巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

人生のどん底にいるクリスチャンは何を歌えるのか?(by カール・トゥルーマン)

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Carl R. Truman,‘What Can Miserable Christians Sing?’ in The Wages of Spin: Critical Writings on Historical and Contemporary Evangelicalism (Christian Focus: 2004) pp. 158-160(抄訳)

 

過去においても現代においてもキリスト教礼拝の中で欠けてきたのは、嘆きの言語だったと思います。そして、こういった痛みの叫びは一般に私たちの聖歌やプレイズ・ソングの中には不在です。

 

流産した女性、わが子を癌で失ったばかりの親が、主日に教会で実直に正直に歌うことのできる歌は、一般の聖歌集やプレイズ・ブックにはありません。

 

身を切られるような心痛、慟哭、絶望の瞬間にあって、私たちは本能的に感じますーー。「主にあっていつも喜んでいなさい」とされている宗教の中にわが身の置き場はないと。しかしそういった感情の琴線に触れ、神に対し最も深奥なる悲しみを表現すべく、傷心した者に正直なことばを与えているプレイズ集が一冊あります。

 

そうです、その歌集は、『詩篇』です。聖書自身の聖歌集である詩篇の中には嘆きに関する数多くの記録があり、それらは、堕落した世界の中における信者の人生の本質を映し出しています。そしてキリスト教会における、公的讃美のソースとしての詩篇歌の回復により、教会は勝利主義を克服し、こうして、貧しく心くずおれた弱者のための空間が教会に開かれていくでしょう。

 

詩篇の中に人は、信者が、最も深い心の痛みや悲しみを神に表現することをよしとする霊感された言葉を見い出します。

 

しかし詩篇というこの讃美集は、現代の西洋福音主義の現場からほとんど完全に脱落しています。なぜこのようになってしまったのか確かなことは分かりませんが、私の直感では、詩篇の多くの部分が、ーー悲しく、不幸せで、うちひしがれ、傷ついた心を吐露するーー嘆きに割かれていることが原因なのではないかと思います。

 

現代の西洋文化では、嘆きというのは、あまり信憑性をもたれない感情です。もちろん、人は嘆きというものを今でも感じはするでしょう。しかしそれが日常生活の一部であることを認めてしまうことは、自分が、今日の「健康、富、ハピネス」社会における落伍者であることを認めるに等しい行為です。

 

そしてもちろん、仮にそれを認めるにしても、それに対するいかなる個人的責任も認めてはならないと社会は教えます。ーーあなたが嘆いている原因は、あなたの両親のせい。だから親を責めるべき。雇用主を起訴すべき。あるいは機能不全な感情を鎮静化させ、セルフ・イメージを回復させるべくあなたは丸薬を飲み、心療内科にかからなければならないと。

 

この世が詩篇記者たちの叫びに関心を払わないことに関しては別段驚くに値しません。しかし、そういった嘆きの叫びが、キリスト教会の言語および礼拝から姿を消していったというのは非常に憂慮すべきことではないかと思います。

 

おそらく西洋教会は嘆く必要性を感じていないのかもしれません。ーーしかし、数や影響力という観点で人の霊的健康が測定可能という考えは悲しむべき欺きです。

 

もしかしたら教会は、現代西洋の物質主義の井戸からたんまり飲み過ぎてしまったために、そういった人々の叫びをどう取り扱っていいものやら分からず、それらを厄介なものであるかのように感じているのかもしれません。

 

しかし人間の生の状態は、実際、貧しきものであり、それゆえに、人間の心が偽りやすいものであり、天にあるより良い故郷を求めているキリスト者たちはこの事実に向かい合う必要があると思います。

 

いつも陽気なコーラスと賛美というイメージからは、「正常なクリスチャン生活は長期に渡る勝利凱旋パレードの祝祭である」という非現実的な期待を含んだ地平が不可避的に作り出され、--実際、これは神学的に間違っており、牧会的にも、傷ついた個々人で構成される世界にあっての破滅的なシナリオを人々に提供しています。

 

キリスト教は、詰まるところ「健康、富、ハピネス」であるし、そうあるべきであるという無意識的な信条が、私たちの礼拝の内容を無言の内に腐敗させてきたのではないでしょうか。

 

ここ数十年、厳しい試練の下をくぐり抜けてきた強靭なる教会(中国、アフリカ、東欧等)を見てください。こういった環境にいるクリスチャンたちは、絶え間ない感情的ハイの状態を、正常なるクリスチャンの経験とはみなしていません。

 

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出典

 

実際、聖書は信仰者たちをそのようには描き出していません。アブラハム、ヨセフ、ダビデ、エレミヤ、そして詩篇記者たちの経験の詳細記録をみてください。そこには生々しい苦悶、多くの嘆き、時折の絶望、、、そして喜びがあります。そしてそれらは、現代西洋キリスト教に浸透し切っている浅薄な勝利主義とは大きく様相を異にしています。

 

私は一度、教会の集会の席で、福音主義教会の礼拝の中で、詩篇歌がこれまで以上に高い地位を占めるべきではないでしょうかと提言したことがありました。すると憤慨したある方が、「そのような見方は、福音宣教への無関心を露わにするものです」と批判してきました。

 

しかし事実はその反対だと私は考えます。詩篇記者たちのこういった経験や切望をキリスト教礼拝から締め出したことにより、西洋における福音伝道の試みはむしろ大いに損なわれ、私たちは多かれ少なかれ、霊的不具にされてきたのではないでしょうか。

 

孤独、はく奪、荒廃の叫びを、キリスト教礼拝から締め出すことにより、教会は効果的に、(教会内外にいる)寂しく、喪失に苦しみ、荒廃のどん底にいる人々の声を抹殺し、排除してきました。

 

そうすることにより、教会は暗黙のうちに、陳腐な消費者主義志向を受諾し、味気なく、些末で、非現実的な勝利主義キリスト教を生じさせ、こうして、自己満足した人たちの社交クラブとしての、その申し分のない資質にお墨付きを与えたのです。

 

昨年、私は三人の福音主義者の方にそれぞれ、「人生のどん底にいるクリスチャンは教会で何が歌えると思いますか?」と尋ねてみました。すると三人が三人共、私の質問を耳にするや、どっと吹き出し、爆笑し始めました。ーーあたかも傷つき、孤独で、絶望したクリスチャンという考え自体が馬鹿げていて、コミカルであるとでもいうかのように。

 

でも私は本当に真剣にこの問いを投げかけたのです。どうりで英国の福音主義が、ーー改革派からカリスマ派に至るまでーー、快適な中流クラスの現象であるわけです。

 

ーーー

公同的に私たちが言明し、歌う内容は、少しずつ無意識の次元で、キリスト信仰に関する私たちの考えを形成し、それゆえ、力強く人生一般に関する見方を特徴づけていきます。

 

堕落した世界の中で私たちが自らの人生に対し持ち得る切望を正確に映し出している典礼(liturgy)ーー週ごとにしっかりと心に刻み込まれ、植えられているliturgyはーー、やがて直面するであろう苦しみや困難に対し信徒たちを備えさせる手段として重要なものです。

 

詩篇歌を霊的糧の一部として常時用いている教会は、信徒たちが、涙の谷に満ちたこの世界で真実に生き抜くためのリソースを提供しています。

 

ある人々は、福音宣教におけるrelevance(今日性)への追及という理由づけの下、この宝を拒否しています。しかしながら、苦しみと死へのための備えを提供する以上に、普遍的にrelevant(今日性を帯びた)ものはどこにもありません。

 

私たちはこの世にあって悲嘆があるという事実を知る必要があります。それは何ら希望のない世的な悲嘆とは違います。しかしそれにもかかわらず、それは紛うことなきリアルな悲嘆であり、私たち牧会者は信徒たちにそのための備えをさせる必要があります。

 

ー終わりー