巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「ヘブル的ルーツ運動」を検証する①(by ジョシュ・サマー)

目次

 

Josh Sommer, Addressing the Hebrew Roots Movement,Part 1(拙訳)

(執筆者ジョシュ・サマー:Word of Life Baptist Church牧師補、中西バプテスト神学大聖書学修士課程在籍)

 

はじめに

 

本稿で私は、ヘブル的ルーツ運動(Hebrew Roots movement)を通し、現在、キリスト教界に流れ込んできている諸問題について考察していきたいと思っています。説得力に富み、かつ敬意を示しつつ、この運動を推進している方々の立場に対し応答していくことができたら幸いです。

 

まず私は、これらの方々の立場をできる限り正確に描写しつつ、彼らの神学的欠陥を健全な形で提示していこうと思っています。この運動内には、二、三の異なる視点がありますので、検証を始めるに当たり、私は複数の資料を参照し、彼らの大多数が信じている内容を把握するよう努めました。

 

これまでの調査では、119ministries.comが彼らの信条に関し、最も包括的信仰告白をしていると判断しています。ウィキペディアの情報は時として信頼性に欠けているため、私はあくまでも源泉資料ーーつまり彼ら自身が何と言っているかーーを得るよう努めています。各記事の終りに、自分が参照した資料や情報源を列挙しますので、ご参照ください。

 

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ヘブル的ルーツ運動(The Hebrew Roots Movement)

  

ヘブル的ルーツ運動は、イエス・キリストへの信仰を告白しつつ、それと同時に、「キリストへのその信仰の結果として、私たちはモーセ律法の全体を遵守しなければならない」と考えている個々人で成り立つ運動のことを指し、近年、勢力を増しています。

 

「私たちはモーセ律法の全体を守らなければならない」ーーこの部分が論争の核心部分であり、彼らと私たちを違わせている点です。彼らは律法の中の異なる範疇に区別を置いていません。彼らはモーセ律法全体が、「イェシュア("イエス"のヘブライ語発音表記)」に従う者たちにとって拘束力のあるものであり、それを遵守することが彼らにとっての特権であると考えています。

 

彼らは通常、神格を呼びならわすのに、ヘブライ語発音表記を用いますが、その理由は、ヘブライ語が、(崇敬の印として)私たちの主を呼ぶのに適切な言語であると信じているからです。こういった「聖なる名称(“sacred names”)」には歴史的・言語的問題が内包されていますが、それについてはまた別の場で省察しようと思います。

 

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Sacred Name Movement

 

さらに、彼らは、より新しい啓示ではなく、より古い啓示の光に照らし聖書を解釈しているために、トーラー(聖書の最初の五書)は不可避的に、聖書の残りの部分よりも高次のものとして高揚されています。

 

換言しますと、彼らは、聖書を、それが元々執筆された時代に文脈的に制限されている文書として捉えているのです。また、彼らの神学から表出してきている現象は、聖書全体が、(新約聖書の中で完全に啓示されたお方としての)キリストのご人格を軸に回っているのではなく、神の律法を軸に回っているということです。

  

プロテスタントとの対比

 

ヘブル的ルーツ運動は、イエス・キリストを救い主および主として認めていますが、キリスト教プロテスタンティズムとは、いくつかの点で異なっており、しかもその異なり方は甚大なものです。

 

相違その1

それによると、モーセ律法は、新契約の下にいる信者たちに対し再発布され、拘束力を持つものだと捉えられています。他方、プロテスタンティズムはその立場を採っていません。旧約聖書の律法に関するプロテスタント内の代表的見方としては次の二つが挙げられます。

 

A. 道徳律法(モーセの十戒)だけが今日私たち信者を拘束するものであり、社会律法および祭儀律法は、新契約の成立と共に廃棄されたという事を信じる改革派の大多数見解*1

.旧約聖書の律法の全体は廃止され、「福音の律法(“Law of the Gospel”)」が新約聖書の義の基準であると信じるディスペンセーション主義の見解。(もちろん、ここで言う福音の律法というのは全くキリストの言葉だけに限られており、旧契約から新契約の方へは何も持ち越されていません。)*2

 

相違その2

ヘブル的ルーツ運動は、トーラーからスタートし、そこから外に進んでいくという解釈学的枠組みを持っています。言い換えますと、聖書を、トーラーの光に照らし解釈していくという手順をとっています。

 

それに対し、プロテスタントの大多数は、「聖書は、より新しく、より明瞭な啓示の光に照らし解釈されなければならず、旧約の聖徒たちは、後に新約の中で啓示されることになっていた事柄の、おぼろげな〈影〉を見ていた」と理解しています。このプロテスタント解釈原則は、アナロジー・オブ・フェイスと呼ばれています。*3

 

相違その3 

ヘブル的ルーツ運動は信仰に関しても異なった見解を持っており、彼らの体系の中では、信仰と行ないが同義語的に捉えられています。その意味で、救いは信仰のみによってではなく、「信仰+行ない」によってもたらされます。これは一見、救済に関するローマ・カトリックの見解に似ているように見えるかもしれませんが、ヘブル的ルーツ運動がカトリックと異なっている点は、彼らが旧契約の律法全体を拘束力あるものだと認識している点にあります。

 

その結果、義認および聖化に関する彼らの見解は、プロテスタントの立場およびローマ・カトリック/ギリシャ正教会の立場と、激しく反目する位置に立っています。しかし公平を期すために言いますと、ヘブル的ルーツ運動の人々は、確かに自分たちが信仰を通した恵みによって救われ、真の信仰は神の義の基準に対する外的従順を生み出すということを認めておられます。そして最も問題になっているのは、この考えに関する彼らの表明なのです。

 

核心問題

 

ヘブル的ルーツ運動のような運動が直面しているのは、その欠陥ある解釈だと思います。以前、私は、「イスラム教を脱構築する」の論考の中で、神よりの特別啓示だと捉えられている原典は、それ自身の解釈基準をも伴っていなければならないことの重要性を論じました。

 

それなしには、つまり、それ自身の解釈基準を伴っていないような有神論的立場は、擁護不可能であり、それゆえ誤りです。ヘブル的ルーツ運動の中で用いられている解釈もそれとちょうど同様であり、それは、擁護不可能な人造解釈基準です。

 

ヘブル的ルーツ運動の人々が基本的にやっているのは次のような事です。彼らはトーラーを読み、自分自身に言い聞かせます。「これは神の御言葉だ。だからそれは完全であり、それゆえそれは決して消え失せない」と。私は、御言葉に対する彼らの崇敬の念、およびそれが常に真であり、決して消え去るようなものではないという彼らの見方や姿勢に敬意を持っていますし、それに同意もしています。

 

しかしながら、神の言葉が常に真であるということを認めるために、私たちは、「旧契約のエコノミーが新契約のエコノミーを凌いでいる」ということを信じる必要はありません。いや、信じる必要がないどころか、このような考え方に陥ると、人は聖書に関する全体の主要点を見失ってしまいます。

 

例えば、クリスチャンは旧約聖書が常に真であると捉えています。なぜなら、それ自身が内包している啓示が、漸進的に、神の全体的贖罪計画を私たちに啓示しているからです。キリストが創世記(創3:15)の中で予表されていることは常に真であり、神の律法がイスラエルという歴史的国家のための目的を果たしたというのは常に真であり、旧約聖書の預言が後に来られるメシヤを啓示する役割を果たしていたというのは常に真です。

 

しかし、「神の言葉が常に真であると信じる者は、旧約の律法全体をも持ち越さなければならない」と考えるのは誤っています。このロジックに一貫性をもたせるべく、私たちはその他どんなものを持ち越さなければならないのでしょうか。裁き人たちでしょうか。預言者たちでしょうか。

 

さらに、聖書自体が、解釈の基準を私たちに啓示しています。私たちクリスチャンは、聖書がーーそれをいかに解釈するのかについての指針ーーをも伴っていることを信じています。さあ、ルカの福音書を開いてみましょう。

 

ルカ24:25-27

25するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。

26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」

27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた

 

エマオへの道でのイエスの要点は、二人の弟子たちが、再び旧約聖書の律法全体を固守するように、ということではなく、「旧約聖書の全体、そしてそれゆえ、神の息吹を受けたすべての御言葉は主を指し示している」という事実を確立するためだったのです。

 

旧約聖書には目的がありました。その目的とは何だったのでしょうか?ここでルカは、その目的とは、究極的にキリストを指し示すものであるということを言っています。それでは使徒パウロはどうだったのでしょう。彼はどのように聖書を解釈していたのでしょうか。ご一緒にみてみましょう。

 

1コリント9:9,10

モーセの律法には、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか

10 それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。

 

ここで私たちは、パウロの旧約解釈の仕方を少し垣間見ることができます。上記のような聖句により、私たちは、そこに、シンボル/原則の区別があることを理解します。旧約聖書の中には、より深い原則を指し示すべく意図された多くのシンボルが存在していました。これは、解釈に関する新約聖書の基準です。

 

ここでパウロが言っているのは、申命記25:4の律法は、究極的には、神の民によって遵守されるべき律法としては目的されていなかったということです。表面的従順を指すものだと、私たちが意味の範囲を定めてしまうことにより、より広大なる神の論点がはく奪されてしまいます。その究極的目的は、それよりもずっと深い何かを指し示すことにありました。

 

神は牛のことに気をかけておられたのではなく、このシンボルが表象している原則のことを気にかけておられたのです。そしてパウロはその原則が何であるのかを10節で語っています。それによると、その原則とは、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をすべきであるということでした。パウロは、耕す者や脱穀する者を、福音を宣べ伝える者と同等のものとみなしています。(11、12節)

 

それではイエスはどうでしょうか。主はいかにしてこのシンボル/原則の区別を例証されたのでしょうか。主は、マタイ5章から始まる山上の垂訓の中の道徳律法の講解の中でそのことを例示しておられます。

 

マタイ5:21-22

21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

 

この講解の中で、イエスは、「ここで把握されるべきは、モーセの十戒の第6戒に関する表層的理解だけでなく、怒りや憎悪というのが肉体的行動と同等なるものだというより深い原則である」ということを論じておられます。

 

考えられ得る反論

 

しかしこのように書くと次のように反論される方がいるかもしれません。「確かに、それぞれの律法には、より深い原則が存在しているというのは正しいと思います。しかしそうだからと言って、私たちはそれをトーラーの中で規定されたものとして遵守してはいけない、ということにはならないと思います。」おお、そうです。ここにおいて私たちは、旧契約と新契約の間の「非連続性」という事柄に行きつきます。そしてそれは、ヘブル人への手紙の中に明瞭に示されています。

 

ヘブル8:13

神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます

 

ヘブル人への手紙は、紛うことなく、初めの契約の廃止を伝達しています。初めの契約とは何だったのでしょうか。「初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました」(9:1)。ヘブル人への手紙の記者がここで、(シナイ山で与えられた)祭儀的諸規定の光に照らしたモーセ契約のことを指しているのは明らかです。

 

しかしちょっと待ってください!ヘブル的ルーツ運動は、「私たちはトーラーの一部だけを受け取るのではなく、またそれを完全に廃止されたものとみるのでもなく、その全体を遵守するのです」と断定しています。つまり、彼らは旧約律法の範疇の間に区別を置かず、その全体を一つのユニットとして認識しているのです。

 

大半の神学者たちは、モーセ律法の一部として、613かそこらの律法の数を算出しています。(ヘブル的ルーツ運動の人々は通常それらを数えようとはしませんが。。。)しかし今ご一緒にみましたように、ヘブル人への手紙の中では少なくとも、祭儀律法のいくらかは廃棄されています。それらは新契約の啓示、成就、締結と共に、消えて行き(“vanished away”)ました。なぜなら、新契約は「より良い契約」だからです。さあ、ヘブル人の手紙をもう少しみてみましょう。

 

ヘブル9:19-22

20 モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、

「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である。」と言いました。

21 また彼は、幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました。

22 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

 

この聖句に関し、次の問いがなされなければならないでしょう。「ここで言及されている『契約』とは何か?」ここでも再び、それがモーセ契約であることは明らかです。しかし前にみてきました通り、その契約は消えて行きました。そうなりますと、ヘブル主義の方々は、ある程度において、旧契約の律法の一部が廃棄されたと認めなければならなくなります。

 

実に、御言葉の全ては完全であり、それは神に霊感されたものです。しかし神ご自身が、ご自身のお立てになった初めの契約を「古い」とされたのです。(「不完全」ではなく「古い」と表記されていることに注意してください。ヘブル8:13)私たちはその先例に倣うべきでしょう。それでは最後にもう一つだけ聖句を取り上げます。

 

ヘブル9:23、24

23 このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。

24 なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。

 

まず、モーセ律法の結果、制定された事柄は、今や「写し(copies)」と呼ばれています。それらはまことのものではなく、まことのものを表象するものです。ここにおいても、一時的シンボルが永遠なる諸原則を表しています。また二番目に、この箇所でも、シンボル/原則の区別が存在しています。

 

結論

 

本稿が、ヘブル主義者の聖書解釈法に対する強固な反証として益とされることを望みます。また今後、彼らの救済論に関する検証記事および、ニカイア公会議以前の初代教会教父の著述の内に見い出される情報を用い、こういった運動に対する反証的・歴史的立証をすることができたらと思います。

 

実際、使徒たちの直弟子であった人々(ポリュカルポス等)及び小アジア、イタリア等で草創期の教会に関与していた人々のモーセ律法観と、ヘブル主義者たちのモーセ律法観は食い違っています。

 

ー終わりー

 

本稿で参考にした資料 

 

エレミヤ 31:31; ルカ 22:20; 2 コリント 3:6; コロサイ 2:16,17; ヘブル 12:24

*1:〔訳者注〕「改革派の大多数見解」とありますが、Aのカテゴリーには、幾つか他のバリエーションもあります。例えば、新契約神学(New Covenant Theology)は、AとBの中間当たりに位置する比較的最近生じた神学であり、Monergismのデニス・M・スワンソン師の解説によると、新契約神学は、主として改革派バプテスト系の人々によって提示され、彼らは契約神学およびディスペンセーション神学それぞれの長所を組み合わせつつ、尚且つ、それぞれの弱点をできる限り取り除こうとの努力から生み出された見解だとされています。しかし如何せん歴史の浅い神学であり、また今のところインターネットを通した提示が主で、しっかりした学術書としてはまだ確立・認証されていない状態(その途上?)のようであり、まあ言ってみれば〈試行運転中〉のような感じなのかもしれません。詳しくはこのページをご覧ください。それから今一つ別のバージョンとして、キリスト教再建主義(Christian Reconstructionism)という立場からの旧約律法解釈があります。日本では、ミレニアムを主宰する富井健氏がこの立場からの律法解釈をしておられます。(ミレニアム)それから、セブンスデー・アドベンチスト派の律法解釈に関しては、SDAのサイト(here)をご参照ください。

*2:〔訳者注〕ディスペンセーション主義のパースペクティブからの旧約解釈等に関しては、この立場に立っておられるbalien氏のサイトが詳しいです。(ディスペンセーション主義について

*3:〔訳者注〕関連記事