巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

日の下に新しいものは一つもない。ーー宗教プロパガンダと暴走する「神聖」列車

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敬虔なるクリスチャンたちを乗せた列車が疾走している。

脇目もふらず、一心不乱に。

プロパガンダの旗がなびき、〈御用神学〉と〈宗教的熱心〉と〈盲目なる善意〉が一つに溶け合う。

おお愛する友よ!汝らもまた、古の街道をひた進むのか?

 

目次

 

一揆を起こしたドイツの農民たちの処置に関し、マルティン・ルターが貴族たちに書き送った勧告文。

 

「よって、今や、まどろむ時間はない。堪忍や慈愛の入る余地はもはやない。今は殺戮の時であって、恵みの時ではない…殺される農民は誰であっても、霊肉において滅び、永遠に悪魔のものとされる。一方、君主は正しい良心を持ち、公正なる大義名分を持している。それ故、[彼ら君主は]心に全き確信をもって、次のように神に言うことができる。

 

『見よ、わが神よ。あなたは私を君主そして統治者に任命してくださいました。この事に関し、私は一寸の疑いも持っておりません。そして、あなたは、悪を行う者に対して、剣を取るよう、私に託してくださいました…従って、私は命の続く限り、彼らを罰し、殺します。あなたは裁きを行われ、物事を正しく計らってくださるでしょう。』

 

よって、君主の側について戦っている最中に、殺される者は、神の目に、真の殉教者と映るであろう…――今は、一君主が、流血の殺戮をもって天を勝ち取ることができるのであり、それは、他の者達が、祈りをもって天を勝ち取るより優っている――、そういう奇々妙々な時勢なのである!…手あたり次第、突き刺せ、強打し、殺せ!この最中に死ぬのなら、あなたに幸いあれ!あなたにとって、これ以上に祝福された死は他に決してないのである。」*1

 

クリスチャンたちによる十字軍遠征の様子(1099年)

 

今や町は占領された。聖墓へ巡礼する者の祈る姿を見る時、今までの全ての労苦や苦難は報いられて有り余るものがある。どんなにか彼らは喜び、歓声を上げ、主に新しい歌を歌っていたことであろう!彼らは、勝利を得、壮大なお方である神へ、賛美の祈りを捧げていたのであり、それは、言葉では語り尽くせないものであった。

 

、、町の通りは、頭や手足の山となっている。人間や馬の死体の上を、足元に注意しながら進む必要があるほどだ、、ソロモンの神殿や柱廊で、人々は馬に乗る際、ひざや手綱の高さまで、血にどっぷり浸かりながら進んだのである。この場所が、未信者ども〔イスラム教徒〕の血で一杯になることは、まさに、義にして見事な神の裁きであった!なぜなら、あそこの神殿は彼ら冒涜者どもによって長い間、踏みにじられていたからである。町全体が、死体や血で満ちていた。

 

おお、新しい日よ!新しい喜びよ!新しく、とこしえの喜びよ!私たちの労苦と信仰の完成に、全ての者の口から新しい言葉と新しい歌が湧き出てきたのである。私は言う。この日は、未来の世々すべてにおいて、名を残すことになるだろうと。なぜなら、この日、私たちの労苦と悲しみは、喜びと歓声とに変わったからである。

 

また私は言う。この日、全キリスト教の義は顕され、異教は屈辱をみ、私たちの信仰が新しくされたと。『これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。』なぜなら、この日、主がご自身を、主の民に顕され、彼らを祝福されたからである。」*2

 

十字軍によるヴァルド派クリスチャン集落の襲撃の様子(1488年/1489年)

 

「神聖な」十字軍戦士は、手あたり次第、ヴァルド派の信者を殺戮した。彼らは両親の腹を裂き、子どもたちの頭を岩にぶつけ、打ち砕いた。また十字軍は、切断された子の頭を、父親の首にくくりつけ、彼らを死ぬまで行進させた。*3

 

教会史家J・A・ウェイリーは次のように記している。

 

「こういった残虐場面は、文明諸国の歴史上、類を見ない無比のものであった。より多くの血が流され、より多くの生命が犠牲になった悲劇ならそれまでもあったであろう。しかし、殺戮者たちがここまで完全に人間性を失い、被害者の苦しむ様がここまでむごたらしく、表現できないほど残忍で不快であった悲劇は未だかつてなかった。この点において『ピエモンテ大虐殺』は他にその類を見ない。」*4

 

犯罪が美徳へと様変わりするためには、どれくらいの人数が必要なのだろうか?(by アディン・バロウ)

 

神の掟が無効なものとなり、神の禁じておられることが合法的なものに変わるのに、どのくらいの人数が必要なのだろう?邪悪なものが、義なるものへと変質するのに、どのくらいの人数が必要なのだろう。

 

一人の人間は、人を殺してはならない。もし、そうしたなら、それは殺人行為となる。2人、10人、100人と、いずれも各自の責任を担う形では、人を殺してはいけない。もし、そうしたなら、それは依然として殺人行為である。

 

しかし、政府ないし国家は、お好きなだけ何人でも殺していい。それは殺人ではない。それには、ただ、立派な大義名分が必要なだけだ。それなりに十分な数の人を集めて、賛同させればそれでよし。そうすれば、無数の人間の虐殺も、完全に無罪潔白なものとなる。でも、それにはどれくらいの人数が必要なのだろう。それが問題だ。

 

盗み、強奪、不法侵入、その他すべての犯罪についても、全く同じ事が言える。誘拐は、一人の人ないし、数人の人によってなされるなら、重大な犯罪である。

 

しかし、国全体としては、それをやってもいいのだ。さらに、その行為は、ただ単に無罪とみなされるだけでなく、非常に栄誉ある行為となる。だから、国全体としては、大規模な形で略奪を働き、軍事力でもって、町全体に不法侵入しても構わないのである。それは犯罪ではないのだから。

 

また、彼らは、刑事責任を問われることなく、これら全てを遂行することができるのだ。それでもって、宗教をつかさどる牧師先生方に祈りをお願いしている。

 

まことに、数というものには魔力があるのだ!少なくとも、至高の多数派はーー少なくとも自身の慢心においてーー全能の主を差し置いても、法を制定できるのである。でも、それにはどのくらいの人数が必要なのだろう?*5

 

*1:Luther, Works of Martin Luther—The Philadelphia Edition, trans C.M. Jacobs, vol.4: Against the Robbing and Murdering Peasants, pp.252, 253.

*2:Raymond d'Aguiliers in August C. Krey, The First Crusade: The Accounts of Eyewitnesses and Participants (Princeton: 1921), 252-253.

*3:Judith Collins, "Heritage of the Waldensians: A Sketch."

*4:J.A.. Wylie, The History of Protestantism, 1878, Vol.II, p.485.

*5:Ballou, "How Many Does It Take."