巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

人と人を近づける翻訳、人と人を遠ざける翻訳

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ボクも混ざっていいかな?(出典

 

「丸山:ともかく想像以上に、翻訳文化の到来というのは早くて、その影響も大きかった。このあいだ、ひさしぶりに安岡章太郎君に会ってだべったら、福沢諭吉と、彼の思想的弟子の植木枝盛(1857-92)とのちがいは、福沢は外国の本を原書で読んでいたが、植木は外国語が読めないので翻訳で読んだところだという。

 

 それからあとは安岡君の議論だが、翻訳で読むほうがラディカルになるというんだ(笑)。インテリのラディカリズムは、彼にいわせれば、翻訳で自由民権や社会主義の本を読んだことと関係があるという。」(丸山眞男・加藤周一『翻訳と日本の近代』岩波新書、p49)

 

目次

 

人は翻訳文を読むことでよりラディカルになりやすい?!

 

「翻訳とは、Aの形で記録・表現されているものから、その意味するところに対応するBの形に翻案することである。」という定義づけがなされています(参照)。ヘブライ語・アラム語の旧約聖書は紀元前2世紀頃、コイネー・ギリシャ語に翻訳され、4世紀、ヒエロニムスの尽力によって聖書はラテン語(ヴルガータ)に翻訳されました。

 

16世紀、マルティン・ルターは新約聖書をドイツ語に翻訳し、その後、宣教師や現地の信者たちの努力により、聖書や礼拝用語は世界中の言語に翻訳されていきました。つまり、神の聖意図の下、キリスト教はその起源より、翻訳文化と密接な関係を持ち、私たち信者のあり方や世界観に影響を及ぼしてきたということではないかと思います。

 

さて冒頭の引用句ですが、安岡章太郎氏の見解によると、人は翻訳文を読むことで「よりラディカルになりやすい」傾向があり、明治期のインテリのラディカリズムは、彼らが翻訳で自由民権や社会主義の本を読んだことと関係があるとされています。

 

前の記事の中でも申し上げましたが、これは、翻訳者としての自分に自省を促す指摘であり、Aという言葉及びそれに付随する概念を、別の言語体系の中に存在する別の言葉及びそれに付随する概念に翻案する仲介者としての責任の大きさを考えずにはいられません。

 

旧教・正教の하느님(ハヌニム)と新教・回教の하나님(ハナニム)

 

私は大学3年の時、一年間、ソウルの大学に留学し、そこで全く思いがけずクリスチャンになったのですが、プロテスタント教会で洗礼を受けたばかりの私の目に耳に、韓国カトリックというのはほとんど別の宗教のように思われました。というのも使われる用語がまるきり違っていたからです。

 

私たち新教徒が、神様のことをハニム(하나님)と呼んでいるのに対し、カトリックや正教徒は同じ神をハニム(하느님と呼んでいました。

 

またクリスチャンが集う場所は、新教ではキョーヘ(교회、教会)、カトリックではソンダン(성당、聖堂)、また当時、私の周りにいた新教の兄弟姉妹の多くは、自分たちの宗教のことをキドッキョ(기독교、基督教)、それに対しカトリックのことはチョンジュギョ(천주교、天主教)と呼んでいましたので、信じたばかりの私のような者からすればこれは何か別の神を信じる異なる宗教であるという印象を持たざるを得ない感じでした。

 

なぜ神称(God)が、旧教・正教では、ハヌニムと翻訳され、新教ではハナニムと別の訳語があてがわれるようになったかの歴史的経緯は興味深いところですが、ヘブライ語אלוהים、ギリシャ語Θεός、ラテン語Deus、英語God等と、元来一つだった言葉が、宗派別宣教活動というプロセスを経由して、朝鮮半島において、ハヌニム/ハナニムという二つ別々の単語を生み出したというのはやはり考えさせられます。安岡氏の言うところの「翻訳によるラディカリズム」の萌芽を見る思いがします。

 

というのも、通常、単語の違いというのは語彙の違いだけにとどまらないと思うからです。ベンジャミン・ウォーフは言語的相対論(サピア・ウォーフの仮説)の中で、個人が使用できる言語によってその個人の思考が影響を受けることを体系化しましたが、(彼の理論の正当性の議論は別にしても)、言語がなにがしかの形や度合でその人の思考を決定づけることがあるのだとしたら、やはり翻訳語の差異というのも見過ごすことのできない一要素なのではないかと思います。

 

そういえば、アウグスティヌスがローマ書5章12節以降を「guilt」の概念から出発して解釈していったのは、「元々ギリシャ語嫌いだった彼が、ラテン語の翻訳聖書でここの箇所を読んだことに起因している」と論じている方の文章を読んだことがありますが、さて、事の真相はどうなんでしょう?やはりここにも「翻訳によるラディカリズム」の要素があるのでしょうか。興味深いですね。

 

〈ギリシャ語〉の中で近い正教と新教、〈日本語〉の中で遠い正教と新教

 

私はギリシャに来てから初めて、「正教」という存在を知るようになりました。そして(おそらくですが)自分が、より自然な形で正教の世界になじむことができた理由の一つは、ギリシャ語の世界の中には、正教と新教の間に言語的壁(<違和感)がほとんどないという外的環境があったように思います。

 

主日に集まって信者が行なう儀式のことを、新教では「礼拝」、正教では「奉神礼」、旧教では「典礼」と言いますが、ギリシャ語では今も昔も皆 λειτουργίαです。

 

またパンと葡萄酒の儀式は、新教では「聖餐」、正教では「聖体礼儀」、旧教では「聖体拝領」ですが、ギリシャ語では、皆、Θεία Ευχαριστία/Θεία Κοινωνίαと共通して呼んでいます。

 

その他、新教/旧教では「イエス・キリスト」、正教では「イイスス・ハリストス」とそれぞれ別々の言葉に翻訳されている三位一体の第二格の神称は、ギリシャ語では Ιησούς Χριστόςです。

 

(左:正教、右:旧教/新教)

マトフェイ=マタイ

イオアン=ヨハネ

イアコフ=ヤコブ

エウレイ=ヘブライ

ペトル=ペトロ

イサイヤ=イザヤ

モイセイ=モーセ

パウェル=パウロ

コリンフ=コリント

 

おわりにーー神と人、人と人がより近づけられるために

 

Jesus Christを「イイスス・ハリストス」と呼ぼうが、「イエス・キリスト」と呼ぼうが、「イェシュア・ハ・マシーハ」と呼ぼうが、神の前に本質的に何ら違いはなく、その意味で、ヘブル的ルーツ運動の文脈の中におけるカタカナ語イェシュアへの異常なまでのこだわり等は明らかに誤っていると思います。

 

また究極的に言って、主なる神が、聖霊により、翻訳語の違いやそこから生じてしまうかもしれない微妙な概念の差異や限界等を超え、キリスト者一人一人に真理をお語りになることができる方であることを私は堅く信じています。その意味で、〈超越〉なきサピア・ウォーフの仮説等には欠陥があるのではないかと考えています。

 

しかしながら、そういった要素と神の憐れみがあったとしても、やはり、翻訳に伴う人間の責任は大きいように思います。自分のなす翻訳語の選択によって、それを媒介に各種概念を吸収していく人々が、本来の座標軸から「より離れ」「よりラディカル」になってしまうのだとしたらどうなるのでしょう。

 

私のなす翻訳語や表現の選択によって、人と人は「より近づけられて」いくのでしょうか、それとも「より一層遠ざけられて」いくのでしょうか?

 

私の翻訳思想の中に、セクト主義は含まれていないのでしょうか?他グループの言語選択との間に差異をもたらそうとしている私の選択における心の動機は、聖書の真理への忠実さにあるのでしょうか。それとも、そこには秘かなる優越主義という集団エゴが隠蔽されているのでしょうか。

 

私が翻訳行為によって為そうとしているその差異化は、聖書の真理が保持される上で、不可欠なものなのでしょうか、それとも、それは神の公同性を何らかの形で損なわせる人為的越境行為なのでしょうか。

 

どうか翻訳という行為の中に、平和の君である主の愛と義と公正さ、そして憐れみが映し出され、それにより、神と人、人と人がより一層近づけられていくものとなりますように。アーメン。