巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ユダヤ人クリスチャンの視点から見た「ヘブル的ルーツ運動」(by ゲイリー・アングリアン)

キリストにある自由!(出典

 

Geri Ungurean , Are You Part of the Hebrew Roots Cult?, 2016(拙訳) 

 

ガラテヤ3:28,29

28ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。

29 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

 

私はユダヤ人キリスト者です。「あなたは誰ですか?」と訊かれれば、私はまず「クリスチャンです」と答えると思います。私はキリストに従う者です。その一方、自分がユダヤ人として生まれたという事実は、人生最後の呼吸をする時まで残ります。私はクリスチャンになる上で、自分のユダヤ人性を置き去りにしつつ、境界線を超えたわけではありません。それは不可能です。私はクリスチャンであり、それと同時に民族的ユダヤ人でもあります。

 

何年か前に私と同じようなユダヤ人クリスチャンの女性にお会いしたことがありました。彼女はメシアニック集会に通っておられる方で、私がメシアニック系の教会に通っていないことを知ると愕然としておられました。そこで私は彼女に言いました。「私に関して言えば、主は自分をそういった諸集会には導いておられないと感じています。なんというか、自分にはちょっと氏族的・排他的な感じがしてしまって、、私はメシアニック・ジューだけでなく、キリストのみからだに属するすべての方々と共に礼拝を捧げたいと思っているんです。」

 

それを聞いたその女性は納得いかない面持をされていましたが、私は自分の決断に関し、内に揺るがないものを感じていました。また自分のユダヤ的諸慣習にあえてしがみつく必要性も見い出していませんでした。なぜなら私はすでに〔キリストにある〕自由を感じたからです。自由に救い主を礼拝できるとはなんとすばらしいことでしょう!

 

フェイス・ブックの中で起こっている最も皮肉な現象の一つは、ユダヤ人クリスチャンである私が、さまざまなメシアニック・グループから繰り返し排斥されている事実です。当初、私はこういったグループに属しておられる方々は自分と同じようなユダヤ人クリスチャンだとばかり思っていました。ですがそれは違いました。彼らの話題の主題はトーラー遵守や、ユダヤの祭りのこと等です。時折、イェシュアに関して言及することもありますが、キリストのみを通しての救いに関するメッセージはほぼ皆無です。

 

私はFBのメンバーたちに「イェシュアにある信仰者たちは恵みの契約の下にある」ということを何度も伝えました。またイェシュアは律法を廃棄するためではなくそれを成就するために来られたということも伝えました。

 

マタイ5:17

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

 

それを聞いたグループのリーダーは私に同意してくださったのですが、皮肉なことを、その同じ聖句をHRMの教義弁明のために用いたのです。私としては、この聖句を通し、彼らの説いている教理の律法主義や偽善性を示そうとしたのですが。。

 

私たちが主の律法すべてを遵守することができると神がお考えになっていたーーそれは本当でしょうか?いいえ、主の律法がモーセに与えられたのは、

神が聖なる方であり、

主の定められた基準は完璧であり、

人は主の律法をことごとく守ることができない、

ということを示すためでした。そしてイエス様はそういった数々の掟や律法を全く新しい次元へ持っていかれたのです。

 

私たちの罪は、心の中で始まります。(マタイ5:27-28参)。そして神は私たちの内に巣食うその罪を見ておられます。ご自身と和解させるべく、主はこの罪ーー私たちを主から隔てているものーーを対処しなければなりませんでした。そうです、主はご自身の御子ーー受肉されたことばーーであるイエスをお遣わしになったのです。

 

ヨハネ1:14

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

 

完全にして罪なき犠牲が、他ならぬ神の御子イエスでした。そしてイエスの死こそすべての罪のための「一つの」贖いでした。私たちに赦しを与えたのは、私たちのために流された主の血潮でした。誰であれこの御方を信じるものが御父と和解し永遠のいのちを得るべく、神は御子を遣わしてくださいました。なんと栄光に富んだことでしょうか!

 

2コリント5:21

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

 

私はヘブル的ルーツ運動の指導者の方々に一つの問いかけをしたいと思います。なぜあなたがたは、死をもたらした律法の下に再び後戻りしようとしているのですか?いのちを与える御霊によってさらに良い恵みの契約がすでに私たちに与えられているにも拘らず、なぜあなたがたは再び律法の下に戻ろうとしているのですか?

 

しかしこう申し上げると私は決まってグループから除名されます。ある指導者は私宛に個人メールを送って来、「あなたが悪霊の影響下にあるのではないかと憂いています。あなたのためにお祈りさせていただきます。」と書いてきました!

 

彼らは現代版のユダヤ主義者なのでしょうか?ええ、「ユダヤ主義者」という表現はたしかに的を射た正確な表現だと思います。(但し、聖書時代のユダヤ主義者と現代のユダヤ主義者の違いは、後者のほとんどがユダヤ人ではないということです。)

 

それでは彼らは危険な教えを説いているのでしょうか?もちろん、そうです。そういったグループの教えは、十字架上でなされキリストの完了した贖いの御業をないがしろにするものです。そして彼らの教えにより、主は偽り者にされています。

 

実質的に彼らが言っているのは、「キリストは私たちの模範的存在として生き、死なれましたが、私たちは救いを受けるべく律法を守らなければならないのです」ということです。これが異端の教えでなくて何だというのでしょうか?

 

私たちは主の目に高価な存在です。私たちの出身は関係ありません。大切なのは私たちが罪を悔い改め、罪の赦しのためにイェシュアを信じ、この御方を信頼することではないでしょうか?確かに私はユダヤ人としてこの世に生を受けました。しかしそれが何だというのでしょう?創造のはじめより、神の御計画は、救いが全世界の人々に提供されることでした。そしてユダヤ人の部分的かたくなさにより異邦人が神の国に来る道が開かれ、救いが彼らに及びました(ローマ11章参照)。ですから私たちは皆、祝福を受けているのです!

 

ヘブル的ルーツ運動はカルトです。もしあなたが今、この運動に関わってしまっているのでしたら、どうかそこから逃れ、キリストにある自由を体験してください。大丈夫です。たといこの運動を離れても、主の律法を守りたいと願うあなたの心が害されることはありません。キリストにあって新生した後、主に対する感謝の心から自然と良い行ないが生じてきますから。

 

イエス様が私たちの義です。シャローム。