巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ジョン・ウィクリフ研究ーー何をもって人は ‟英雄的改革者” と称され、あるいは ‟異端者” の烙印を押されるのだろうか?

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正統と異端が織りなすダイナミズム。これは他の文化圏にくらべて、中世ヨーロッパ世界に特徴的な歴史事象である。ヨーロッパでは、中世の正統と異端の相剋の中から、宗教改革の理想も市民革命の精神も生まれたといってもよい。ーー『中世の異端者たち』より写真

 

目次

 

なにが正統でなにが異端なのだろうか?(甚野尚志著『中世の異端者たち』)

 

甚野尚志(じんのたかし)1958年生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院人文科学研究科修了。専攻、ヨーロッパ中世史。現在、早稲田大学文学学術院教授。

 

甚野尚志著『中世の異端者たち』、p.2-3.

 

キリスト教の教義に関して、なにが正統でなにが異端なのかについては、中世カトリック世界でも最初から一貫性があったわけではない。

 

三位一体論のような、キリスト教神学の核となる正統的な教義は早い時期に定まるが、細かい典礼の規則や司牧活動の規範などについては、中世の教会法や神学者の考えのなかで、かならずしも統一した見解があったわけではない。ある信徒たちの活動が異端であるかどうかは、むしろ時代状況や教会当局との力関係のなかで決定された。

 

一つの例をあげよう。なぜ、ヴァルドは異端者として破門されたのに、アッシジのフランチェスコは聖人となったのか?ヴァルドもフランチェスコもほぼ同時代に、仲間たちと共に清貧と説教の生活をおこなった。だが、一方のグループは教皇により異端とされ、もう一方は正統の托鉢修道会として認可された。

 

その背後には教皇庁の政治的配慮がみてとれるが、それ以上にこの事実は、中世において正統と異端の関係が、いかに相対的で流動的だっかかを雄弁に語っている

 

しかし、正統と異端との境界が絶対的なものではなかったにしろ、異端を異端たらしめる一定の特徴があることも認めねばならない。中世の異端者たちは、キリスト教の教義と教会の制度に関して、厳格で主観主義的な改革理念を主張していた。

 

異端者たちはつねに、日常性の中に埋没し、緊張感を失った教会のあり方を批判する者たちであった。彼らは、自身のセクトの構成員のみが真に選ばれた宗教的エリートであると自覚し、堕落した教会および社会一般を激しく攻撃した。こうした異端者たちの主観主義がさらに高まると、切迫した終末願望や社会秩序の根本的な否定にまでいたるのである。

 

以上、甚野尚志著『中世の異端者たち』、p.2-3.

 

ジョン・ウィクリフについて(甚野尚志著『中世の異端者たち』)

 

イングランドと教皇庁

 

14世紀半ばから15世紀にかけての時期は、西欧では社会不安の時代であった。1348年以降のペストの大流行、百年戦争の戦禍、教皇庁のアヴィニョン移転と教皇の権威の失墜などを考えれば、それはよく分かる。こうした中、腐敗した教会のあり方を批判し、原始教会のような清貧と素朴な信仰心に支えられた教会のあり方に立ち返ろうとする運動が各地で生じる。

 

そのなかで、このあとの宗教改革に強い影響をおよぼした異端的な運動として、イングランドでのウィクリフ主義とロラード運動、そしてボヘミヤでのフス派の運動がある。

 

大陸と違い、イングランドでは、14世紀にいたるまで異端に悩まされることはなかった。その最大の理由として、教会が大陸に比べて堅固に組織化されており、そのために、大陸からの異端運動の潮流がなかなか浸透しえなかったことがある。

 

しかしイングランドでも14世紀後半には、教会への批判が高まる。それはなによりも、政治的な理由からであった。イングランド王権はジョン王の時代以来、教皇庁にたいして多額の献金をおこなっていたが、教皇庁がフランス王権の圧力のもとローマからアヴィニョンに移ると、教皇庁への批判が一挙に爆発した。14世紀の後半、百年戦争下の議会で、フランスの影響下にある教皇庁への献金を拒否する決議がなされた。

 

またこの時期、教会への批判が高まった大きな理由としては、外国人聖職者がイングランド国内の聖職禄を不在のまま保有する事例が非常に多かったこともある。たとえばこの時期、大助祭職はその約四分の一が在外の外国人により所有されていた。これは当然、国内の富が外へ流出することを意味しており、王や貴族たちにより問題視されるようになっていた。

 

こうした国益に反する教会のあり方が批判される一方で、この頃には、多くの宗教的な書物が俗語で書かれ、一般民衆のあいだでも腐敗した教会への批判的な意識が高まっていた。

 

いずれにせよ14世紀後半には、社会の上層、下層を問わず、イングランドではすべての社会層のあいだで教会批判のうねりが起きていた。その運動を理念的に導いたのがウィクリフである。

 

ウィクリフの教会批判

 

ウィクリフはオックスフォード大学で学び、そして教えた大学人であった。しかし単に象牙の塔の中にいたのみならず、王権による教会批判にさまざまな形でかかわった。1371年に議会で、教会財産の解体の是非をめぐって議論がなされると、ウィクリフは、国益のためにそれを解体し利用しうるとする立場から議論に参加した。

 

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書斎でのウィクリフ

 

それと同時に彼は、ローマ教皇庁を批判する議論をおこない始める。彼はその法学関係の著作の中で、教皇権のあり方を批判するために、正しい人間のみが権威を適切に行使しうるという観念を展開した。

 

つまり、権威は職務に自動的に内在するものではないので、聖職者とくに教皇は、その職にあることで裁治権を要求しうるのではない。彼らは正しくある限り、裁治権をもちうる。そこから彼は、同時代の教皇で、真に教皇の権力を行使できる者はほとんどいないという結論を導いた。

 

さらにウィクリフは、教会のあり方についても議論を展開したが、それは既存の教会を根柢から否定する過激なものであった。

 

彼はまず、アウグスティヌスの天上の国と地上の国の区分を用いながら、人間は、天上の国に行くことが定められた人と、地獄に落ちることが定められた人とに、現世ですでに分けられていると考える。そして、救いに定められた者のみが、教会の本来の構成員であるとみなす。

 

ゆえに、たとえ既存の教会の聖職者であっても、かならずしも真の教会の構成員とは限らない。だれが真の教会の構成員かは神のみが知る。そして真の教会の構成員のほうが、教皇などよりもはるかに神に近い存在である。またさらにウィクリフは、叙任された聖職者の存在を不必要とし、真の教会の構成員であれば、あらゆる者が聖職者たりうると述べた。

 

またウィクリフは、聖書のみがキリスト教の教義の最終的な根源であるとした。教父の著作や教会法の有効性も否定しないが、それらは、聖書の教えと一致するかぎりで意味を持つ。従って、聖書に書かれていない事柄の教会による実践は無意味である。

 

聖職者の蓄財や世俗裁判からの免除といった特権を正当化する聖書上の根拠はない。また彼は、修道生活も断罪する。その理由は、修道生活自体が、聖書の教えを誤解したものだからである。なぜなら、教会の日常生活から個人を切り離すような宗教生活の形態は、聖書には規定されていないからである。また偶像礼拝、巡礼、贖宥状、死者への祈禱といったことも、聖書にはない教会の慣習として否定した。

 

しかし、教会がウィクリフ説のうち、最も異端的とみなしたのは、彼の聖餐についての観念である。ウィクリフは、聖餐で用いられるパンとぶどう酒の物質的な実体は、聖体拝領での聖別後も残るとして、正統的教義である全質変化説*1を否定する議論を行なっていた。

 

1377年に教皇グレゴリウス11世は、ウィクリフの誤った観念を18箇条にまとめて列挙し、彼の逮捕と異端訊問を要求している。また1380年には、オックスフォード大学内で、ウィクリフの聖餐の教えが異端的なものとして断罪され、彼は翌年、オックスフォードから田舎の村への引退を余儀なくされた。

 

1382年5月に、カンタベリ大司教ウィリアム・コートネイは、ロンドンで教会会議を開き、そこでウィクリフの主張を24箇条にまとめ、それらを異端的な説として断罪した。しかしこの時には、ウィクリフ自身が破門されることはなく、1384年に彼は死ぬ。

 

だが、彼の死後ますます彼の説は人びとに受け入れられ、その結果、教会当局は、その説を繰り返し批判することになった。1415年のコンスタンツ公会議で公式にウィクリフ自身の異端宣告がなされ、1428年に彼の遺体は掘り出され焼かれた。

 

ロラード運動

 

たびかさなる断罪にもかかわらず、ウィクリフの議論は、人々の関心を引き続け、支持された。そうしたなかイングランドでは、ウィクリフ主義者に対処すべく、1401年には異端に対する死刑の導入が公的に定められた。

 

その数年後、カンタベリー大司教トマス・アランデル(1353-1414)はその布告の中で、全質変化説のような問題を大学で議論することに制限を加え、また説教活動の認可を厳しくすることを定めた。また同時に、ウィクリフの著書と聖書の俗語訳を所有することが禁じられた。

 

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ウィクリフ説を取り締まったカンタベリー大司教トマス・アランデルーー説教壇から聴衆に向かって王の布告を読み上げているところ。(出典

 

しかしウィクリフの主張は、当時のイングランド社会に深く浸透していた。特に初期には、教会にたいして反発を抱く大貴族たちの支持を得ていた。だがウィクリフ説の信奉者であったジョン・オールドカースル卿の反乱(ジョン・オールドカースル, 1413-14年)が失敗に終わると、ウィクリフ説の支持者は、より下層の階層に移っていく。

 

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反乱罪と異端のかどで火あぶり刑に処されるオールドキャスル卿ーー1417年12月14日、聖ジャイルズ大聖堂前の広場にて(出典

 

この時期、ウィクリフ説を奉じて異端として摘発された者たちは、ロラード*2と呼ばれた。同時代の各司教区の異端審問記録からは、多数のロラードたちが異端として摘発されたことがわかる。彼らは、ウィクリフ説を民衆の中に広めるべく説教活動を行なったり、時には秘密の集会も開いていた。また彼らは15世紀になると、都市の手工業者などを巻き込みながら、しばしば民衆蜂起を起こしており、ロラード運動は宗教運動であるのみならず、社会運動としての性格をもっていた。

 

以上、甚野尚志著『中世の異端者たち』、p.70-76.

 

宗教改革の先駆者たちーージョン・ウィクリフ(E・ケァンズ著『基督教全史』)

 

E・ケァンズ著『基督教全史』(聖書図書、1997年14刷)p.336-338.

 

イギリス人は、イギリスの敵であるフランス国王の勢力の下にあるアヴィニョンにある教皇に金を送ることを憤った。この自然的な民族感情は、上流および中流階級に支持された。彼らも教皇の課税によって、金がイギリスの国庫に入らず、イギリス国家のために使用されないのを憤ったのである。

 

1351年の聖職叙任令は、イギリスにおけるローマ教会に教皇が、聖職者を役務に任命することを禁じた。1353年の教皇権支持罪糾問令は、聖職者に関する件をイギリスの法廷から、ローマにある教皇の法廷へうつす習慣を禁じた。〔ゴーントの〕ジョンが始めた年々1000マルクの支払いも、この時期に議会によって停止された。

 

こうした、教会主義に対する民族主義的反動の時期に、ウィクリフが登場したのであった。権勢あるゴーントのジョンに支持されてウィクリフは教皇に反抗することができたのであった。

 

ウィクリフはその生涯の大半をオックスフォードで研究と教授に費やした。1378年までは、彼は改革者であって、ローマ教会を改革するために不道徳な聖職者を除き、彼には腐敗の根源と見えたローマ教会の財産を棄てさせようとした。『俗人統治論』(On Civil Dominion)という書名の一著述(1376年)において、彼は教会指導者に道徳的基盤が必要であることを主張した。

 

神が教会指導者たちに財産を委託して使用させるのは、それを私有させるためではなくて、神の栄光のために使うように委ねられたのである。教会側がこの機能を遂行するのに失敗したら、それは、民事的な主権者が彼らから財産を取り上げて、誰かほかの者で、神によく奉仕する者に与える十分な理由となる。

 

この見方は、ローマ教会の財産を押収しようと待ち構えていた貴族たちの気に入った。彼らとゴーントのジョンとがウィクリフを支持したので、ローマ教会は彼に手を触れるわけに行かなかった。

 

ウィクリフはこの消極的なやり方では満足せず、1378年以後、ローマ教会の教条に革命的な思想をもって反抗し始めた。1382年、彼は教会の頭首は教皇ではなくてキリストであるとの自分の著述を固執し、以て教皇の権威を攻撃した。教会ではなくて聖書こそ信者に対する唯一の権威であり、ローマ教会は新約聖書の教会を範としなければならない、と主張した。

 

こうした信念を支持するために、ウィクリフは聖書を人々に人々自身の言葉で読めるようにした。1382年までに彼は、新約聖書の英訳の完全な訳稿の最初のものを作っていた。ヘレフォードのニコラウスは1384年、旧約聖書の英訳を完成した。こうしてイギリス人は、はじめて聖書全体を自国語で読めるようになった。

 

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貧しい司祭たち(=ロラード派)の人々に英訳聖書を手渡すウィクリフ。ーーウィリアム・フレドリック・イームズの絵画(19世紀)出典

 

ウィクリフは1382年、さらに進んで化体の教義に反対した。ローマ教会が「パンと葡萄酒とは、外形はそのままでも、実体あるいは本質は変化しているもの」と信じたのに対し、ウィクリフは、パンと葡萄酒との実質は不変であることを論証した*3。もしそうなら、ウィクリフの見方は、「祭司は聖餐式においてキリストの肉体と血とを保留することによって、信者に救いを与えないでいることはできない」ということを意味するであろう。

 

ウィクリフの見方*4は、1382年にロンドンで排斥された。そして、彼はラターワースの彼の官舎へ引退を余儀なくされた。けれどもウィクリフは平信徒伝道者の一団を創設することによって、彼の思想を続けて伝播する用意をした。

 

このグループはロラード派と呼ばれ、ウィクリフの思想をイギリス全土に説いたが*5、ローマ教会は1401年、「異端焚殺令」(De Haeretico Comburendo)を議会に通過させ、ロラード派の思想を説く者に死刑を課することに決めた。

 

ウィクリフの事業は、その後のイギリスの宗教改革への道をひらくのに役に立った。彼はイギリス人に自国語の最初の聖書を与え、ロラード派を創始して、福音思想をイギリス全土の一般人に宣伝した。

 

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ウィクリフ聖書(出典

 

教会内の平等性についての彼の教えは、農民たちによって経済生活に適用され、そのため1381年には農民一揆が起こった。イギリスに勉学に来ていたボヘミヤの大学生たちが、彼の思想をボヘミヤに伝え、それがヨハン・フスの教えの土台となった。*6

 

ジョン・ウィクリフの聖書解釈について(アンソニー・C・ティーセルトン、ノッティンガム大)

 

Antony C. Thiselton, The Hermeneutics: An Introduction. Chapter VII: Reform, the Enlightenment, and the Rise of Biblical Criticism(抄訳)

 

ジョン・ウィクリフ(1328-84)

 

ウィクリフはオックスフォード大学のバリオール・カレッジで修学し、聖職者としての按手を受け、1372年、神学博士号を取得しました。そして彼はバリオール・カレッジの学長に選出されました。国王エドワード三世は、レスターシャー州にあるラターウォース教区を授与し、彼は生涯に渡り、その地で奉仕しました。

 

ウィクリフは彼の改革思想全体の土台を聖書の権威に据え、これこそがすべてのキリスト者にとっての最高権威であることを説きました。そして、これこそが、あらゆるキリスト教公会議および宗教的経験の試金石を提供するものだと論じました。

 

私たちは一般に、宗教改革のはじまりをマルティン・ルターに結び付けて考える傾向がありますが、ウィクリフの後期著述をみますと、彼はすでに〔14世紀の時点で〕教皇制の廃止を呼びかけ、化体説教理を拒絶していました。彼は自分のこの見解が、聖書の真理および初代教会ーー特にアウグスティヌス、アンブロシウス、アンセルムスーーに合致していると信じていました。

 

1382年、カンタベリー大司教はウィクリフのこういった諸見解を起訴し、オックスフォード大学内の多くの学者たちも彼を非難しました。その後、彼はラターウォース教区での牧会に退き、2年後に亡くなりました。ウィクリフは生前、説教者たちを育成し、彼らは後にロラード派と呼ばれるようになりました。*7

 

オックスフォードでの就任講義の中で、ウィクリフは、「聖書解釈は、その神的作者の意図に追随するものでなければならない。そしてそうするために、私たちには倫理的態度ないしは心のただしさが必要とされ、また、哲学的訓練及び社会的有徳も当然そこに付随してくるものとみなされる」という旨を語りました。*8

 

1377-78年にかけ、彼は聖書の権威に関する連続講義を行ない、それを『聖書の真理について(On the Truth of the Holy Scripture)』という形で出版しました。彼は聖書を、神の法と見、それは、キリストのみからだとしての教会の指針として十分なものであると説きました。*9

 

また、ウィクリフは当時の聖職者たちの御言葉に対する無知にショックを受けました。それゆえ、彼はまた『牧会職(The Pastoral Office)』という書を記し、清貧と自己修練に関するルカ・使徒の働きの強調を彼らに説明しました。 *10

 

ウィクリフは聖書の文字通りの意味(もしくは歴史的意味)の重要性を説いていましたが、そこにはメタファーも含まれ得るということを認識していました。(例えば、黙5:5の「ユダの獅子」等)。彼はまた、倫理的意味をも許容しており、それは寓喩的なものであり得ました。リラのニコラス(Nicholas of Lyra)のように、彼は聖書テキストのさまざまな類型や諸機能に注意を向けていました。

 

ウィクリフは新約聖書を豊醇な英語に訳し、ヨブ記、伝道の書、詩篇、雅歌、哀歌、預言書の多くに関する註解書を執筆しました。また彼は聖書の真理、霊感、権威、十全性を強調しました。それゆえ、彼は宗教改革への道を拓いたのです。そして彼の心は特に、説教における聖書の使用に向けられていました。

 

ー終わりー

 

【関連記事】オリゲネスは ‟異端者” か、それとも ‟聖人” か?(by デイビッド・ベントリー・ハート)

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‟異端者” オリゲネス or ‟聖人” オリゲネス?

 

 

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David Bentley Hart(1965-)正教の神学者。ノートルダム高等研究院特別研究員。主著:『Atheist Delusions – the Christian Revolution and its Fashionable Enemies』『The Beauty of the Infinite』『The Experience of God』等。

 

一か月ほど前私は、普遍的救済論ーー特にこの説に対する純然たる教会的教理が存在するのか否かーーを巡っての正教会内部での、長々としてくどくどとした神学論議の渦中にありました。

 

これは、いくつかの理由により、東方正教キリスト者たちの間ではしばし持ち上がってくるテーマであり、その中のいくつかは教会史における最初の5世紀にまで溯り、別のいくつかは19世紀中盤のロシアにまでしか溯れないものもあります。

 

正教の全教義的内容は、全地7公会に存しており、(正教伝統におけるその他すべてのものは、それがどんなに古く、美しく、または霊的に豊かなものであったとしても、せいぜい、受容された慣習としの権威か、正当なる推測、有益な実践としての地位しか所持できません。)ーー過去数十年余りに渡って最も良心的かつ歴史的に教養高い正教神学者や学者たち(エンドキモフ、ブルガーコフ、クレメンス、トゥーリンチェフ、ウェア、アルフェイェフなど多数)のコンセンサスは、「許容可能な神学的個人見解(theologoumenon)もしくは妥当な希望としてのユニバーサリズムというものは、かつて一度も教会によって糾弾されたことがない」というものです。つまり教会の教義はこの事項に関して沈黙しているということです。

 

しかしこれを耐えられないとして憤慨する人々もいます。時にこれは、ーー彼らが聖書もしくは伝統が要求しているものだと信じている内容に対する熱心なる忠誠ゆえに、あるいは、見捨てられた人々の永劫的苦悩という思想が彼らにとっての明らかなる感情的病理学に訴えるがゆえにーー、彼らは憤慨しています。

 

その中でも最も激烈な一角を、私たちは、福音主義からの改宗者である一群の人々の内に見い出します。これらの人々は、正教の伝統が自分たちの思っていた以上に、より多様で、曖昧であり、思弁的に大胆であることに苛立ちを覚えているのです。

 

こうして議論は似たようなパターンを繰り返しつつ、続いていきました。永劫的破滅を支持する陣営は、1583年発行の『シノディコン』などのさまざまな ‟拘束力ある” 諸権威に訴え、他方、全的和解を支持する陣営は(正しくも)、正教ドグマというのは、全地七公会のみに属するものであって、カノン的言明および副次的なカノン的諸見解の収集物に依るものではないことを指摘していました。

 

地獄主義者たちは ‟聖伝”にあやふやな訴えをしていましたが、それに対し天空主義者たち(empyrealists)は、(‟聖伝”というのが、髭を剃らない司祭たちから、悪魔によって管理されている‟空中の料金屋”を通し昇った死霊たちに関する隠れグノーシス主義的迷信に至るまで、とにかく何でも意味し得るということを知っているために)地獄支持者たちのそういった訴えに無感動でした。

 

このディベートは退屈でしたが、ある一点においてそれは私に怒りを引き起こさせました。もちろん、この手の主張はいずれ出されるだろうとは思っていたので怒りを覚えるべきではなかったのだと思いますが、これは自分にとって長年の苦痛の種に触れる内容であり、二人の論客によって表明されました。

 

地獄主義の人々は、次の点を難攻不落だと信じています。ーーつまり、「ほら、553年に開かれた第5全地公会議は、アレクサンドリアのオリゲネス(185-254)を異端者と呼び、‟オリゲネス主義” を糾弾し、そしてそれゆえに、普遍的救済という考えそのものを糾弾したのではないか」と。

 

答えは、断じての「否」です。

 

伝統の中で、‟オリゲネス主義”として記憶されているものが、6世紀に誰かによって糾弾され、オリゲネスがそのプロセスの中で異端者としての汚名を着せられたことは事実です。また1000年以上に渡り、これらの諸決定は公的記録として認可されているものにより、553年の公会議と関連づけられているというのも事実です。

 

しかしながら、きまり悪いことに、この記録が偽造されたものであるという事を現在では皆が知っており、かなり以前から周知の事実となっています。

 

そしてこれは正教にとってだけでなく、カトリック教会にとっても深刻きわまりない問題です。というのも、全地公会議の権威というのはある意味において、教会の信仰伝達に関する「不可崩壊性(indefectibility)」という観念と密接なつながりを持っていなければならないからです。

 

しかし実際、これはキリスト教教理史の中における最も恥ずべきエピソードです。まず第一に、教会の平安の内に亡くなった故人を、その人の死後300年経った後に、異端者だと宣言することは、あらゆる合法的教会法秩序に対する言語道断の侵害です。しかもオリゲネスの場合は、それが特に忌まわしい性質のものとなっています。

 

パウロに次いで、オリゲネスほど、伝統全般が恩義を受けているところの人物はいないでしょう。キリストの生ける鏡として聖書を読むことを教会に教えたのはオリゲネスであり、後の三位一体論神学およびキリスト論に関する諸原理を展開・発展させたのもオリゲネスであり、キリスト教弁証のために威厳をもって基準を設定し、黙想的霊性に関する最初にしてもっとも豊満なる註解書を作成し、キリスト教思想の体系全体の土台を打ち据えたのも、オリゲネスに他なりません。

 

さらに、彼は聖潔、敬虔、愛の奉仕において秀でていただけではなく、殉教者でもありました。彼は66歳にして、デキウス帝下の迫害のさなか、残酷なる拷問を受け、その後、回復することなく、死までの3年の間、じわじわと弱体していきました。要するに、彼は教父の中でも最も偉大なる人物の一人であり、最も傑出した聖人の一人であるにも拘らず、不面目なことに、公的教会伝統はーー東方も西方もーー彼を追悼していません。

 

公会議に関する最古の記録(この公会議はある種のアンティオケ学派神学者たちの問題を取り扱うために開催されたものでした。)は、あのアナテマ15箇条は、集まった司教たちによって議論されたことさえなく、ましてや批准、出版、公布されたことなど決してなかったということを明確に示しています。

 

そして19世紀後半以降、さまざまな学者たちが、「オリゲネス及び ‟オリゲネス主義” その両方共、553年に ‟聖なる教父たち” によって公表されたいかなる弾劾対象にもなっていなかった」ということを説得力をもって確証しています。

 

現代における全地七公会の最良の校訂版ーーノーマン・タンナーの校訂版ーーは、例のアナテマの部分を、偽造の挿入句としてあっさり省略しています。

 

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それではそれらのアナテマ部分はどこから来たのかという出処ですが、凶暴にして陰険なる愚者である皇帝ユスティニアン(ユスティヌス1世;450-527)によって事前に用意されたという証拠が挙がっています。彼は神学者気取りをするのが好きで、教会を帝国的統一の柱を見、異種の神学に対し無慈悲なる怒りを示しました。

 

それに先立つ10年前にも彼はオリゲネスに関する同じようなアナテマ10箇条をメナス総主教に送付していました。そして公会議の前夜、彼はある種の教会的同意を取り付けようとの願望から、553年のアナテマ15箇条をより小規模の司教会議に提出したとされています。

 

もしくは、それらは9年前の時点ですでにシノドにおいて提示されていたのかもしれません。いずれにしても、第5全地公会議の終了後かなり経ってから、それらの文は公会議のカノンに付加され、オリゲネスの名は、糾弾された異端者たちの名前リストの中に挿入されました。このようにして、アナテマは ‟本に記載され;went on the books”、有史以前の権威を身にまとい、有無を言わせぬ強制さで、そして地獄のごとき誤謬でもって、存続しています。

 

それら自身において、アナテマ15箇条は、私たちが今や影の部分しか一瞥することのできない一連の論争に関する奇妙な遺物です。実際、オリゲネスの実際の思想にほんの少しでも類似しているような内容はほとんど無く、たとい彼の思想を連想させるものであっても、それはコミカルと言っていいほど歪曲された形をとっており、オリゲネスの名前は実際、それらの文章のどこにも出ていません。

 

おそらく曖昧に糾弾されている思想のいくつかは、ステファン・バール・スーダイル(Stephen bar Sudhaile;5世紀後半)の思想の一側面を反響しており、その他の部分にはかすかに ‟グノーシス的” ないしは ‟オルペウス的*11” 色合いが出ています。そしてこれらはいずれも歴史的手掛かりを残していない学派から出ています。

 

たといアナテマ15箇条が実際に公会議によって承認されていたとしても、それらは〔公会議とてんで無関係な〕ブリオッシュ菓子パンのレシピ書きと同様、オリゲネスに対する深刻な糾弾で成り立っていたわけではありません。

 

それにしてもなぜ反ユニバーサリストたちはこれらのアナテマ箇条にここまで固執しているのか不可解です。というのも、これらの箇条はユニバーサリズムを本当に糾弾しているわけでもないからです。

 

最初のアナテマは‟醜悪なるレストレーション(apokatastasis)”について言及していますが、それは、魂の先在に関する、特定の ‟寓話にでてくるような” 説明から論理的に引き出される思想バージョンに過ぎません。

 

そしてそれに続くアナテマ箇条は話の詳細を埋めるものです。すなわち、初めにおいて、そして終りにおいても同様、あらゆる理性的自然の、分化されていない本質的一致。/復活した体の球形(キリストも含む)。/オリゲネスの信条を推進するというよりはむしろパロディー化しているようなキリスト論的推論。/御使いおよび悪魔に関するオリゲネスの見解の風刺などなど、、、

 

とにかく、アナテマ15箇条を擁護しているだけでなく、‟オリゲネス” に対する ‟聖人ユスティニアン” の糾弾を頑強に称賛している正教改宗者の論客によって為されている浅はかな長談義へのリンクが送られてきた時点で、私はこのディベートをフォローするのを止めました。

 

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‟聖人” ユスティニアンのイコン

 

東方であれ、西方であれ、全てのクリスチャンは、キリスト教帝国史の荒唐無稽さに頭を悩ませています。しかしながら、いかなる正教観念であれ、ユスティニアンのような残忍なる凶悪皇帝 *12に ‟聖人(saint)” という称号を与えることを強いる一方、逆にオリゲネスのように清い生き方をした人物にはそれを拒絶するというのは、明らかにーーそして本当に滑稽なほどーー自己反証的です。

 

そして、こういった論客たちの行為により、伝統は擁護されるどころかむしろその反対に、ーーそれが残虐的に不正義であるだけでなく、全くもって荒唐無稽なものであるかのような印象を人に与えてしまっていることによりーー、伝統を損っています。

 

ー終わりー

 

オリゲネスについての関連記事

 

オリゲネスのローマ書解釈ーオリゲネスの寓喩的解釈との関係をめぐって(伊藤明生師、東京基督教大学)

Rehabilitating Origen | Eclectic Orthodoxy

John Meyendorff, Byzantine Theology; historical trends & doctrinal themes, I. Historical Trends, 3. The Problem of Origenism, p.25-27.

 

*1:聖体(パンとぶどう酒)がミサで授与されるさい、その外観は変わらなくても質的にキリストの血と肉に変容するというカトリックの教義。

*2:ロラードという言葉は、中世オランダ語のロレン(ぶつぶつ言う)に由来する。イングランドで1387年以降、明確にウィクリフ主義者を指す言葉として史料にあらわれる。

*3:B.J. Kidd, Documents Illustrative of the History of the Church (London: Society for Promoting Christian Knowledge, 3 vols., 1920-1941), Vol.III, p.201-202.

*4:H. Bettensen, Documents of the Christian Church (New York: Oxford University Press, 1947), p.246-248.

*5:同著,p.248-254.

*6:George M. Trevelyan, England in the Age of Wycliffe (London: Longmans, Green & Co., 1920). Herbert B. Workman, John Wycliffe (Oxford: Clarendon Pressm 1926), 2 vols. この本は、ウィクリフの生涯と事業とについての興味ある解説書である。〔訳者注〕ウィクリフの人と信仰に関する日本語の書籍。

*7:John Wycliffe, On the Eucharist, trans. F. L. Battles, Library of Christian Classics, vol. 14 (London: SCM; Louisville: Westminster, 1963), 3.2, 1.1-2; pp. 61-62.

*8:Beryl Smalley, The Study of the Bible in the Middle Ages (Oxford: Blackwell, 1964), p. 274. 

*9: John Wycliffe, On the Truth of the Holy Scripture (Kalamazoo, Mich.: Mediaeval Institute, and Western Michigan University, 2001), 1.55, 148, 245. 

*10:John Wycliffe, The Pastoral Office, trans. F. L. Battles, Library of Christian Classics, vol. 14 (London: SCM; Philadelphia: Westminster, 1963), 1.5, 15, and 2.1.1, especially pp. 36, 43, and 58.

*11:古代ギリシャ世界における密儀宗教

*12:Suppression of other religions and philosophies--Justinian.