巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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宗教改革ーー「もしもあの時、、、」(by ピーター・J・ライトハート)

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聖餐における聖書解釈で意見を違わせるルターとツヴィングリ(マールブルク会談、1529年)

 

目次

 

はじめに ーー「もしもあの時、、」

 

宗教改革者たちには西方教会を分裂させようとか、新しい諸教会を作り出そうという意図はありませんでした。実際、彼らは皆、「教会は唯一にして公同的なり」ということを信じていたのです。そしてカトリック側と論争した際にも、彼らは自分たちは真なるcatholicsであると主張していました。

 

そうであるならば、福音、公同性、一致にコミットしていた宗教改革はいかにして、西方教会を散り散りにし、中世キリスト教世界を解体したのでしょうか。

 

主なる問題の発端の一つはやはり当時のローマ・カトリック教会にあったと言わなければならないでしょう。ルターは、自分の申し立てが教会で正面から取り扱われていないことを訴え出ました。そしてルターがカトリック当局の前に召喚された際、彼らはルターに対し、自説を撤回するよう要求しました。

 

こうして95カ条の論題から数年以内に、ルターは、ーー教会側から(同情心に欠け)且つ、真剣な傾聴を受けることなくーー破門されました。こうして当時カトリック教会内にいた改革者たちの多くは、締め出されるか、沈黙させられるかしたのです。

 

「16世紀、もしもあの時、、、」ということを想像することが叶うなら、それは次に挙げる内容です。もしもあの当時、カトリック教会が「福音への証言者」としてルターを認めていたとしたら?(今日、多くのカトリックの方々がそう理解してくださっているように。)もしも当時のカトリック権威がルターの言うことに耳を傾けてくれていたとしたら?

 

形成、粉砕、そして再形成

 

またここには神学的な側面もあるでしょう。神は世界を形成し、また、それを砕くことにより再び世界を形成し直します。神は光と闇、大空の上にある水/下にある水、大地と海を分離させることにより世界をお造りになりました。そして神はアダムから取ったあばら骨で(<アダムを二つに分けることにより)エバをお造りになりました。

 

預言者たちは皆、剣を帯びてイスラエルにやってきます。モーセ、サムエル、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、イエス、、彼らは皆、ヤーウェの言葉を人々に聞かせ、それらの言葉に耳を貸そうとしない人々からの激しい怒りを買いました。分裂が生じました。神がご自身の教会を刷新しようとされる時、そこに分裂が起こるかもしれないことを私たちは予期すべきでしょう。

 

しかしそうだからと言って、それが宗教改革の諸分裂の言い訳になるかといったらそうではなく、またそれを持って独りよがりや自己満足の大義としてもならないでしょう。

 

神は、再びつぎ合わせるべく分割されます。イスラエルとユダは離別しましたが、何世紀もの歳月が経った後、再び一つに結び合わされました。またユダヤ人と異邦人は、割礼によって分け隔てられていましたが、十字架の上でのイエスの「割礼」を通し、新しい一つの人類として結び合わせられました。

 

神は分裂により創造し再創造されますが、そうだからと言って、それが〔私たち人間の〕分裂すべてを正当化することにはなりません。分裂の中のあるものは不可避なものです。またあるものは正当ではあるけれどもあくまで一時的なものです。また別の種類の分裂はキリストの御体を切断しています。

 

内部分裂

 

結局、宗教改革者たちはカトリック教会から締め出されてしまったわけですが、その後、改革者たちは一致した合同の改革運動を推し進めることができていたのかもしれません。しかしそれはかないませんでした。ルターの95カ条の論題からわずか10年後にはすでに、(「ラディカル改革者たち」は言うまでもなく)ドイツのルター派とスイスの改革派はそれぞれ別々の道を歩み始めていました。

 

宗教改革の内部分裂化のストーリーは複雑に込み入っていますが、一つの中心的筋を単離することができるかもしれません。それはマールブルク会談(1529)です。この会談の席で、ルターとツヴィングリは、ユーカリスト(聖餐)におけるキリストの実在のことで行き詰りました。

 

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マールブルク会談

 

両サイドとも、「自分の解釈こそが真の宗教改革を擁護するものである」と確信しており、且つ、両者共に、「相手の陣営は誤ったその解釈により福音に妥協し、福音を歪めている」と確信していました。それゆえ、〔両陣営共、自らの確信するところの〕福音の純粋性を保持すべく、彼らはその後、別々の伝統を維持していくことになります。

 

弁論術

 

プロテスタントの内部分裂の永続化という問題を考える上で、二つの要因が大きく立ちはだかっています。まず一つ目はその弁論術(rhetoric)です。

 

改革者たちの活き活きとして、趣に富み、透徹した論争なしには、宗教改革は決してその成功をみなかったと思います。ピーター・マテイソンが言うように、宗教改革の論争術(polemic)は、解放的、明瞭、そしてパワフルなものでした。論争術というのは、既存教権に対抗する、無力な者たちの用いる道具であり、ルターはその達人でした。

 

しかし宗教改革者たちは最終的に、自らのその修辞的武器を同士討ちするための道具として用いるようになっていきました。彼らは硬直した両極性を互いの間に作り出し、いかなる内部論争であれ、それらを「光と闇/真理と誤謬の間の戦い」として取り扱うようになりました。

 

こうして宗教改革の論争術は、他の諸教会を悪魔化することによって、自らの分離グループのアイデンティティーを補強するというプロパガンダへと堕ちていきました。ルーテル派と改革派は、あの時、相互に対し柔和な回答をすることでもう少し状況が良くなっていたかもしれません。

 

信仰告白主義化

 

二番目の要因は、信条作成および信仰告白主義化(confessionalization)です。信仰告白は宗教改革の栄光の一つに数えられるでしょう。簡潔さと正確な定型文を持ちつつ、アウグスブルグ信仰告白ハイデルベルグ信仰問答ウェストミンスター信仰告白などの文書は、キリスト教教理を要約しています。

 

こういった信仰告白はバラバラになったプロテスタントを一致させる目的で作成されていました。和協信条(1580年)は、ルター派同士の戦いを終結させ、また、チューリッヒ協定(Consensus Tigurinus、1549)によりスイスのプロテスタンティズムに一致がもたらされました。

 

にもかかわらず、ーー宗教改革史の皮肉なゆがみの一つとしてーーあらゆる信仰告白は諸分裂を存続させました。例えば、ルター派陣営内の改革派的傾向に抗すべくルター派教義を定義しようとしたことにより、和協信条は、フィリップ派の人々(=フィリップ・メランヒトンの後継者たち)を地下に追いやり、あるいは改革派諸教会へと追い出しました。

 

諸信条が、競合する陣営に「対抗する」形で作成されているために、それらは結局、分離したそれぞれの伝統を存続させる上での主要な道具となっていったのです。

 

こうして信仰告白主義化ーーある告白を教示し施行するものーーはかえって諸分裂を深化させました。また信条を作成するだけでは十分ではありませんでした。各陣営の牧師たちは、自陣営の信仰告白を教示される必要があり、こうして、按手を受けた後、牧師たちがそれ以降も信条に基づいた自陣営の教義を確実に人々に教え続けることを確保すべく、不可避的にさまざまなメカニズムが発展していくことになりました。

 

たとい一番良いケースであったにしても、対立する見解が同情心を持って取り扱われた際には、信仰告白主義は分派スピリットを人々に鼓舞しました。

 

そして実際、状況というのは常に最良であるわけではありませんでした。また教職者や牧師たちは必ずしも自らの論敵に対し公正であるわけではありませんでした。多くの場合、彼らは賢明で慈悲深くある以上に、宗教改革者たちの手厳しいレトリックを自らに採用しました。こうしてあらゆる相違が絶対的な相違として扱われる傾向が生じました。

 

宗教改革の二つのEnd

 

マールブルグ会談はプロテスタント運動に一致をもたらそうとしました。しかしそれが失敗に終わり、意見を食い違わせたルターとツヴィングリがそれぞれ別々の道を歩き始めるや、分離したルーテル派と改革派の各伝統がそれぞれが意図的に維持されていくようになりました。そして1550年以降、ルーテル派と改革派の亀裂に架け橋をもたらすべく尽力した人は、どちらの陣営にもほとんどいませんでした。

 

強制的にカトリック教会から追い出され、バラバラの諸陣営に分割されていった宗教改革は、福音により西方教会全体を改革するというーー本来の包括的目的達成に挫折しました。

 

宗教改革は、宗教改革およびプレ/ポスト宗教改革教会の傷が癒されるまでは成功しないでしょう。そしてプロテスタンティズムは、宗教改革の諸分裂に終焉(=end)がもたらされるまで、その本来の目標(=end)に達することはないでしょう。

 

(執筆者:Peter J. Leithart、Theopolis Institute主幹)