巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ユスティノスのストア哲学批判(水落健治氏、明治学院大学)【初代教会とギリシア哲学】

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ストア哲学の流れ(出典

 

目次

 

ユスティノスのストア哲学批判 ──キリスト教がギリシア哲学を受容する前提をめぐって。中世思想研究52号(出典

〔小見出しは、読みやすさを考え、ブログ管理人が任意に作成したものです。あしからずご了承ください。〕

 

はじめに

 

紀元1世紀にキリスト教が成立したとき地中海世界に浸透していたストア哲学(古ストア派)は、自然学、論理学、倫理学を内に含むひとつの壮大な体系であった。

 

その中心は物質世界に浸透する世界法則・運命としての〈ロゴス〉の概念であり、論理学とは世界法則としての〈ロゴス〉を知ること、倫理学とは運命としての〈ロゴス〉を知り、自覚的にこれに従うこと、と捉えられていた。

 

したがって、全知全能の人格神を奉じ人間の自由意志を認めるキリスト教がストア倫理学を受容したといわれるとき、そこには世界ないし神の捉え方の違いに起因する何らかの軋轢ないし変容が生じたことが予想される。

 

そこで今回の報告では、紀元2世紀に活躍し、おそらくは歴史上初めてギリシア哲学とキリスト教との相違を自覚的に捉えたユスティノスの著作『ユダヤ人トリュフォンとの対話』序文に現れる彼のギリシア哲学批判を見ることによって、キリスト教がストア倫理学を受容することがいかにして可能になったのかを考えてみたい。

 

ユスティノスとは誰か?

 

「哲学者にして殉教者」の名を冠して呼ばれるユスティノスは、紀元100年頃、シリア・パレスティナのフラヴィア・ネアポリス(サマリアのシュケム)に生まれた。

 

若き彼は、真理を求めて、ストア派、ペリパトス 派、ピュタゴラス派などの哲学諸派を遍歴し、プラトン派の内に一時の安息を見出すが、紀元135年頃、キリスト教に回心する。その後ローマでキリスト教学校を開設し教えたのち、165 頃、殉教した。

 

彼の著作『ユダヤ人トリュフォンとの対話』は、ユスティノスとヘレニズム・ユダヤ教徒トリュフォンとが、旧約聖書の様々な箇所の解釈をめぐって交わす論争を対話篇の形で述べたもので、その序文は、プラトン主義者であったユスティノスが、キリスト教徒である老人との出会いを契機にキリスト教に回心するまでのいきさつを述べつつ、当時のギリシア哲学諸派を批判する印象深い文章となっている

 

『ユダヤ人トリュフォンとの対話』1.4

 

まずわれわれは、当該のテキストを見ることにしよう。

 

 『ユダヤ人トリュフォンとの対話』1. 4

 

……けれども、大多数の人々は「神はひとりなのか、多数なのか、われらひとりびとりのことを配慮したもうのか、したまわないのか」と いったことにすら注意を払いません。このような知識が幸福には役立たないから、というのです。それどころか、彼らは、わたしたちをすら説得して、「神は万有を配慮したもう」とか、「万有の類および種については配慮したもうが、わたしやあなた、さらには個物を配慮したもうことはない」とか語ろうとします。

 

 しかし〔もし彼らの言う通りだとしたら〕わたしたちは夜も昼も神に祈ることなどしないでしょう。このような考え方が彼らをどのような結末に導いて行くのかは容易に理解することができます。このようなことを考える人々には、好き勝手なことを行い語る安心感〔恐れからの解放〕と自由が伴っているのであって、彼らには〔神の〕罰を恐れることも、神から何か善いことを期待することもないのです。

 

 というのも、彼らの説によれば、事物は常に同一のまま留まり続けるであり、さらにまた、わたしもあなたも〔来るべき世で再び〕同一の仕方で生きるのであり、優れたものになったり悪しき者になったりすることはない、というのだからです。

 

 また別の人々は、魂を不死なるもの、非物体的なるものと措定しているので、自分たちはたとえ悪しきことを行ったとしても裁きを受けることはない(というのも、非物体的なものが何かを蒙ることはな いのですから)と考え、さらにまた、魂は不死なる存在であることからして、神に属する何かを必要としない、と考えています」。

 

批判の対象ーー三種類の区分

 

このテキストでは、批判の対象となっているギリシア哲学者が三種類に区分されている。

 

1.「神はひとりなのか、多数なのか、われらひとりびとりのことを配慮したもうのか、したまわないのか」ということに関する知識が幸福には役立たないと考え、このような知識に注意を払わない人々。

 

2.「神は万有を配慮したもう」、「事物は常に同一のまま留まり続け、わたしもあなたも〔来るべき世で再び〕同一の仕方で生きるのであり、優れたものになったり悪しき者になったりすることはない」と考える人々。

 

3.「神は、万有の類および種については配慮するが、個物を配慮することはない」、「魂は不死なるもの、非物体的なるものであるから神に属する何かを必要としない」と考え、「非物体的な魂は、たとえ悪しきことを行ったとしても物体的な裁き(苦痛)を蒙ることはない」と主張する人々。

 

そして研究者たちによると、ここで 1. の人々として具体的に念頭に置かれているのは、クセノフォンのような実践家やセネカなどの哲学者、アレクサンドリアなどに発達した科学技術に携わる人々であり、2.の人々として念頭に置かれているのは、ストア派の哲学者であり、3.の人々として念頭に置かれているのは、中期プラトン派の人々であるという。

 

①セネカの主張

 

たとえば、セネカは『書簡 58』では「存在者 τὸ ὄν の様々な意味について」、『書簡 65』では「事物の様々な原因について」、『書簡 89』では「哲学の区分について」それぞれ論じているが、いずれの箇所においても、これらの議論が倫理的事項には無益であることが主張されている。たとえば 『書簡 58』25f では、

 

「しかし、このような煩瑣な議論が何の役に立つだろうか」と君は言うのかね。わたしに答えを求めるのなら、役に立つことはない。……今私たちが論じたことがら以上に、生活の改革から程遠いものがあるだろうか。」

 

と語られている。(Ep. 65、15; Ep. 89、18 も同様。)

 

②ストア派の主張

 

第 2 のストア派の人々が主張する「神は万有を配慮したもう」という語は、「神の支配は個物にまで及ぶ」というストア派の運命論・宿命論を意味している。

 

彼らの主張によれば、世界の中で起こることがらはすべて 〈ロゴス〉によって定められており、世界が終末に達すると、宇宙の大燃焼が起こり、それに続いて、以前と寸分違わぬ世界が再び出現し、これが 無限に繰り返されるという。ユスティノスが語る「事物は常に同一のまま留まり続けるであり、……」という語はこの「宇宙の大燃焼」(SVF II、596-632)への言及であると考えられる。

 

③中期プラトン派の主張

 

第3の中期プラトン派の人々は、「神は、万有の類および種については 配慮するが、個物を配慮することはない」と主張する。この主張は、「普遍者なるイデア(の世界)を眺めつつ世界を創造した制作者 δηµιουργός」という『ティマイオス』29a の記述から容易に導き出されよう。

 

中期プラトン派の人々は、この考えを敷衍して、個物に対する支配を下位のデーモンに委ねていたと伝えられる。そして彼らは〈可感的世界─可知的世界〉の二世界論に基づき、たとえ神が悪しき魂に罰を下そうとしたとしても可知的世界の住民たる魂が物体的な罰(苦痛・パトス)を蒙ることはない、と主張していた。

 

ユスティノスの批判

 

ユスティノスは、このようなギリシア哲学の考えを二つの点から誤謬として批判する。

 

第 1 に彼は、幸福 εὐδαιµονία という倫理学的問題を「存在者」τὸ ὄν の探求などの形而上学的問題と切り離してしまった人々を「神探求を放棄している」という根拠から批判し、「神探求と幸福とは密接に関連している」と主張する。

 

ユスティノスによれば、神探求こそが哲学の課題なのであり(Digl. Tryph. 1. 3)、幸福とはその神探求の結果として獲得されるものなのである。ここに念頭に置かれているのが、クセノフォンやセネカなどであることは明らかであろう。

 

第2 に彼は、ギリシアの哲学者たちが神の摂理 πρόνοια を誤って理解しており、この誤謬が彼らを倫理的破綻にまで至らせていることを主張する。「神の支配は個物にまで及ぶ」というストアの運命論のもとでは、「人間がいかなることを行っても神の支配は貫徹されるのだ」という帰結が生じ、この帰結が人をして倫理的放縦へと導いて行く。

 

他方、「神は、万有の類および種については配慮するが、個物を配慮することはない」と主張する 中期プラトン派の考えのもとでは、「神の支配は個物たる私には及ばない」 という帰結が生じ、この帰結が「非物体的な魂が罰(パトス)を蒙ることはない」という考えと結合して、人をして同様の倫理的放縦へと導いて行く。ユスティノスは、このような誤った摂理の考え方を批判して「このような世界観のもとでは、祈りが無意味となる」と語る。

 

つまり、ここでユスティノスは、(1)ストアの〈運命としての神〉と(2)中期プラトン派 の〈制作者としての神〉とを(3)キリスト教の〈人格神〉と鋭く対比させ、「万物(個物を含む)を支配しながら、個々の人間の祈りを聴き、その祈りに答えて人間を導いて行く神」というキリスト教の神観の立場から、ギリシア哲学の摂理観を批判したのである

 

以上のユスティノスのギリシア哲学批判は、(1)クセノフォンやセネカ、(2)ストア派の哲学者、(3)中期プラトン派の人々に向けられたものであるが、ここでわれわれは、セネカの思想の古ストア派のそれからの変質に注目したい。

 

というのも、一般にセネカはストアの系譜に連なる哲学者とされているのであるが、古ストアの採った「運命論・宿命論」という世界観と、セネカの採った「神や世界の問題と切り離して〈生活の改革〉を追求する」という立場とは──前者が人間の自由意志を否定し後者がそれを肯定するかぎりで──矛盾すると考えられるからである。

 

古ストア派、中期ストア派、新ストア派

 

一般にストア派は、ゼノン、クレアンテス、クリュシッポスらに代表される「古ストア派」と、パナティオス、ポセイドニオスらに代表される中期ストア派と、セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスなどに代表される新ストア派とに区分される。

 

そして中期ストア派が道徳的・実践的側面を強調するに至ったとされている。このような、「ストア派の変質」こそが、キリスト教がセネカなどの倫理学を受容する前提になったのではなかろうか。

 

この結論は、「何をもってストア派と呼ぶのか」というストア派の同一性 Identität、および学説史 Doxographieの問題に繋がる。だがこの問題については、その存在を指摘するに留めたい。

 

参考文献:水落健治「ギリシア哲学とキリスト教との出会い──ユスティノス『ユダヤ人トリュフォンとの対話』序文を読む」、『理想』No. 683、 2009. 9. 25、pp. 2-13.

 

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