巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ポスト近代性は、キリスト教信仰と両立可能?ーー考えられ得る三つの回答(アンソニー・C・ティーセルトン、ノッティンガム大)

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ポストモダン建築(出典

 

目次

 

Anthony C. Thieselton, Hermeneutics: An Introduction, chapter XVI, Postmodernism and Hermeneutics(拙訳)

 

第一の回答

 

まず第一に、「クリスチャンたる者は皆、ポストモダニズムを好意的に捉えているだろう」という見方があります。デイビッド・ハーヴェイは、ポスト近代を、「実証主義的、テクノクラシー(技術家主義)的、そして合理主義的な普遍モダニズム」に対する反動であると定義しています。*1

 

仮にハーヴェイのこの定義が正しいとすると、啓蒙主義的合理主義および実証主義の〈廃位〉は歓迎されるべきことであり、(ガダマー以降の)解釈学を学ぶ人々にとっては、デカルトの合理主義やデイビッド・ヒュームの経験論が「脱」特典化され、従来の「無限("timeless")」なる個的意識に代わり、歴史性(もしくは歴史的条件性)や共同体に、より重きが置かれるようになっている現在の流れは、歓迎されるべきものと捉えられているはずです。

 

ポスト近代は「知識の規格統一/標準化」を拒絶しています。ーー「知識の規格統一/標準化」にはあたかも、あらゆる知識および知恵は自然科学によって測られ得るとでも言っているかのような響きがあると。

 

確かに科学偏重主義は、価値的にニュートラルな「客観性」という誤った概念を生み出しかねず、また、情報/知識と、人間の知恵、そして神的啓示の間のコントラストを見落としてしまいがちです。ポストモダン系の著述家たちは、表層的文法は、「意味」に対し信頼性に欠ける指針を与える危険性があるという正当なる洞察をニーチェやヴィトゲンシュタインと共に共有しています。

 

これまでの概観では、ポスト近代は、ガダマーの解釈学と調和している感があります。(しかしガダマーはまた、伝承にも力点を置き、さらに彼はキリスト教信仰を持った上で論考を書いています。)さて、「ポスト近代性は、キリスト教信仰と両立可能なのでしょうか?」という問いに関してですが、上述の事を鑑みた場合、おそらく考え得る最初の答えは、「然り」となるでしょう。

 

第二の回答

 

しかしポスト近代はそれだけではありません。ハーヴェイでさえも、ポスト近代は、米国で、哲学におけるプラグマティズムの再発見と密接に適合しているーー特にリチャード・ローティーの後期作品の中でーーということに同意しています。

 

他方、ヨーロッパでは、この運動は、当初、フリードリヒ・ニーチェの懐疑主義および "反"有神論的な相対主義に恩義を負っており、その後、後期ロラン・バルトジャック・デリダジャン・フランソワ・リオタールミッシェル・フーコーに依っています。そしてこういった著述家たちは、有神論的信仰に対し嫌悪的である傾向を持っています。

 

その複雑性ゆえに、ポスト近代を定義することは困難を伴う作業です。リオタールはそれに、かの有名な「メタナラティブに対する不信感」(もしくは、進化論やマルクス主義支持のために用いられていたような種類の、大きくて普遍的なナラティブ)という定義を与えています。しかしリオタールでさえも、この定義が単純化されたものであること("simplifying to extremes")を認めています。*2

 

デイビッド・リヨンとグラハム・ワードは、ポスト近代(postmodernism)と、ポスト近代性(postmodernity)の間の有益なる区分を提議しています。それによると、前者が、より哲学的ないしは知的型を表しているのに対し、後者は社会学的諸側面により焦点を置いているとされています。しかし実際には、ほとんどの著述家たちはこの二つの語を、区別を置くことなく無差別に使っています。*3

 

それでは、私たちはどのようにこの風潮を捉えるべきなのでしょうか。ハーヴェイは、ハッサンから借用する形で、モダニティーとの図式的比較を見事に行なっています。

 

モダニズム:目的と形式により、特徴づけられている。

ポストモダニズム:遊びと「反」形式(ないしは機能不全)。

 

モダニズム:首尾一貫性、ヒエラルキー、現前、意味論への努力。

ポストモダニズム:偶然、アナーキー、不在、レトリック。

 

モダニズム:形而上学、確定性、超越性。

ポストモダニズム:アイロニー、不確定性、内在性。*4

 

この図式はなかなかの出来だと思いますが、もちろん包括的リストではありません。もしも聖書の中の意味でさえも、「不確定」で不確かなものだと捉えられるのなら、考えられ得る二番目の回答は、おそらく「否。キリスト教信仰との両立は不可能。」となるでしょう。

 

第三の回答

 

自著「神およびポストモダン的自己を解釈する(Interpreting God and the Postmodern Self)」の中で私は、ポストモダニストたちもまた、言語における表層文法の偽装を暴露してきたという積極的な面には同意しています。

 

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しかし、申し上げたいのは、それを達成するに当たり、私たちは是が非でもポスト近代性を必要としているかというとそうではないということです。

 

トマス・ホッブス、フリードリヒ・ニーチェ、フリッツ・マウトナールートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは、表層文法が偽装として誤用され得るということを明らかにしようと努めてきました。

 

トマス・ホッブス

 

その中でも最初期の人であるトマス・ホッブス(1588-1679)は、著書『リヴァイアサン』の中で、「夢の中で神が私に語りかけた。」という主張は、「神に語りかけられる夢を見た。」というのとほぼ大差ないと述べています。*5

 

またフリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)は、真理のことを「移動するメタファーの軍隊」に過ぎない、もしくは「我々の忘却してきた幻想は幻想である」と言っています。*6「われわれが今も尚、文法に信奉を置いている限り、いつまで経っても神を駆逐することはできないだろう。」*7

 

フリッツ・マウトナー(1849-1923)とルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)は、繰り返し、哲学というのは「言語による我々の知性の幻惑」であると強調してきました。*8

 

âThe limits of my language mean the limits of my worldâ (Tractatus Logico-Philosophicus) (photo)

「私の言語の限界が、わが世界の限界を意味している。("The limits of my language mean the limits of my world." )」ーーヴィトゲンシュタイン(写真

 

しかしながらニーチェはやはり何といっても時代の先を行っており、ポストモダニズムの先駆者として寄与しています。ジェフ・ダナヘール、トニー・シレイトおよびジェン・ウェブは、「ミッシェル・フーコーの著作ーー特に『事物の秩序』以降の著述群ーーに対し最も重大なる影響を与えているのは、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェである。」と述べています。*9

 

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世の中に「事実」はない。あるのはただ「解釈」のみ。ーーニーチェ

 

しかしジェームズ・K・A・スミスは、最近、ポストモダニズムの旗手である三人ーーデリダ、リオタール、フーコーの思想を検証し、それぞれの著述は、キリスト教信仰にとって積極的な有益性を持つものであるという主張をしています。*10

 

彼は、「確かにデリダは『テキストのみ』と言っていたけれども、これは宗教改革の原則である『聖書のみ』と符合している」と論じています。また、彼の見解によると、リオタールは、「メタナラティブ」もしくは(キリスト教も含めた)壮大にして普遍的ナラティブを攻撃してはいるけれども、彼は「ストーリーの語り」そして、キリスト教信仰の最も基本的ジャンルとしてのナラティブを回復したとされています。リチャード・ボウカムはスミスのこの見解を支持しているように思われます。

 

スミスはまた、ミッシェル・フーコーが「知識」と「真理」を、権力行使への手段としてと捉え、また犯罪性を単なる慣習的規範からの逸脱と同一視していたことを認めています。しかしスミスは同時に、メインラインの教会と、ーー(自らの因習を個人に押し付ける形での)病院、学校、監獄、軍隊などの「諸制度」をサポートする「白いコートの中の微笑」ーーとの間に大いなる類似性があると論じています。

 

しかしケヴィン・ヴァン・フーザー等の著述家たちは、ロラン・バルトやジャック・デリダのことを「深刻に"反"有神論的である」と見、次のように述べています。「デリダは、信頼性、決定可能性、そして記号の中立性において未信者です。彼は、それらの特権化された場を"抹消"しようと試みています。」*11*12

 

彼は作者を脱構築するプラグマティストであり、神の死を宣言したニーチェに倣っています*13。ニコラス・ウォルターストーフは、デリダのことを完全に自己矛盾した人物だとみなしています。*14

 

多くの大学は、それぞれがポストモダニズムに対しどのような態度を採るかによって二分されています。いや、より正確に言うなら、各大学は、諸見解のスペクトルを反映しています。

 

スペクトルの一つの極にはエンジニアや医学者、および自然科学系の人々がおり、彼らは、ポスト近代のこういった運動を、フランス発「通りすがりの一時的流行」ーーもしくは最悪の場合、まったくのナンセンスーーとして退けています。

 

一方、現代言語に関する諸学科や文化理論を取り扱う学部の多くは、それを、「洞察に富んだもの」「有益かつ積極的な知的試み」として歓迎しています。

 

社会学者、心理学者、神学者たちの間でも、ある人々はそれを歓迎し、別の人々は慎重であるという風に、意見が分かれています。

 

神学という場所は、今でも、モダニズム、ポストモダニズム、その双方を支持している数少ない部門の一つでもあります。なぜなら、神学は、モダニティーと共に、「普遍的」真理を論じると共に、ポスト近代と同時に、イエスを1世紀イスラエルのユダヤ家庭に生まれた方とみなし、教会を歴史により条件付けられたものとみなしているからです。

 

それにしても、、、なぜある人々はポスト近代に「賛成」であり、別のある人々はそれに「反対」なのでしょうか。その理由は、ポスト近代の中のある要素は、キリスト教信仰にとって肯定的価値を持つものである一方、別のテーマや側面は間違っているだけでなく、誘惑的かつ破滅をもたらすような性質を帯びているからです。

 

例えば、ジェームス・スミスがリオタールを支持できているのは、ひとえにスミスが、「文の抗争("the differend")」というリオタールの思想を完全に見落とし無視しているからです。後でご一緒にみていきますが、この「文の抗争」は解釈学を不可能なものにします。*15

 

キリスト教学界で往々にしてみられるのは、私たちの前に置かれているものが何であれ、それに「賛成すべきか」、もしくは「反対すべきか」の態度を私たちに半ば強制するような度を越した「うぶさ」があるということです。

 

しかし人生および思想というのがそうシンプルであるケースは稀です。後述しますように、「解釈学」というのは、ある限定された点においてポスト近代による益を得ている一方、その他の事項の観点からはそれはきわめて不可能なものになっています。とどのつまり、それは、モダニティーと同様、「権威」に対し敵対しているのです。

 

「それは、それが肯定することにおいて正しく、否定していることにおいて間違っている。」(この金言は、しばし、贖罪の教理に関する解釈に適用されています。)というフレーズがあります。そして、思想の試みとしてのポスト近代はしばし、「それが否定していることにおいて正しく、それが肯定していることにおいて間違っている」と言っていいかもしれません。

 

ですから、「ポスト近代性は、キリスト教信仰と両立可能なのか」という問いに関し、考えられ得る三番目の答えは、「然りでもあり否でもある」--より厳密に言うなら、ある部分においてそれは「然り」であり、別の側面においてそれは「否」である、という事になるでしょう。

 

ー終わりー

*1:David Harvey, The Condition of Postmodernity (Oxford: Blackwel, 1989), p.9.

*2:Jean-Francois Lyotard, The Postmodern Condition: A Report on Knowledge, trans. G. Bennington and B. Massumi (Manchester: Manchester University Press, 1984), p.40 (French edition, 1979).

*3:David Lyon, Postmodernity (Buckingham: Open University Press, 1994), pp.6-7; Graham Ward, ed., The Blackwell Companion to Postmodern Theology (Oxford: Blackwell, 2001), pp.xiv-xv.

*4:Harvey, The Condition of Postmodernity, p.43.

*5:Thomas Hobbes, Leviathan, ed. M. Oakeshott (Oxford: Blackwell, 1960).

*6:Friedrich Nietzche, "On Truth and Lie," in The Portable Nietzsche, ed. W. Kaufman(New York: Viking Press, 1968), p.46.

*7:Friedrich Nietzsche, Complete Works, vol.12, The Twilight of the Idols, ed. O. Levy, 18 vols. (London: Allen-Unwin, 1909-13), p.22.

*8:Ludwig Wittgenstein, Philosophical Investigations, German and English, English text translated by G. E. M. Anscombe (Oxford: Blackwell, 1967), section 109.

*9:Geoff Danaher, Tony Schirato, and Jen Webb, Understanding Foucault (London and New Delhi: Jage Publications, 2000), p. 9.

*10:James K. A. Smith, Who’s Afraid of Postmodernism? Taking Derrida, Lyotard, and Foucault to Church (Grand Rapids: Baker Academic, 2006).

*11:Kevin J. Vanhoozer, Is There a Meaning in This Text? The Bible, the Reader, and the Morality of Literary Knowledge (Grand Rapids: Zondervan, 1998), p. 39.

*12:〔訳者注〕関連記事

*13:Jacques Derrida, Margins of Philosophy, trans. Alan Bass (London and New York: Harvester Wheatsheaf, 1982), pp. 207-72.

*14:Nicholas Wolterstorff, Divine Discourse: Philosophical Reflections on the Claim That God Speaks (Cambridge: Cambridge University Press, 1995), pp. 153-70.

*15:〔訳者注〕【文の抗争】抗争というのはリオタールによれば「当事者双方の議論にひとしく適用されうる判断規則が存在しないために、公平な決着をつけることができないような争いが両者間に起こる」ことと定義されています。また彼は「一方が正当だからといって、他方が正当でないという理由にはならない」と述べてます。(参照