巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「聖書のみ」というプロテスタント教理は間違っているのだろうか?ーーロバート・アラカキ氏(東方正教会)とデイビッド・ロクサス氏(プロテスタント教会)のやり取りを読んで。

 

目次

 

はじめに

 

「『聖書のみ』の認識論的諸問題:デイビッド・ロクサスへの応答Sola Scriptura’s Epistemological Problems: Response to David Roxas」(シリーズその)を読みました。

 

この中で正教会神学者のロバート・アラカキ氏は、なぜ新教の土台教理である「聖書のみ」が、問題をはらんだ偽教理であるかを論証しようとしておられます。

 

応戦するデイビッド・ロクサス氏(プロテスタント)も、良い点を突いており、二人のやり取りを読むだけでも、「聖書のみ」という教理がーーそれを是認するにしても否定するにしてもーー一筋縄ではいかず、その他の諸領域にも関わる難題であり、どちらの立場を採るにしても、早まった即断だけはぜひとも避けなければならないということを教えられます。

 

ロクサス氏(新教)からアラカキ氏(正教)への問いかけ

 

デイビッド・ロクサス氏は、アラカキ氏に次のような質問をしています。

 

「あなたは次のように述べています。『初期教父たちに ‟聖書のみ” を押し付けることは実際、かなり問題をはらんだ事柄であり、検証に耐え得ません。一体どこにその主張を支持する証拠があるのでしょうか?』この言明に関し、あなたに二、三の質問があります。

 

.まとまった口伝(oral tradition)や教父の全集が不在の中でーーこれらは共に世紀を経る中で発展していったものであり、また教父たち自身もそれらを所有していませんでした(エイレナイオスはカッパドキア三教父の文書を読んでいませんでしたし、聖ヨハネ・クリュソストモスの聖体礼儀を祝ってもいませんでした)ーー、一体なにが、神、律法、イエス・キリストの福音に関するキリスト者の知識のソース(源)となっているのでしょうか?後期の発展形である教父たちの全集および口伝は、一体どこから、福音に関するその知識を受容したのでしょうか?

 

.エイレナイオスは次のように書いています。「われわれは、救いに関する計画を、他の誰でもない、福音をわれわれに届けた人々から学んできた。彼らはある時期、それを公に宣布し、後期には、神のみこころにより、聖書(Scriptures)の中で私たちに伝えてくれた。聖書がわれわれの信仰の土台であり柱となるために。」(エイレナイオス『異端論駁』3.1.1)

 

聖書が「われわれの信仰の土台であり柱である」と言っている上記のエイレナイオスの言明とあなたの言明は矛盾していませんか?もしくはあなたは、教父たちの後期全集と、聖書の口伝による(そして大部分においてliturgicalな)伝承体を同等のものとみなしているのでしょうか。

 

教父たちの著述および、教会の典礼は ‟theopreustos(神の息吹をうけた、神の霊感を受けた)”ものなのでしょうか。いかにしてドシセオスの告白(1672年エルサレム公会における宣言)と、ここでのエイレイオスの言明を調和させることができるのでしょうか。

 

というのも、〔エルサレム総主教ドシセオス2世によって主導された〕エルサレム公会における宣言は、クリスチャンは聖書を読むべきではない。なぜなら聖書は不明瞭であり、神学の奥義への手ほどきを必要とするからである、と明言しているからです。*1

 

.「聖書は人間に対する神の啓示である」ということをあなたは是認しますか、それとも否定しますか?もしあなたが是認するのなら、なぜ、「教父たちは、神およびイエス・キリストの福音に関する私たちの知識のソース(源)として『聖書のみ』の原則を拒絶していた」とあなたは主張しているのですか?

 

教父たちは、神およびキリストに関する知識を、聖書以外のなにか他のソースから引き出していたのでしょうか。そしてもしそれが本当なら、それは一体何だったのでしょうか。」(引用元

 

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2世紀のキリスト教弁証家エイレナイオス

 

「エイレナイオスはカッパドキア三教父の文書を読んでいませんでしたし、聖ヨハネ・クリュソストモス(聖金口イオアン)の聖体礼儀を祝ってもいませんでした。」という部分や、「もしくはあなたは、教父たちの後期全集と、聖書の口伝による(そして大部分においてliturgicalな)伝承体を同等のものとみなしているのでしょうか。教父たちの著述および、教会の典礼は ‟theopreustos(神の息吹をうけた、神の霊感を受けた)” ものなのでしょうか。」というロクサス氏の問いかけは、たしかに私の疑問でもあります。

 

例えば、正教会の学者であるデイビッド・ベントリー・ハート氏は、万人救済論を説いて、現在、正教会内に波紋を広げていると思いますが、彼は全地公会と万人救済論に関し、次のように述べています。

 

 「正教の全教義に関する ‟保管所” は、全地七公会の諸法令の中に存在し、、ーー過去数十年に渡り、最も良心的かつ歴史的に学識高い正教会神学者や学者たち(Evdokimov, Bulgakov, Clément, Turincev, Ware, Alfeyevなど多数)のコンセンサスによれば、万人救済説は、ーー許容可能なtheologoumenonあるいは信憑性のある希望としてーー、教会(the Church)によって糾弾されたことは一度もなかったということです。教義(Doctrine)は、この事項に関し沈黙しています。

 

 しかしこれを耐えられない事柄だと考え憤慨する人々もいます、、、その中でも最も激しい一角を、私たちは、福音主義からの改宗者である一群の人々の内に見い出します。これらの人々は、正教の伝統が自分たちの思っていた以上に、より多様で、曖昧であり、思弁的に大胆であることに苛立ちを覚えているのです。

 

 、、東方であれ、西方であれ、全てのクリスチャンは、キリスト教帝国史の荒唐無稽さに頭を悩ませています*。しかしながら、いかなる正教観念であれ、ユスティニアンのような残忍なる凶悪皇帝に「聖 "saint"」という称号を与えることを強いる一方、逆にオリゲネスのように清い生き方をした人物にはそれを拒絶するというのは、明らかにーーそして本当に滑稽なほどーー自己反証的です。」(David Bentley Hart, Saint Origenより引用)

 

私も正教の大多数の方々と同様、万人救済論を退けています。*2しかし暴君ユスティニアン*の画策を伴い成立した第五回全地公会議*3を私たちは本当にinfallible(無謬)とみなすことができるのでしょうか?その意味において、(たとい救済論に関するデイビッド・ハート氏の神学には反対しても)帝国がらみの全地七公会議に対する彼の問題提起には的を射た部分があるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

 

アラカキ師の指摘する「聖書のみ」の認識論的問題点

 

しかしながら、そうだからと言って、プロテスタントの「聖書のみ」という教理の正当性が証明されるわけでないのは当然のことです。ロバート・アラカキ師は、「聖書のみ」の認識論的問題を4つに大別し、一番目の問題を次のように述べています。

 

 「第一番目に、もしも聖書が霊感された書でありながらも、不完全かつ誤りを犯しがちな人間によって解釈されるのだとしたら、それならば、私たちはいかにして、自分の行なっている解釈が正しい解釈であり、なにかしら異端的な誤解釈ではないということを知ることができるのでしょうか

 

 この問いに関し、ほとんどのプロテスタントは以下に挙げる二つの内どちらかの方法で答えようとしてきます。彼らは言います。『〔自分のこの解釈は〕完全に理に適っている。これはロジカルだ』と。あるいはこの群のより洗練されたバージョンは、『最も進んだ学術的釈義方法を用いることで、われわれは聖書テキストの意味を客観的に確定することができる』と主張するかもしれません。

 

 また別の群の人々は『聖霊さまが私に、この聖書箇所の真の意味を示してくださったんです』と言うかもしれません。そして両者共に、プロテスタンティズムの個人主義および主観主義を表しています。--特に、彼らの主張するこういった諸解釈が、教会史と真っ向から反立する際などは尚更です。」(引用元

 

続けてアラカキ師は、2世紀のエイレナイオスの文*4を引用しながら、「彼は、神学論争が起こった際、『聖書のみ』に訴え出るのではなく、『もっとも古い諸教会』の見解に目を向けるよう勧告しており、仮に使徒たちが当該の論争トピックに関する成文記録を残していない場合には、彼らの後継者たちに伝えられた伝統(言い伝え)に従うべきであると言っています」と指摘しています。

 

また、アラカキ師は、二番目の問題として「もしも聖書が神からの真の啓示であるならば、あなたがたの内に存在する競合する複数の聖書解釈についていかに考えればいいのか?」と問いかけています。

 

そして両者共に『聖書のみ』の教理を高唱しながらも、結局、聖餐の解釈に一致を見ることに失敗したルターとツヴィングリのマールブルク会談(1529)を実例に挙げています。

 

互いに意見を違わせるルターとツヴィングリ(1529年、マールブルグ)

 

私の解釈を「誰が」正しいと定めるのだろうか?ーー「聖書のみ」と権威の所在

 

確かに、プロテスタント内のどんな主要教理も、アマゾンで検索すると、「○○教理に関する4つの見解」「○○論に関する3つの主要見解」など、複数の競合する見解が併記されてあります。

 

そのため(「聖霊様が○○説の真理を天から啓示してくださったのです。」or「聖書を素直に読んだらこの教理に必然的に行き着くのです」系の発言はしない)残りのプロテスタントの人々は、聖書を読み、競合する複数の見解を読み比べた上で、自分なりに一番まっとうに思える見解を「自見解」として取り入れることになると思います。私もそうです。

 

しかし私がチョイスした(‟帰納的に導き出された”)解釈は、本当に正しい解釈なのでしょうか。誰がそれを正しいと定めているのでしょうか。私でしょうか。私の属する教会の牧師でしょうか。それでは私の属する地域教会の牧師がこれだと思ってチョイスした(‟帰納的に導き出された”)解釈を「誰が」正しいと定めているのでしょうか。彼の信奉する著名な神学者でしょうか。それとも彼が所属する教団でしょうか。

 

また逆にいうと、私や私の属するグループとは違う解釈をしているプロテスタント内の個々人や諸グループの聖書解釈が「間違っている」と裁定する基準および権威はどこに(誰に)あるのでしょうか。

 

例えば、契約主義神学者は、ディスペンセーション主義が19世紀に発明された不健全な偽体系であるということを主張しています。私もそう考えています。しかしながら、ディスペンセーション主義神学の誤りが明証されたからといって、それで自動的に契約主義神学が「正しく」「健全」ということになるのでしょうか。

 

ウェストミンスター神学校のポイスレス教授は、「契約主義神学は、その起源をプロテスタント宗教改革に持ち、ヘルマン・ウィトスィウスおよびヨハネス・コケイウスによって体系化されました。」と述べています*5つまり、16世紀以前には「契約主義神学」なるものは(少なくとも現在目にするような明瞭な形としては)存在していなかったということになると思います。

 

さて仮にこの世界が16世紀に始まり、且つ、契約主義陣営とディスペンセーション主義陣営だけで構成されているのなら、たしかに契約主義神学が「正しく」「健全」であるという主張はかなりの度合で信頼が置けると思います。

 

しかし、契約主義とディスペンセーション主義の傘であるプロテスタンティズムというカテゴリーの外側にいる人々の多くは、そのどちらをも大なり小なり「間違っている」とみなしていると思います。

 

「間違い」の度合いには違いがあるかもしれませんが、それが正当なる解釈(体系)ではないと判断する点で両者は類似しているのだろうと思います。(私の調べる限り、正教やカトリックのサイトの多くは、ディスペンセーション主義教理を「異端」と認定していますが、契約主義神学に対しては(正統ではないと考えつつも)「異端」とまでは判断していないようです。)

 

それで客観的な聖書解釈の「正しさ」をこの路線でどこまでも徹底的に追及していくと、私たちはやがて人間認識の限界権威の所在という哲学上の大問題に行き着くと思います。

 

解釈者とテキストの関係に対する哲学的洞察(ガダマー)、原語のワード・スタディーをする際に気を付けるべきさまざまな解釈学的・言語学的・歴史的留意点(D・A・カーソン)、、、しかしその懸命なる努力と試行錯誤のさなかに私はふと思うのです。「聖書解釈というのはこれほど過酷に厳しいものなのだろうか?」と。

 

「聖書のみ」という教理は、もしかしたら、解釈者一人一人に‟教皇レベル”の重い責任を背負わせるものなのだろうか。教会の伝承に頼ることができないのだとしたら、解釈を間違えないためにも、私は最善を尽くし、解釈者としての精度を高めなければならない。心理学的な偏見や偏向にも常に気を付けていなければならない。原語の学びも怠ってはいけないだろう。

 

それぞれの諸解釈においてプロテスタント教会を唯一代表する「正統見解」というものは存在しない。だから個々人が自分の解釈に責任をもちつつ、解釈的ハイパー多元主義の世界の中で、「確信を持つ」ことを要求されているのだろうか。それにしても、一体誰が(何が)私や私たちの解釈を「正しい」と定めているのだろう?

 

詩篇86篇1-3、11節

1 主よ。あなたの耳を傾けて、私に答えてください。私は悩み、そして貧しいのです。

2 私のたましいを守ってください。私は神を恐れる者です。わが神よ。どうかあなたに信頼するあなたのしもべを救ってください。

3 主よ。私をあわれんでください。私は一日中あなたに呼ばわっていますから。

11主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。

*1:補足資料The Confession of Dositheus , Eastern Orthodox, 1672.

*2:最近の正教会内での万人救済説支持の動きについてReadings in Universalism | Eclectic Orthodoxy

*3:第五回全地公会議についての正教の説明はココ

*4:Against Heresies3.4.1; ANF pp. 416-417

*5:引用元