寂しく貧しい魂の祈り、そして讃歌。
目次
アウグスティヌス『告白 III』第12巻第10章、11章
おお、真理よ、わが心の光よ。わが闇をしてわれに語らしめたもうな。
私はこの世のものに流れ落ち、暗くなっていました。しかし、そこにおいても、じっさいそこにおいてすらも、あなたを深く愛していたのです。私は迷っていましたが、それでもあなたのことをおぼえていました。*1
戻ってくるようにと呼びかけるあなたの声を、背後に聞きました*2。けれども、平和をにくむ人々*3のたてる騒音にさえぎられ、はっきりと聞きとることができませんでした。
だが、ごらんください。いま私は汗だくになり、息をきらせながら、あなたの泉のもとに戻ってきたのです。だれも邪魔をしてくれるな。この泉を飲み、そして生きよう。私が自分の生命となってはならない。自分によって生きていたとき、悪く生きていた。死が私のものだった。しかし今、あなたのうちに生きかえった。私に語りたまえ。教えさとしたまえ。私はあなたの書を信じています。それにしても、この書のことばの何という深い神秘!
魂が、長い遍歴ののち、いまやあなたに渇きをおぼえ、「汝の神はどこにいる」と毎日問われるたびに、涙がパンとなっているならば*4、そして、あなたに求めることはただ一つ、「生涯のすべての日にわたり、あなたの家に住むこと*5」だけになっているならばーーまことに、あなたのほかに何が魂の生たりえよう。
トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』第4篇 第3章
神の大いなる恵みと愛とは聖餐において人に示されること
主よ、あなたの恵みと大いなるあわれみとを信頼して、私はあなたに近づくのです。病む者としては救い主にゆき、飢え渇く者としては命の泉にゆき、貧になやむ者としては天国の王にゆき、しもべとしてはその主にゆき、造られたものとしては造り主にゆき、寂しい魂としてはわがやさしい慰め主にゆくのです。
しかしあなたが私の所へ来てくださるというのは、どういうわけでしょう。あなたがご自身を私に賜うとは、私は何者だからでしょう。罪びとはどうしてあなたの御前に出ることができましょう。あなたが罪びとに来てくださるとはどういうわけでしょう。
あなたは、あなたのしもべを知り、このような恩恵を与えるべき何の善も彼は持たないことをよく知っておられます。それゆえ、私は自分のいやしいことを告白します。あなたの恵みを認めます。あなたのやさしい憐れみをほめたたえ、あなたのこのすぐれた愛を感謝します。
あなたがこれをなさるのは、あなたのためであって、私の功績ではないからです。それはあなたの恵みを私にもっとよく知らせ、あなたの愛をもっと豊かに注ぎ、あなたの謙遜をもっと完全に説くためです。
わが神よ、私はあなたをほめたたえます。とこしえにあなたをほめ歌います。私は自分のいやしさの深い底にあって、自分をさげすみ、あなたの御前にひれ伏します。見よ、あなたは聖の聖なる者です。そして私は罪びとのうちのくずです。
見よ、あなたを仰ぎ見るにも足らぬ私に向かって、あなたは身をかがめられます。見よ、あなたは私の所に来て、私と共にあることを欲し、私をあなたの宴に招かれます。あなたは私に天の糧、また御使いたちのパンを与えて食べさせます(詩篇78:25)。これはあなた自身、すなわち、天より下って命を世に与える活きたパンに他なりません(ヨハネ6:33、51)。
わが魂よ、喜びなさい。神に感謝しなさい。神はかくも貴い賜物と、かくも価値ある慰めをこの涙の谷であなたのために残しておかれたのです。
あなたご自身を私に与えてください。それで十分なのです。あなたの他にはどんな慰めも役に立たないからです。あなたなしでは私はあることはできません。あなたのお顧みがなければ、私は生きる力を持たないのです。
それゆえ、私はしばしばあなたに近づいてあなたを私の救いの薬として受けなくてはなりません。もし天の糧を奪われるならば、私は恐らく道で倒れるでありましょう。
ああ、すべての霊の造り主で、またこれに命を与える主なる神よ、あなたが貧しい魂を訊ね、あなたの全き神性と人性をもってその渇望を満たされるとは、私たちに対するあなたのやさしい憐れみはいかに驚くべきへりくだりでしょう。
いともやさしき愛する主よ、天と地とそれを飾るすべてのものは、あなたの御前にあって沈黙させてください。どんなほめたたえるべき美しいものをそれらが持っていようとも、それは惜しみなく与えてくださるあなたから受けたものであって、一つとしてあなたの御名の美しさに及ぶものはありません。あなたの知恵ははかりがたいのです(詩篇147:5)。
いつまでも朽ちない讃歌
西方教会の讃美(5世紀)
東方教会の讃美(ビザンティン詠唱)