巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

安定しない魂、揺らぐ世界、そして堅固なる岩

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出典

 

人は誰しも自分の住む世界や関係性に安定を求めているのではないかと思います。

 

しかし悲しいかな、人生にはしばしそれとは逆のことが起こります。安定せずガタガタいう椅子、心もとなく空を漂う浮き雲。きしみ、揺れる大地ーー。万全を期し、事前対策を練り、最善を尽くしても、それでも多くの場合、つかの間の安定は、いとも簡単に打ち破られ、人は再び不安定の淵に引き戻されます。

 

荒野を放浪したイスラエルの民は定住の地を持ち得ませんでした。「主よ、いつまでですか?」(詩篇13:1)、ダビデの不穏な魂は神に問いかけました。

 

使徒パウロは、主と共に歩む地上の人生が「川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難」つづきであり、その半生が、およそ安定からはほど遠い、労と苦しみ、眠られぬ夜、飢え渇き、寒さ、教会への憂慮、、これらの連続であったことを告白しています(2コリ11:23-28参)。

 

また「真理」の乱立と競合性は、否応なく信仰者たちの地面を揺るがし、霊的安住地から人々を未知の不安定へと押し出します。

 

ある人々はこの不安定さと緊張感に耐えられず、原理主義的な世界とその言説に「安定」を見い出そうとします。別の一群の人々はそういった原理主義的世界の危険性を声高に叫ぶという自分のアポファティックなスタンスの中にある種の「安定」を見い出そうとします。

 

さらに別の一群の人々は、こういった熱狂vs反熱狂という熱狂構造にもほとほと疲れ果てた挙句、「世俗のニュートラル性」という教えに帰依し、そこに「安定」を見い出そうとします。

 

そして、多くの真摯な信仰者は結局、それらのどこにも属せず、「安定」と「安定」の狭間にあって、悩み、彷徨い、時に絶望し、それでも、ほんものを求める魂の呻きから逃れることができず、今日も主に手を差し伸べ、嘆き祈っています。

 

「あなたこそ、私の救いの神。私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。」詩篇25:5b

 

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。」詩篇62:2

 

信仰者がゆるがされないのは、彼・彼女の持つ信仰や聖書解釈やスタンスが「岩」のように堅固で絶対確実且つ‟正統”だからなのではなく、私たちの依って立つ神ご自身が岩であるゆえである、という詩篇の告白は、なんという慰めでしょうか。

 

岩なるキリスト(1コリ10:4参)がここにおられ、こうして、安定なき哀れな魂は、カルバリーの丘に安定のすみかを見い出すのでしょう。

 

「見よ、御子の頭を、手足を。心の痛みと愛とが混ざり合って溢れ流れ落ちている。これまでに、これほどにまでの心の痛みと愛というものが出会ったことがあっただろうか。死に渡されたその御体の深紅の血潮が ローブで包みこむようにその御体と十字架を覆いつくしている。その御姿を想うとき、私は世に死すことで世に勝ち、世というものはもはや私の中で死して勝ち得なくなる。」イサク・ワッツ

 

主よ、魂がもはや何も誰も信じられず、不安定をさまようその時にあっても尚、われらを見捨てず、永遠なる汝の安定の中に私たち旅びとを守り入れてください。