巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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何をもって「一致」とするのか?ーーピーター・ライトハート著『プロテスタンティズムの終焉ーーバラバラになった教会の一致を求めて』に対する東方正教会の評価

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そもそもなぜフェンスがそこに建てられたのかを知らないうちに、それを取り外そうとしてはならない。決して。ーーG・K・チェスタトン

 

目次

 

未来の「合同教会」

 

元福音派の正教会神学者ロバート・アラカキ師(ゴードン・コーンウェル神学校卒、現:コンスタンティヌス・ヘレナ・ギリシャ正教会)が、改革派のピーター・ライトハート著『プロテスタンティズムの終焉ーーバラバラになった教会の一致を求めて』の批評論文を書いています。(Review – Peter Leithart’s “The End of Protestantism”: An Orthodox Assessment

 

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結論から言いますと、この論文は、ライトハートの描き出すエキュメニカル・ビジョンに基づく未来の「合同教会*」をこなごなに紛糾しています。

 

ライトハート氏は、アメリカ・プロテスタント教派主義の害毒*になんとか解決をもたらし、少しでも伝統諸教会に歩み寄ろうとしているわけですから、伝統諸教会の人々は保守エヴァンジェリカルのこういった動向を歓迎しているはずだと私たちの多くは考えるのではないかと思います。

 

しかし、アラカキ師の論文を読むと、そのような考えがいかに甘いかということをはっきり教えられます。それによると、、

 

 〔ライトハートを始めとする保守エヴァンジェリカルは〕自分たちのプロテスタント教義のコアを保持しつつ、周辺部分を是正していきながら、カトリックや正教会との一致に向けて歩み出すことができるとどこかで楽観視している。

 

 しかしカトリックはともかく少なくとも正教に限って言えば、そんな事は決して起こり得ない。正教にとっての一致というのは、あなたがた新教徒が、新教という誤った土台そのものを悔い改め、正教に帰正する以外にはあり得ない。だからあなたがたがピーターの主唱するエキュメニズムをやりたいのだったらやればいい。但し、私たち正教は頑としてその動きへの参加を拒絶するし、あなたがたとの合同聖餐も拒む。--と、こういうスタンスであることが明記されてあります。

 

また、アラカキ師は、ライトハート師の主唱するエキュメニズムが、1950年代に United Church of Christ (UCC)で提唱された合同運動と類似していることを指摘しています。

 

アラカキ師自身、以前、この教団に属していたそうですが、彼は、元々穏健リベラルであったUCC教団が、合同運動に参加後、急速にラディカルなリベラリズムに傾斜していった事実を述べ、ライトハートが著書の中で、こういったリベラリズムへの危険性について少ししか触れていないことを批判しています。

 

ポスト福音主義と彷徨う宗教的遊牧民

 

また、彼は、現代福音主義のサブカルチャーが、閉鎖された局地的宗教ゲットーの様相を帯びていることを述べ、次のように言っています。

 

 「こういった気泡の中で育ってきたエヴァンジェリカルは通常、教会史における2000年以上の豊かな遺産に対しほぼ無知の状態にあります。そしてその中のある人たちは自分たちのゲットーの外側に、より広い世界があることを知るようになります。そうすると、彼らは、わぁ~すごーいと喜び勇み、これまでの自分の神学や実践の中に新しく学んだものを折衷的に取り入れていくようになります。

 

 こういった現象を人は、『ポスト福音主義』と呼んでいます。そしてこのポスト福音主義的シフトが、彼らをして教会的合同へと誘わしめるのです。ピーター・ライトハートのエキュメニカル・ビジョン*は、こういった楽観主義的ポスト・エヴァンジェリカル折衷主義を反映したものと言えるでしょう。」

 

そしてアラカキ師は、「わぁー、ヘブル的視点だぁ。」どどどぉー、「わぁー、N・T・ライトだぁ。読書会だー。」どどどぉー、「わぁー、ミルバンクだぁ。ラディカル・オーソドクシーだー。」どどどぉーーと、流行りの神学から神学へと漂流していくポスト福音主義者たちのことを、「よりグリーンな牧場を求め、あくせくと動き回る宗教的遊牧民」に譬えています。

 

大文字のChurch

 

宇田進師が、「ファンダメンタリズムの原点は」の項で、「ギリシャ正教原理主義」のことに少し言及しておられましたが、実際、「ギリシャ正教原理主義」の堅固さと頑丈さに比べたら、米国プロテスタントの原理主義など、幼児のままごとのように思われます。神学的深遠さにしてもその排他的真理主張にしても、正教の原理主義の迫力は物凄いと思います。

 

アラカキ師は、初代教会という語を、the early Churchと書いておられます。(大文字のChurchは正教会を意味しています。)どんなに筋金入りの米国原理主義者であっても、自分の独立バプテスト教団が、the Churchだと宣言できるほどの度胸も根拠もないだろうと思います。

 

しかし正教は、神学的造詣と歴史的根拠を基に、使徒教会との本質的連続性(使徒継承)を確信しつつ、大胆に大文字のChurchを自教会にそのまま当てはめています。

 

アンドリュー・ダミック神父(福音派出身)は、正教からみた西方教会観を次のように描写しています。

 

 「ロシア作家のアレクセイ・コミアコフは、ローマ教皇は『最初のプロテスタント(=抗議者)』であり、『すべてのプロテスタントは‟秘密のパピスト(Crypto-Papists)”である』と皮肉り、両者共に、古のChurchの聖伝に対する反逆者であるとみなしています。

 

 ローマ・カトリック教徒も、プロテスタントも、結局は同じコインの裏表であるに過ぎないという認識は、多くの正教徒にとっての西洋キリスト教観の公理となってきています。このコインは、神学的闇市での商売のために使われるものであり、その闇市では、11世紀の教会大分裂以前に存在していたキリスト教国の普遍的伝統を考慮することなく、偽教理が取引されているのです。」(The Reformation at 500: An Eastern Orthodox View

 

現実

 

「それぞれが自宗派のアイデンティティーを保持しつつ、キリストにある愛の内に合同と一致に向かって歩んでいくことができる」というプロテスタント教徒の希望的観測が、少なくとも現在の正教のスタンスの前では甘い幻想に過ぎない、という厳しい現実を知る上で、アラカキ師の批評は有効だと思います。彼は次のように述べています。

 

 「ライトハートの著書は、プロテスタント問題に対する疑わしいプロテスタント的解決を提供しています。ライトハートはプロテスタント諸信条を放棄する可能性を検討することすら拒絶していますが、これにより、古のChurchとのシスマ(分裂、亀裂)は深まるばかりです。

 

 例えば、プロテスタント教理である『聖書のみ』を教示していた教父たちは皆無です。初期教父たちは確かに聖書の権威を是認していましたが、彼らは聖伝(Tradition)の『中で』聖書を説いていました。『聖書のみ』により、プロテスタント宗教改革者たちは、聖伝『の上にある(over)』聖書という新奇な概念を導入しました。

 

 聖伝を投げ捨てたことにより、『聖書のみ』の教理は、プロテスタンティズムの解釈的カオスおよび、空前の教派蔓延状況を招きました。『聖書のみ』の教理を否認し、使徒的聖伝に回帰する道を通してのみ、プロテスタンティズムは、その分裂状況に対する癒しを見い出すことができます。

 

 『聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会』を切望するプロテスタントは、『聖書のみ』というプロテスタント的パラダイムとはっきりと袂を分かち、使徒的聖伝というパラダイムを受容する必要があります。」

 

「正教とプロテスタンティズムとの分裂に関してですが、ライトハートは、いかに彼のプロテスタンティズムが、両者の和解への試みを妨害しているのかという現実を甘く見すぎています。プロテスタント教徒は、自分たちが古代キリスト教から乖離した歩みをしているということをしかと認識すべきです。1672年、エルサレム公会の席で、正教会は、ドシセオス信仰告白を作成し、公式的に改革派神学を糾弾しました。

 

エルサレム公会における宣言内容の一部

①教会の役割と伝統の確認、プロテスタントの教理「聖書のみ」(sola scriptura)を否定。

②成義(義化)における、神の愛と恩寵の役割、および行為の役割を確言(予定説の否定)。

③七件機密の確言と、聖体機密についての象徴説・共在説の否定。

④旧約聖書正典をヘブライ語原典版が存在するものに限定するプロテスタントの主張を否定。(参照)」

 

「プロテスタンティズムに対する拒絶に対しての組織的調停は、ライトハートのようなエキュメニカル主義者たちが避けて通ることのできないなにかです。エキュメニズム指向に裏打ちされたピーター・ライトハートの楽観的未来像によると、新教と正教という二つの道は、いつの日か合流するだろうと予測されていますが、本書評の中で私はそれに異議を唱えました。ライトハートは、正教にプロテスタンティズムを融合させることの困難性を未だ正確に把握できていません。」

 

家族か他人か

 

私がライトハート師に感謝しているのが、彼の基本的姿勢です。彼はごま擦りしながら「はい、はい、何でもいいんですよ」と教義の問題を ‟愛と一致” の名の下にうやむやにするような妥協者ではありません。彼は一致を求めつつ、それと同時にカトリックに対しても、正教に対しても、聖公会に対しても、各プロテスタント教派に対しても修正と悔い改めを呼びかけ、論争を繰り広げています。

 

だからこそ、彼は、正教から拒絶され、保守プロテスタント陣営からも「彼はカトリックすぎる」と敬遠される運命を余儀なくされています。でも、、、こうやってほとんどの陣営から拒絶され迷惑がられながらも、彼の著作及び呼びかけは、とにかくカトリック、正教、聖公会、プロテスタント諸教会で幅広く読まれ、賛否両論反響を呼んでいます。

 

ライトハート師は言います。「遠くから他人を批判するのは簡単。でも、家の中にいる家族を正し、家族に正されていくのには互いに忍耐が必要だ。」

 

確かに、他の宗派や教派を「他人」と思えば、私たちは愛想笑いをしながら、それなりに礼儀正しい表面的なお付き合いをすることが可能だと思います。でももしも彼らが自分の「家族」だとしたら、、、?そしたら、やっぱり、けんかしたり、「ああもうイヤだ!」と匙を投げたりしたくなっても、私たちは相手に対する関心と愛を放棄することはできないと思います。

 

私は、他人行儀な「無関心」による音信不通よりは、熱い「論争」をしながらもとにかく相手と一緒にいることを望みます。みなさんはどうですか?