巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

全時代、全世界の聖徒たちと共に、「主の祈り」の広さ、長さ、高さ、深さを味わおう。

ロシア人修道士の歌うアラム語での「主の祈り」


Aboon Dbashmayo (Our Father who art in Heaven, 天にいます私たちの父よ)

Nethcadash shmokh (hallowed be thy name, 御名があがめられますように).

teethe malkoothokh (thy Kingdom come, 御国が来ますように),

nehwe sebyonokh (thy will be done, みこころが);

aykano Dbashmayo off bar’o. (on earth as it is in heaven, 天で行なわれるように地でも行なわれますように)

Hab lan lahmo dsoonconan yawmono, (Give us this day our daily bread, 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください).

washbook lan howbain wahtohain (and forgive us our trespasses, 私たちの負いめをお赦しください)

aykano doff hnan shbakn il hayobain (as we forgive those who trespass against us, 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました)

lo thaalan il nessyoono (and lead us not into temptation, 私たちを試みに会わせないで)

elo fasson men beesho (but deliver us from evil, 悪からお救いください)

metool ddeelokhee malkootho, (for thine is the kingdom, 国と)

ou haylo ou Teshbohto, (and the power, and the glory, 力と栄えはあなたのものだからです)

loalam olmen Amin. (for ever and ever. Amen.とこしえに。アーメン。)

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「偽善者たちのように祈るのではなく、主が福音の中で命じておられるように祈りなさい。以下のように祈りなさい。

 『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。』

一日に三回、このように祈りなさい。」

  ディダケー(「12使徒の遺訓」1世紀中期から後期にかけて編集された使徒の教え*

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祈る時、主は御父に向かって次のように祈るよう私たちに教えられた。「みこころが天で行なわれるように地でも行われますように。」今、天にいる被造物は皆、心を合わせ神をほめ讃えている。同じように、この地上でもまた、全ての人が声を合わせ心を合わせ、独り子キリストによって、唯一のまことの神をほめ讃えんことを。

Apostolic Constitution, 390年頃, Ante-Nicene Fathers, vol.3, p 681.

 

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日々の祈りの中で、私たちは、「みこころが天で行なわれるように地でも行われますように」と祈るのです。

(カルタゴ教会の指導者キプリアヌス、250年頃, Ante-Nicene Fathers, vol.5, p 455)

 

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「平和の師であり、一致の主であるイエスは、この祈りを、単己で個人的な祈りとしては望まれませんでした。そうです、主は私たちが自分のためだけに祈ることを望まれなかったのです。見てください、私たちは、「天にまします私の父よ」とか、「私の日ごとの糧を今日もお与えください」とは祈りません。

 

また私たちクリスチャンは、自分の負い目だけが赦されるようにとは嘆願せず、自分だけが試みに会わず、悪から救い出されるようにとも祈りません。そうではなく、私たちの祈りは、全ての人々を含んだものであり、そして全ての教会のために捧げられるものです。なぜならキリスト教会である私たちは、一つだからです。

 

太陽の光線を、光の本体から分離することはできません。というのも、その一致と統一性は、光の流れが遮断されることを許さないからです。木から枝をへし折ってみなさい。折られた枝からはもはや芽が出てこれなくなります。泉から小川をせき止めてごらんなさい。せき止められたその小川はじきに干上がってしまうでしょう。

 

それと同じように、主の光に彩られたキリスト教会もまた、その光線を全世界いたるところに放っているのです。にもかかわらず、各地で輝いているのはただ一つの光です。そうです、みからだの一致というのは分け隔てられることがないのです。」

カルタゴ教会の指導者キプリアヌス, On the Lord's Prayer, 3世紀

 

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「『主の祈り』の中には、福音全体を要約する内容が含まれている。」

テルトゥリアヌス, 2世紀, Ante-Nicean Fathers, vol.3, p.681

 

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主は弟子たちに言われました。

「だから、こう祈りなさい。『天にいます我らの父よ。』また、ダビデは詩篇55:6で、『ああ、私に鳩のように翼があったなら。』と言いました。ああ、私もダビデと同じような告白をします!

 

だれが私にそのような翼を与えてくれるのでしょうか。それが与えられるなら、わが思いは、翼にのり、こういった深遠な〔主の祈りの〕御言葉の高みに昇ることができましょう。そうすれば、私はこの地を後にし、天空を駈け廻り、夜空の星々とその美しい秩序を目の当たりにするでしょう。

 

しかし、その思いはここで止まりません。それどころかそれはさらに進み、やがて、それは、流動したえず移り変わる一切のものに対し「よそ者」となる時点にまで進みます。

 

ですから、まず私の思いは、絶え間なく流転し変化する一切のものから分離(detached)され、おだやかな霊的静けさの内に休息し、そういったものの内に導かれる必要があります。そうすれば、永久(とこしえ)に変わらない不変のお方である主に似せられた者として変えられていくでしょう。そうして後、わが魂は、いとも親しみ深きこの名をもって、この方にお呼びかけします。――「御父よ!」と。

ニュッサのグレゴリウス(335-394)

 

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