巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

聖書理解における地平の融合ーー「疎隔」について(D・A・カーソン、トリニティー神学校)

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地平(出典

 

D.A. Carson, Exegetical Fallacies, Introduction, p.20-22.(拙訳)

 

聖書の批評的研究に常につきまとう危険は、解釈学者たちが呼ぶところのいわゆる「疎隔(distanciation)」にあります。疎隔というのは、批評的働きにおける必要要素です。しかしこれは困難なものであり、時に代価を伴います。

 

それがどれほどリアルな問題であるかを知るべく、各地の神学校で一般に起こっている現象を考えてみることにします。

 

ある真摯なクリスチャンA君が高校三年生の時に回心しました。彼はその後、大学に進学しコンピューター・サイエンスを専攻しますが、その間も教会で熱心に奉仕し、学内のクリスチャン・サークル内でも効果的働きをしています。祈りの時、彼の心はあたたまります。聖書を読んでも枯渇を覚えることは時々あります。ですが、多くの場合、彼は主があたかも彼に直接語りかけてくださっているように感じます。

 

「自分にはまだまだ学ぶべき多くの事がある。」卒業が間近になる中、彼は将来の進路について祈り始めました。彼の心の中にフルタイムで奉仕したいという思いが起され、教会の長老たちに相談すると、彼らもまた、彼の賜物や牧会者としての召命を確認してくださいました。自分のいたらなさや未熟さを深く自覚しつつも、心を燃やし、彼は神学校の門をくぐりました。

 

しかし入学後6カ月もしないうちに、彼は神学校というのが自分の思っていたような場所でなかったことに気づきました。彼の日々はギリシャ語の活用形を暗記することに費やされ、講義では、パウロの第二回伝道旅行のことが微細にわたって教説されていました。彼はまた釈義的問題を取り扱うレポートも書き始めました。しかし語彙研究、構文図、批評的諸見解の分析、相反する証拠の評価等を終える頃には、聖書は、彼にとってかつてのような初々しさや活力を持ったものとしては感じられなくなっていました。

 

「どうしてこうなってしまったのだろう?」彼はとまどい、葛藤を覚えました。神学校に入学する前ほど、祈ったり、伝道したりすることも頻繁ではなくなっていました。でも彼にはその理由がはっきりとは分かりませんでした。神学校の講師たちのせいであるとも思えませんでした。というのも教師たちの大半は敬虔で、知識があり、信仰面でも成熟しているように彼の目には映っていたからです。

 

さらに歳月が流れていきました。さて彼は次に挙げる道の一つを選んだ可能性が大です。

1)自分の周りに充満していた乾いた知性(偏重)主義を荒々しく糾弾しつつ、防衛的〈敬虔主義〉の殻に閉じこもる。

2)礼拝、祈り、伝道、デボーショナルな聖書の黙想などを締め出す、一種の知的コミットメントの渦にのみ込まる。

3)卒業までの日々をよろめきながらやっとの思いで過ごし、卒業と同時に実世界に戻る。

 

しかし、これだけが選択肢なのでしょうか。より良き道は他にないのでしょうか。そしてこういった諸経験が、はたして神学校生活の必要要素なのでしょうか。

 

その答えは両面的に「然り」と言えるでしょう。そういった諸経験は必要不可避なものです。それらは疎隔によって引き起こされます。しかし、その経緯を理解することにより、私たちはより良くその状況に対処することができるようになります。

 

私たちがテキストの思考(もしくはそれを書いた他者の思想)を理解しようとする時、そしてそれを批評的に理解しようとする時、--つまり、恣意的な仕方ではなく、しっかりした健全な根拠により、そして、それを初めに意味していた記者として理解しようとする時ーー、まず第一に私たちは、「テキストの理解」と「私たちの理解」を隔てているものの性質や相違の度合いを把握しなければなりません

 

そうした時に初めて、私たちは「テキスト理解」に関する〈地平〉と、「私たちの理解」という〈地平〉を有意義に融合させることが可能になります。つまり、そうした時に初めて、私たちはテキストの諸思想によって、自分たちの諸思想を形成し始め、それにより、テキストの思想を真に理解するようになっていくのです。

 

「融合」の前に疎隔のプロセスを経過し損なうことは、結局、その人が真の融合を経験していないことを意味している場合が多いのです。もちろん、そのような状態であっても、当事者である解釈者本人は、「テキストが何と言っているか自分はしっかり把握している」と思っています。しかし実のところ、彼/彼女はただ単に自分自身の諸思想をテキストの中に読み込んでいただけーーというのがしばし起こる現象です。

 

神学機関があなたに批評的に考えることを説く場合、あなたは不可避的にある種の不穏な疎隔やグラグラ感を覚えることでしょう。また、そこまで本格的でない機関ではそういった動揺は前者ほどではないかもしれません。そこでは、学生たちは主として学ぶことを奨励されても、批判的に評価することは奨励されていません。

 

疎隔は困難であり、代価を伴う代物であり得ます。しかし、疎隔それ自体の内に目的があるのではないということは強調してもし過ぎることはありません。

 

疎隔と適切なる相補関係にあるのは、理解における地平の融合です。聖書解釈という営為の一部が疎隔に付随しつつ滋養されていくのだとするなら、それは破壊的なものではありません。

 

実際、この二重式プロセスから生じるクリスチャン生活、信仰、思想は、(そういったプロセスを経ない場合以上に)より堅固かつ頑丈なもの、より霊的に目ざめ、より識別力を持ち、より聖書的、かつよりクリティカルなものとなります。しかしこの道程におけるいくつかの段階は危険を伴うものです。ですから、キリスト者としてのあなたの歩み全体を統合するよう最善を尽くしてください。

 

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