巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「そもそも聖書の解釈の仕方など学ぶ必要あるの?」(D・A・カーソン、トリニティー神学校)

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目次

 

D.A.Carson, Must I Learn How to Interpret the Bible?(抄訳)

 

はじめに

 

解釈学(Hermeneutics)というのは、解釈の技および科学のことを指します。そして聖書解釈学というのは、聖書を解釈する技および科学のことを指します。

 

宗教改革期、解釈をめぐる議論はきわめて重要な役割を果たしていました。そういった議論は、ただ単に数ある諸解釈をめぐってのものではなく、ーー(単数形の)「解釈」そのものーーこれを巡ってのものでした。

 

言い換えますと、宗教改革者たちが論敵たちと意見を違わせていたのは、ただ単に「この聖句やあの聖句がどういう意味か」に関するものにとどまらず、聖書解釈の本質、解釈における権威の中心、解釈における教会と御霊の役割など、多層的な議論だったのです。

 

ここ半世紀の間に、解釈学の領域で大規模な進展があり、それらを簡単に概説しようとするだけでもかなりの分量になってしまうほどです。悲しむべきことに、今日、多くの学者たちは解釈学におけるさまざまな挑戦の部分に関心を持ち過ぎる余り、聖書自体に関する翻訳の方がややなおざりになっている感がありますーーしかし本来なら、解釈学こそ、聖書解釈の方面でより責任感を持ち、私たちを援助してしかるべきだと思います。

 

そうかと思えば、今日に至っても尚、解釈に関し、浅薄さを免れ得ない考え方に凝り固まっている人たちがいます。彼らは、それをおおっぴらに言ってのけるほど愚鈍ではありませんが、心中秘かに、「他のクリスチャンが提供しているのは『解釈』。しかしこと自分に限って言えば、私はあくまでも『聖書が言っていること』そのものを忠実に提示している」と思い込んでいます。

 

カール・F・H・ヘンリーは、この世には二種類の前提主義者が存在すると言っています。

1)自分がそれであると認めている前提主義者と、

2)自分がそれであることを認めたがらない前提主義者、

この二種類です。

この分析を本稿のテーマに適用すると次のようになるかもしれません。聖書解釈の実践者の中には、二種類の人間がいる。

1)自分がそれであることを認めている解釈実践者と、

2)自分がそれであることを認めたがらない解釈実践者、です。

 

なぜなら、私たちが聖書の中に何かを発見する度に(その「何か」が実際、存在しているか否かは別として!)、私たちはとにもかくにも聖書を解釈しているからです。そこには良い解釈、悪質な解釈、忠実な解釈、不忠実な解釈といった違いはあるでしょう。しかし依然として私たちは解釈行為そのものから逃れることはできないのです。

 

本稿では、基礎的諸原則、新解釈学、ラディカル解釈学、それからポストモダン解釈学の詳細には入りません。〔こういったテーマ、特にそれらの解釈とポスト近代との関係およびそれへの応答に関しては、次の著書を参照してください。The Gagging of God: Christianity Confronts Pluralism, esp. chaps. 2 and 3 (Grand Rapids: Zondervan, 1996.〕

 

この論考の中では一つのテーマーーおそらく真剣な聖書の読者なら誰もが折々直面している問題ーー「聖書の中のどの部分が自分たちに適用されるべきであり、どの部分はそうでないのか?」に取り組んでいきたいと思います。

 

いくつか実例をあげて考えてみましょう。「聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。」という聖句があります。フランス人は挨拶の口づけをします。アラブ人信者も聖なる口づけをしています。しかし私たちの多くはそうしていません。ということは私たちは「非聖書的」ということになるのでしょうか?

 

また、イエス様は弟子たちに互いの足を洗い合いなさい(ヨハネ13:14)と仰せられました。にもかかわらず、私たちの大部分は一度も他の信者の足を洗ったことがありません。なぜ私たちはこれほど平易な命令に「不従順」でありながら、聖餐式に関する命令(「わたしを覚えてこれを行ないなさい。」)には従順なのでしょうか?

 

もしも私たちが「聖なる口づけ」The Gagging of God, p.19)のことで柔軟になってもいいという理由づけをすることができるのだとしたら、その他の領域ではどれくらい「柔軟」になっていいのでしょうか?/あるいは良くないのでしょうか?

 

パプア・ニューギニアの村にある教会では、聖餐式の際、パンと葡萄酒の代わりに、ヤムとヤギの乳で代替しても構わないのでしょうか。「いや、それはダメだと思います。」それなら、それがダメだとする理由や根拠はどこにあるのでしょうか。

 

あるいはモーセ契約によって規定された継続的法効力に関し、セオノミーを支持する人々の間で流通している広範囲な問いの数々はどうでしょうか。国民国家を構成する一員として、ーー仮に神が恵み豊かに大規模な信仰復興や宗教改革を賜わったとしますとーー、その時、私たちは不倫した人たちを石打ち刑にする律法を執行させるべきなのでしょうか?「いや、そんな事はしてはいけません。」それなら、それがいけないことだとされる理由や根拠はどこにあるのでしょうか。

 

婦人たちは教会の中では黙っていなさい(1コリ14:33-36)という命令は絶対的なものでしょうか。「いいえ、それは絶対的なものではありません。」それなら、それが絶対的なものでないとされる理由や根拠はどこにあるのでしょうか。

 

イエスはニコデモに、神の国に入るために生まれ変わらなければならないと言いました。そしてイエスは裕福な若者に、すべての持ち物を売り、それを貧しい人に施しなさいと言いました。しかるになぜ私たちは前者のケースを、「全ての人に当てはまる絶対的要求」とみなす一方、後者のケースを取り扱うに当たっては明らかに「逃げ腰/ごまかし」気味な場合が多いのでしょうか?

 

今挙げた諸例への回答には、大論文一篇かそれ以上の分量が必要とされるでしょう!これから取り組んでいくことはあらゆる困難な問いへの包括的な鍵を与えるようなものではなく、あくまでも類似の諸問題を分類していく上でのいくつかの予備的指針にすぎません。

 

できる限り良心的に、聖書のバランスを計り、歴史的/神学的「あれかこれか」的分裂への屈服を避ける。

 

リベラル派は、しばしば、意地の悪い「あれかこれか」的分裂(選言、離接;disjunctions)をします。曰く、「イエスかパウロか」「カリスマ的共同体か初期カトリック教会か」など。他方、プロテスタントは時に、行ない無しのパウロの信仰(ローマ3:28)とヤコブの信仰+行ない(ヤコブ2:4)の間にくさびを打ち込みます。

 

またある人々は、ガラテヤ3:28を絶対化し、あたかもその聖句が「教会や家庭における女性の役割」に関するテーマ一切合財をすべて統治してくれるものであるかのように思い込む一方、1テモテ2:12の方に関しては、それをなんとか振り切るべく、莫大な時間をその言い逃れ作業につぎ込んでいます。*1

 

歴史的に言って、18世紀の中盤から20世紀の中盤にかけ、英国の改革派バプテスト信者の多くは、「選び」における神の主権的恵みを強調しすぎる余り、福音の一般的宣布に関してむしろ気詰まりを感じる傾向がありました。

 

〈未信者たちに「悔い改めて福音を信じなさい」と言うべきではないのではないか?いや、どうしてそんな事が言えよう?彼ら未信者は罪過と罪の中に死んでおり、どのみち、「選びの民」に属していないとも限らないではないか?彼らはむしろ、自らの内に御霊の働きの最初の徴候があるのか否か、罪に対する確信があるのか否か、羞恥心の湧き起こり等があるのか自己点検する必要があるだろう。〉

 

表面的にみると、こういった姿勢は聖書からかなりかけ離れているように見えます。ですが、当時、かなり大多数の教会が、「これこそが聖書の真理に対する忠実性の証に他ならない」と考えていたのです。ここでの誤りはもちろん、聖書のバランスが失われてしまっていた事にあります。聖書真理のある一要素が、ーーその他の聖書真理の諸要素を打ち壊したり、飼いならしたりしても構わないという立場ーーにまで高揚されていたのです。

 

実際、「聖書のバランス」というのは維持するのがそうそう容易ではありません。その理由の一つとして、聖書の中には異なる種類のバランスが存在していることが挙げられます。例えば、私たちに課せられているさまざまな責務に関するバランスがあります(例:祈ること、仕事に誠実であること、妻や子ども達に聖書的に忠実であること、隣人に福音を伝えること、孤児ややもめを助けることなど)。そういった事は、限られた時間とエネルギーを用い、優先順位をつけるに当たって、私たちがいかにバランスをとっていくかに帰されます。また聖書の中心的筋(plot-line)に関連したものを保持していく過程における聖書の強調点にかんするバランスの問題もあります。

 

さらに、現時点で私たちには究極的調和は計れないけれども、聖句に注意深く耳を傾けていないとすぐに歪曲の落とし穴に陥ってしまうような種類の諸真理のバランスもあります。(例:イエスは神であると同時に人間もである。/神は超越的主権者であると同時に人格的存在でもある。/選民だけが救われるけれども、ある意味、神はどうしようもないほどの反逆者たちをも愛しておられるがゆえに、イエスはエルサレムのために涙を流し、叫んでおられる。「立ち返れ、立ち返れ。なぜ死のうとするのか?わたしは決して悪者の死を喜ばない。」)

 

各事例において、微妙に異なる種類の聖書的バランスが要求されていますが、とにかく、私たちに必要なのがまさにその聖書的バランスであるという事実は変わりません。

 

聖書のある部分におけるアンチテーゼ的性質(特にイエスの説教のある部分)はレトリックなものであり、絶対的でものではないことを認識する。文脈により各事例が判断されなければならない。

 

もちろん、聖書の中には正真正銘、絶対的なアンチテーゼも存在し、そのような箇所は決して骨抜きにされてはなりません。例えば、申命記27-28章における祝福と呪いの間の分離は、相互に浸透し合ってはいません。神の呪いを求める行為と神の是認を勝ち取る行為は互いに反対陣営に位置しており、両者を混合したり希薄化したりしてはなりません。

 

しかしその一方、キリスト以前のBC8世紀に、神は「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」(ホセア6:6)と仰せられましたが、その際にも、モーセ契約における犠牲制度がそれゆえに壊されることはありませんでした。

 

むしろ、ヘブライ人のアンチテーゼは、「追い込まれどうしてもそうせざるを得ない状況になったのなら、その際には、憐れみはいけにえよりも大切である。あなたが何をするにしても、形相的宗教ーーこの場合で言うと、全焼のいけにえやその他の儀礼的犠牲ーーを神についての根本的認識と同格に持っていってはいけないし、あるいは、『神があわれみや誠実さを愛しまれること』と、『犠牲システムに関する諸形式を遵守せよという主の要求に対する堅固さ』を混同してはいけない。」ということを物語っています。The Gagging of God, p.20.)

 

同様に、イエスは、「わたしのもとに来て、自分の父、母、、を憎まない者は、わたしの弟子になることはできない」(ルカ14:26)と仰せられましたが、この箇所をもって、「それではイエスは私が家族に対し生々しい憎しみを持てと命じておられるのだ」と考えてはなりません。ここでのポイントは、イエスのご要求は、あなたにとって最も貴重で大切な人間関係よりも、より差し迫り拘束力を持つものであるということです。(マタイ10:37でのパラレルがそのことを明示しているように。)

 

また時には、隔たった位置にある二つの聖句箇所を比較することにより明確なアンチテーゼが形成されていることもあります。例えば、イエスは彼に従う者たちに対し、「祈る時、異邦人のように同じことばを、ただ繰り返してはいけない。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っている」(マタイ6:7参)と仰せられました。他方、イエスは別の箇所で、「いつでも祈るべきであり、失望してはならないこと」(ルカ18:1-8)を譬え話を用いて仰せられました。

 

しかし仮にここで、「この二つの選言命題の間に存在する形相的衝突は、表層的なもの以上の何かである」と考えるなら、その時、私たちはイエスの説教様式に対する自分の無知だけでなく、牧会的要求に対する鈍感さを露呈してしまっていることになるでしょう。

 

最初の選言は、うんざりするほど長々とした祈りによってうまいこと神から何かをいただこうと考えている者に対しての的を射た警告であり、二番目の選言は、霊的コミットメントが浅薄で、一言のつぶやきが自分たちの祈りの生活すべてになると思い込んでいる者に対しての的を射た警告なのです。

 

一度しか言及されていない、もしくは命令されていない事を絶対化することに関しては慎重であるべき。

 

これはもちろん、「御言葉が真であり拘束力を持つものであるためには神は数度にわたりそのことを言わなければならない」という意味ではありません。そうではなく、一度だけ語られている箇所では、よくよく注意しないと、私たちは意味を誤解したり、誤った適用の仕方をしたりしがちだということです。何かが複数の箇所で繰り返し言及され、またそれらが微妙に異なる文脈の中で言及されている場合、私たち読者にとり、その意味や要となる要点を押さえることは比較的容易です。

 

それが理由で、かの有名な「死者のためのバプテスマ」(1コリ15:29)は、例えば、ハイデルベルク信仰問答ウェストミンスター信仰告白等の中でも詳しくは取り扱われていないのです。これまでのキリスト教会史の中で、この聖句に関しては少なくとも40通りの解釈が提示されました。モルモン教徒はもちろん、ここの聖句が「実際には何を意味しているか」についての確信を持っていますが、彼らが確信を持っている理由は、(霊感され権威ある宗教書だと彼らが主張している)その他の本の文脈の中でこの聖句を読んでいるからです。

 

また、多くのクリスチャンが、「互いに足を洗い合いなさい」というキリストの御命令を第三のサクラメントもしくは慣習として捉えていない理由の一つも、この原則(③)に因るものだと言っていいかと思います。バプテスマや聖餐は確実に数カ所で取り上げられており、初代教会がこの二つの典礼を遵守していた事を示す歴史資料も豊富に存在します。その一方、洗足に関してはそうではありません。しかし洗足に関してはまた別の機会に詳しく取り上げたいと思います。

 

いかなる言及であれ掟であれ、聖書的論拠を丹念に調べる。

 

この助言は、私たちが論拠を識別することができないのなら、その時にはその掟に従わなくてもいいと勧めているのではありません。そうではなく、神は恣意的な方でも移り気のある方でもなく、ご自身が開示しておられる諸真理やご要求の背後にある理由や思想を、多かれ少なかれ私たちに提供しておられるということなのです。そういった根拠を見い出すよう努めることで、神が言っておられる事の本質が一体何であるのか、また何が特定の文化的表現であるのかについての理解が深められます。

 

いくつかの実例を出す前に申しあげておきたいのは、御言葉は皆、文化的に固定されている(culturally bound)という事を認識する必要があるということです。どういうことかと言いますと、まず、聖書は人間の諸言語(ヘブライ語、アラム語、ギリシャ語)の中で与えられており、諸言語というのは文化的現象です。また、神がお語りになった言葉を「総称的ギリシャ語; generic Greek」などと捉えることもできません。

 

それは、ヘレニズム期のギリシャ語に属しており(ホメロス期ギリシャ語でもなく、アッティカ・ギリシャ語でもなく、現代ギリシャ語でもありません)。それだけでなく、このギリシャ語は聖書記者によっても多少異なっています。(パウロがマタイと常に同じ言葉の使い方をしているかというとそうではありません。)またジャンルによっても多少異なっています。(黙示文学は書簡のギリシャ語と全く同じ響きというわけでもありません。)しかしそうだからといって私たちは怯えることはありません。

 

神がご自身を人間の発話に適応してくださっていることは、偉大なる神の栄光の顕れの一つでもあります。そして人間の発話は必然的に時間に拘束され、それゆえに変遷するものです。そしてその事実は、ーー幾人かのポストモダン哲学者に言明にも拘らずーー、真理を語る上での神の御能力を危機に貶めているわけではありません。

 

たしかに有限性を持つ私たち人間は包括的・網羅的に真理を知ることは決してできません(それには全知omniscienceが必要とされます)が、そうかといって、私たちがいくつかの真理を真に知ることができないとするいかなる理由もまた存在していません。

 

にもかかわらず、神が言葉の中で私たちに開示してくださっている、そういった真理全ては文化的形式を帯びています。「緻密にして敬虔なる解釈をする=その下に隠されている絶対的真理を見い出すべくそういった形式を剥ぎ取ること」ではありません。それは不可能ですし、私たちは自らの有限性から逃れることはできません。ですから、緻密にして敬虔なる解釈をすることにより、私たちは、そういった文化的諸形式を理解し、神の恵みによりーーむしろそれらを通しーー神がご開示しておられる真理を発見していくことができると言うべきでしょう。

 

ですから、神が人々に対し、「衣を引き裂き、ぼろをまとい、灰をかぶれ」と命じられる際、そういった言動そのものが悔い改めの本質と直結しておりGOG, 21)、ゆえに、それらの行為なしには真の悔い改めはないとみなされるべきなのでしょうか?また互いに聖なる口づけを交わしなさいとパウロが私たちに言う時、彼が意味しているのは、「そういった口づけなしにキリスト者としての真の挨拶はない」ということなのでしょうか?

 

そういった行為の論拠を詳しく調べ、灰や口づけが統合的に神の啓示に関連しているのか否かを問う時、前途が開けてきます。口づけの神学というのはありませんが、教会のメンバーの間の相互愛や献身的交わりに関する神学は存在します。ぼろや灰の神学は存在しませんが、悲哀や深遠なる変化を要求する悔い改めに関する神学は存在します。

 

解釈的諸決断の多くは、一つの広大な神学体系の中にうずまっているという事実を率直に認めるべき。従って、聖書を最終権威と認める人は、いざとなれば自分の奉じている神学体系を修正しようとする心構えができていなければならない。

 

クリスチャンの中には、「ギリシャ語やヘブライ語を学び、基本的解釈学を修めたのなら、もう歴史神学や組織神学に囚われる必要などありません。そうです。あなたはただ素直に釈義をすればいいのです。そうすると、神の御言葉からストレートに真理を抽出できますから」というような観念を持っている人々がいます。

 

しかしもちろん、事はそう単純なものではありません。事実、あなたはアルミニウス派、もしくは改革長老派、もしくはディスペンセーション主義、あるいはセオノミスト(theonomist)もしくはルーテル派、、、(ほかにも多数あります)、、、として釈義を行なっています。

 

それに、たといあなたが上記のようなさまざまな〈派〉の種類に疎く、(「ここから少しかじり、あそこから少しかじる」といった)ちょっとした折衷主義者であったとしても、それが意味しているのは結局、あなたの釈義は、他の人々よりも、より一層首尾一貫性を欠いたものである可能性が高いということです。

 

体系というのは生来的に悪いものというわけではありません。体系が機能することにより、解釈する営為がより容易になり、またより現実的になります。つまり、解釈の各地点でいちいち振り出しに戻る必要がないということです。

 

もしもあなたの解釈的伝統が大体において正統的なものであれば、その体系は非正統的な形態をとるさまざまな諸解釈からあなたを防ぎ守ってくれるでしょう。しかしその一方、ある体系が統治的になりすぎ、その結果、御言葉からの矯正・修正・(あるいは打倒されること!)を受け付ける許容性をもはや持たなくなるケースもあります。

 

さらに、論争となっている解釈的ポイントの多くが、そういった巨大な連結諸構造と分かちがたく結びついているため、実質上、その細部に関する考えを改めることは、巨大な諸構造に関する考え自体を改める必要性をあなたに要求してくるわけで、それこそ、他の何もの以上に大変なことです!

 

それが故に、ある敬虔な改革長老派Aさんと、同じく敬虔な改革バプテスト派Bさんは、「バプテスマや教会政治について聖書は何と言っているか?」というテーマに取り組むべく、数冊の辞書を持参し、あるおだやかな週末の午後、二人仲良く腰かけ、お茶でも飲みながら、さあ、二、三の聖句を一緒に読んでみましょうや、という具合にはいかないのです。

 

なぜならここで焦点となっているのは、AさんにとってもBさんにとっても、いかにそういった議題がその他の多くのポイントに内包されているのかということだからです。そして数多くのその他のポイントそれ自体が、ある神学構造全体に関連しているのです。

 

しかし、です。もしもここで話が終わってしまうのなら、ポスト近代論者たちの言い分はやはり正しいということになってしまうでしょう。--つまり、結局のところ、「解釈共同体がすべてを決定する」という彼らの見解に軍配が上がるということです。

 

しかしもしも私たち信者一人一人が、いざとなったら自分の考え(すなわち自分の諸体系!)を変える心構えができており、自分の体系を含めた全てを謙遜に御言葉の検証の下に差し出す心構えができており、同じく威圧的でなく、かつ聖書の最終権威を進んで認めようとしている兄弟姉妹たちと共に人格的な対話やディスカッションをする心構えができているのなら、その時、諸体系は修正され、放棄され、改革され得るでしょう。

 

そういった配慮によって影響され得るテーマは非常に多いです。それらは昔ながらの議題(例:バプテスマ、聖餐の意義、契約についての理解、安息日/日曜問題など)だけでなく、より最近のもの(例:セオノミー、「カリスマ的」賜物の位置づけなど)も含みます。

 

一つ簡単な例を挙げてみましょう。近年、多くのクリスチャンが使徒15:28(「聖霊と私たちは、、、どんな重荷も負わせないことに決めました」)の箇所に訴えています。いつ彼らがこの箇所に訴えるかといいますと、論争となっている領域での変更に関わる困難な諸決断に教会が直面した時です。使徒行伝が書かれた当時でしたら、割礼およびその重要性に関することがその論争点であり、現代でしたら、それは女性牧師・教職への門戸を開くか否かに関する事です。

 

しかし女性牧師問題において、使徒15:28をそのゴーサインとして引用するのは果して公正なやり方でしょうか?ここの聖句は、元来教会で認められていた事項をいかにして変更するかの決定的モデルを提供しているのでしょうか?

 

しかし、正典の独占的権威に関する堅固な見解を持ち、「十字架と復活の光の下で割礼の位置づけを再考するべく、いかにして新契約の下にいる信者たちが贖罪史の漸進性の中で導かれてきたのか」についての精緻な見解を持っている人は、そのようなロジックによっては容易に説伏されませんし、納得もしません。

 

これまでさまざまな諸教会によって導入されてきたあらゆる変更は、「ええ、それらは、『聖霊と私たちは、、どんな重荷も負わせないことに決めた』という御言葉によって祝福をいただいているから」という理由づけだけで、正当化されてきたのでしょうか?

 

今や教会は、ーー初代教会が、旧約聖書正典の中で、そしてそれによって確立されてきた事柄を変更したのと同じやり方で、聖書正典の中で、そしてそれによって確立されてきた事柄を変更しても良い権利を獲得するようになったのでしょうか?

  

そういった一連の提案は私たちを尻込みさせます。しかしいずれにしても明確なのは、そういった諸問題は、「いかに解釈的諸決断に関するパラメーターがより本質的神学諸問題に結び付いているのか」に関する、かなり詳細を究めた、そして考え抜かれたものでない限り、適切な解決には至らないし、至り得ないということです。

 

ー終わりー

 

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*1:〔関連記事〕