巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ただ恵みによってーー「ヘブル的ルーツ運動」:ある脱会者の心の軌跡

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恵みとは、、何だろう(出典

 

目次

 

A Testimony: My Journey on the Ancient Paths(抄訳)

 

はじめに

 

私は保守的で伝統的なキリスト教派の信者の家庭に生まれ、育ちました。しかしその後、いろいろな経緯があり、私は聖書の真理から大きく外れる人生のコースを辿っていくようになります。

 

ですから、私のストーリーはまさしく神のあふれる恵み、憐れみ、そして誠実さを顕すものに他なりません。このような者を忍び、愛し続け、当時自分が受容していた欺瞞の教えから私を救出すべく実際に御介入してくださった主に心から感謝申し上げます。私は過去9年の間に、二つの宗教運動に深入りしましたが、この証の中では、その中の一つであるメシアニック・ユダヤ主義の「ヘブル的ルーツ運動」のことに焦点を当てていきたいと思います。

 

パート1 ことの始まり

 

ある寒い冬の朝、私は通用口からゆっくりとその教会に入って行きました。心臓がドキドキし、それはあたかも蝶々が降り立つ場を求め激しく舞っているかのようでした。折しもその日は私の誕生日でした。「これはきっと偶然じゃない。私が霊的に『新しい命』に生まれ変わろうとしている『しるし』であるに違いない。」

 

ユダヤ人改宗者の方々と交わることで、私はより深く、意義深く御言葉の真意を理解することができるのではないかと感じていました。〔*私がこう感じていた理由は、昔、フェイス運動の中で「新約聖書は元々ヘブライ語で書かれていた」という誤った教えを聞かされていたことに由来します。〕それゆえに、神様のことを知り、神様に従う上で、ユダヤ的視点というのは肝要なものだと考えていました。

 

だからこそ、今日、私はメシアニックの集いに参加してみようと思い立ったのです。〔*ヘブル的ルーツ運動(以下HRM)への入り口は他にもあります。例えば、「土曜安息日を遵守しなければならない」という考えを持つに至った人々や、「特別啓示」を受け、神秘主義的経験をしたという人々などもHRM界に入ってきます。〕

 

はじめてのメシアニック・シャバット

 

私は興奮していました。でもどこに行ったらよいのか分からず、玄関口で辺りを見わたしていました。すると、にこにこと気持ちの良い笑みを浮かべ、ある男性が私の方に近づいて来られ、「ようこそいらっしゃいました」と歓迎してくれました。彼はユダヤ式のキッパ(敬虔なユダヤ教徒男性が常にかぶる頭蓋をおおう帽子のこと)をかぶり、Tzitzit(飾りふさ)がズボンのベルト通しから垂れ下がっていました。わあー!好奇心がますます高まっていきました。

 

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正統派ユダヤ教徒の男性とtzitzit(出典

 

彼の案内でシャバット(第7日/土曜日)の集いが行われる地階の部屋に通されました。椅子が整然と並べられており、何人かの人がまだらに座っていました。案内役の彼が他の人々に私のことを紹介すると、皆、心開けた様子で、「シャバット・シャローム」と挨拶してこられました。

 

私は腰を下ろしました。さあ、これが生まれて初めての安息日礼拝(シュール"schul")であり、「メシアニックの人々」との初めての関わりです。

 

とはいっても、集会に集っている人々がメシヤに信仰を持ったユダヤ人の改宗者であるとは限りません。その後数年に渡る私のHRMとの関わりから言えるのは、おそらくこの運動の中にいる人の95%強は、「異邦人クリスチャン」ではないかと思います。これらの人々は既存のキリスト教会を去り、彼らのヘブル的/ユダヤ的ルーツを探すべく、さまざまな次元で、モーセ律法/トーラーを学び、それを実践している人々です。

 

会堂正面の台の上には、トーラー巻物を収めた「聖なる契約の箱」が安置されていました。装飾された「契約の箱」はユダヤ的シンボルで覆われ、深いベルベット色の覆いは巻物を守るべくそれを支えていました。会堂にいる男性の多くは、タリート(祈りのショール)、tzitzit(飾りふさ)、そしてキッパを身に蔽っていました。

 

タリート טלית(出典

 

また多くの男性は、旧約の預言者を髣髴させるような豊かな髯をたくわえており、きれいに剃っている人もいました。髯を生やしている男性たちの動機は、おそらく、ユダヤ人のような風貌に見られたいという彼らの願望ゆえではないかと思います。また多くの女性たちはさまざまなスタイルの被り物をしており、被り物の上にユダヤ的シンボルを飾っている人たちもいました。

 

「あれは何かしら?」壇上になにか変てこな形にみえる楽器が置いてあります。動物の角のように見えます。それはショーファー(角笛)でした。聞いてみると、雄羊の角でできたイスラエル産の角笛だそうです。

 

ショーファーを吹く男性(出典

 

多くのメシアニックの人々はショーファーを持参しており、礼拝の途中や、祭りを祝う際、これを吹き鳴らします。ショーファーを吹き鳴らすことは真に「ユダヤ的」であり、自らのヘブル的ルーツに戻ることであると見なされ、彼らの間にあって崇敬されています。会堂の後ろの方には、テーブルがあって、礼拝後、オネッグ(カシェル;コシェル;כָּשֵׁר食物の清浄規定カシュルートに適合した食べてよい食物)が並べてありました。

 

この日の踏み出しが、その後の私の歩みにどれほど影響を及ぼすようになったのか、その時には知る由もありませんでした。そうです、私は、その日、メシアニック・ヘブル的ルーツ(HR)として知られる「分派的」運動の中に入り込みつつあったのです。

 

このようにしてHRメシアニック集会への初訪問は非常に感情的に深いものでした。集会後、人々が私にあふれるほどの情報を与えてくれました。〔HR運動の常套手段です。〕そして私は自分が今どんな世界に足を踏み入れつつあるのか全く把握していませんでした。

 

それは譬えていうなら、ぬるま湯の中でぱちゃぱちゃはしゃいでいる一匹の蛙のようだったと思います。自らの知らぬところでじわじわと温度が上げられ、やがて沸騰湯の中で死する運命にあることなどつゆ知らず、蛙は〈今〉を楽しんでいるのです。

 

礼拝の美しさ、神に対する畏敬

 

メシアニック集会の中に満ちる、神に対する驚異、崇敬、そして畏れの念に私は心打たれました。そういったものは既存キリスト教会では味わうことのできないものでした。また礼拝の美しさ、皆の畏敬に満ちた姿にも感動しました。

 

また、会堂にいた多くの人々も、私と同じく、Complete Jewish Bible(略:CJB)を携帯しているのに気づき、ほっと安堵感を覚えました。HBM界の標準的聖書は何かと聞かれれば、それはもちろんCJBです。

 

 

そしてこの運動内にいる大半の人々が信じているように、このバージョンの聖書こそ、彼らにまことの「ヘブライ的思考」を提供してくれているのです。ですが、それは誤った前提です。この聖書訳は実際には貧弱なものであり、翻訳にしても使用法にしてもヘブライ語を真に表象するものとはなっていません。〔ある語は真のヘブライ語ではなくイディッシュ語であり、ある語は、タルムードの中に見い出されているものを使用・適用しています。尚、この比較対照は、私自身の個人研究に基づいたものであることをお断りしておきます。〕

 

トーラーの行進が始まると、指導者の一人が(保護用のベルベットの覆いをしたままの)トーラー巻物を持ち会堂をパレードしました。皆、栄誉と崇敬の思いから手を伸ばし巻物に触れていました〔ラビ的伝統〕。子ども達は「歌ったり踊ったりながら、トーラー行進の後についていってもいいよ」と勧告されているようでした。私は驚きの目をみはり、感動で涙が出てきました。皆、手を打ち鳴らし、音楽に合わせて踊っている大人たちもいました。その歌は旧約聖書のミカ書をベースにしたものでした。

 

ミカ4:2

多くの異邦の民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。

 

私は旧約聖書に対するこういった強調の姿勢に感銘を受けました。この要素もまた、既存のキリスト教の中では十分に強調されていないように感じていたからです。しかし悲しむべきことに、私はそれとは相反するもう一つの側面を見落としていました。つまり、HR運動内での新約聖書のマイナーな取り扱いを識別することができなかったのです。

 

この運動の中では、新約というのは「あくまでも旧約聖書の註解書」的な扱いを受けており、もしもある箇所が「トーラーと調和しない」のなら、それらの新約聖句は脇にうちやられ、あるいはパウロが非難され、彼の言葉が神学的「ヘブル的ルーツ思考」を反映するものになるよう捻じ曲げられたりしていました。

 

「シェーマ」(申命記6:4-9)を唱えるために起立し、私たちは東の方角ーーエルサレムの方角ーーを向きました〔ラビ的伝統〕。多くの人の頬を涙がつたっていました。彼らはもしかしたらイスラエルの地に住むことを待望しているのかもしれません。もしくは、ユダヤ人と結び合わされたいという強い願いゆえに彼らは泣いているのかもしれません。というのもほとんどの人は自分たちが「失われたイスラエル民族の末裔」だと信じているからです。でもその真相はよく分かりません。

 

それはともかくとして、エルサレムの方角を向く目的は神秘主義的なもののように思われ、それが少なくとも聖書の基づいたものでないことは確かだと思います。

 

「ヤハウェ」と「イェシュア」

 

 

Yeshua or Jesus | New2Torah – Torah Observant Followers of Jesus/Yeshua – Hebrew Roots

 

それにしても、この集会の中でイエスが「イェシュア」と呼ばれ、神が「ヤハウェ」「エロヒーム」と呼ばれているのは何とすばらしいことだろうと私は思いました。本当に聞くもの見るものすべて感動でした。後に(この集会外のHRの教師からですが)、私は「Jesus」「God」「Lord」というのがどれも、異教的名前であるということを学びました。〔その他にも、glory, holy, church, stake, amenのような「ギリシャ的異教」の語のことを聞かされました。〕

 

彼らは、そういった異教的名を使うことはトーラーを冒涜することであり、神の耳にそういった異教名は忌むべきものであると言っていました。「どうしよう、これまで私はずっとそういった忌むべき異教名を使ってきたのだ。。。」

 

こういった一連の情報ーー非常に反教会的「諸事実」を列挙したものーーの大部分は、ルー・ホワイト(Lew White)の「化石化した慣習(Fossilized Customs)」という本に源を発しています。

 

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実際、この本を読んだことのないHRM関係者はほぼ皆無と言っていいほど、みんな、この本を読んでいました。センセーショナルで虚偽情報に溢れた内容です。この本をまともに信じた人々の中には、正しい神称を用いるか用いないかは救い/滅びに関わる救済論の問題だと確信するに至った人もいました。かくいう私もさっそくこの本を購入し、内容を鵜呑みにしてしまいました。そして神が示してくださったように、私はすぐさま「ヤハウェ」と「イェシュア」という名称を用いるようになりました。

 

シッドゥールを用いた祈り

 

礼拝にはシッドゥールも伴っていました。シッドゥールというのは、ユダヤ教の祈祷書であり、その中には旧約聖書の聖句やラビ的に構成された祈りが収められています。祈りや聖句は、英語で書かれ、脇には朗唱しやすいように、音訳・転写されたヘブライ語が併記されてありました。ユダヤ教シッドゥールにはメシヤとしてのイエス・キリストに関する言及は全くありません。

 

しかしHRM系の集会で使われている数多くのメシアニック・シッドゥーリームは、既存のテキストの中にイェシュアに対する言及をつけ足しています。シッドゥールの中にイェシュアに対する言及が数えるほどしかない事実に正直私はがっかりしました。イェシュアへの言及は、何というか、それにメシアニックな外観をもたせるための「補足」といった感が拭えませんでした。

 

今、「ヘブル的ルーツ運動」を振り返ってみて分かるのが、類似のパターンが現れてきていたということです。それは何かと申しますと、トーラーが他のすべてーー福音書やメシヤご自身を含めた全てーーに勝って崇められ高揚されていたということです。

 

ある人々はそこからさらに進み、ついには「イェシュアは肉の中に顕現されしトーラーである」と言い始めていました。この解釈は間違いなく、聖句の中に強制的「読み込み」をしなければ成り立ちません。というのも、ここの箇所で用いられているギリシャ語はlogos(ことば)であり、nomos(律法)ではないからです。誰かが疑問を発していました。--もしもイェシュアがトーラーなら、トーラーが私たちの罪のために死んだのでしょうか、と。

 

トーラー朗読の際には、聖句の前と後でそれぞれ祈りが唱えられ、ヘブライ語か英語で朗読がなされます。ヘブライ語がもちろんより好まれるのですが、現実問題としてヘブライ語を話せる人があまり多くないという事情がありました。また、こういった祈りはタルムードからのもので、それはイエス・キリストを否定しています。指導者たちは週ごとに順繰りにパラシャーと呼ばれるタナク(תנ״ך、Tanakh)を朗読していました。

 

礼拝の終りに、指導者の一人が、大きなタリートで頭と腕をテントのように覆い、会衆に向け、両手を拡げました。彼の指の間にはタリートのふさが握りしめられていました。彼はまた奇妙な形の指のポーズをしていました。それは「V」の字のようなポーズに見えるのですが、人差し指と中指だけでなく全ての指が割れた感じになっているのです。

 

「なんだか神秘主義的な感じがするなあ」とは思いましたが、「まあ、そういうのもいいのかもしれない」と私は良い風に受け止めることにしました。しかし後になって、こういった指のポーズがカバラ(קַבָּלָה , Kabbala)の慣習であるということを知ったのです。

 

 Jonathan Cahn - Freemason Hand Sign Shin V

『シェミータ』の著者ジョナサン・ラビ・カーン(出典

 

おそらくその集会の指導者たちはその事実に気づいていないのではないかと思います。また民数記6:24-26の「アロンの祝福」に関し、トーラーは、レビ族の血を引く者のみに対し、「ブナイ・イスラエル(B'nai Israel;イスラエルの子たちもしくは国)」を祝福するよう指示していることに気づきました。

 

なぜメシアニックの人々は、アロンの血統から自分たちは「お株を奪ってもいい」と感じているのでしょうか?これを「トーラー遵守」と本当に言うことができるのでしょうか?

 

しかしともかく、当時の私の視点からみると、礼拝は美しいものでした。多くの音楽はスタイルも作曲もヘブライ的であり、歌詞の中にも多くのヘブライ語の単語が混ざっていました。少しずつこういった音楽を好むようになっていきましたが、一つ、良い意味でヒューモラスに感じることがありました。ーーHRMの中で「キリスト教会」というのは散々けなされているにも拘らず、彼らが歌っている曲のいくつかは実際にはクリスチャンの作った歌で、彼らは歌詞の中の「イエス」を「イェシュア」に書き換えていました。

 

正直に言って、なぜ彼らが「クリスチャン・ミュージック」を使っているのか私には不可解でしたが、あえてそのことを彼らに質問には行きませんでした。全体として礼拝は感情的に高揚をうながすものであり、私は長い間の念願であった「帰郷」をついに果たした気がしました。

 

パート2 より深く入っていく

 

「新契約」ではない「更新された契約」

 

私は、HRMの基礎コース(イェソッド)を受講し始めました。講義の中で私は、「新契約」ではなく「更新された契約」に関する「真の」理解が大切だと教わりました。初めにそれを聞いた時はショックを受けたのですが、次第にそれが理に適ったものであるように思われてきました。

 

これがヘブル的ルーツ運動の核心的教理です。この教理はエレミヤ31:31に溯り、HRMの「学者たち」が、既存聖書の「誤った」ヘブライ語を正し、この箇所は「新しい"new"」ではなく「更新された"renewed"」という意味であると説いています。

 

しかしこれは学術性を完全に欠いた解釈だと思います。譬えて言うなら、それは、英語の"new"が、"renew"と交換可能と言っているようなものです。ヘブライ語はB'riyt chadashah(新しい契約, H2319)と言っており、mechudeshet(更新された, H2318)とは言っていません。確かに両者は同根語ですが、ヘブライ語は文脈的に訳されています。次の32節 lo' kabriyt ("not like the covenant"..、、契約のようではない)がその文脈的翻訳を支持しています。これは「更新された契約」ではなく、明白に新契約を指しています。

 

また、エレミヤ31:31の箇所を引用しているヘブル8:8をみますと、「更新(anakainoo, ,G341)」ではなく「新しい(kainos, G2537)」が使われています。HRM聖書訳の中には、エレミヤ31:31を「更新された」と訳し、ヘブル8:8は「新しい」と訳す場合もあれば、その逆のパターンがあったりもします。こういったHRMの傾向に対し、ある方が次のように述べておられました。

 

「仮にそういった『教師たち』が提唱している解釈が耐久性のある真理であったとします。そうなりますと、ーーユダヤ人、クリスチャン、一般人を含めーーかつて存在したあらゆる時代のあらゆる聖書翻訳者たちはこれまでずっと間違いを犯し続けてきたということになり、それだけでなく、世界に散らばる500万のヘブライ語話者も誤っているということになります。それゆえ、そういった『学者たち』は、神によってモーセや預言者たちに与えられたものも今後変更していくことができるに違いありません。」

 

ユダヤ的紐帯を求めて

 

私は自分がついにユダヤ的紐帯を見い出したのだという希望と高鳴る興奮の内に、基礎コース(イェソッド)の教室に足を踏み入れました。しかし、私の期待に反し、その集まりにはユダヤ人は皆無でした。〔多くのHRM集会には確かに本物のユダヤ人改宗者もいるにはいます。しかし全体として見た場合、そういった改宗者は非常に少ないというのが現状です。〕

 

集会の中のある人々は、自分の家系図を引っ張り出し、そこのどこかにユダヤの血統がないかどうかを必死に探していました。講座が進むにつれ明らかになってきたのは、(指導者層も含め)受講者全員が、私と全く同様、元キリスト教徒だったということです。

 

ユダヤ性を求めてやまない人々の渇望は、私が飛び込んだ「メシアニック」世界のありとあらゆる部分にみられました。そしてヘブライ語およびラビ的慣習〔1世紀のユダヤ教の慣習であるかのように誤解されていました。〕が、真理の中の真理であり、信仰者の目的であるとして導入されていました。

 

またヘブル的に聞こえる名前の響きというのは、ユダヤ的であることを感じる上で非常に重要でした。公言はしていませんでしたが、実際には、多くの指導者たちが、自分がユダヤ人であり且つヘブライ語に相当長けているという風に思われたいという願望からだと思いますが、実名をユダヤ的な仮称に変えていました。

 

またイェソッド講座の中で私は「イェシュアは "Torah observant bride"(トーラーを遵守する花嫁)」のために来られた」ということを教わりました。トーラーを遵守する花嫁というのは、神の律法ーーつまりモーセ律法ーーの「すべて」を守る人たちのことです。

 

そして既存キリスト教会はこれまでずっとこの重要な真理を把握してこなかったため、既存キリスト教の「クリスチャンたち」は、天国でトーラー遵守者と同等の地位にはつけないのです。HRM教師たちの中には、「いや、既存キリスト教の『クリスチャン』はそもそも天国に行くことができない。なぜなら、彼らは神に対して不従順であったから」と実際に説いている人もいました。

 

「千年王国期には、動物のいけにえ制度が再び実施され、大祭司イェシュアの監督の下に、第三神殿が建設される。その時クリスチャンたちはトーラーを学ぶことになる。そして彼らクリスチャンたちは『天の御国で最も小さい者』(マタイ5:19)とみなされるようになる。なぜなら、彼らは神に命じられた通りに各種祭りやトーラーを『遵守/教示』してこなかったからである。」

 

あの当時、上記のような偽教理を鵜呑みにしていたことを思うと、背筋が凍る思いがします。神の恵みにより、そのような教えの環境下にあっても私はかろうじて、完全なる信仰の破船からだけは守られ続けました。

 

しかしこの運動内の多くの仲間たちは、その後、徐々にイエス、そして十字架上で完了したご自身の御業を拒絶する方向へと流れていき、ついにはユダヤ教へと改宗していきました。そしてこれがHRMから産出される主要な副産物です。

 

既存教会/バビロン

 

しかしイェソッド講座を受けた初日、私の心は散り散りになりました。その時私は「ああ、自分はこれまでずっとこの真理を知らずにきたのだ」という思いで圧倒されました。帰りの車の中でも涙が止まらず、これまでの生涯、自分は、既存教会/バビロンで、「偽り」を吹き込まれ、教え込まれていたという事を知り、それを泣きながら悔い改めました。自分がずっとずっと探し求めていた「真理」ーーこれをついに見い出したのです。どんなに歓喜したことでしょう。

 

しかしそれは非常に私を誤らせるものでした。というのも、それを機に私は、体系的に自分に対抗してくる新しいライフ・スタイルおよび神学にどっぷり浸かっていくことになったからです。やがてそれは自分の中で耐えがたいほどの重荷になっていきました。

 

私は「別の福音」を吸収しつつあり、その異なる福音は重圧となって私にのしかかり、肉体的にもその重さを感じることができるほどでした。その当時は理解できなかったのですが、何かいつも倦怠感と抑圧感がまとわりついて離れない感じがしていました。

 

自分の「家」となった新しい集会の中でその後一年近く過ごしました。私たちはすべての祭りを祝い、適切なハラカ〔トーラー遵守における日々の歩みーー大部分はラビ的なものです〕を学んでいきました。私は日々多くのことを吸収し、その環境に馴染んでいきました。これまで自分がいた宗教環境の中で、これほど安らかで心地よい環境はなかったと言っていいほどです。新しいライフ・スタイルと新しい友人たちに囲まれ私はとても幸せでした。

 

しかし残念なことに、集会の指導者たちの間で、トーラー遵守の詳細に関する論争が起き、そのいざこざでトラウマとなるような出来事が起こり、集会を離れざるを得ない状況が生じました。

 

家庭でのシャバット礼拝

 

集会を離れた後、私は、同じ時期に同じ理由で集会を離れた何人かの方々と、シャバット(土曜日)にわが家に集い、トーラーの学び会をするようになりました。私たちは午前11時に集まり、オネグ(oneg)をし、メシアニック式の礼拝賛美を捧げ、トーラーを学び、途中で食事を共にし、またトーラーを学んでいきましたーー時には夜の11時過ぎまでその学び会は続けられました。それはとても甘美なひと時で、私はシャバットのこの集いを愛していました。

 

しかしまもなく、トーラー遵守の詳細部分をめぐり、意見の対立が生じーーこれはHRM運動内でひんぱんに起こる現象ですーー集会は3カ月後、分裂・解散となってしまいました。そしてハラカの中で分かちがたく結び付いていると信じていた友人たちに再び拒絶され、トラウマ、落胆、傷が深くなっていきました。「誰を信じたらいいのだろう?」

 

失意の中で今度は私はインターネットの世界に入っていきました。そしてそこに数多くのヘブル的ルーツ運動ミニストリーを発見したのです!私は、自分の「異教的/ギリシャ的/西洋的/異邦人的」思考を脱却し、適切で正しい「ヘブライ的思考」を学ぼうと、それらのミニストリーの提供する講義テープや著書やDVDを買い求め、学びました。*1

 

また「特別なヘブライ的啓示」や「新しい教理」といったものもそこに特典として付いていました。私はありとあらゆるユダヤ的なものを収集するよう努め、失われている、新約の中のユダヤ的要素を取り戻そうと努めました。

 

ライフ・スタイルの激変

 

日々のライフ・スタイルも激変しました。ユダヤ性を反映させようと家の装飾を変えました。メノラ、ダビデの星、メズーザ(申命記の寿節を記した羊皮紙片で戸口に掲げる)、地元のハシディック・ラビ〔カラバ的〕のお店から購入したコシェルの精肉、ユダヤ式被り物のための織地、家庭でのシャバット夕礼拝(キャンドル、ワインとカラ・ブレッドを添えた特別なコシェルの食事)等。

 

私は全ての祭りを遵守し、カシュルート(コシェルの食物、適性食品)規定を守り、口伝トーラーを信じ、ショーファー(雄羊の角笛)を吹き鳴らす行為には特別の油注ぎがあると信じていました。〔不幸なことに、付加されたショーファー吹きは、ユダヤ的でもなく、「コシェル」として捉えられてもいないということを後で知りました。〕

 

私は「異教的」クリスマスの代わりにハヌカを、そして「異教的」イースターの代わりに、ペサハ(過越しの祭り)+セダール(中世に付け加えられたラビ的な慣習ーー1世紀の慣習ではない)を祝いました。こういった「ユダヤ性」に関する教えや慣習は、タルムードや中世以降のカバラ〔ユダヤ教神秘主義〕に根差しています。

 

タルムードやラビの解釈体系は、新契約の信者たちのそれと反目しています。タルムードはイエス・キリストの誕生、生涯、死に対して正しい評価をしておらず、それらを貶めています。イエス様がおっしゃったように、それは悪い「パン種」でありーー外側がどんなに良く見えようともーー私やあなたの霊的状態を腐敗させるものです。

 

ヘブル的バプテスマ「ミクヴェ」を受ける

 

私はイェシュアの御名で「ミクヴェ」(ヘブル的ルーツ運動の中で「ヘブル的バプテスマ」と言われているもの)をも受けました。HRMの教師たちは、キリスト教会で受けた私のバプテスマは「間違った名によって」なされたために、私を救うものにはなっていないと説きました。HRMはキリスト教のバプテスマを、ミクヴェを置き換えていますが、その手順は互いに異なっています。

 

クリスチャンのバプテスマとは違い、ミクヴェのバプテスマでは、胸の所くらいまで浸かるほどの深さの清水が必要であり、ミクヴェを受ける人は単独で真っ裸の状態で水の中に入っていきます。サウナやスイミング・プールの類は「コシェル」とはみなされず、唯一、ラビ的に規定され、建てられたミクヴェ専用の浴槽だけがそれに適切なものとされています。

 

ミクヴェを受ける前、私たちは肉体的に清くなければならず、石鹸と水で体を洗わなければなりません。すべての宝石類を取りはずし、万が一にも髪の毛にもつれがあって、その部分が部分的にしか浸水しない状態になることのないよう、髪をくしで梳かします。ミクヴェでは体の部位すべてが浸水しなければならないからです。

 

その後、私たちは前向きの姿勢で水に入り、完全に浸水し、その後、数秒、ミクヴェ浴槽のどこにも触れないようにしつつ体を浮かばせます。それぞれの伝統にもよりますが、一連のこの動作を二回、ないしは三回繰り返します。大概、浸水の前には祈りが捧げられます。それは神秘的体験であり、罪から離れ、メシヤに結び付くという公的表現としての「バプテスマ」ではありません。

 

それは、汚れ(タメイ)から自らを清める儀式的プロセスであり、ここでいう「不浄」とは罪深い状態を指しているのではなく、タルムード的に規定されたところの不浄です(例えば、女性の月経サイクル〔ニダー〕等)。ミクヴェ浴槽を使用するためには通常、献金や有料の会員加入などが要求されます。

 

旧約の神殿の清浄システムは「ミクヴェ」とはみなされていません。ーー他方、ユダヤ教ではそのように教えられています。ミクヴェは旧約聖句の中では水塊(body of water)として使われています。ですからそれは中世期に生じたラビ的伝統なのかもしれません。

 

トーラー巻物

 

美しい濃青色のベルベットで覆われ、金のふさで装飾を施され、前面にダビデの星が刻み込まれているトーラー巻物を、私は居間に安置しました。それは、キリスト教が私の人生から抹消されたことを示すサインとして、わが家を訪れる全ての人の目に映り、私自身もそう考えていました。

 

しかし後になって、自分の購入したこの巻物が実は複写物であり、ユダヤ人の方々にとっては「コシェル」とみなされていない代物であったことを知り、私は愕然としました。それはむしろユダヤ人の方々にとって忌むべきものだったのです!巻物は高額なものでしたが、その事を知った私はすぐにそれをゴミ箱に捨てました。メシアニックの諸集会で使われているトーラー巻物の約何パーセントが「本物」なのでしょうか?真正なるトーラー巻物は何千ドルという値段がします。

 

タリート

 

私はタリートを持参しており、少しずつタリートを着用したラビ的祈りを習得していきました。ヘブル的ルーツ運動の中での顕著な教えによると、イエスはタリートを着用していたとされています。それで私は自分もタリートを着用することでイエス様に従い、彼に従順であると思っていました。

 

しかし、タルムードの中で言及されているように、タリートは中世時代に発達したものです。また613の律法を象徴する「ひも結び(knot-tying)及び、ほとんどのタリトットの縞は、ゲマトリア〔カバラ〕に基づいています。

 

そんな折、私は某メシアニック「ラビ」が自分の飼い犬にタリートを着せ、そのためタリートが床に引きずられている写真を目撃しました。当時、私はその画像をみてユーモアがあって可愛いと思ったのですが、後になって、それはユダヤ人の方々の心情を害し、彼らの心を傷つける行為であったことを知りました。なぜなら、タリートというのは彼らにとって聖なる装束であり、本来なら地面に触れてはならないものだからです。その画像をみた誰かがその「ラビ」に注意したのでしょう。彼は写真を削除しました。

 

しかし数カ月後、彼が再びその写真をインターネットに掲載したことを知った私は驚きあきれました。我こそ「ユダヤ的」だと自認している人々が、よりによって--彼らが「ねたみ」を起こさせようとしているーーユダヤ人超本人たちに対し、これほどまでに配慮を欠いた行為を平気で行なうことができるーーそのことがショックでならなかったのです。

 

タリートに関し、HR運動内で教えられているもう一つの有名な教えは、使徒10章のペテロの幻の中に出てくる敷物は実はタリートであった、というものです。タリートがその当時存在していなかったという事以外にも、そもそも神は、聖なる装束とみなされているものを、清くない/タメイ〔非コシェル〕で一杯にしてそれを天から降ろすようなことをされるのでしょうか?

 

 パート3 ワイルド化していった私の「ヘブライ的思考」

 

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出典

 

私はヘブライ語の勉強を始め、より一層ユダヤ的になれればと願い、自分の思考の中にできる限り多くのヘブライ語を入れ込もうと努力しました。これは私にとって何より重要なことでした。なぜならヘブライ語は「唯一の純正にして、聖なる "the pure, holy"」言語であり、天において話される言語であると教わっていたからです。この教えの出処は不明ですが、ヘブル的ルーツ運動の世界ではかなりポピュラーな教説です。

 

また別のポピュラーな教えとして、「ユダヤ人はギリシャ語を話す位なら、豚肉を食らうだろう」というのがあります。この教えの出処も不明ですが、HRM教師の多くは、この金言を用い、「セム語的新約聖書」および、「タナク(旧約)の書かれた純正オリジナル言語としてのヘブライ語」という観念を促進しています。しかしタルムードには、「トーラー巻物を書くことが可能であり、かつコシェルとみなされる言語は、ヘブライ語以外にはギリシャ語である」と記されてあります。

 

メシアニック音楽は私にとっての喜びでした。そこには本当に美しい賛美があり、今でも私はそれらの音楽を聴くことに抵抗を感じていません。しかし何と言いますか、それは時として、ユダヤ人の方々と私たちをつなぐ「兄弟愛」のシンボルのようになり、いわゆるその「一致」の感覚によって心があたためられはするのですが、その結果、「一致」の内実に関する何かがぼかされるように思うのです。ユダヤ教というのは、イエスをメシヤと信じている者と「一致」してはいませんし、一致し得ません。

 

また最近ではダビデの踊り(Davidic Dance)も盛んになってきていますが、私見では、少々、誇張されすぎだと思います。大半のユダヤ人は、私たちが強調するほどには、こういった踊りを、生活や宗教の中に取り入れてはいないそうですし、一般のユダヤ人の目から見ると、HRM界隈の人々のそういった強調は、--気分を害するものではなくてもーー少々滑稽にみえるようです。今になっては、霊とまことによって主を礼拝し、賛美するということ以上に、タナクにある「真正なる古代ダビデ的」礼拝スタイルというものに重要性を置くそういった一連の傾向に私は不安を覚えています。

 

「ギリシャ語新約聖書のイエスはメシヤではない」

 

こうして次第に私は、「ギリシャ語新約聖書のイエスはメシヤではない」という考えを受容していくようになりました。もしもイエスがユダヤ人で、トーラーを遵守し、イェシュアというヘブル語の名前を持っておられたのなら、クリスチャンたちの教えている事は間違いだということになります。なぜなら、彼らはイエスがそうされたようにトーラーを遵守していないからです。

 

そうなると、彼らのメシヤは反キリストであるに違いないということになります。この部分を読んで驚かれた読者がいるかもしれませんが、目下、HRMの世界ではそういった観念が氾濫しています。

「『イエス』というのはギリシャの神である。」

「『イエス』を信じ、このギリシャ神を信じる者は地獄に落ちる。」

〔その他にも、イエス様に対する類似の言明がなされていますが、余りに冒涜的で私はそれを書き出すことすらできません。〕

 

イッサカル族の末裔 

 

メシアニック・フォーラムは、いかにして私の中での「ヘブライ性」を実地に生かすことができるのかについて数多くのアイディアを提供してくれる場です。

 

私はメシアニックの著作を読み、ユダヤ教の慣習や実践について勉強し始めました。「もっとユダヤ的な生き方をし、トーラーを遵守できるようになりたい。そうすることにより、ユダヤ人の方々に『ねたみ』を起こさせることのできるのではないか。。」そう思っていました。〔ですが、実際には、私たち異邦人のこういった実践がユダヤ人の方々をむしろ憤慨させるのだということを後で知りました。〕

 

私はユダヤ人になりたいと心底願いました。自分が「ユダヤの血統を持っている」と言えないことに打ちひしがれました。でもそんな時、二つの家/エフライム族/イスラエルの家という教理*2に出会い、私は自分が本当に、「失われた」部族に由来する隠れたユダヤ人であることを知りました。「個人啓示」により、自分がイッサカル族の末裔であることを確信しました。また別の人々は、類似の啓示により、彼らが真に「失われた」エフライム族であることを確認しました。

 

The Two House/Ephraimite Error

「二つの家/エフライム族/イスラエルの家」の教理(出典

 

「そうか、私は文字通り、フルにイスラエル人なんだ!」私は狂喜しました。〔しかしこれも後になって根拠のない偽教理であることが判明しました。〕*3

 

私は完全に落伍者

 

実際には、私は支離滅裂の状態にあり、その時点で、私の神学は完全に歪んだものとなっていました。

 

心の深い処での私の願いは、ひたすら神様に従う従順な人生でした。それ以外には何も考えていませんでした。私は心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして神様を愛したいと願っていました。でもどんなに頑張っても私はトーラーを遵守することができませんでした。何をしても正しく行なえていないように感じ、それが自分をイライラさせました。疲労感と不安が募っていきました。

 

トーラーの「すべて」を遵守するとはどういう意味?

 

日々、HRMのフォーラムの仲間たちが私を慰めてくれました。彼らは言いました。「あなたは少しずつトーラーを遵守できるようになっているし、神様はそれを良しとしてくださっている。なぜなら、あなたは本当にトーラーを愛しているから。」

 

また、彼らは「(あなたにとって)遵守可能なトーラーの部分を、あなたがいかに守っていくことができるのか、ルアーッハ・ハ・コデッシュ(聖霊)が教えてくれるでしょう」と言いました。

 

しかしトーラーの一部を遵守すべく神が人々に異なった方法で語られるというのが私には不可解でなりませんでした。神様は「書かれてある通り」に、律法「すべて」に従うよう命じられたのではないでしょうか?それなのになぜ「聖霊」はそれぞれの人に別々の選択肢がある、というような混乱したメッセージを人々に語るのでしょう?

 

今日、40%もしくは、613のトーラーの内の約240位を私たちは遵守することが可能だと言われています。それでは、それが、神の掟の「すべて」に従っているということになるのでしょうか??彼らの助言は余計に私を立腹させました。なぜ彼らは理解してくれないのでしょう?神は、トーラーというものは書かれてある通りに遵守されるべきであって、私やあなたが「できる範囲のもの(と考えるもの)」を遵守すべきだとは言っておられないのです。

 

自分を含めフォーラムに参加する仲間たちがやっている事は結局、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっている」と神が呼んでいる行為そのものではないでしょうか。私はそれを守ることができませんでした。私は完全に落伍者でした。

 

カバラへ向かう

 

そこで私はカバラ〔ユダヤ教の神秘主義思想〕の方へ向かいました。カバラは純粋なもののように見え、御言葉の深みを真に理解する道であるように思われ、そこから、トーラーを遵守することに関する神の真理が開示されてくるのではないかと思ったのです。

 

またこの潮流の中において私はヤハウェとのより深い関係に達することができるということも見聞きしていました。そこで私はメシアニック「ラビ」の書いたメシアに関する著作を読み、カバラ的メシアニック様式を学んでいきました。ユダヤ教のある宗派の中で実践されているカバラは、イェシュアをセフィロトの樹(Sefirotic Tree)の一部としては言及していません。

 

図式化したセフィロトの樹

セフィロトの樹(出典

 

このメシアニック・ラビは、ゾーハル/カバラ的観念を著書の中で説いていましたが、彼はイェシュアを中間柱そして秘教的な枠組み全体の中におけるメタトロン(ユダヤ教の天使の一人)に位置づけていました。

 

ゾーハルは、トーラーの註解書であり、カバラにおいて中心となっている書物で、アラム語で書かれています。一般に『光輝の書』と訳され、『ゾハールの書』とも言われています。ユダヤ神秘思想の中に出てくる、セフィロトの木やアダム・カドモン、様々な天使、膨大な数を取り巻く多くの天国などの諸々の神秘思想などがまとめられたユダヤ神秘思想関係の文献です。(参照

 

その時私は、パルデス(楽園)がカバラ主義的なものであることを知りました。--つまり、各次元による聖書理解の体系のことです。①パシャー(単純な表面的テキスト)、②レメズ(暗示されている)、③ドラッシュ/ドレッシュ〔ミドラーシュ〕(寓喩的)、④ソッド(エソテリック;秘伝的)

 

人は、最終段階であるエソテリックなソッドに到達したいと願うでしょう。〔「啓示」を伴う最も深遠なる秘儀的レベルです。〕私はがむしゃらにそれを求め、「開眼(enlightened)」「照明(illuminated)」されました。しかし、、、それでも平安は与えられませんでした。

 

そして霊的高揚感はいつしか本物の恐怖へと様変わりしていきました。私はこの「ヤハウェ」に対しとてつもない恐怖心を抱くようになりました。こんなに恐ろしい存在に対しもう二度と祈ったり、交わったりすることは不可能であるかのように思われました。もう限界状態に達していました。本当にどうしていいのか分からなくなっていました。混乱と鬱に襲われる中で、私は正常な状態になるまでひとまずこのカバラの本を脇に置くことにしました。

 

パート4 神のご介入と恵み

 

ちょうどその時、突如として神が私の人生に御介入してくださいました。神はある人を私の元に遣わし、その人を通し、多くの事実を提示しつつ私に真理を語ってくれました。それは痛みを伴うプロセスでしたが、愛と忍耐、そして上よりの知恵の中でなされていきました。そして何より私は御言葉そのものに立ち返り、HRMのレンズなしにそれを学ぶことの必要性を示されました。

 

多くの人が「でも具体的にどのようにしてヘブル的ルーツの世界から脱出できたのですか?」と訊いてこられます。その当時を振り返ってみて強く思い出すのは、堅固な諸事実と共に真理が私に提示されたということです。まず最初に、そしておそらく最も有効だった情報は、秘儀的オカルト・システムとしてのカバラの暴露でした。

 

私がその危険性を悟り、その次にそれを「メシアニック・カバラ」と比較した時に、今度こそはっきりと、自分がどれほど道を踏み外していたのか、そして虚偽を吹き込まれていたのかを認識したのです。そしてその気づきをきっかけに私は自分が信じている内容について真剣に再考し始めました。もしもこの点で、私の教師たちが間違っているのだとしたら、他の点で彼らが間違っていないと誰が明言できるでしょう?

 

第二番目に気づかされたのは、自分の「識別探知機」が久しくオフになっていたということでした。ガラテヤ5章に示されている御霊の実を全く宿していない指導者たちからのありとあらゆる「真理」を私は鵜呑みにしていました。

 

ある教師にHR聖書を注文し現金を支払ったのに商品は送られてきませんでした。また別の「メシアニック使徒/ラビ」には商品のことで嘘をつかれました。そして両ケースにおいて、結局、現金は戻ってこず、その代りにそれは「献金」だと言い渡されました。多くの指導者たちの行ないや振る舞いは柔和でなく、彼らの言葉はクリスチャンたちに対する憎悪や怒りに満ちていました。なぜ私はそういったことに盲目だったのでしょう?当時の私はそのような人々をむしろ激励さえしていたのです。そういった霊の影響下にありながらも、私はその不敬虔さに気づくことができていませんでした。

 

そして最も重要なことは、この方のアドバイスにより、私は自分が身に着けてきた「ヘブライ的思考」なしに新約聖書を読むようになったことです。そして今日に至るまでーー旧約聖書を読む場合も含めーー私はそれを続けています。

 

こうして「ヘブライ的思考」なしに聖書を読み始めてみて分かったのは、自分がそれまで教えられてきたことがどんなに虚偽であったかということでした。新契約というのは数々の律法で構成された体系についてではなく、キリストの内にある平易性についてのものであることを知りました。

 

2コリント11:3

しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。

 

また感謝なことに、自分がこれまで真理だと取り入れてきた教理が、単なる推測や臆説を土台にした虚偽であることを、数多くの事実提示により、私は悟りました。

 

新約聖書のセム語的首位性(Semitic primacy of the NT)、「口承トーラー」という傘下に位置するメシアニック主義に充満しているラビ的諸概念、「ヘブライ的思考」、1世紀のユダヤ的諸慣習、「NTはトーラー遵守を教えている」というデマ等、、こういった教えの影響下に入ることにより、人は、欺きと誤謬の枷につながれていきます。

 

私はその後数か月に渡り、リサーチを続けていきました。そしてそれまで「真理」だと受け取ってきた数々の内容が嘘であったことを突き止めました。「ヘブル的ルーツ運動」の主要教義の一つは、「西洋的/ギリシャ的/異邦人的思考」に相反するところの、いわゆる「ヘブライ的思考」の促進にあります。

 

換言しますと、もしあなたが「ヘブル的ルーツ」のレンズを通して聖書を読まないのなら、あなたの聖書解釈および理解は歪んだものとなり、あなたは真理を把握できていない欠落した状態にあります。

 

あれだけ長くHRMにいながらも結局、「ヘブライ的思考」というのが一体何だったのか私は未だに確信が持てていません。しかしヘブル的ルーツ運動内にいる人のほとんど全員が、完全なる「真理」の開示ゆえに、セム語新約聖書が採用されるべきであって、ギリシャ語新約聖書は拒絶されるべきだと信じています。

 

それゆえに、彼らによると、聖書全体はその思考プロセスにおいて「ヘブライ的」であり、それにはイエスがパリサイ派であったとか、ヒレルの下で学んだとか、「口承律法」〔ミシュナーやタルムード〕を説いたとか、そういった視点も含まれます。

 

キリストの血潮の内にある新契約

 

そういった遮眼帯が取れていくにつれ、神様は御言葉を通しいかに自分が間違っていたかを示してくださいました。主とのより深い関係がもたらされるのは、経験や従順を通してではないのです。そうではなく、キリストの血潮の中にある新契約が、"Spirit of the Law”に新鮮な視点を与えることに私は気づかされました。

 

心の中に書かれてある数々の掟は指示の一覧表ではなく、聖霊によって霊感された「思考」であり、それは私たちに罪を悟らせ、御言葉を理解する知恵を与え、福音を伝えるイエス様の手足となることによって神にお仕えしたいという願いを起こさせます。

 

マタイ22:37、ヨハネ13:34、1ヨハネ3:22、コロサイ3:12、ミカ6:6、ヤコブ2:8、申命記6:5

 

おわりに

 

私の中で、「ユダヤ教」と「キリスト教」の境はいつしかぼやけ、曖昧なものになっていましたが、その後、学びやリサーチを続ける中で私がたどり着いた結論は、ユダヤ教とキリスト教はやはり別個にして異なる宗教だということでした。

 

どなたかが言っていましたが、「ヘブル的ルーツ運動」というのは、通路を下るショッピング・カートのようです。--一方の側にはユダヤ教があり、もう一方の側にはキリスト教があります。そしてHRMはそれぞれの側から商品を拾っていきながら、新しい独自の宗教を形成しつつあります。しかし本来それはあり得ない融合です。

 

私が受容していた教理内容で一番悲劇的なものは、「イエス・キリストは、トーラー的メシヤであり、新契約のメシヤではない」というものでした。ヘブライ的へりを探すことに人生の大部分を費やし、救いを必要としている人々に対し、キリストの愛の内に真の福音を伝えることを脇にうちやることにより、ヘブル的ルーツ運動の旅びとたちは、「古の路」の途上で道に迷っています。そして、その路の終りは死につながるものです。

 

もしもあなたが現在、何らかの形でヘブル的ルーツ運動に関わっているのでしたら、どうかこれらの事をご自分でリサーチなさってみてください。神様がご自身の知恵をもって私たちの思い・考えを明瞭にし、そして、私たちがどんな犠牲を払ってでも、神の真理を探究し続ける者となさせてくださいますように。アーメン。

 

ー終わりー

 

関連記事:

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

 

*1:〔訳者注〕「異教的/ギリシャ的/西洋的/異邦人的」思考VS「ヘブライ的思考」という二項対立方式は、ノルウェーの神学者トールレイフ・ボーマン(Thorleif Boman)の「Hebrew Thought Compared with Greek」等の思想に代表され、その単純化されすぎた様態は、D・A・カーソンやモイセス・シルヴァ等によって激しく批判されています。

便宜的に今、この様態を、〈ボーマン系譜〉と呼ぶことにしますと、ジェフ・A・ベンナー氏等の言語思想も一応この〈ボーマン系譜〉の範疇に入ると判断されているようです。

例えば、HRM系列内で、こういった種類の教えは以下のような形で普及・促進されています。

Hebrew vs. Greek Thoughtyoutube)ー代表的なHRM団体である119Ministries

Hebrew Thoughtarticle)ーshamar.org

The Hebrew Mind vs The Western Mind by Brian Knowles (article)ーGodward.org

〔関連記事〕

Moises Silva, Biblical Words and Their Meaning: An Introduction to Lexical Semantics

*2:〔関連記事〕Hebrew Roots Movement – Believers are Grafted Into and Become Israel? Um . . . No.

*3:〔関連記事〕