse,(2003)130-31. R.Jewett (2007) 277-78. B.A.Matlock (2007),173-203. ケーゼマ ン (1974)181-187 頁。ウルリッヒ・ヴィルケンス(1984)、253 頁。W.G.キュンメル(1981)、292 頁。

*7:S.Haussleiter (1891), 109-145, esp.127.

*8:A.G.Hebert (1955),33ff.

*9:バーが批判したヘバートとトーランスの語源的推論とは、ヘブライ語の語根アーメンの基本的な意味 を「堅固さ」「現実さ」ととった上で、その概念を人間でなく、神に適用する推論である。James Barr (1961), 161ff, esp.187-205.

*10:ジョージ・ハワードは、争点となっている属格が Χριστοῦ ないしそれと同等のものである箇所を別にして、24 箇所をピスティスの後に人または神の属格がくる用例として列挙している。そのうちの 20 個はキリスト者の信仰、2 つはアブラハムの信仰(ローマ 4:12, 16)、1つは信じる者だれでも(ローマ 4:5)、そして1つは神の信実を指している(ローマ 3:3) 。以上の用例から、"πίστις "の後に属格の固有名詞ないし代名詞が続く場合はどの場合にも、その属格は間違いなく主語的属格である、という。 George Howard(1967), 459 -65. 

*11:R. N. Longenecker (1964) 149-52; S. K. Williams, (1980) 272-78; L. T. Johnson, (1982) 77-90; R. N. Longenecker, Galatians, WBC 41 (Dallas: Word, 1990), 87-88; B. Byrne, Reckoning with Romans (Wilmington, DE: Glazier, 1986) 79-80; N. T. Wright (1995) 37-38.  

*12:Richard B. Hays (2002), ch.4,5.

*13:ジェームス・ダン(1998)、69 頁。

*14:J.Dunn (2002) 256. 他に、原口尚彰(2004)、111-112 頁も参照。

*15:太田修司(2007)、32,38,50-51,62-63 頁。太田修司(2014)、481-493 頁。

*16:J.D.G.Dunn (2002) 262.

*17:原口尚彰(1998) 、230 頁。

*18:ガラテヤ書 1:6-9。参考: 使徒行伝 24:14,22。

*19:D.A.Campbell, (2009)"The Faithfulness of Jesus Christ in Romans 3:22," in The Faith of Jesus Christ, ed.M.F.Bird , Pebody:Hendrichson, 62-4.

*20:C.E.B.Cranfield,(1975), 203. アルトハウス(1974) 、76-77 頁。

*21:清水哲朗(2001)、 24 頁。

*22:ローマ書 3:22 は動詞がない。この点、「与えられた」を補って読む解釈がある。たとえば、口語訳や松木治三郎(1966)、152 頁。しかし、21 節と同じ動詞が続くと考えたほうが自然なので、「顕された」を 筆者は補う。

*23:太田修司(2007)、32 頁以下。

*24:田川建三(2007)、481 頁。

*25:J. Haussleiter (1891), 136.

*26:太田(2007)、90-91 頁。

*27:鵜沼(2000)48 頁。植村正久の「神の友情に報ゆる人の誠これを信仰という」の信仰観から、神の存 在を認めることでなく、キリストに信任することに、植村の思想を鵜沼裕子はみている。明治期の聖書 以外のテキストの翻訳において「信仰」という訳語がどのような役割をしていたかは、今後の研究課題 である。