巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。ーー変動と危機の中の信仰

「神はわれらの避け所。また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。」(詩篇46:1-3節)

 

どんなものであれ、「土台」というのは大切だと思います。神観、世界観、人間観、聖書観、自然観、恩寵観、刑罰観、贖罪観、審美観、終末観、人生観などは、私たちがそれぞれの教会・教育・文化環境に身を置く中で意識的・無意識的に形成され、現在進行形で形成されつつあるものだと思います。

 

そして、それらは、愛や忠誠、目的、関係性等と深く織り合いをなしつつ、世界の中における、そして世界に対する自分のあり方に影響を及ぼしています。

 

土台はーーそれが真であれ虚であれーー私たちの精神にある種の安心感および安定を与えてくれます。私たちはその上に築かれた自分の小世界(ソサエティー)の中で、見、感じ、聞き、学び、交わり、祈り、生を営んでいます。そこに主がおられ、真実な交わりがあり、新しい命の誕生と成長があるーー。もちろんその過程には失敗や落胆もあるでしょう。しかしそういったものは通常、私たちの小世界内で解決がもたらされ改善され得るものです。神は遍在され、その恩寵と憐れみは私たちの思い・考えを遥かに超え、溢れる川となって流れています。

 

しかしながら時として、主は、特別な御意図と配慮の下、私たちの小世界に「地震」を起こされます。不動だと安心し切っていた土台がぐらぐらと揺れ始め、その裂け目から不気味な深淵が浮かび上がってくるのを目にするほど恐ろしい事はありません。「Here I stand.」と立っていたその地自体が今まさに揺れ動いているのです。

 

「世界史上に起こった数々の破局と危機の事態は、そのたびごとに歴史哲学の領域における省察を深めずにはおかなかった」とベルジャーエフは述べています。

 

「第二の時期、、安定した歴史的形成物がその土台からゆすぶられてぐらぐらし出す。さまざまなテンポを持った歴史的な破局と変動が始まる。安穏な生活の有機的調和とリズムは停止する。認識的主体は、もはや自身が歴史的客体そのものの中に直接的にやすらかにおさまっているとは感じない。歴史的認識の反省が生じる。」(ベルジャーエフ『歴史の意味』,p.10,12.)

 

破局と危機の事態を楽しめる人は誰もいないと思います。「安穏な生活の有機的調和とリズムが停止」し、「認識的主体は、もはや自身が歴史的客体そのものの中に直接的にやすらかにおさまっているとは感じない。」

 

ーーそのような危機の中、ルターも、エラスムスも、メランヒトンも、カルヴァンも、メノ・シモンズも、対抗宗教改革を推進したカトリックの人々も、それぞれが状況性(situatedness)と人としての限界を持つ中で、皆とにかく、必死だったと思います。

 

彼ら一人一人がその必死のもがきの中で何を死守しようとしていたのかーー、その部分に同情心を持って耳を傾ける時、柵のこちら側とあちら側その両方から人々の「声」と「叫び」が聞こえてくるのではないかと思います。

 

破局と危機は人を否応なく《未知の領域》へと押し出します。安全ゾーンはもうとっくに過ぎ、後ろの石橋も粉砕したので、後戻りの道はありません。

 

こうして路傍の盲人は力の限り、叫びます。「ダビデの子よ。私をあわれんでください。わが信仰の土台が本物でないのなら、主よ、どうかそれを容赦なく粉砕してください。逆にそれが本物であるのなら、その不動性と真実性を今一度このしもべに力強くお示しください」と。