巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

人のこだわり、そして神の恵み。

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有名な文芸評論家である丸谷才一氏(1925-2012)の著書の一つに『文章読本』というものがあります。

 

これは丸谷氏が多彩な日本語の名文を実例に引きながら、文章の本質を深く明快に論じていくおもしろい本ですが、私が一番興味をもったのが、この書の一番終りの方にちょこっと付け加えてある「わたしの表記法について」という付録部分でした。

 

丸谷さんは理由あって、日本社会が完全に現代仮名遣いになった後も、歴史的仮名遣いを貫き通した稀有な人物です。大学時代に友人からその事を聞いた時、私はただ、「ふ~ん、この人はよっぽど古典趣味なのかもしれない」と思い、それ以上はもう何も考えませんでした。

 

しかし歳月が経ち、ふとした折に、「わたしの表記法について」という彼の註書きを目にした私は、この短い数行の中に込められた彼の尋常ならぬ「こだわり」と言葉に対する愛に圧倒されてしまったのです!

 

そもそも日本語の表記法に「わたし」や「あなた」のバージョンがあるのでしょうか?しかし彼はいじらしくも冒頭に「わたしの表記法」と書いています。

 

こうして丸谷氏によって「わたしの」と個別化された日本語の表記法は、なにやら急にそれまでの無機質な表情をやめ、活き活きしてきたような感があります。表記法にこころがあるとしたら、彼女は今、丸谷さんに特別の関心をもってもらって、すごく嬉しがっているのではないかと思います。はじめの部分を抜き出してみます。

 

「わたしの表記法について」

 

a1.漢字は当用漢字とか音訓表とかにこだはらないで使ふ。

2.字体は原則として新字。ただし新字のうちひどく気に入らないもののときは正字。例。昼→晝。尽→盡。蔵→藏。芸→藝。証→證。

 

字体は原則として新字だけれども、その中で「ひどく気に入らないもののとき」は、自分は正字を使うのだと言って、彼は例まで挙げています。

 

「芸」はたしかに「藝」の方が趣があっていい感じはしますが、なぜ「昼」や「尽」の漢字を、彼が「ひどく気に入らないもの」と感じたのか、そして特に、(私にはほとんど変わりがないと思われる)「蔵」と「藏」になぜ彼がこだわっているのか、そこらへんの感覚的なところが実におもしろく、(またこう言っては年配の方に失礼かと存じますが)正直すごくかわいくて愛らしいです。

 

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独立バプテスト教会のデイビッド・クラウド牧師は、現代におけるKJV-only擁護派の第一人者の一人です。KJV-onlyというのは、欽定訳聖書しか正統なる英語聖書と認めない立場のことを指し、21世紀においてはかなり少数派となりつつあるポジションです。

 

クラウド牧師はどことなく西郷隆盛のような風貌をしておられるせいか、彼の繰り広げているKJV論争は、私に西南戦争の最後の合戦を髣髴させます。

 

 

私はKJV-onlyの立場には立っていません。また、D・A・カーソン教授が言うように、この論争にはやはりリアリズムが必要だと思わされます。(D.A. Carson, The King James Version Debate: A Plea for Realism

 

それから新約学者のダニエル・ウォーレス博士は、KJV-onlyの人々を、1世紀のアッティカ主義体擁護者たちになぞらえ、「彼らは、KJVが、シェークスピア時代という英語史における絶頂期の英語であるという点にこだわりを持っている」と厳しい評価をしておられます(ココ)。

 

たしかに、そういう言語的懐古趣味や驕りゆえにKJVを固守しようとしている人々がいるのかもしれません。ですが、理由はそれ「だけ」ではないと思うのです。例えば、欽定訳を推進するクラウド牧師は、写本のことや、現代訳の抱えるさまざまな問題のことにも言及しておられ、ーーその結論の正誤はさておきーー彼や彼らの多くが守ろうとしているのは、単なる17世紀英語の格調高い文ではないということは言えると思います。

 

クラウド師はまた古典的ディスペンセーション主義聖書解釈法を現在も堅守しておられ、いろんな意味で、20世紀米国南部ファンダメンタリズム精神を具現化した人物であるように思われます。昨年、別件で彼と連絡を取る機会がありました。実際にお交わりしてみると、実にこまやかで心のやさしい人であることが分かりました。

 

おわりに

 

巡礼路を歩いていて、時々、道の真ん中に仁王立ちしている人たちを見かけます。彼らの足は、なにか尋常ならぬ磁力か何かでそこの地面にはりつき、梃子でもそこから動こうとしません。皆、彼らの脇をすっと通り抜け、足早に去って行きます。そこには喜悲劇的雰囲気が漂っています。

 

「こだわり」--これは一体何なのでしょう。人の弱さの標なのでしょうか。それとも強さの標なのでしょうか。それともそれは両方を含むなにかなのでしょうか。

 

人間の圧倒的弱さの中に顕れてくださる主の恵みを思う時、私は時々、なぜかよく分からないけれど、こういった頑固な仁王立ちの人たちの所に駆け寄り、彼らにとりすがって、ただ一緒に泣きたくなります。それはもしかしたら、私が本質的に彼らの一部であるからなのかもしれないし、あるいはそれは、深い処で信者と信者をつなぐ御霊の呻きであるのかもしれません。

 

「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは何についても先走ったさばきをしてはいけません」(1コリ4:5a)。

 

こだわる同胞のこだわりは、神の憐れみという管を通り、私の心に滴(しずく)となって流れてきます。滴はどこからも流れてきます。実にこの世界はそういった滴で溢れています。どうか主よ、私たち人間を憐れんでくださり、これらの滴を汝にある恵みの川とし、互いの間に流れるものとさせてください。