巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

クリスチャンの礼拝と祈りはなんと奥が深いことでしょう!

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出典

「われわれは、そこが天国なのか地上なのか分からなかった、、、ただ一つ確かなのはそこにおいて神が人間たちの間に宿っておられるということだ。」キリスト教会の典礼の様子を目撃したウラジミール使節の証言

 

目次

 

毎日が学びと発見

 

日本正教会のマリア松島純子さんのお書きになった「ビザンティンの奉神礼と聖歌」という論考を読ませていただきました。

 

4世紀から10世紀にかけての東方キリスト教会の礼拝(奉神礼、典礼)に関してとても分かりやすく説明・解説がなされており、「わぁー、そうだったんだ。なるほど、だから東方教会は『歌う礼拝』なんだ。おぉ感動!」という感じで、ワクワクしながら読み進めていきました。

 

長い長い年月をかけ、コンスタンティノープルとエルサレム、「街の教会」と「修道院」という、ふたつの街のふたつの伝統が独自の道を歩みつつも、互いに混じり影響しあい、やがて「奉神礼」の形で統合されていくさまがよく伝わってきました。

 

また、自分にとって勉強になったのは、ビザンティン教会というのが、初代教会からの連続性を保ち、信仰の根底を揺るがす教義上の変更には決して妥協しなかったものの、礼拝の形式、言語、聖歌の歌い方などは各地の教会の判断に任せ、歴史上の事件や状況の変化には柔軟に対応してきた、という「堅固さ」と「柔軟性」のその両方を兼ね備えているということでした。

 

教義上のコアの部分に対する忠実さ、恒常性と、時代の変化に応じた柔軟性という二側面は、東方教会であれ西方教会であれ、およそ生ける聖霊の導きにある礼拝共同体が常に直面し、また向き合ってきた尊い使命なのではないかと思います。

 

教理史学者ヤロスラフ・ペリカンは「伝統は死んだ人々の生きた信仰、伝統主義は生きている人々の死んだ信仰」と語ったそうです。そして論者は、最後に次のように締めくくっておられます。

 

「わたしたちは奉神礼の場において受け渡された伝統の連続性を保ちつつ、聖霊の導きを得て、今ここに『神の国』をいきいきと体現してゆかねばならない。そこに真の『生ける伝統―Living Tradition』が息づくのである。」

 

また、日本聖公会横浜教区パウロ眞野玄範司祭のお書きになった「1~3世紀の聖務時祷」も非常に興味深く読ませていただきました。

 

眞野司祭は、この記事の中で、ロバート・タフトの『東方教会及び西方教会における聖務時祷』(“The Liturgy of the Hours in East and West”) の第2章を日本語に翻訳してくださっています。

 

 

司祭の記事もまた、上記の松島氏の論文と同様、すばらしい内容であり、謹んで転載させていただきたいと思います。尚、著者のロバート・タフト氏(Robert F. Taft)についても調べてみたのですが、この方もまた、面白い人生経路と並々ならぬ情熱を持った信仰者であり、ウクライナ・ギリシャ・カトリック教会の修道司祭だということを知りました。ロシアや東方カトリック教会に造詣が深い方のようで、以下のようなインタビュー記事も見つけました。

 

An Interview with Fr. Robert Taft on His Connection with the Russian Orthodox Church | Salt of the Earth

 

毎日が学びと発見の連続です。このような機会を惜しみなく賜わってくださり、ちいさな羊を育み、慈しんでくださる主に心から感謝ささげます。

 

 

ビザンティンの奉神礼と聖歌(日本正教会、マリア松島純子女史) 

 

ふたつの街、ふたつの伝統 *

 

現行の奉神礼(礼拝)の大枠、聖歌の大半は四世紀から十世紀のビザンティンで作られた。ビザンティンの教会は初代教会からの伝統を継承しつつ、時代の要請や状況の変化に柔軟に対応し、それが小さな変化となって次の時代に手渡され、積み重なり、次第に完成されていった。

 

「聖体礼儀」にも「晩課」にも「早課」にも、コンスタンティノープルとエルサレム、「街の教会」と「修道院」、ふたつの街のふたつの伝統が混じり合っている。ふたつは独自の道を歩みつつ、互いに影響しあい、やがて統合されて「奉神礼」の形ができあがっていった。

 

街の教会の伝統

 

313年のミラノ勅令によって教会を取り巻く状況は激変した。迫害時代の殉教を覚悟した結束の固い小さな集団は、キリスト教が公認されたことにより、国民の大多数がキリスト教徒となった。大手をふるって教会に集えることは、もちろん歓迎すべきことだったが、「街の教会」にとって信徒への呼びかけや教育は大きな課題となった。

 

世俗的な理由や流行のように洗礼を受けるものも現れたし、逆に、悔い改めて洗礼を受けるのを一寸のばしにする風潮もあった。また皇帝が参列し大聖堂が建てられるようになれば、ふさわしい儀式も求められた。そういう状況の変化のなかで教会は大会衆と「声と心をひとつに」祈るためにさまざまな工夫を行った。

 

ビザンティンの「街の教会」の祈りの特徴は聖歌を利用した積極的な会衆参加にあり、別名「歌う礼拝」とも呼ばれた。その一つの例が「行進」で、大きな祭、災害、国家の祝いなどの際には皇帝や総主教を先頭に行列を作って街を練り歩き、広場(フォーラム)では行進を止めて祈った。

 

列を二隊に分け、それぞれに聖歌隊とリーダーを配置し、居合わせた会衆も二隊に分け、まず右手のリーダーが短いリフレイン「救世主や、生神女の祈祷によって我等を救い給え」をソロで歌う。右側の会衆はそれを繰り返す。次に左手のリーダーが同じリフレインを歌い、左の会衆も繰り返す。今度は右のリーダーは聖詠の句を歌い、右の会衆は同じリフレインを歌う。続いて左のリーダーが次の聖詠の句を歌い、左の会衆はまたリフレインを歌う。聖歌隊(コロス)が会衆の歌をたくみにリードした。

 

この行列の祈りはやがてアンティフォンとして『聖体礼儀』に取り入れられた。「復活祭」や「降誕祭」など主宰の祭日のアンティフォンにはかつての形が残っている。

 

日本も含めたロシア系の教会では主日は102聖詠(103詩編)「我が霊よ」を歌うが、ギリシア系教会では主日にも祭日と同じようにリフレイン「救世主や」と聖詠を歌う。この歌い方は西方聖歌にも導入されアンティフォナ、レスポンソリアルとなった。

 

ソロの歌い手(または読み手)と会衆あるいは聖歌隊のリフレインによる応答唱は、後の時代の新しい聖歌の形式コンダクやカノンにも「附唱」として引き継がれ、正教会の会衆唱の伝統となった。また街を練り歩く行列は復活祭や神現祭などの「十字行」として残った。

 

アンティフォンが終わると、輔祭は「主に祈らん」と促し、人々は「主憐れめよ」と唱和する。最後に主教(または司祭)が祝文(祈りのことば)を唱えてしめくくり、人々は「アミン」と答える。これは「連祷」の原型で、ローマ典礼の「キリエ」と共通の起源を持つ古い祈りである。

 

災害の時、地震や干ばつ、外敵に包囲されたときには、街中の人が広場に集まって「主憐れめよ」を何十回も繰り返して祈った。この祈りは「リティヤ」と呼ばれ、今でも祭日の晩課に行われる。連祷の英語名はリタニーであるがリティヤと共通の語源である。アンティフォンと連祷は「街の教会」の「歌う礼拝」の基本形となった。

 

歌は会衆の教化という点でも大いに利用された。歌を用いて教えるというのはそもそもグノーシス主義の異端者たちが始めたことで、教会はいわば敵の武器を利用したのである。五世紀初めの教会史家ソゾメノスによれば「人々が詩の美しさと音楽のリズムに魅了され、徐々にギリシア的な間違った教義を受け入れているのを憂いて、シリアの聖エフレムはハルモニオス(グノーシス派の詩人)の韻律とパターンを用い、正しいキリスト教の教えに則った新しい聖歌を作った」という。

 

たとえば聖体礼儀の第二アンティフォンに続いて歌われる『神の独生の子、ならびに言よ』という歌はビザンティン帝国の最盛期を築いた皇帝ユスティニアヌス作とされる。『信経』(ニケア公会議、第一回コンスタンティノープル公会議できまった信仰箇条)を歌の形にパラフレーズしたもので、参加する会衆が知らず知らずに正しい教義を身につけられるように工夫されている。

 

また6世紀には「歌う説教――コンダク」が盛んになった。今ではトロパリと変わらない短い詩とイコスに縮小されてしまったが、かつては20連から30連にも及ぶドラマティックな叙事詩だった。歌い手は聖書のエピソードを教会の聖書解釈に従いつつ、アギアソフィア大聖堂の大ドームの下で、喜びの歌を自由自在にたからかに歌いあげた。

 

かつての大コンダクの元のかたちを唯一残しているのが大斎第五週土曜日に行われる「生神女のアカフィスト」である。もともとは生神女福音祭の歌で、ソロ(今は誦経者)が生神女をさまざまに讃め揚げる歌を歌い、会衆は「嫁ならぬ嫁や慶べ」と「アリルイヤ、アリルイヤ、アリルイヤ」のふたつのリフレインを何度も歌って参加する。

 

このように「街の教会」では「歌」を積極的に利用したが、同時に音楽や詩によってギリシア的、異教的なものが入り込むことを警戒し、楽器の使用は一切禁止され、今でも伴奏としても用いない。理由は当時の異教では音楽によって人々をエクスタシーに陥らせるようなものが多かったためで、歌詞によって正しいメッセージが明確に伝わる「歌」のみに限定した。

 

修道院の伝統

 

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聖パウロ修道院、エジプト(出典

 

修道院の伝統は四世紀頃、エジプトやパレスティナの砂漠で始まった。修道士はこの世にあっての殉教、より深い神との交わりを求めて、ほとんど何も持たずに砂漠に入り、ひたすら聖詠を唱え続けた。当時の『聖詠経 Psaltery』には聖詠150編だけでなく、旧約聖書の預言の歌も含まれた。彼らはすべて暗記していた。

 

初期の修道院では歌は有害とされ徹底的に排除された。砂漠の師父パンボは若い修道士がアレキサンドリアの街の教会で聖歌に魅了されてきたのを見て「修道士が牛のような声で歌って、どんな悔い改めの涙が生まれるのだ」と嘆いた。修道院で聖歌が作られるようになるのはずっと後の七世紀以降である。

 

エルサレム近郊の聖サワ修道院はパレスティナの修道の中心であった。聖サワで行われていた祈りのプログラムに従って聖詠がまとめられ七世紀ごろ『時課経(ホロロギオン)』が成立した。

 

ほぼ三時間おきに晩課(夕暮れ)、晩堂課(就寝前)、夜半課(真夜中)、早課(早朝)、一時課、三時課、六時課、九時課が設定されている。『時課経』は、常に変わらない祈りの枠組みとして今も用いられている。

 

修道院では聖歌だけでなく、主教も司祭も輔祭もいなかったので、連祷や祝文もなく聖体礼儀も行われなかった。正教会では連祷は輔祭以上、祝文は司祭以上が行う。エジプトのマリアの聖人伝にも描かれるが、修道士たちはご聖体を受けるために街の教会まで出かけ、場合によっては持ち帰って領聖した。時課経137ページの「聖体礼儀代式」はその時の祈祷文であったといわれる*1

 

修道院の伝統の変化

 

614年、この聖サワ修道院でその後の修道院の伝統を大きく変える事件が起こった。ササン朝ペルシアがパレスティナに侵攻し、修道院は破壊され修道士44人が殺された。残った修道士も散り散りになり、多くはエルサレムの街に逃げ込んだ。

 

626年ヘラクレイオス帝がペルシアに勝利し、修道院の復興が始まった。このとき修道士たちはエルサレムでふれた街の教会の伝統を持ち帰り、修道院で聖歌が歌われるようになり、さらに聖サワ修道院は聖歌創作の中心となっていった。

 

今さまざまな祈祷書に収められている膨大な聖歌の大半はこの時代以降に修道院で作られた。なぜこのときに聖歌が爆発的に増えたのか理由は解明されていない。アラビア詩の影響、シリア文化の影響が指摘されるが、いずれも仮説の域を出ない。

 

聖サワ修道院はクリトの主教聖アンドレイやダマスクの聖イオアン、聖コスマなど次々と優れた聖歌作者を輩出した。この頃生まれた新しい聖歌の形式がカノンで、旧約の九つの預言の歌(モイセイの歌、アワクムの歌、イオナの祈り、三人の少年の祈りなど)を基調にして、新約においてその預象がどのように成就されたかが歌われた。カノンは九つの歌頌(ode)にわかれ、各歌頌にトロパリがいくつか配置される。各歌頌の最初のトロパリがイルモスである。

 

ダマスクの聖イオアンは八週一巡りの聖歌のシステム「八調(オクトエコス)」を導入し、義弟のコスマと共に多くの聖歌を作り、それらは『八調経』に収められた。『八調経』の聖歌は『時課経』に組み込んで用いるように編纂された。

 

さて、もう一つのビザンティンの修道の中心地がコンスタンティノープルのストディオス修道院であった。5世紀頃、テオドシウス城壁わきに創設され「眠らぬ祈り」を実践していた。「眠らぬ祈り」と言っても不眠不休ではなく、修道士がシフトを組んで祈り続けた。

 

コンスタンティノープルにあるストディオス修道院は首都で起こる政治的、社会的、宗教的事件の影響を真っ向から受けた。中でも大事件が812年から始まるイコノクラスム(聖像破壊運動)であった。イスラムの厳格な偶像禁止の影響を受けた皇帝レオ三世が「イコンへの崇敬」を禁止した。

 

これに決然と反対したのがストディオスの修道士たちであった。彼らは皇帝の弾圧を受け、かろうじてパレスティナに避難した。聖サワの修道士たちは彼らを歓迎し、ダマスクの聖イオアンを中心に反イコノクラスムの論陣を張った。

 

787年、第二回ニケア公会議が開かれようやくイコンの正当性が認められると、ストディオスの修道士たちはコンスタンティノープルに戻り修道院の再興を始める。このときにすでに聖歌が導入されていたパレスティナの伝統が持ち込まれ、今度はストディオスが聖歌創作の中心になっていった。

 

その中心人物が修道院長聖フェオドル(テオドロス)で、彼は復活祭を中心とする聖歌の祈祷書『三歌斎経』と『五旬経』を編纂した。修道院の伝統である『時課経』の祈りに街の教会の伝統である『奉事経』が組み合わされていった。ほぼこの時代までに今日の正教会で行われている奉神礼の形式と聖歌、祈祷書の大半が完成した。したがって9、10世紀に始まるスラブ、ロシア伝道ではほぼ完成した形がもたらされた。

 

九世紀以降、聖歌の伝統にかかわる大事件はアラブのパレスティナ侵攻と十字軍である。1009年、アラブの侵攻によって今度はパレスティナの修道士がコンスタンティノープルに避難し、やがて難が去って故地へ帰るときにコンスタンティノープルの伝統を持ち帰り、その結果コンスタンティノープルとパレスティナの伝統の融合が起こった。

 

1204年、細々と続いていたコンスタンティノープルの「街の教会」の「歌う礼拝」の伝統は終わりを告げた。第四回十字軍はコンスタンティノープルを占領し、正教会の主教を追放し、ローマ教会の主教を置きラテン典礼を行った。ビザンティンの人々はニケア帝国を建て一二六一年にコンスタンティノープルを奪還、正教会の奉神礼を取り戻すが、もはや「歌う礼拝」は復活しなかった。

 

なぜなら大聖堂の「歌う礼拝」には司祭、輔祭、聖歌者、読み手など多くの専門職が必要だが、疲弊した国家には大がかりな儀式を支える余裕はなかった。また六〇年間に口伝による聖歌の伝統の多くが失われてしまった可能性も大きい。街の教会でも簡素な修道院の祈りの形がとりいれられていった。大半がストディオス修道院の奉事規則にならった。

 

やがて正教の中心は聖山アトスに移る。アトスではグレゴリイ・パラマなどを中心にヘシカスム、静寂主義の運動が起こっていて、より簡素で厳しい斎の規程がある聖サワのティピコンが好まれた。

 

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聖山アトス(出典

 

このころからコンスタンティノープル総主教はすべてアトス出身者で占められたが、1353年に総主教になったフィロセオスはアトスのメギティス・ラウラ修道院長時代に聖サワの修道院規則をもとに自分の意見も加味して作ったディアクタクシスという規則書を導入した。ストディオス修道院の礼拝規則との大きな違いは土曜日の夜「徹夜祷」を行うかどうかにある。

 

しばらくするとギリシア地域ではストディオスの伝統に戻り、徹夜祷は行われなくなったが、コンスタンティノープル陥落後、この規則書がギリシア人実業家によってヴェネツィアで印刷され、17世紀初め「ニーコンの改革」でロシアに導入され、ロシアでは聖サワ・アトスの伝統(聖サワのティピコン)に従うようになった。

 

終わりに

 

ビザンティン教会は初代教会からの連続性を保ち「正しい賛美(オルト・ドクサ)」=奉神礼を伝えてきた。信仰の根底を揺るがす教義上の変更には決して妥協しないが、礼拝の形式、言語、聖歌の歌い方などは各地の教会(主教)の判断に任せ、歴史上の事件や状況の変化には柔軟に対応してきた。

 

ビザンティンで培われた伝統は世界各国に伝えられ、各国の言葉、各国の音楽で祈りが捧げられている。ローマカトリック教会のような一本化した統制組織がないにもかかわらず、各国教会はほぼ同じ形で礼拝を行っている。

 

伝統は福音を伝える器である。そこに表される『神の国』のイメージは二千年間のひとつの正教会が共有しているからこそ、器の彩りや材質はさまざまでも、「同じ」祈りと感じられるのである。

 

晩年ルーテル派から正教会に帰正し一昨年永眠した教理史学者ヤロスラフ・ペリカンは「伝統は死んだ人々の生きた信仰、伝統主義は生きている人々の死んだ信仰」と語った。

 

わたしたちは奉神礼の場において受け渡された伝統の連続性を保ちつつ、聖神(聖霊)の導きを得て、今ここに『神の国』をいきいきと体現してゆかねばならない。そこに真の『生ける伝統―Living Tradition』が息づくのである。

 

ー終わりー

 

二つの街、二つの伝統はバチカンの東方正教会礼拝研究者Robert Taftが提唱。

 

参考文献 

J. V. Gardner, The Russian Church Singing, SVS, 1980

Hugh Wybrew, The Orthodox Liturgy, SVS, 1990

Robert Taft,The Byzantine rite, a short history, American essays in Liturgy, 1992

Egon Wellez, A History of Byzantine Music and Hymnography, Oxford, 1949

Dimitri Conomos, Byzantine Hymnography and Byzantine Chant, Hellenic College Press, 1982

Paul Meyendorff, Cathedral rite and monastic rite(lecture), SVS

 

「東方教会及び西方教会における聖務時祷」第2章(ロバート・タフト師、日本聖公会パウロ眞野玄範司祭訳)

 

出典はココ

 

1.1世紀

 

(1) 『12使徒教書』(The Didache)

 

初期の教会における日毎の祈りについての最初のはっきりした記述は『十二使徒教書』8章にあり、主の祈りに「力と栄光は永遠にあなたのものです」と頌栄を付けて日に三度祈りなさいと書かれている。これを、ユダヤ人キリスト教徒の間での、日に二度唱える祈り「シェマ」の意識的な代替であると考える人もいる。なお、十二使徒教書はAD50~70年の間にアンティオケアで成立した文書と考えられている。

 

(2) ローマのクレメンスの手紙 コリントのキリスト者へⅠ(1 Clem.)

 

時を定めて祈ることについては、一世紀末に書かれたクレメンスの手紙(1 Clem.) 40章1~4節に証言がある。時間は書かれていないものの、「定められた時に」という表現がこの章に三度見られる。

 

「彼(主)は献げ物と礼拝とを行うように命じられた。しかしそれはゆきあたりばったりに無秩序に行うようにというのではなく、定められた時期(times)と時間(hours)に、というのであった。」(*)

 

しかし、これは実際に行われていたことの叙述ではなく、旧約聖書の並行的慣行に基づいた勧めである。聖務時祷の歴史においてもっと重要なのは、24章1~3節である。そこには一日の時間に象徴的な価値を与える最初期の記述がある。

 

「愛する者たちよ、未来の復活があることを、主はどのようにして繰り返し私たちに示しておられるか、考えてみよう。主イエス・キリストを死人のうちから復活させて、その初穂となされた。愛する者たちよ、時宜に応じておこる復活をみてみよう。昼と夜は私たちに復活を示してくれる。夜は眠り、昼は起上がる。昼が去ると夜が来る。」*2

 

2.3世紀

 

(1) アレクサンドリアのクレメンス(150~215年頃)

 

三時(Terce – 9:00)、六時(Sext – 12:00)、九時(None – 15:00)、および起床時、就寝時、夜中に時を定めて祈る例は、三世紀初めのエジプトにおいて初めて見ることができる(以下で時間の表示はこの伝統に倣う)。

 

アレクサンドリアのクレメンスは真のキリスト者は絶えず祈るべきであると述べており、時を定めて祈ることは幾つかの群れで既に慣習となっていたことが彼の言葉から知れる*3

 

アレクサンドリアのクレメンスは、『雑録』Stromata VII,7,49:6-7で、東に昇る太陽が象徴する、世の光、義の太陽というキリストの主題による、初期のキリスト者の祈りの位置づけの慣習を証言している。

 

「暁は誕生の日のイメージである。光はそこから増していく。光は初めにそこで暗闇の中から輝き出る。同様に、暗闇に包まれていた者たちに、真理の知識の日が明けたのである。そこで太陽の運行に従って、東に昇る太陽に向かって祈られる。」

 

主題と結びつけ、東に向かって祈るという習慣は、三世紀以降、キリスト教の一般的な伝統となっていく。

 

アレクサンドリアのクレメンスは、夜中にキリスト者が行う祈りの終末論的性格について証言している最初の教父でもある。これもキリスト者のビジルの根本的な特徴となるものである。

 

『教導』(Pedagogue) 2:9には、ルカ福音書12:35-37、ヨハネ福音書1:5、箴言8:34、テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5:5-8をひきながら、「すぐに目覚められるように眠らなければなりません。…夜、私たちは何度も起きて主を賛美すべきです。主を待って見張りをする者は幸いです。そうすることによって彼らは、私たちが“見張り”と呼ぶ天使のような者となるのです」と述べている。

 

「寝ずの番(vigilers)」や「見張り(watchers)」は、今日でもシリアのキリスト教では天使を指すのによく使われている。世の人々が眠っている間、修道僧、修道女がビジルを守るのは、眠る必要がなく、終わることのない讃美歌を歌い続けている天使に倣っているのだという観念も、後に一般的な伝統となる。

 

(2) オリゲヌス(185~254年頃)

 

オリゲヌスも『祈りについて』(On Prayer)32章で、「真の光が昇る方を向いて」と、東に向かって祈る習慣について書いている。12章2節では、四つの時刻における祈りについて書いている。そこには夕の祈りで詩篇140編を歌うことについての最初の言及もある。この詩篇は後にキリスト教圏全体で教会における夕の礼拝の核になっていく。

 

そこには、「絶えず祈りなさい」(テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5:17)とは祈りと働きを一体のものとすることであること、ダニエル書6:11でダニエルが重大な危難に遭っていたときに日に三度の祈りを献げていた例で明らかなように日に少なくとも三度は祈るべきであること、使徒言行録10:9,11、16章25節、詩篇5編4節、141篇2節、119篇62節などで知られるように朝、昼、夕、夜に祈るべきことが書かれている。

 

三世紀のエジプトにおける朝、昼、夕の祈りについては、ユダヤ教の習慣が反映していると見ることができるかもしれない。オリゲヌスはダニエル書を引用しているが、クレメンスやオリゲヌスが他で引用している第二エノク書にも「朝、昼、そして夕に、あなたの創造主の栄光のため、主の宮にことはよいことです」と書かれている。

 

アレクサンドリアにおける初期のキリスト者の共同体は、アレクサンドリアのヘレニズム化された大きなユダヤ人共同体に密接に結びついていた。トラヤヌス帝(66-70年)とハドリアヌス帝(117-138年)のもとにおけるユダヤ人の反逆と虐殺によって、キリスト者たちはユダヤ教から距離を置くようになったのであった。

 

ただし、クレメンスやオリゲヌスが書いていることを、後の小時課(三時課、六時課、九時課)に結びつけるのは間違いであろう。私たちが「昼も夜も」といった表現を使うのと同様に、彼らは「絶えず祈りなさい」という意味で、朝、昼、夕、夜に祈りなさいと書いたのではないかと思われるからである。

 

(3) テルトゥリアヌス(160~220年頃)

 

テルトゥリアヌスも祈りを位置づける慣習を知っていた*4。また、どこで立って、どこで跪くか、といった礼拝細字規定も知っていた*5

 

このことによってキリスト教の祈りがますます標準化されてきていたことが分かる。聖務時祷と関わってもっと重要なことは、テルトゥリアヌスの著作に、四世紀終わりにはキリスト者の日毎の祈りの古典的な在り方となるものについての最初の叙述が見いだされることである。すなわち、一日の始まりと終わりの祈りは義務であること、三時課、六時課、九時課、そして夜の祈りが強く推奨されることが書かれているのである。

 

198~204年の間に書かれた論文『祈りについて』(On Prayer) 25章には、日毎の祈りについて次のように書かれている。

 

「しかしながら、祈りの時間については、形式的に時間を定めて祈るだけでは益がないでしょう。私が問題にしているのは、聖書によってより厳粛なものとされていたことが分かる三時、六時、九時など、一般に日中の時間の区切りとされている時刻に守られている祈りです。

 

 三時に、聖霊は集っていた弟子たちの上に注がれました(使徒言行録2:15)。ペトロは小さな入れ物の中に全ての人の共同体の幻を見た日、六時に、屋上に上って祈っていました(使徒言行録10:9)。またペトロが足が不自由な男を癒したのは、九時に、祈るためにヨハネと共に神殿に入ろうとした時のことでした(使徒言行録3:1)。

 

 これらの祈りの時間は、命令によってではなく、ただ私たちがまもっているだけのものですが、祈りへの勧めを強めるであろうことを考え、法によってであるかのようにこの義務のために自分がやっていることを離れ、日に三度以上は祈るようにするのはよいことです。聖書にある通り、ダニエルも、イスラエルの規律に従って、そのように守っていました。これはもちろん、光と夜の始まりに、勧めによってでなく守るべきであると定められた祈りに加えてのことです。」

 

テルトゥリアヌスは夜に起きて祈る習慣についても述べている。『妻へ』(To his wife) II, 4:2では夜間の集会についても述べている。197年頃に書かれた『護教論』(Apology) 39:18にはランプを用いた礼拝を伴う愛餐についての最初期の証拠が見いだされる。これは教会の夕拝(cathedral vespers) の光の礼拝 (lucernarium) の祖型である。

 

テルトゥリアヌスは、なぜ朝夕の礼拝は法的に定められたものであって、他の時課は準義務的なものにすぎないと考えるのか、説明していない。しかし、これについては一般になされている解釈の通り、出エジプト記29:38-41; 30:7-8、民数記28:3-8にある、日に二度の神殿で犠牲を献げる儀式の教えに基づいていると考えてよいだろう。

 

後にクリソストムやカシアヌスも同じように朝夕の礼拝(matinsとvespers)を他の時課とは別に取り上げている。クリソストムも、詩篇141篇2節についての註解で、夕拝の義務を旧約聖書の教えで根拠づけている。

 

では、日中の時課についてはどうだろうか。テルトゥリアヌスは、それらの時間に時刻が知らされていたので、キリスト者はそれを祈る時間として採用したことを示唆している。「これら三つの時刻は、日中の時間を三つに分け、仕事の区切りにされ、大きな音で知らされていて、俗事においてより重要な意味を持っている…」*6

 

先に引用した『祈りについて』25章でも、後に教父文書で小時課を正当化する古典的な根拠となる聖書箇所を挙げつつ、「一般に日中の時間の区切りとされている時刻」という言い方をしているのである。

 

古代ローマ世界では、昼を12時間に分け、それをさらに3等分することは広く行われていた慣習で、三時、六時、九時が基準時とされていた。それゆえにキリスト者たちは、今日私たちが「朝も昼も夜も」と言うのと同様な意味で、それらを絶えず祈るべきことを思い出すために利用したのであろう。

 

なお、マルコ福音書の受難物語にはこれら三つの時課を反映しているという説を唱える人もいて、確かにこのローマの時間の区切りに合っているように見えるのだが、この福音書が書かれた時代に既に三つの小時課が守られていたとは考えにくい。

 

K.H.ビーリッツは、ローマの時の区分は、二~三世紀に帝国の東方領域でも使用が開始されたとしている(『教会暦 – 祝祭日の歴史と現在』1994)。

 

(4) キプリアヌス(200?~258年頃)

 

キプリアヌスの『主の祈りについて』の34~36章によって、三世紀の北アフリカの教会でテルトゥリアヌスが証言している祈りの在り方が守られていたことが確認される。

 

キプリアヌスが論拠として挙げている聖書箇所はほぼテルトゥリアヌスと同様だが、朝夕の祈りにおける光と復活の主題がよりはっきりと打ち出されていることが特徴的である。

 

またキプリアヌスは、ユダヤ教(古代イスラエルの宗教)において「確立され、義務とされていた祈りの時間」を朝夕の神殿における犠牲を献げる儀式でなく、ダニエル書6:10,13にある日に三度の祈りであるとしていることが留意される。そして、このことを誤ってキリスト教の小時課に適用している。

 

この議論は、キリスト教の最初期における祈りの時間は朝と夕であって、小時課は後から加えられたものであるとする説を弱めるものとなっている。キプリアヌスは逆を真であると考えていたのである。

 

最初期には朝と夕の祈りの時間だけが守られていたことを支持する史料はない。エジプトの初期の史料の幾つかでは<朝-昼-夕-夜>とされており、北アフリカの史料では<三時-六時-九時-愛餐-夕-夜>とされており、すぐ次に取り上げる215年頃にローマで書かれた使徒伝承ではアフリカと同様の時課に夜明けが加えられている。ただし、時折の夜のビジルを除いて、キリスト者たちが週日に定期的に集まっていたのは朝の教話と夕の愛餐であった。

 

(5) 『使徒伝承』(215年頃)

 

三世紀における礼拝に関する史料として最も重要なのは、215年頃にローマでヒッポリュトスによって書かれたと推測されている『使徒伝承』である。ただし、この文書は、本文批評において、また解釈において、重大な問題もある。

 

ここでタフトが引用・紹介する本文批評によって回復されたテキストは、『原典古代キリスト教思想史1 初期キリスト教思想家』のヒッポリュトスの項に「祈るべき時~教会は聖霊の花開く場」として紹介されている土屋吉正訳と同内容)

 

この回復されたテキストと関わって留意されるべき点は五つある。

 

○ 日々の祈りとして、七つの時課があったこと(起床時-三時-六時-九時-夕の愛餐-集神前-深夜-夜明け)。なお、これは後の史料における七つの時課とは違いがある。

 

○ 『使徒伝承』の原文回復に用いられた二番目に古い史料*7が三世紀のギリシア語原本に忠実であるとするならば、これは時課をマルコ福音書の受難物語によって解釈する最初期の文書ということになる。

 

○ 最古の五世紀末のヴェロナ写本の断片では九時課はイエスが息を引き取った時間と解釈されている。これはマルコ福音書によるものではない。また、このことは、失われた断片でも三時課と六時課が受難によって解釈されていると推測できることを必ずしも意味しない。

 

○ ヴェロナ写本では、夕と朝の時課はキリストの復活によって解釈されている。日が沈み、また昇ることがイエスの死と復活の象徴とされている。夜の時課は終末論的であって、キリストの再臨と死者の復活を待ち望むものである。

 

○ サヒディック写本では35章が繰り返されている。これはおそらく元の時課に新しいものが後に加えられたことを示唆している。 この回復されたテキストで、三時課と六時課について書かれている部分はヴェロナ写本の断片には残っておらず、サヒディック写本から取られたものである。しかし、『使徒伝承』の原本における時課は、おそらくこの回復されたテキストで知ることができるようなものだったのだろう。すなわち、次のような祈りの在り方が守られていたのではないだろうか。

 

共同体での祈り: 朝の教話、夕の愛餐

 

個人での祈り:起床時、三時課、六時課、九時課、就寝前、深夜、夜明け

 

朝の集会は教話(instruction)であって、朝の礼拝(matins)でなかったことは記述に明らかである。夕の愛餐については、テルトゥリアヌスも『護教論』39章で言及しているが、それが夕の光の祝福(a blessing of evening lamp)を含んでいて大聖堂の夕拝の光の礼拝(lucernarium)の祖型であることは疑いを入れない。

 

「愛餐」は、貧しい人ややもめのために、共同体のメンバーで富裕な者が催した夕の会食であり、教役者の代表が主催した。『使徒伝承』は、この食事の作法について詳しい指示を与えている(26-30章)。

 

3.この章のまとめ

 

(1) 日毎の祈りの順序について

 

エジプトには、ユダヤ教やエッセネ派のものに近い<朝-昼-夕-夜>の型があったことを見た。ただし、エジプトの史料には、食前に祈るべきことも書かれていたり、絶えず祈るべきことが強調されていたりすることから、それは「朝も昼も夜も」すなわち「絶えず」という意味での言い表し方だったのではないかと考えられる。

 

北アフリカの史料や『使徒伝承』では、四世紀に日毎の祈りの順序として統合される全時課に近いものが確認される:<起床時-(使徒伝承では教話を聞く集会)-三時課-六時課-九時課-就寝前-夜中(使徒伝承では真夜中と夜明け)>

 

キリスト者の祈りの時間として朝と夕のみを挙げている史料は一つもない。テルトゥリアヌスがそれら二つを「法定の」と言っていることはあまり深読みされるべきではない。

 

(2) 日毎の祈りがどんなものだったか

 

日毎の祈りの内容、形、構造等はほとんど分かっていない。しかし歴史は幾つかの手がかりを与えてくれている。エウセビオスの教会史 VII, 30:10には、三世紀に異端派の讃美歌に悩まされて聖書にない創作讃美歌に対する反対があったこと、その代わりに二~三世紀の教会の礼拝では聖書に記されている詩篇歌や讃歌が好んで使われていたことが書かれている。

 

またテルトゥリアヌスは、初期のキリスト者たちは、日毎の祈りを、独りで、あるいは何人かで集まって唱えていたこと、聖歌や詩篇が使われたことを述べている。テルトゥリアヌスの著作や『使徒伝承』からは、詩篇が応答唱の形で歌われることがあったこと、夕の愛餐が光の礼拝、詩篇朗唱、祈りを含んでいたことを知ることができる。『使徒伝承』に書かれた朝の礼拝は、聖書朗読と教話から成るものであった。言えることは以上である。

 

ユングマンは『古代キリスト教典礼史』で、『使徒伝承』にある小時課における祈りは心の中でする黙想だったはずで、結びに声を出す祈り、おそらくは「主の祈り」が唱えられたのであろう、としている。 ※ 「初期ユダヤ教の祈りと対応するような、賛美と感謝に始まって嘆願と代祷に続いていく構造だったのだろう。」*8

 

(3) 日毎の祈りの意味について

 

1~3世紀に教会の聖務時祷の「神学」の始まりを見ることができる。夕と朝に教会ではイエスの死から生への過越が思い起こされる。この祈りの位置づけの習慣はクレメンス、オリゲヌス、テルトゥリアヌスによって証言されており、キリストを義の太陽、世の光と擬する象徴論や主の再臨への終末論的な期待と結びついていた。「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。」(マタイによる福音書 24:27)

 

夕の祈りにおける灯火の光は世の光であるキリストを象徴した。日中の時課ではマルコ福音書の受難物語が想起され、三時はペンテコステにおける聖霊降臨を記念する時間でもあった。夜の祈りは終末論的で、おとめたちが花婿が来るのを待って目を覚ましているのに似て、また天使たちの絶えざる祈りに似る。

 

これは「共同体による祈り」(liturgical prayer)だったのだろうか、個人の祈り(private prayer)だったのだろうか、あるいはそれらの中間的なものだったのだろうか。このように問うことは、このキリスト教会初期の時代にはそぐわない。

 

それは祈りの性質に依ってでなく、祈りの時間になったときに人が一緒にいたか、いなかったかに依ったのだろう。様々な礼拝の細字規定、例えば東を向いて祈ること、両手を挙げて祈ること、どこで跪くか、どこで立つかといったことは、独りの場合でも、何人かで共にいる場合でも、同じように守られていた*9

 

大切なことは祈ることであった。迫害にあっているときや仕事をしている日中は、独りで祈るのが普通だったであろう。集まれる時には集まって祈っていたであろう。教会とはそもそも集まりのことなのだから。しかし、愛餐会や聖餐式を除いては、独りの時も、何人かで共にいる時も、祈りは同じだったのである。

 

ー終わりー

 

*1:N.Uspensky, Evening worship, SVS

*2:講談社学芸文庫『使徒教父文書』の小河陽訳

*3:Stromata VII,7,40:3; Pedagogue II,9-10; Stromata VII,7,49:3-4

*4:Apology 16; Ad nationes 1:13

*5:On Prayer 23; On Fasting 14

*6:On Fasting 9:10

*7:サヒディック写本(Sahidic Version):この写本自体が作られたのは1006年だが、そこに写された訳が行われたのは700年以前と考えられる。

*8:Paul Bradshaw “The Study of Liturgy” 1992

*9:Clement, Stromata VII,7,40:1