「ネヴィンとシャフは、ユーカリスト(聖餐)におけるキリストの実在を是認していましたが、彼らはこの実在が意味する、より深遠なる教会論的重要性を把握することができずにいたと思います。教会というのは根源的に言って、ユーカリスト的共同体です。
カトリック神学者であるアンリ・ドゥ・リュバックは、この事を次のように適切に表現しています。『教会がユーカリストを造り、ユーカリストが教会を造る。』聖餐において、私たちは真にキリストのみからだと血を受け、ここにおいて、キリスト者の一致の基盤が見い出されるのです。実にユーカリストこそが、教会を統合する中心です。ユーカリスト的交わりは、時空を超え、キリスト者たちを互いに結び合わせます。受け入れられた伝統としてのユーカリストは、地域教会を使徒たちにつなぎます。」(引用元)
いつもと特に変わらない、ある主日の朝のことです。ーーその日は月に一回の聖餐式の日でした。回ってきた小さな葡萄酒の杯を受け取り、祈りつつ私はそれを口にしました。
その時(それが最初で最後の経験でしたが)、喉を下っていく葡萄酒が体の中で火のように熱くなり、なにか自分でなく自分に属さないなにか(Person)が葡萄酒の流れと共に、自分という存在とκοινωνῶ(交わる、コイノニアする)し、融合しているという感覚を受けました。
その教会では、聖餐のパンと葡萄酒は象徴的なものであるという教えでしたし、それまで私は聖餐について何か深い学びをしたわけでも、教理史に通じていたわけでもありませんでした。今振り返って思うのは、主は本当に憐み深い御方であり、その一方的な恵みゆえに、無知な者にーー無知な者が分かる形でーーご自身との交わりの道を教えてくださることがあるということでした。
もう一つ不思議だったのは、そのわずかな時間の間に、(κοινωνία〔交わり、コイノニア〕の)動詞形であるκοινωνῶ(交わる、コイノニアする)という言葉が自分という存在の全体を駈け巡ったことでした。それは外から入ってきて、一被造物にすぎない私の中を貫き、動詞形でコイノノーするなにかでした。
以前にΚοινωνία(交わり)についてというエッセーを書きましたが、その中で私は、この体験から教えられたことを次のように書き記しました。
「思うのですが、人間のcommunityの源の源は、この聖なるコイノニア(聖餐)というサクラメントの中にその真の誕生をみるような気がします。そしてこのいのちの交わりに接合しないいかなるcommunityも、ーーそれがキリスト教的なものであれ世俗的なものであれーー、交わりを渇望する人間の魂を完全には満足させることができないのではないかと思います。」
人間のcommunityの源が聖なるコイノニア(聖餐)の中にその真の誕生をみるという気づきから、私はキリストのみからだである集合的communityとしての教会をそれまでとは違った目で見るようになりました。
「教会というのは根源的に言って、ユーカリスト的共同体です。」
「実にユーカリストこそが、教会を統合する中心です。」
「ユーカリスト的交わりは、時空を超え、キリスト者たちを互いに結び合わせます。」
「受け入れられた伝統としてのユーカリストは、地域教会を使徒たちにつなぎます。」
そしてそれまで、教会論、聖餐論、神論、人間論、聖霊論、礼拝論等と折り目正しくカテゴライズされ自分の頭の中に収められていた諸理論が、突如として生けるもののようになり、互いに有機的に、そして造形美術的につながり、結合していきました。
実に、ユーカリスト(聖体礼儀)という中心からキリスト者の壮大なる宇宙論が生み出され、それはえもいわれぬ美しさをもって組織神学の全頁を一つのタペストリー、一つの完成された聖画(icon)としてこの世に開示しているのだということを知り圧倒されました。
それは実際、ほんとうに美しいなにかであり、聖餐は神的なものーー人となられたロゴスであるイエス・キリストがーー被造物とコイノニアするという神秘の極みだと思います。
読んでくださってありがとうございました。