巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

聖なる時間を「見えるもの」にする典礼歌、キリストの受肉、そして天的なものに対する礼拝者の憧れ

Dmitry Levin - Winter's river

出典

 

キリストの受肉という歴史上の決定的出来事が、いかに典礼の美、深遠性に影響を及ぼし、それを形作っているのかということを私は学びつつあります。

 

エリザベス・エリオット女史の兄であるトーマス・ハワード氏は、(人類の堕落以降)ずたずたに引き裂かれていた天的タペストリーがふたたび継合わされ、物質的世界と非物質的世界との間の痛ましい分断に回復がもたらされたということを次のように美しく表現しています。

 

「、、キリストの受肉がこれらすべてを覆します。この深淵および分裂からの救いは人となった神〔イエス・キリスト〕の形をとって私たちの所にもたらされています。こうして霊と肉は再び完全なる統合性の中に結び合わされています。歴代、異端グループはキリストの受肉を単なる幻想であるとみなそうとしてきました。そして偽りの諸宗教は常に、善と悪の間ではなく、肉と霊の間に大いなる分離を置こうとしてきましたが、キリスト教はそれを偽りとして退けてきました。」

 

「キリストは偉大なる聖像(icon)であり、この全体性を映し出すパラダイムです。キリストの内に私たちは肉体的かたちをとった神の満ち満ちたさまを見、私たちはーー肉体から離脱した(disembodied)天使のような生活ではなく、(肉体的かたちをとった)全体性へと召されているのです。ですから、キリスト教というのは、霊的なものと肉体的/物質的なものの間に楔を打ち込むのではなく、それとは反対に、両者を再び麗しく結び合わせています。」

 

「受肉と典礼」の密接な関係性を知るにつれ、最近にやってようやく私は、なぜ典礼の歌により、聖なる時間が「見えるもの」になることが実際に可能であるのかという点に少しずつ目が開かれつつあります。

 

「『歌』と『ことば』の尊い結びつきが教会の祈りです。『神の民』と『神のことば』の交わりです、、歌は聖なる時間を『見えるもの』とします、、礼拝の一つ一つが『絶えざる祈り』の永遠の動きへの歩みです。」ーーセルゲイ・グラゴレフ師

 

あゝ、この美しさはいかばかりであろう。聖なる時間が歌とメロディーをともない、「見えるもの」として今や人類に提示されている。目で見、聞き、そして触れんばかりに近くにある『受肉』。具現化され体験されうるいのちの教理。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」(ヨハネ1:14)