巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

教会の都市名の「語源」と教会の「状態」を連結させる誤謬ーー黙示録2-3章の「7つの教会」釈義について(by ニゲル・トムス)

 Image result for ï¼ã¤ã®æä¼ é»ç¤ºé²

出典 

目次

 

Nigel Tomes, LSM’s Etymological Errors & Exegetical Fallacies, 2014.(拙訳)

 

7つの教会とウィットネス・リーの解釈

 

ウィットネス・リーの「語源調べ」は、黙示録の中の7つの教会に関する彼の取扱いの中に明確に現れています。彼は回復訳聖書の注釈で次のようなことを述べています。

 

「ギリシャ語で、七つの都市の名は意義に満ちており、それぞれの都市の名は、その召会の霊的状態と正確に一致しています。ギリシャ語で『エペソ』は、『好ましい』を意味します。これは、初代の召会がその終わりにあっても、やはり主にとって好ましいものであったことを象徴します。」*1

 

7つの教会それぞれに対し、ウィットネス・リーは、都市の名前の語源の意味(root meaning)から、教会の状態を引き出しています。

 

エペソにある教会:「ギリシャ語で『エペソ』は、『好ましい』を意味します。これは、初代の召会がその終わりにあっても、やはり主にとって好ましいものであったことを象徴します。」*2

 

スミルナにある教会:「ギリシャ語は『没薬』を意味し、没薬は予表では苦難を象徴します。ですから、スミルナに在る召会は苦難の召会でした。」*3

 

ペルガモの教会:「ギリシャ語は『結婚』(結合を暗示する)と『城壁を巡らした塔』を意味します。しるしとして、ペルガモに在る召会は、この世と結婚してこの世と結合し、そして高い城壁を巡らした塔となった召会を予表します。」*4

 

テアテラにある教会:「ギリシャ語は、『香のいけにえ』、あるいは『絶え間のないいけにえ』を意味します。しるしとして、テアテラに在る召会は、ローマ・カトリックを予表しています。」*5

 

サルデスにある教会:「ギリシャ語は、『余剰者』、『残っている者たち』、あるいは『復興』を意味します。しるしとして、サルデスに在る召会は、改革の時からキリストの再来までのプロテスタントを予表しています。」*6

 

フィラデルフィアにある教会:「ギリシャ語は『兄弟愛』を意味します。しるしとして、フィラデルフィアに在る召会は、十九世紀の初期、主が英国で興された兄弟たちによって回復された、正当な召会生活を予表しています。」*7

 

ラオデキヤにある教会:「ギリシャ語は、『人々、あるいは平信徒の意見や決断』を意味します。ラオデキヤに在る召会は、しるしとして、後退した回復の召会を予表します。」*8

 

こういった解説の正当性は検証されなければなりません。黙示録の記者(使徒ヨハネ)およびヨハネと同時代に生きた元来の読者たちは、自分たちの住んでいる都市名の語源のことを意識していたのでしょうか。そういった語根の意味から含意を汲み取るよう、ヨハネが彼の読者たちに意図していたという証拠は何かあるのでしょうか。

 

なぜ教会の状態は、教会の所在している都市名とダイレクトに関連していなければならないのでしょうか。ここには非常に深刻なロジックの飛躍があります。

 

ウィットネス・リーは、「都市名の語根の意味」と、そこに所在している「教会の〔霊的〕状態」を自動的に連結させてしまっています。例えば、彼は、フィラデルフィア〔兄弟愛の意〕に所在している教会は必然的に、兄弟愛によって特徴づけられていると前提しています。

 

リーは次のように述べています。「フィラデルフィアという語は二つのギリシャ語から成っています。一つは"愛"を意味するフィレオ、そしてもう一つは"兄弟"を意味するアデルフォスです。それゆえ、フィラデルフィアは"兄弟愛"を意味します。フィラデルフィアにある教会は、兄弟愛で溢れており、それゆえに主によって認められていたのです。」*9

 

しかしキリストは彼らの兄弟愛ゆえにフィラデルフィアにある教会を褒めたのではありませんでした。彼らが称賛を受けた理由は主の御言葉を守り、御名を否まなかったからです(黙3:8、10)。

 

ですから、7つの教会それぞれに対し、私たちは問わなければなりません。--都市名の語根の意味と、そこに位置していた教会の状態には果して本当にリーの主張するような連結性があるのかどうかと。

 

読者たちは、都市名の語源の中に隠されたメッセージを解読しなければならないとされているのでしょうか。エペソにある教会は「その終わりにあっても、やはり主にとって好ましいものであった」という、いわば "コード化されたメッセージ" の正当性をどのように立証することができるのでしょうか。

 

主がフィラデルフィアの教会を(その他の理由ではなく)「兄弟愛に溢れていた」からという理由で称賛したという証拠は何でしょうか。証拠なしには、こういった一連の主張は単なる憶測に過ぎません。他方、仮に都市名の中に隠在する "コード化されたメッセージ" が実際にその教会に対する主の明白なメッセージを適合していたとします。その場合、その隠在し、コード化されたメッセージは余剰物ということになります。

 

現代の例で考えてみてください。シカゴという都市の名の語源は「臭いタマネギ」であり、その意味は「悪臭」です(この地方にタマネギが自生していたことに由来)。

 

Related image

シカゴ

 

それではこの語源を根拠に、私たちは「シカゴにある教会は"劣悪なる臭気"を漂わせている」という主張を正当化できるでしょうか。研究者たちのさらなる調査により、シカゴという名は、自生のニンニクであるchicagouaに由来しているだろうということが言われています。*10これは「悪い臭気」よりはましです。

 

しかし、ウィットネス・リーは、偶像礼拝、分裂、伝統で汚染されている「ニンニク部屋」としてキリスト教に烙印を押しています。また彼はニンニクは「ダンスや博打といったこの世的な事柄」を予表していると主張しています。*11

 

「シカゴ」の語源をベースに、私たちはシカゴにあるLSM系列の教会の特徴を言い当てることができるでしょうか。「『シカゴ』はニンニクに関連した語なので、シカゴにあるLSM教会は、偶像礼拝、分裂、伝統で汚染されている」と主張することができるでしょうか。もちろん、答えは否です。それなのに、LSMの出版物はこういったタイプの憶測的釈義で特徴づけられています。それでは続く項で、「ラオデキヤ」という名から演繹された推論を考えてみてください。

 

ラオデキヤーー「悪魔的に」堕落した教会内の民主主義?

 

LSMWatchman Nee and Witness Lee Publications by Living Stream Ministryの出版物の中で、「ラオデキヤ」という語は、非難の意を含んだ言葉です。(特に、「フィラデルフィア」と比べて。)

 

ウォッチマン・ニーは次のように解説しています。「ラオデキヤは歪曲されたフィラデルフィアです。兄弟愛が去ってしまうや否や、フィラデルフィアは、多く人々の意見でごったがえすものに変質してしまいます。これがラオデキヤの意味です、、ギリシャ語でラオは『多くの人』を意味し、デキヤもしくはディケアは『意見』を意味しています。フィラデルフィアが堕落するやいなや、『兄弟たち』は『多くの人』になり、『兄弟愛』は『多くの人々の意見』になります、、主の意見は失われ、そこに残った唯一のものは、大多数投票や挙手投票です。フィラデルフィアが倒れるや否や、それはラオデキヤになります。」*12

 

注目していただきたいのが、こういった推論が、ただひとえに、語源的に解釈された都市の名前をベースになされているということです。ウォッチマン・ニーはここでラオデキヤの問題は、その民主主義的実践に関連しているということを暗示しています。(「大多数投票、挙手投票」)しかしこの見解を支持するものは聖書テキスト自体(黙3:7-22)の内に明確に与えられているわけではありません。

 

ウォッチマン・ニーは「ラオデキヤ」の名を否定的に解釈しています。そうかと思えば、この語の意味を「肯定的」に捉えている注解者たちもいます。例えば、リン・ハイルズは次のように書いています。

 

「ラオデキヤという語は文字通りには、『人々の正義』という意味であり、これはセイヤーのギリシャ語辞典の語源説明によると、法律における訴訟、法廷訊問、もしくは判決に言及するものです。それはまた、非難、刑の執行、懲罰をも意味しています。私の考えでは、この教会に対する主要な御思いは、『キリストにあって、彼らの裁きはすでに満たされている』ということではないかと思います。」*13

 

ですから、この解説によると、ラオデキヤの教会は、義とされ、神に認められているのです!この手の「クリエイティブな解釈」は、LSMの支持者たちによって無条件に拒絶されるでしょう。なぜなら、これは「LSMによって解釈を施された御言葉」にマッチしていないからです。

 

しかし、上記のリン・ハイルズの解釈も、LSMの解釈も、双方共に、非正統的な語源的根拠づけに依拠しています。つまり、両方共、拒絶されなければならないということです。そして予想通り、ウィットネス・リーは、ウォッチマン・ニーの解釈を採用し、次のように論じています。「民主主義は教会生活の中に存在すべきではない。*14」リーはこの主張を、類似の根拠をベースに展開しており、次のように言っています。

 

「ラオデキヤというギリシャ語の主要な意味は、『人々の意見、裁き』です。地方召会が人々の雑多な意見でごったがえしている時、それは当然ながら、冷たくも熱くもなくなります。」*15

 

ここでもまた、「ラオデキヤ」という名称の語源だけをベースに、教会は、「人々の意見によって」なまぬるい状態になっているという主張がなされています。そしてこれを根拠に、教会内における民主主義的実践が糾弾されています。

 

リーは言います。「教会内に民主主義が存在するのは恥ずべきことです、、民主主義を実践する地方召会はラオデキヤにある教会の如くあります(黙3:14)。ギリシャ語で『ラオデキヤ』は人々の意見を意味しています。ラオデキヤの教会は堕落した状態にある教会を予表しています。民主主義の『病原菌』は諸教会のいくつかに入り込んでいます。教会内における民主主義の教えは、教えの風であり、悪しき者による悪魔的攻撃です。」*16

 

しかし、こういった批評の聖書的根拠はどこにあるのでしょうか。

 

彼らの場合ですと、それは、「ラオデキヤ」の語源ルーツ。ーーただこれに尽きます。確かに、主は多くの点に関し、この教会を批判しておられます。しかし民主主義(「人々の意見」)はその中に含まれてはいません!また、使徒ヨハネが自分の書いた書簡から読者たちがそのような含意を導き出すよう期待していたことを示す聖書テキストもありません。こういった推論は、妥当でない語源調べ(etymologizing)に基づくものです。

 

ー終わりー

 

関連記事


*1:啓示録2:1注2オンライン聖書回復訳, Rev. 2:1, note 2, RcV. The following root meanings are those presented by W. Lee in the RcV footnotes.

*2:啓示録2:1注2

*3:啓示録2:8注1

*4:啓示録2:12注1

*5:啓示録2:18注1

*6:啓示録3:1注1

*7:啓示録3:7注1

*8:啓示録3:14注1

*9:Lee, Service for the Building Up of the Church, Chap. 1, Sect. 4 The quote, in context, reads: ““Of the seven churches in Asia, only the church in Philadelphia was approved by the Lord (Rev. 3:7-13). The word Philadelphia is composed of two Greek words, one based on phileo, which means “love,” and the other on adelphos, which means “brother.” Therefore, Philadelphia means “brotherly love.” The church in Philadelphia was full of brotherly love and was therefore approved by the Lord.” [W. Lee, Service for the Building Up of the Church, Chap. 1, Sect. 4, emphasis added] W. Lee asserts that the Lord’s approval of the Philadelphian church was due to their being “full of brotherly love”—a deduction based entirely on etymology of the city’s name.

*10:John F. Swenson, “Chicagoua/Chicago: The Origin, Meaning, & Etymology of a Place Name,” ILLINOIS HISTORICAL JOURNAL Vol. 84 (Winter, 1991).

*11:W. Lee, Kernel of the Bible, Chap. 4, Sect. 1. Plus he says, “Many Christians have been in the garlic room so long they can no longer sense the odor of garlic that is all around them. Day after day, many unconsciously worship idols, actually thinking they are worshipping God. Today's Christianity is not only full of divisions and confusion; it is also full of idols.Furthermore, it is full of traditions...” (W. Lee, Kernel of the Bible, Chap. 9, Sect. 2).

*12:Nee, Messages for Building Up New Believers, Vol. 3, Chap. 11, Sect. 10, It also appears in Collected Works, Vol. 50: Chap. 11, Sect. 10.

*13:Lynn Hiles, Revelation of Jesus Christ: An Open Letter..., pp. 225-6, emphasis added. We don’t commend this interpretation as preferable to LSM’s; we regard both as equally tenuous and unsubstantiated in the absence of supporting evidence from the biblical text.

*14:Lee, Life-Study of Acts, Chap. 41, Sect. 4

*15:Lee, Elders' Training, Book 10: The Eldership & the God-Ordained Way (2), Chap. 5, Sect. 17. It also appears in Intrinsic Problem in the Lord's Recovery Today & Its Scriptural Remedy, Chap. 3, Sect. 12.

*16:Lee, Organic Building Up of the Church as the Body of Christ to be the Organism of the Processed & Dispensing Triune God, Chap. 5, Sect. 3.